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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
19/29

伊藤家の夜 《前篇》

随分と間が空いてしまいました。

待って下さっている方がいらっしゃいましたらすみません。

 この先一週間分の食材の買い出しを頼まれた芦田は、そのこと自体は別段手間とも思わなかったものの、上総と2人きりの外出ということに関しては、どうにも気が進まなかった。

 ここ数日の、自分に対する息子の不自然な態度の原因を考えてみることすらしなかった芦田は、義両親の元に到着しても尚、隙間風の吹いた親子仲を修復できていなかったのだ。

 上総の機嫌に乗じて気安く声を掛けでもすればよかったのかもしれないが、結局芦田は、相も変わらず終始むすっとした表情を崩さなかったのである。


 生鮮市場でカートを押しながら、伊藤から預かった買い物リストに目を通す。

 野菜コーナーで大根を手に取ったところで、芦田の表情が大きく変わった。

 少し離れたところで様々な食材を興味深げに観察していた息子が突然駆け寄り、父親のジャケットの裾を引っ張りながら言ったのだ。「パパ、ありがとう」と。

 思い当たる節のない芦田が眉を顰めたのを気にすることもなく、上総はなおも続けた。


「じぃじのおうち、連れてきてくれてありがとう」


  

 その声は、注意を凝らさねば聞き取れないくらい小さなものではあったが、上総のその瞳の中には、父親の顔色を窺うような探る気配や遠慮の色は全く見られない。

 その代わりに、上総は上気した頬を緩ませて父親を見上げた。

 それは芦田にとって、花見の夜以来に見ることとなった息子の心からの笑顔だった。

 

 ――ああ、上総(これ)はよほど祖父母に会いたがっていたのだ。彼らと離れてから、これまでずっと……。

 思えば芦田が息子の心情を考えてみたことは、これまで一度もなかった。

 すると今までは気にも留めていなかった、それこそ全く思いつきもしなかった今更なことが、一つの疑問として浮かび上がる。

 ――今の自分たちの生活を、上総はどう思っているのだろうか。

 伊藤が言うように、上総がこれからも祖父母の家で暮らしていくのは明らかに難しい。

 そのためこうして父子2人で暮らすという方法を取ったわけだが、そこには実のところ誰の意志もない、言わば状況に応じて必要に駆られたが故の選択であった。

 芦田はこんなことがなければ息子を自分の手元に置いたりはしなかった。

 未来の事を“絶対”などと言い切るつもりはないが、この先何もなければその考えは変わらなかったであろう。


 

 “親子は共に暮らすもの”というのは、それこそ言うまでもなく当然のことである。

 片親が欠けてしまった場合、父親ならば母性を、母親ならば父性を出来る限りカバーし、子を守って子のために必死で生きていく。そして周囲はそんな親子を応援し、温かく見守る――そんな姿は、単なる世の理想像だ。

 片親とはいえ芦田の場合、幸運にも義理両親はとても協力的だし、雇ったベビーシッターの仕事ぶりも悪くない。

 世間一般からしてみれば、彼の立場は父子家庭の父親としては恵まれていると言えるだろう。

 けれど芦田にとっては、そんな一般論は糞くらえだ。

 文句があるのなら、自分と同じ立場に立ってみろというものである。

 そもそも父親というものは母親が存在しているからこそ引き立つのであって、こんな状況で順風満帆に父子関係を築ける人間がいるのなら見てみたいというのが芦田の考え方だっだ。

 だいたい父性が何たるものかさえわからない自分に、母性まで求められるなんて、ちゃんちゃらおかしなものである。

 折しも大企業で多忙を極めるこの種の人間に、妻の存在なしに家族サービスを心がける時間と余裕があるはずもない。

 おまけに言えば、世の中には自分のような――つまり、家庭を全て妻に預けて仕事一筋に生きるような――父親は、うじゃうじゃいるのだ。

 そんな父親等(やつら)が自分と同じ立場に立たされた時、世間で言われているような一般論が言えるというのか。

 上総にしてみたって大好きな祖父母と離れ、これまで交流ゼロに等しかった無愛想な父親と2人きりで暮らすのは苦痛以外の他ならないのではなかろうか。

 1ヵ月を共に暮らしてみたところで、2人の間にある壁のようなものはいつまでたっても消えやしない。

 親子らしい会話もろくに出来ず、遥かにベビーシッターの里緒に心を許しているように見えるのは自分だけではないはずだ。


 義母が突然病気を患い、あのときはああ返事をしたものの、何かほかに方法があったのではないだろうか。

 芦田は今一度、義父と話し合う必要があると心の中でそう思った。






 ♢♢


 芦田が里緒を駅まで送り家に戻ってみると、ふくれっ面をした上総が義父に何やら文句を言っていた。

 寝起きのところ、知らぬ間に里緒が帰ってしまったことを知って、かなりご機嫌が斜めのようだ。

 もちろんそれは父親である自分の前では見せたことのないような姿で、これまた今の生活を変えるべきだという芦田の考えを後押しした。


 昼間に居眠りを始めたところを少し無理やり気味にでも起こした甲斐あって、上総は夜になると早々寝床についた。

 添い寝の必要もないほどの寝つきの早さで、今ではもう、すっかり夢の中だ。


「上総とは上手くやっているようだね」


 伊藤の言葉から嫌味は感じられず、彼が心からそう思っていることが芦田にも伝わってきた。

 しかし、だからこそ、その言葉には合点がいかない。


「上手くって、まさか。さっぱりですよ」

「一史君。八重子がこんなことになって、私も動揺してね。上総の事を第一に考えられなかった。祖父として失格だね、これでは」


 何を言うのだ、と芦田は心の中でそう叫んだ。

 伊藤に祖父失格だなんて言われてしまえば、それこそ自分は父親大失格である。

 芦田は人を思いやる気持ちがあまりない自分の性格を重々自覚しているし、その上でその気質を変える気だって更々ない。

 他人のことはこれっぽっちも興味がなくどうだっていいし、身内である父親や姉夫婦のことだって正直最低限の付き合いで十分だと思っている。

 今回の事で姉に感謝の気持ちはあるものの、こんなことがなければ次に顔を合わせるのは恐らく父親の葬式の時だろうなんて本気で思っていたほどだ。

 しかしそんな芦田にも、尊敬に値し、頭が上がらない唯一の存在がここにあった。

 それが亡き妻の両親で息子の祖父母でもある、伊藤夫妻だ。


「私の独断で、まるで上総を君のところへ厄介払いしたような形になってしまって、妻からしこたま叱られたよ。何せ八重子は2週間の同居ですっかり、君がこっちに越してきたとばかり思っていたのだからね」


 自嘲したように、愛する孫に“厄介払い”という表現を使って見せる伊藤の、これまで自分が知っていた義父らしからぬその姿に、芦田は驚きとともに大きな違和感を感じた。

 彼はいつだって、どんな時だって、あの朗らかな笑顔を崩さず皆を温かく見守ってくれてきたのだ。

 美波の生前、芦田は仕事を理由に義理両親との交流は少なかったが、それでも自分が彼らに受け入れられていたことは感じていた。

 それゆえか、幼い頃から自分には目もくれなかった実の親の代わりに芦田自身、心の奥底でこの義父に本当の父親像を擬えていたのかもしれない。

 むろん成人したいい大人が素直に甘えられる訳もなく、そしてそれは芦田の性格では殊更ことさらであったため、義両親(かれら)に対しては少し他人行儀な義理の息子というスタンスで距離を保ってきた。

 美波が亡くなり、上総を通して以前より距離が近くなった今でもそれは変わらない。


「美波はね、もともと身体が弱く医者から子どもを産めないかもしれないと言われていた妻にようやく授かった、たった1人の娘だったんだ。だからこそ私たちにとって、あの子は何よりの宝で、どんなものより大切な娘だった」


 

 遠くに視線を凝らして独り言のように語り始めた伊藤のその話を、芦田はすでに何度も耳にしている。

 初めてそれを聞いたのは確か、美波との結婚報告で伊藤家を訪れた時だった。

 結婚後も、彼らを訪問する度、いい具合に酒に酔った伊藤から繰り返し聞かされたものだ。


「上総は……そんな娘が残した、たったひとつの忘れ形見。1人きりの私たちの孫なんだ」


 そう、たったひとつの、1人きりの――だ。

 芦田は伊藤のその言葉を、心の中で反芻した。


 

「もちろん君たちは本当の親子なんだし、それが本来の姿だろうが、冷静になって考えてみれば――その、一史君はお世辞にも育児に積極的とは言い難かったし……やはり無理があるんじゃないかと思ったよ」


 遠慮気味にそう口にされた伊藤の言葉に、芦田は無言で頷いた。

 やはり彼らに上総を任せるべきなんだろう。

 義父は何か良い解決策でも考え付いたのかもしれない。

 義両親(かれら)はきっと、上総を呼び戻そうと思っているのだろう、芦田はそう推察した。

  

 何の躊躇もせず義父の胸に飛び込んでいった上総。

 生鮮市場で自分に満面の笑みを浮かべて祖父母宅訪問の礼を述べた上総。

 そしてむくれた顔をして遠慮なく義父に文句を垂れていた上総。


 こちらに来てから見せる上総の様々な姿が次々と思い浮かぶ。

 そのどれもが、これまで芦田が見たことのないものだった。

 そうして次に芦田の脳裏に浮かんだのは、花見のスケッチを興奮気味に説明してみせる上総の表情。

 一番最後に現れたのは、園の迎えに遅れた芦田の顔を悲しそうに見つめながらも、口を真一文字に閉じて文句ひとつ言わなかった息子の姿だった。


「それで、一史君がこの連休にうちを訪ねたいと連絡してきた時には、やはりもう一度上総のことを考え直したいと思ってね」


 やはりそうかと、こちらから切り出す必要がなかったことに胸を撫で下ろす。

 それと同時に何か鈍い痛みのようなものがちくりと胸を掠ったような気がしたが、芦田は気のせいだろうとそれを無視して伊藤の話の先を促した。


「――だけど、君から『ベビーシッターを同行させたい』って話を聞いてから、ひょっとしたら私は何か大事なことを見逃しているのかもしれないと思った」


 伊藤はそこで、窓の外に向けられていた視線を再び芦田に戻す。

 彼のその表情は、もう芦田のよく知る穏やかなそれに戻っていた。


「里緒さんから、いろいろと話を聞かせてもらったよ。上総もよく懐いているし、しっかりとしたお嬢さんだね。思っていたよりも随分若くて少し驚いたけれど」

「ええ、まあ。彼女にはいろいろと助かっています、仕事熱心ですし。ただ、少々お節介なところもありますけどね」

「はは、お節介か――確かに。彼女本人もそんなことを言っていたよ」


 まるで思い出し笑いをするかのように、さも可笑しそうに伊藤の目が細められた。


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