伊藤家の夜《後篇》
またしても間があいてしまいました。
「それにしても彼女、なかなかの聞き上手でね。ついつい話し込んでしまったよ。普段もあんな感じなのかい?」
里緒とのやり取りを思い返してそう話す伊藤を、芦田は不思議そうに眺めた。
自分の知る限り、こんなに多弁に語る義父を見るのは酒の席を除けば初めてのことだ。
伊藤は他人を無条件で受け入れるような広い心の持ち主のためか相談事を持ちかけられることが多く、自らが話し手になることはそうないのだと、以前に美波から聞かされたことがある。
相手に意見するのではなく、相談者自らが答えを導き出せるようにと配慮をはかるその話法が、まるで心理カウンセラーのようだと町内では評判で、そんな父が誇らしいのだと、彼女はそうも言っていた。
そんな彼が唯一饒舌になるのは、決まってアルコールが入った時だ。
今日はまだ1滴たりとも口にしておらず、まるっきり素面のままだというのに、何が彼をそうさせたのだろう。
首を捻りながら芦田は、普段は聞き役に徹している伊藤が里緒に、一体どんなことを“話し込んでしまった”のか、その内容にほんの少し興味がそそられた。
「何か、彼女と面白い話でもありましたか」
芦田の問いに、伊藤の笑みが濃くなった。
「上総から、お許しが出ただろう」
「お許し?」
「そう。保育園のお迎えに大幅に遅れて、上総にへそを曲げられていたそうじゃないか」
途端に芦田の腹の底がすっと冷たくなる。
――あのベビーシッター、どこまで余計なことを!
芦田は義両親と里緒を残して家を空けたことを、心の底から後悔した。
まさかそんな話を彼らがしていたとは思いもしなかったのだ。
ともすると、義父がベビーシッターを話題に出した理由はあれか。
さしずめ育児に積極的でない父親の失態を注意してやって欲しいとでも、あの女が頼んだのだろう、雇用主である自分に内緒で、陰ででこそこそと。
自然と握られた拳に力が込められた。
そうとわかれば、さっさと息子を義両親の元に預け、あのお節介女に解雇通告をせねばなるまい。目の前にいる義父の存在をすっかり忘れ、芦田は里緒に対する怒りの感情でいっぱいになった。
彼女が告げ口をするような姑息な真似をする女性だとは思ってもみなかった。
確かに芦田は、里緒の仕事に対する姿勢については買っていた。
気に入らないと思いながらも、この1ヵ月の彼女の仕事ぶりを見れば認めざるを得ないだろう。
だからこそ、ただのベビーシッターとしては行きすぎだと思われる行動や言動についても、最終的には渋々ながら受け入れてきたのだ――今回の同行を許したように。
しかし、いくら仕事に忠実だからと言って、それが必ずしも雇用主に対しても忠実であるとは限らない。
芦田は最初から、上総のためではなく自分のために動いてくれる人間を欲していたのだ。
そこまで考えがまとまると、里緒をベビーシッターに選んだ自分の決断が悔まれた。
翠の件といい、いつの間にか人を見る目が濁ってしまっていたようだ。
初対面で親身になってくれた里緒の姿を思い起こすと、芦田は馬鹿馬鹿しいとばかりに、自嘲の笑みを浮かべた。
「一史君?」
黙りこくってしまった芦田に心配そうな伊藤の視線が向けられた。
その瞳からは芦田を案ずるような感情こそあれ、説教じみたことを口にしようといった様子は全く感じられない。
そういえば義父は上総がへそを曲げたと言ったが、まさかここ最近のあのだんまりは、迎えに遅刻した自分に対する反抗の意思表示ということなのだろうか。
何か言い訳を紡ごうと口を開きかけ、芦田は伊藤の言葉を反芻した。
“お許し”とは、一体何のことか。
心当たり一つない芦田が答えを求めるように義父の顔を一瞥すると、伊藤はますます目を細めてふっと息を零した。
「里緒さんのおかげで仲直りが出来て良かったじゃないか」
「仲直り? 彼女のおかげって、どういうことです?」
さっぱり話の筋が読めず、芦田の声には苛立ちが含まれていたが、伊藤は気にせずのんびりと種明かしを始めた。
「今回のうちへの訪問はお迎えに遅れたパパからのお詫びのしるしなんだって、上総はそう思っているよ」
「はぁ、何だってそんなふうに」
「里緒さんからそう聞いたんだろう? 『パパはね、恥ずかしくてカズにごめんねが言えないんだって。その代わりに、じぃじのおうちに連れてきてくれたの』だそうだ」
伊藤は上総を真似るかのように声色を変えてそう言って見せた。とはいえ、これっぽっちも似ていやしなかったが。
「だからパパに、ちゃんとお礼を言ったんだって聞いて、てっきり仲直りしたのかと思っていたけれど、違うのかい」
問いかけているようでいて、その口ぶりは確信めいている。
「……あ、」
――あの時の?
伊藤が言わんとしていることにようやく思い当たった。
上総が生鮮市場で見せた、あの綻んだ笑顔。
てっきりあれは祖父母に会えた喜びからきたものかと思っていたが、今の話からして純粋に自分に向けたものだということなのか。
「そういえば一史君。月に1・2度、週末にでも上総をうちに預ける気はないかね」
大した話でもないんだが、といったふうに伊藤は軽い口調でそれを口にした。
「以前は君が上総に会いに、うちに来てくれていただろう。それと似たようなものだよ。もちろん一史君も泊まっていってくれてもいいし、休日を一人で自由に過ごしてくれてもいい。里緒さんに話したら、君が忙しい時は送迎を代行してくれると申し出てくれたよ」
「え?」
思わぬ伊藤の申し出に、芦田は目を見開いた。
当事者である 父子 より一足先にベビーシッターに話が通っているというのは、いささか蔑ろにされているような気がしないでもなかったが、この際そんなことはどうでもいい。
24時間を上総と2人きりで過ごすという週末を、おっくうに感じることがあるのは事実だった。
これから仕事が忙しくなるにつれ、疲労も溜まっていくことだろう。それでなくとも慣れない息子との生活に、一人きりでのんびりと休む時間を、芦田は何より渇望していたのだ。
週末に上総を預かってもらえるのは非常にありがたい。
自然と表情が明るくなった芦田の心の中に『いや、待てよ』と別の自分が問いかけた。
すっかり忘れていたが、自分は息子を祖父母に託そうと、そう提言するはずだったはずだ。
あんな風に祖父に言われてしまえば、さすがにそれを提案しづらい。
今度は一転して、複雑な面持ちとなる。
そんな自分をみて苦笑する義父に、芦田は慌てて平然とした表情を作り直した。
「ああ、その。仕事や……お義母さんの方は大丈夫なんですか」
取って付けたようなその問いに対し、伊藤の首が縦に振られた。
「君の負担を考えれば最初から思いつくべきだったんだ。悪かったね、自分たちの生活に精一杯でもっと早くに気付くべきだった」
「いえ、そんな。そうしてもらえると……正直助かります。僕の方こそ自分の息子のことだっていうのに、不甲斐なくてすみません」
「そんなことはない。君が大変なのはわかっているつもりだよ。助け合えばいいんだ、お互い家族なんだから」
美波が亡くなったからといって、それに変わりはないだろう。伊藤の目は、そう物語っている。
それに対して芦田は、ただ複雑そうな表情を浮かべるだけだ。
伊藤はそんな義息子を責めるようなことはせず、ただほんの少し残念そうな表情を窺わせた。
「それにしてもいい人を雇ったもんだね。彼女、君たち親子の仲を取り持とうと、すごく一生懸命だ。上総だけじゃなく君の事も気にかけていたよ」
気を取り直したようにそう言いながら、伊藤はお勝手を物色し始めた。
珍しくも今夜はまだ酒を口にしていないものだから、少々遅い晩酌の準備といったところだろう。
義父からすれば、酒の肴に弾む話を――とそう思っての話題転換だったかもしれないが、芦田はまたしても肯定の言葉を返すことができなかった。
上総の事に関しては同感だが、自分の事まで案じているかと言われればそれは否だ。
彼女の業務は“上総専属”のベビーシッティングなのであって、それ以上でもそれ以下でもありはしない。
むしろ上総の幸せのためには、雇用主である芦田の大人の事情など欠片も気にしてはいないのだ。
そう義父に話すと「うーん、そうなのかな。どうだろうね」と、いつもと変わらぬ穏やかな笑みで曖昧に言葉を返された。
何か含みを持ったその言い方に次の言葉があるかと思われたが、伊藤はそれ以上の事は口にせず、満足げに笑ってみせるだけだった。
それから2人はお互いの近況報告や仕事の話に花を咲かせ、それっきり上総や里緒が話題にのぼることはなく、芦田親子にとって1ヶ月半ぶりとなる伊藤家での夜は更けていった。
♢ ♢ ♢
翌日の午後になり、芦田は伊藤宅を発つことにした。
上総は予定通り、あと数日を祖父母の家で過ごすこととなっている。
「昨夜はちょっと喋りすぎたかな」
伊藤は玄関先で気恥ずかしそうに笑って見せると、隣の源さんに貰ったのだという一升瓶を芦田の土産に持たせた。
そんな義父に礼を言いながら、芦田は誰にも気づかれないようにこっそりと溜息をつく。
義父を前にすると、どうしてもお得意の会話術が使えない。
昨夜は話が一転二転してしまい、予定していた言葉を発するタイミングが掴めなかった。
『上総はやはり、お義父さんたちと暮らした方が幸せなんじゃないでしょうか』
結局伊藤のペースに乗せられた形で上総を週末に預けることとなったため、それを口にする機会は失われた。
少なくとも、当分の間は今まで通り上総と暮らしていくことになりそうだ。
とはいえ結果的にいえば、全面解決とまではいかないまでにも、当面の不安材料は息を潜めたといってもいい。
一番の苛々の原因であった上総のだんまりは解決したし、週末の一人の時間も確保できることとなり、この度の訪問は大きな収穫があったということだ。
ただひとつ、不満があるとすれば遅刻の件を漏らした里緒の事だった。
あれを聞いたときには首にしてやろうとまで考えたものの、彼女に対する憤りは結果オーライという形で半減してしまい、芦田としてはかなり複雑な気分だった。
それに伊藤家への送迎を引き受けてくれたことは正直かなり有難く、それもまた芦田の怒りを緩和するのに一役を買っていた。
隔週の金曜日、里緒には保育園の迎えついでに上総を直接伊藤宅へ送り届けてもらい、自分は日曜の夕方にでも迎えに行けば、週末はフルで自由の身だ。
頭の中でそう計算すると、まあ今回は大目に見てやるか、と口端を引き上げ車のエンジン音を鳴らした。
帰り道、憂鬱な気分で伊藤家に向かっていた前日の朝とは打って変わり、芦田の気分は晴れやかなものだった。
ふと昨晩の伊藤との会話を振り返ってみる。
思えば義父は喋りすぎたといいながらも、結局何がいいたかったのか、彼の本音をはっきりと聞くに至らなかった。
話題が何度も転換されたせいか、全てにおいて中途半端で、まるで尻切れトンボだ。
まあ、真剣に考えるようなことでもあるまい。
芦田は上総のいない残りの連休をどう過ごそうかと、考えをを巡らせた。
読み直し過ぎて文章がよくわからなくなってしまったのでとりあえずアップしてしまいます。
この先の話が進まなくなるので……。
間違いなく後日、直しが入ります、多分何か所も。
大幅改稿するかもしれません。
こんな微妙なお話で申し訳ないです。
お読み下さっている皆様、いつもながら、ありがとうございます。