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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
23/29

告げ口

「こういうことはプライベートに関わることなのでお話していいか迷ったんですけど」


 夕実伽はそう言い淀むと、ちらりと里緒に一瞥を投げた。

 それに反して彼女の頬はピンク色に上気し、その瞳からはうずうずとした好奇の色が隠しきれていない。


 

 ――いやな予感がする。

 里緒は直感でそう思った。


 彼女は上総の担任でもなければ里緒と殆ど面識もない。

 そして何よりまだ経験の浅い、恐らく社会人1年目といったところだろう。

 そんな夕実伽が里緒に一体どんな“小耳にいれておいた方がいい話”があるというのか。

 眉を顰めた里緒の表情に気づくことなく、夕実伽は口元に手を添えて、ひそひそと耳打ちしてきた。


「上総くんのお父さん、気難しそうで大変じゃあないですか? いつもシッターさん任せで親子のコミュニケーションちゃんと取れてるのかって、職員の間でも心配してるんですよ」


 予想通り、ろくな話じゃなさそうだ。

 保育士たるもの、外部に保護者の悪口を口にするなど言語道断である。

 とりあえず、このまま黙って話を聞くのはよろしくない。

 かといって、自分が直接注意をするのもおかしな話だ。

 ここはさっさと退散して、後ほど主任である摂子にこっそり伝えておくのが一番だろう。

 告げ口をするようで気は進まないが、この場合、聞かなかったことにする方がよっぽど問題である。 

 きっと彼女はいつもこの調子で摂子の頭を悩ませているのだろう。

 気の毒に、とんだ新人を抱え込んだものだ。

 里緒は心底摂子に同情した。


「あー……先生、私この後仕事がありますのでこれで失礼――」 


 引き攣りそうな口元を右手で覆い隠し、自然にその場を立ち去ろうと歩き出す。

 しかし、プリ○アに扮した新人保育士の勢いはそれでも止まらなかった。


「あっ、ちょっと待って下さい! ひとつだけ」


 慌てて小走りで距離を詰めて里緒を引き止めると、夕実伽は再び内緒話をするかのように声のトーンを落とした。


「先日の大幅にお迎えが遅れたあの日、芦田さん口元にベッタリとキスマークつけてきたんですよ」

「は?」


 思わず素っ頓狂な声を上げて固まってしまった里緒を見て、夕実伽は調子づいた。


「仕事が長引いてだなんていって、実はデートしてたんですよ! 私、シッターさんにはお伝えした方がいいかと思って。そりゃ、不倫とかじゃないですけどお迎え遅れて何してたんだって話ですよね」


 興奮して力説し始めた夕実伽の声が急に大きくなり、少し離れた所にいた保護者たちが何の騒ぎかと、ちらちら視線をこちらに向け始める。

 それに気づいて里緒は、慌てて夕実伽の爆弾トークを止めに入った。


「せ……先生っ、ちょっ、声が!」

「ああ、すみません。ちょっと声大きかったですかね?」


 けろっとしてそう答える夕実伽に、ひやひやする。

 なぜ自分がこんなに気を揉まなければならないんだろう。里緒はがっくりと肩を落とした。

 とにかく、さっさと別れの挨拶をして、この場を離れなくては。

 そう思い直して顔を上げると、一変して顔を青くした夕実伽が視界に入る。

 後ろを振り返れば、そこにはお冠の摂子の姿があった。


 すまなそうに里緒に頭を下げて教室内の保育士に声をかけると、摂子は無言で夕実伽を引き連れ人気(ひとけ)のない校舎脇に向かった。

 何だか他人事だと思えず、里緒は遅れてその後を追う。


「全く! 何を考えてるの、あんなこと言って。あなた学校で個人情報保護法について何を勉強してきたんですか? 園長に知れたらただ事じゃすみませんよ!」


 新旧校舎間にある70センチほどの隙間の奥から、摂子の声が聞こえてくる。

 ボリュームを落としながらもその声の低さと鋭さからは、彼女の怒りの度合いが非常に高いことが十分に伝わってきた。

 暫くおろおろと傍観していると、夕実伽のすすり泣きが聞こえ始め、居た堪れなくなった里緒は、思わず侵入防止用の柵扉を開いて、するりとその空間に入り込んだ。


 

「せ、摂子先生、大丈夫ですよ! 私、保護者ってわけじゃないですし、もちろんアレは流石に不味いですけど」


 ――何が“大丈夫”なんだ、何が!

 自分で発しておきながら、心の中でそう一人突っ込みをする。

 勢いついて新人の彼女をフォローしたものの、それが何の役にも立たないことは里緒自身わかっていた。

 そもそも里緒が保護者だろうがなかろうが、根本的には全く関係なかった。 

 プライバシーの侵害どころか、憶測でモノを言うとはあるまじき行為だ。

 今日の反省会で夕実伽に大雷が待っていることは想像するに容易(たやす)い。


「とりえずあなたはすぐ教室に戻りなさい。この話はまた後でしましょう」


 摂子にそう促された夕実伽は、青褪めたまま2人に一礼すると、教室に戻っていった。

 続いて自分も立ち去るべきかと里緒は一瞬迷い、夕実伽の後ろ姿を見送り深く息を吐く摂子を見て、この場に留まることとした。


「先生、いつからいらっしゃったんですか。全く気付きませんでした」

「若宮さんが彼女に無理やり引きとめられているのに気付いて――本当に申し訳ないです、新人とはいえまさかあんな失礼なこと……」


 教育の目が行き届いておらず私の責任です、と深々と頭を下げられ、里緒は逆に何だか申し訳ない気持ちになってしまった。

 自分も1年目の時は――夕実伽ほどではないにしても――とんでもないことをやらかしてはお説教を食らっていたものだ。

 主任の先生の苦労がどんなに大変なものなのか、あの頃の自分には想像すらつかなかった。

 今、こうして摂子側の立場に考えを寄せることができるのは、里緒がいくばか成長した証だった。


「彼女、他にも何か失礼なこと言ってませんでしたか」


 里緒を気遣いながらも、心配そうに問いかけてくる摂子に流石に嘘はつけない。

 摂子にこれ以上追い打ちをかけるような話をしたくはないし、夕実伽を庇ってあげたいという気持ちもほんの少しあったのだが、今回の会話が自分ではなく他の保護者相手にされていたらと考えると恐ろしい。

 それこそ園の信用問題に大きく関わってくることだ。

 不安の芽は早く摘むに越したことはない。

 里緒は正直に、最初に耳打ちされた内容を摂子に打ち明けた。 


 

 予想通りというべきか、摂子の呆れようといおうか項垂れ具合は酷いものだった。

 しかしそれも一瞬のこと、摂子はすっと顔をあげると今一度、真摯な表情で里緒に謝罪を述べた。

 口止めについて触れないあたりは、里緒が決して口外などしないことをわかり得ているからであろう。

 おそらく発狂したい程には怒りが達しているだろうに、里緒の手前その憤りを出来る限り内に秘めてやり過ごすあたりはさすがベテランである。


「私も1年目はかなり上の先生たちからお説教を受けましたけど、主任の先生って本当に大変ですよね。今になってやっと、それが理解できるようになったんですけど」


 摂子を労いながらも夕実伽のことを気に留めるような里緒の言葉に、摂子は苦笑する。


「いろいろとお気づかいいただいて恐縮です。また一から教育のし直しだわ……て、若宮さん。あなたお仕事の時間は大丈夫?」


 はっと腕時計を確認すると、予定していた電車の発車時刻まで10分を切っている。


「いっけない! じゃあ先生、またお迎えの時に。失礼します」



 バタバタと慌ただしく保育園を後に、息を切らしながらもどうにか電車に滑りこむことに成功した里緒は、混雑した車内で一息ついた。 

 ――摂子先生も苦労するわよね。ついこの間まで学生だった人を先生になるように指導しなきゃならないんだから……。


 どの会社でも新人教育というものは存在するが、新卒の若者がいきなり“先生”になるという意味では、教育機関や保育園の現場という環境は少し特種だと里緒は思う。

 それも、フリーや複数担任ならまだしも、初っ端から一人担任になるというのは里緒個人としては“あり得ない”という意見である。

 しかし現実、そういう園は数多くあるのだ。


 

「なんだかなぁ……」


 周囲に聞こえない程度の小さな声でぼそりとそう呟くと、里緒は天を仰いだ。


 ぼうっと電車に揺られているうちに、瞼が重くなってきた。

 久しぶりの5時起きに、里緒の身体はついていくことができなかったらしい。

 瞼を閉じれば、立ったままでも熟睡できそうだ。

 いよいよ視界がぼやけはじめ、目を擦ろうと腕を持ち上げたそのとき、カーブに差し掛かったのか車両が突然左右に大きく揺れた。

 立っている乗客たちも同時にに揺れて揉みくちゃになる。

 里緒も吊革を握る右手に必死に力を入れて、何とかその場を凌いだ。


「すみません、思い切り体重を掛けてしまって」


 吊皮を握り直していると、右隣から若い女性の控えめな声が聞こえてきた。

 どうやらこの揺れで正面に立つ男性に寄りかかってしまい、その謝罪をしているようだ。


「いえいえ、僕は平気です。そちらは大丈夫でしたか」


 人のよさそうな声をしたその男性は、外見も立派なものだった。

 甘いマスクに肩幅の広い長身で、パリッとしたスーツを身につけている。

 小声で「大丈夫です」と答えると、女性はうっとりと彼に見惚れていた。

 里緒は他人事ながら、これは素敵なハプニングというやつかしら、などと考えながら口元を緩めて2人の様子を静観する。


 

「あっ! ごめんなさいっ、シャツに口紅が」


 穏やかに流れていた空気を壊したのは女性の方だった。

 思わず里緒が右側を凝視すると、なるほど男性の真っ白なシャツにはくっきりとローズピンクの口紅の跡がついている。

 男性は「ああ、ほんとだ」と呟いて困り顔でシャツの上の口紅を眺め、女性は蒼ざめておろおろし始めた。

 何というかドラマじみた演出だわ――という感想に落ち着いて、里緒はふと夕実伽の言葉を思い出した。


『あの日、芦田さん口元にベッタリとキスマークつけてきたんですよ』

「キスマーク!?」


 思わず口に出してしまい慌てて周囲を見回せば、隣にいた女性は泣きそうな顔でこちらを見ており、被害にあった男性からは気不味げな視線を送られた。

 これ以上注目を集めないためにも2人にしか聞こえぬほどの小さな声で謝罪をすると、里緒は静かに、しかし出来るだけ速やかに彼らから距離をとった。

 ドア付近に身を寄せると、これではまるで自分こそがおっちょこちょいなドラマの主人公のようだと溜息を落とす。

 目的の駅に到着すると、里緒は先ほどの男女には目もくれず、一目散に電車から飛び出した。



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