昔話
短めです。
「あの、私自分で言うのも何ですけど。すごくお節介なんです」
言葉にするのを何度も躊躇いながら、けれどもどうしても伝えたい。
そんな気持ちが手に取れるように伝わってきて、伊藤は目の前であたふたとしている若い女性が少しでも話をしやすいようにと、いつもと変わらぬ穏やかな表情でその先を促した。
「芦田さん親子はこう、ちょっとちぐはぐしてますけど、歯車が合えばもっとお互いの距離が近くなると思うんです。その……すみません、偉そうなこと言って。伊藤さんはそんなこと、とっくに……御存じでしょうに――」
勢いよく話し始めたはいいが、だんだん自分の言葉に自信がなくなってきたのか、後半消え入るように声を窄めて、里緒は頬をピンク色に染めた。
赤の他人に対して随分と一生懸命なその姿に、伊藤の顔つきはますます柔らかなものになっていく。
それを見て、里緒は安堵したように、ほっと小さく息をついた。
そして改めて自分の思いを語り始める。
「何か切っ掛けでもあればってそう思って、それで私にも何か出来ることはないかっていろいろ考えてみたんですけど、なかなか難しくて」
初対面の印象通り、とても好感のもてるお嬢さんだ、と伊藤は心の中でその印象を確固たるのもにする。
「芦田さんって、そのう――人を見る目が厳しいといいますか……あ、いえっ! こう、腹を割ってお話するまでには時間がかかる方というかですね」
複雑な顔で必死になって言葉を選ぶ彼女を見て、伊藤は思わず吹きだした。
「ふっ……いや、里緒さん。一史君はなかなか気難しい男でしょう。何せうちの娘が振り向かせるまでに3年も費やしたほどですから。それも全力投球で」
「はぇ?」
予想外の話を聞かされたせいか、里緒の口からは“はい?”とも“ええ?”ともつかぬ、すっとぼけたような奇声が発せられた。
「あぁ、失礼ですかな、里緒さんの場合はお仕事なのに。まあ、ちょっと年寄りの戯言だと思って聞いて下さいませんか」
そう言って伊藤が微笑むと、里緒は不思議そうな顔をして伊藤をじっと見詰めた。
「あの子は大学に入ってすぐに、サークルを通じて知り合った一史君に一目惚れしたらしくね。全く相手にされないとか何とか嘆きながらも、やれ誕生日だ、それバレンタインデーだって何とか彼の目に止まろうと必死でして。妻は何だかんだで面白がって応援してましたが、私はずいぶんと面喰いましたね。娘は決して前に出るタイプではなく、子どもの頃から一歩引いたような性格でしたから」
そこで里緒が「面白がって……?」と小さく呟きながら首をかしげて見せたので、伊藤はちらりと横目で妻の顔を窺いつつ「八重子は落ち着いて見えて少女趣味なところもあってね。ええと、ミーハーって言ったらいいのかな」と補足をして話を続けた。
「とにかく一史君にはすでに相手の女性もいたらしいのに、めげずに押し続けまして、あれには私も感心するやら呆れるやらで。長いことかけてようやく振り向いてもらった時には一史君は仕事で忙しく、あれは断るのも面倒になったんじゃないかとさすがに彼に同情の気持ちを覚えました――けれど」
そこで伊藤は言葉を一旦止めた。
里緒が面白い顔――いや、妙に複雑そうな表情をして何やら考え込んでいたからである。
――やはりこんな話は彼女にとって退屈なだけかもしれない。
そう後悔しかけた伊藤だったが、急に黙り込んだ自分に気がついた里緒が「それで、芦田さんは本当に断るのが面倒でOKしたんですか?」とこれまた妙ちくりんな表情でその先を促してきたので、少なからず興味を持って話を聞いてくれているのかと少し胸を撫で下ろす。
「けれど、彼が美波を受け入れたのは、揺らがない真っ直ぐな気持ちに惹かれたからなのかもしれません。正直、父親の私から見て、一史君は美波のことを恋愛の対象というより――これは親馬鹿だと笑われてしまうかもしれませんが、何か人として魅せられた部分があったんだと思います。美波は彼に対してその両方、つまり恋愛感情も憧れや尊敬の念もあったみたいだけれど、残念ながら女性としての魅力は一史君には通用しなかったみたいでしてね。まあ、結果として絆されてくれたんだから、こちらとしてはラッキーだったわけです」
とそこで、リビングから固定電話の着信音が聞こえ、話が中断された。
上総の要望で以前に芦田がセッティングした『アン○ンマンのマーチ』が流れるとともに、抑揚のない女性の声が繰り返される。
アシダ カズシ サンカラオデンワデス
アシダ カズシ サンカラオデンワデス
「あ、私出ますね」
里緒は、パタパタと足音を立てて電話口に向かった。
「もしもし――はい、若宮です。――大丈夫です。ええ、上総くんですか? わかりました」
どうやら上総が電話口に出たいと主張しているらしい。
ワントーン声が上がった里緒が、何だか楽しげな口調で話しているその様子を遠目で見ていた八重子がふと、それまで黙っていた口を開いた。
「どうして、あんなことを里緒さんに話したんですか?」
「あんなことって?」
「美波の話ですよ」
「ああ、あれか。いやね、里緒さんは美波と何か同じものを持っているような気がする――お前はそう思わないかい?」
「それは、さっきの……ひ、人としてという、ことですか? まさか、ああなた、一史さんと彼女を?」
2人を寄り添わせたいのだろうかと、八重子は夫の行動を訝しんだ。
「いや、そうじゃない。上手く言えないが、一史君の中の傷を彼女が救ってくれるかもしれない、今日里緒さんと会ってそう感じたんだ。――八重子、私は彼を実の息子同様に思ってきた。美波が亡くなってしまった今も、その気持ちは変わりないよ」
「ええ、それは私も同じ。か、上総の事はもちろん、一史さんにも幸せに、なって欲しいって。こ、心から思ってる……」
「里緒さんの前で、いい格好しようとするから。無理したんじゃないか? ほら、ここの筋がひきつってる。後々に差し支えるから、もう彼女の前で気を張ってお喋りするのは辞めておきなさい。私からちょっと疲れたようだと言っておくから」
ひくりひくりと痙攣し始めた妻の頬を、伊藤の手が優しく撫でた。
「り、里緒さんとは初対面だし、最初くらいは、しゃんとした、姿でいたかったの。それに上総に、げげんきになったって、思って欲しくて。ふふっ、まあったく、どもって……みえなかったでしょ」
まるで母親に褒めてもらおうと得意げに語る子どものように、震える口元を何とかコントロールして、八重子は悪戯っぽく微笑んでみせる。
他人からは、どんな時も優雅に構えた淑やかな良妻賢母だと評されてきた彼女がそんな表情を浮かべるのは、もちろん夫の前でだけだ。
「まったく私の妻は本当に根性だけは座っているよ。普通なら逆に神経が高ぶって、より口が回らなくなるっていうのに。――やっぱりリハビリ、一緒に頑張ってみる気にならないか? 歩けるようになるかもしれないんだよ」
幾分呆れたように肩をすくめて妻の強情っぷりに称賛の言葉をかけた後、伊藤は打って変わった真剣な、けれど非常に優しい口調で八重子をそう諭した。
それに対して八重子は夫の手に自分のそれを重ね、ぎこちなく微笑んで見せる。
「ああなた、まだ仕事、忙しい……に。介護の体力だだって、お互い、60近いのよ、もうじゅうぶん。これからも、上総に会えるんだし」
「……そうか。うん、そうだな」
60なんて、まだまだ若いうちじゃあないか――心の中ではそう主張をしながらも、伊藤は妻の意見を受け入れる言葉を口にした。
「伊藤さん。上総くんたち、あと30分ちょっとで戻ってくるそうです」
リビングから里緒のよく通った声が聞こえ、夫妻はお互いに顔を見合わせてクスリと笑いあう。
「わかりました。じゃあ彼らが帰ってくるまで、話せるだけのことを話しますか。上総がいると、ゆっくりとお喋りしている時間など与えてくれそうにないですから」
伊藤は少し声を張り上げてそう言うと、里緒を再び、八重子が休むこの寝室に招き入れた。
伊藤夫妻は、かなりのおしどり夫婦なのです。