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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
24/29

ピロートーク《前篇》

 ――最近、何だかチクチクとした視線を感じるのは気のせいだろうか。


 ゴールデンウィークが明けて、芦田親子の関係は概ね良好だった。

 芦田に対する上総の態度はすっかり元通りというより、むしろ以前より口数が増えたくらいだ。

 もちろん2人の仲が劇的に深まったわけではないが、もともと芦田はそんな関係を希望しているわけではない。

 思い切り懐かれて休日に無理やり遊園地に連れ出されるような、仲良し親子になる気は毛頭ないのだ。

 それを考えると、今の息子との程よい距離感は、芦田にとってかなりやりやすいものだった。 

 それよりも、問題があるとすれば――いや、問題といってよいのか芦田にはわからないが、何やら違和感が感じられるのは、例のベビーシッターの方である。

 相変わらず息子の上総とは仲良しこよしで(くだん)の連絡ノートを覗くに、簡単な夕飯の手伝いをさせたり、公園で他の子どもたちを交えて何とかごっこをして遊んだりと、お子様相手の優秀な仕事ぶりは健在だ。

 雇い主である芦田に対しても、帰宅時には上総の隣で『お仕事お疲れ様です』との言葉は欠かさないし、洗濯物だってそれはもう丁寧にたたんでリビングに置かれた芦田専用の籠の中に収めてある。

 シャツやハンカチにはぴしっとアイロンが掛けられ、これじゃあベビーシッターというより、まるで家政婦ではないかと、芦田は流石にこの頃になって給料の上乗せを検討し始めた。

 ところがだ。まれに感じる彼女の視線から、自分を非難するかのようなオーラが漂っている気がするのだ。

 会話を交わしているとき、また芦田が彼女を視野に入れている間は、特に何も感じられない。冷たい態度を取られたり、攻撃的な口調で話されるわけでもない。

 ただ、芦田が里緒に背を向けていたり、何かに気を取られていたり、そんなときに背中から好意的とは思えない視線を感じるような気がしてならないのだ。

 ――何か自分に言いたいことでもあるのだろうか。

 そうはいっても、思い当たる節もない。

 それにこれまでの事からいって、彼女は控えめな性格に見えて、わりと物事をはっきりと言うタイプである。

 必要とあれば心に溜めることなく自分に意見してくるはずだ。

 そうしてあれは単なる勘違い、気のせいだと芦田はそう思うことにした。




 ――とはいえ、やはり


「気にかかる……」


 そう呟くと、芦田はダブルサイズのベッドの上で、ごろりと寝返りを打った。


「なぁに、何のこと?」


 バスタオル一枚の姿でベッドに歩み寄った女が芦田の呟きを拾い、艶を含んだ声で尋ねてきたが、それに返答をする気には到底なれず、完全無視をきめこむ。それどころか考え事の邪魔をされ、芦田は非常に不愉快な気分になった。

 女はそんな芦田の心を知らずか、ご機嫌な様子でベッドに沈む筋肉質の右腕に手を添えてくる。

 芦田は、その手を煩わしげに振り払った。


「久しぶりだっていうのに相変わらず冷たい男ね。睦言のひとつやふたつくらい交わしたっていいじゃない」


 軽く溜息をつきながらも、その表情は傷つくどころか、どこか可笑しそうにさえ見える。

 くだらんとばかりに芦田は、女の言葉を鼻であしらった。


「それより佐伯、勿体ぶらないで早く話せ。俺が気が短いのはよく知ってるだろう」

「そう急かさないでちょうだい。着替えとお肌の手入れくらいさせて欲しいものだわ。その後で嫌というほど話してあげるわよ」


 本来ならば頭を下げてお願いしたっておかしくない場面で不機嫌な顔つきを崩さぬ芦田の横暴さに、佐伯翠は呆れ顔で肩を竦めた。そしてゆっくりとした動作で下着を身につける。

 キャミソール姿で鏡の前に立ち、念入りにバッティングを始めた翠の後姿を視界から外し、芦田はゆっくりと身を起こした。

 保湿だ美白だなんのと幾種類もの化粧品を使い分け、鏡の前にへばりつく――そんな努力の必要性にこれっぽっちも理解を示さぬ芦田は、けれども女性はある程度小奇麗にしているべきだという相反した意見を持っており、正に女性の敵そのものといってもいい。

 だが、今日はそんな女性の嗜みやら美意識だなんてつまらないものに意見するほど暇ではなかったし、翠の機嫌を変に損ねて話が進まなくなるのも面倒だ。

 芦田はそれ以上口を開くのは止めて、煙草を吸ったりミネラルウォーターを口に含んだりして10分超のその時間をやり過ごした。 



「で、本題だけど」


 再びベッドに腰を下ろすと、翠は御自慢のすらりとした両脚をゆっくりと組み重ねた。

 その表情が“女”から“仕事相手”へと切り替わったことを確認すると、芦田は翠の顔を正面から見据えた。

 頭の回転が早く、機転もよく利く。そして何より、全く女であることを感じさせない。

 以前までは仕事を離れてもそのままの印象だったのだが、残念ながら前回のあれのおかげで、そのイメージは見事なまでに崩れてしまい、今では厄介な相手だと認識している相手だ。

 けれど、こうしてきちんと切り替えが出来るならば、仕事の面においてはこれまで通り信用できそうだ。


「まず報告が一つ。先方さんのトラブル、思ったよりかかりそうね。3ヵ月と見越してたけど、半年ほど先になりそうよ」

「……まあいい、よくあることだ。さして問題はないだろう」


 芦田は内心がっかりしていたが、それを顔に出すことはせず、まるで大したことでもないかのように振舞った。


 

「それでこの間の話――つまり、あなたがチームの一員になるチャンスについてだけど。要約すると、私の口利きで候補に挙げることならできる。もちろん決定権はないけれどね」


 そこで翠はもったいぶって間をおくと、足を組み替えた。


「つまり、その後はあなた次第ってこと。面接やらプレゼンやら選考テストでアピールして、せいぜい上に気に入られることね。ただし空きポストは狭き門だし、選ばれたからといってただの足に使われるかもしれない。営業での実績が考慮されることはないと思った方がいいわ。どう? それでもいいなら――」

「よろしく頼む」


 芦田は眉一つ動かさず憮然とした表情のまま、それだけ口にした。

 確かに頼む側と頼まれる側という立場の違いはある。

 しかし同僚相手によくもまあ、随分と上から目線でものを言ってくれるものだ。

 仕事仲間として実力は認めてはいるものの、翠の時折見せるこうした高飛車な態度には昔から辟易していた。

 まあ今回の件では精々利用させて貰うさと、芦田は隣に座る女に冷えた視線を送った。




 その後、以前聞き忘れていた営業部長の栄転の噂の真偽を翠に確認すると、流石の情報通の彼女はご丁寧に最近部長が凝っているというワインの銘柄まで教えてくれた。


「芦田君は部長にお世話になった身だしね。私は第2案を贈ることにするわ」


 茶目っ気たっぷりにそう言う彼女に、こういうところは買っているんだが――と芦田は苦々しい笑みを浮かべて礼を言った。 

 翠はそんな芦田を面白そうに眺めていたが、ふと真面目な顔つきになり、左手を頬に当てた。


「そういえばひとつ確認したいことがあるの、息子さんの事」

「上総の事?」


 意表をついた質問に芦田の声には不機嫌な色が混じったが、翠はさして気に止めず、会議の打ち合わせで発言するかのように、簡潔に尚且つ明確に説明を始めた。


「この企画に参加するとなると確実に忙しくなる。子どもを残して急な残業が無理だっていうんじゃ当然チームを外されることになるわ。いくら専任の人を雇ってるっていったって、予期せぬ残業にそうそう対応して貰えないでしょう? うちの会社はここのところ、育児と仕事の両立に力入れているもの。子どもを放置して残業だなんて即刻メンバーから外されるわよ」


 翠が言うように、2人が務める会社はこの業界としては非常に珍しく、福利厚生が充実していることで評判だった。

 それを証拠に、同業社の中では群を抜いた育児休暇取得率を誇っており、毎年行われている社内アンケート調査も非常に満足度が高いという結果が得られている。

 家族手当や福祉、特に子育てを支援する風習が強く、芦田も翠も他社の特に家族持ちの社員から羨ましいとの声を何度か聞いたこともあった。

 芦田が妻を亡くした時も、その制度に救われたところがある。

 とはいえ、そのような風習が本格的に始まったのは最近であった。

 切っ掛けとなったのは現会長の孫娘が8年ほど前にデンマークに嫁いでいったことだった。

 やり手の企業御曹司である孫の結婚相手を通じてデンマークの大手企業と懇意になった会長は“世界一の幸福国”の社会制度、福祉制度を目の当たりにし、社会貢献や福祉分野に深く興味を示して、己の会社でもそれらに力を入れるようになったのだ。


 元より日本の広告代理店は“一業種一社制”の原則――1つの広告代理店が同業種では1社しか担当できない制度――が完全に無視されているため、自由競争が損なわれている。

 つまり、どう努力したところで大した売上比率の変化も見られないというわけだ。

 しかしだからといって、胡坐をかいたままではいつまで経っても会社としての成長が見られない。

 目先の事だけではなく、今後10年、100年という単位で会社の成長を考えてみれば、技術の高さばかり求めるだけでなく、いち企業として世間からの信頼や支持を確立させることも大切であると、会長はそう考えを改めたのだ。

 そして近年は、積極的にチャリティーイベントのスポンサーに名乗りを上げたり、収益の一部を恵まれない子供たちのために寄付をしたりと社会貢献の姿勢を見せている。

 その行動が直接的に会社の利益を生み出すことはないが、会社のイメージアップという意味では大きな役割を果たしていた。

 こういった活動がクローズアップされた取材の数は目を見張るほど多くなったし、世間から見た業界別ランキングでは飛躍的にその順位を上げることとなったのだ。

 このことによって、より良い人材の獲得も期待できるし、社員一人ひとりの意識も自然と高まることとなり、会長の思惑は見事に的を得た結果となった。


 

「だからお偉いさんの前でも子ども――ええと上総くん、があなたの残業の有無に関わらず十分な環境でいられるってことをきちっと説明して欲しいの。ほら、先月話題になった例の事件、覚えてるでしょ。S社員のあれよ、両親の不在中に誤って火事になったっていう。あれでお偉いさん方もピリピリしてるのよ、この類の話に」

「ああ、男子児童が火遊びで火傷を負ったってやつだろ。うちの部でも朝礼の時に話に出たっけ」


 芦田はまだ目新しい記憶を思い起こした。


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