提案
かなり間が空いてしまいました。
予告を裏切ってお待たせしてしまい、すみません<m(__)m>
善は急げ、思い立ったが吉日。
その夜、里緒はいつもより少し早い時間帯に夕食を済ませて上総を寝かし付け、リビングで芦田の帰りを待つことにした。
『私もできるだけ芦田さんときちんとお話をする時間を取ってみます』
そうは言ったものの、あのプライドの高そうな男に何をどうやって話を切り出すべきか。
ダイニングテーブルに頬杖をついて、溜息を吐く。
あの手の保護者は自分の落ち度を指摘されるとカッとなって居直ることが多い。
そうなってしまうとこちらの話に全く耳を傾けてくれなくなってしまうから、少々厄介だ。
園長クラスの経験や力量がある摂子からの忠告ならまだしも、自分より年下でそれも子どもも持たない里緒から説教まがいの話をされれば芦田の事だ、きっと自尊心を傷つけられたと感じて一層気分を悪くするかもしれない。
かといって、この件をスル―してしまうわけにもいかないし、何か良い方法はないだろうかと里緒は思い悩んだ。
保育士時代、里緒が何より苦労したのが一部の口煩い保護者たちとの関わり合いだった。
主に手を焼いたのは所謂“モンスターペアレント”と呼ばれる部類の人たちで、タイプ別に幾つか分類される。
そしてその多くを占めているのが“自己中心型”というやつだった。
このタイプは我が子可愛さに、そして自己都合のために園側に無謀な要求を突き付けてくる。
例を挙げるならば『うちの娘をどうしてもお遊戯会の主役にしてくれ』だとか『明日だけでいいから子どもを早朝6時から預かってくれ』というような、何とも身勝手かつ幼稚なものである。
いい大人が小学生レベル、いや下手をしたら幼児レベルの我儘を当然の権利だとばかりに主張してくるのだから呆れてものが言えない。
しかし聞くところによると、毎日仕事で忙しい保育園ママと比べて時間に余裕がある幼稚園ママたちの口煩さはその比ではないというのだから、これまた驚きものだ。
それでも4年の間、様々なタイプの保護者と接してきて、自分にもある程度その応対スキルが身についたと里緒は思っている。
芦田の場合“自己中心型”に加えて、何でも預け先に押し付けようとする“学校依存型”――今回はシッター依存型とでもいうのだろうか――がミックスされたタイプのようだが、別段そこまで酷いというわけではない。
ただ、保育園の保護者のように何十人、何百人もの集団の中の1人を相手にするのとは勝手が違うため、仕事におけるスタンスが未だ掴めないでいるのだ。
1対1の、それも専属として家庭内に入り込んでいるという立場上、どこまで踏み込むべきかというのは里緒の目下の悩みであった。
――とりあえず、せつこ先生から頼まれたことは伝えないとだよなあ。
物思いにふけっていた里緒の前に芦田が姿を見せたのは、それから小一時間が経った頃だった。
視線が合わさった瞬間、芦田の瞳の奥に戸惑いの色が宿って見えたのは里緒の気のせいだろうか。
「お帰りなさい。お仕事お疲れさまでした」
「……どうも。少し遅くなってしまって申し訳ない」
愛想のかけらもない口調は相変わらず健在だったが、それでも芦田がこうして里緒の事を気遣うような素振りをみせたのはこれが初めてだった。とはいえ、別段気にかけて貰うようなことでもあるまい。
確かに最初の半月ほどは早目の帰宅を心がけていたようだったが、最近はたまに2、3時間残業をしてくることも少なくなかった。
芦田自身、もうすぐ仕事が多忙になると先日宣言していたし、だからこそのベビーシッターではないか。
それに――と、里緒は窓際の壁に視線を移した。
掛け時計の短針が指しているのは9の数字。
決して早いとはいえない時刻だが、この時間帯の帰宅はこれまでにだって幾度かあったはずだ。
「えーと、お疲れのところ申し訳ないんですけど、着替え終わりましたら少しだけお時間よろしいですか」
芦田の態度を怪訝に思いながらも少し控えめにそう尋ねると、目の前の男は今度こそ心底嫌そうな顔をしてみせた。
里緒の頭の中は、ますます疑問符だらけになる。
「あのう、無理なら明日でもいいんですけど」
「……いや、大丈夫です。着替えてきます」
理由はわからないが、明らかにいつもと様子が違う。
この調子できちんと話し合いはできるだろうかと、そそくさと自室に向かう芦田の後ろ姿を見ながら里緒は少し心配になる。
とりあえずコーヒーでも飲めば、気持ちが落ち着くかもしれない。
この時間帯ならおそらく夕食を済ませているだろう。
これまでの経験からそう推測すると、キッチンの棚から芦田が一番愛飲しているコーヒー豆を取り出した。
コーヒーメーカーがコポコポと音を立て始めた頃に、スラックス姿の芦田が降りてきた。
食事の必要がないことを確認し、2人分のコーヒーをトレーに乗せて運ぶ。
お互いが席に着くと里緒はコホンと一つ咳払いをして口を開いた。
「今朝、お迎えの件について担任の先生から聞きまして」
当回しに話をして上手く立ち回る自信がなかった里緒は、ストレートにそう切り出した。
すると正面に座っている芦田の視線が、明らかに不自然な動きで彷徨いはじめる。
ますます怪しいその態度に、里緒はなぜだか懐かしいような気持ちになった。
保育現場で働いていた頃、芦田のこの様子によく似た園児たちの姿をそれこそ毎日のように目にしていたことが思い出される。
にじ組で一番手を焼かされた草太は、園でも有名な保育士泣かせの園児だった。
毎日飽きもせずに次々と悪戯を繰り返しては先生に叱られそうになると、こんな風に視線を右往左往させて挙動不審な態度を見せていたものだ。
その度に『先生の目を見てごらん』と辛抱強く彼に諭し聞かせたのが、今となっては懐かしい。
正直この男性には反省という文字を端から期待していなかったのだが、ひょっとして彼は昨日の件について、意外にも自分の行動に後ろめたさを感じているのだろうか。
そう思った途端、このバツの悪そうな表情をしている目の前の成人男性が5歳児の子どものように見え、何だか少し可愛らしく思えてきた。
口元が緩みそうになるのを必死で押さえながら、できるだけ自然な口調で最低限必要とされる言葉を口にする。
「私にも報告して下さいね、今回みたいなことがあった場合。上総くんの様子がおかしい理由とか、前もって知っておいた方がよいので」
「…… 」
「それから先生と少しお話したんですけど。もう少し保育園のことや、園での上総くんの様子に関心を持っていただきたいって言ってました」
里緒としてはこの上ないほどさらりと口にしたつもりだったが、芦田の顔つきはますます苦々しいものになった。
お小言ならばもう結構、これ以上は真っ平御免だとその表情からは、はっきりとその心情が読み取れる。珍しく彼の心の中が丸見えだ。
里緒はこれ以上言及するのは逆効果だろうと判断し、この件を早々と切り上げることにした。
「それはそうと、芦田さんゴールデンウィークのご予定はもう埋まってます?」
「は?」
暫くの間押し黙っていた芦田だったが、この質問は予期せぬものだっただけに流石に早い反応を見せた。
「ゴールデンウィークです。お仕事は出勤されます? 上総くんとお出かけの予定は?」
再び『は?』と繰り返しそうになるその前に、芦田はようやく質問の意図に気がついた。
自分の予定が彼女の仕事に直結してくるのだから、事前確認は当然のことだろう。
とりあえず迎えが遅れた件から話題が逸れてくれたことにほっとして、芦田は間近に迫った大型連休のスケジュールを思い浮かべた。
「あー……半ばに1日だけ出勤します、基本カレンダー通りなんで。休日の予定は特に今のところ決めていませんが」
「それじゃあ、奥様のご両親を訪ねませんか?」
度重なるちぐはぐとした質問に釈然としない気持ちを隠さない芦田に、里緒は先ほど思い付いたばかりのプランを説明し始める。
「上総くんはおじいちゃん達に会いたいでしょうし、あちらのお父様はお仕事がお休みなら上総くんが滞在しても問題ないでしょう? お二人だってきっと上総くんに会うことを喜んでくれるんじゃないでしょうか」
「いや、ちょっと待って。なんで急にそんな話に……」
「ダメでしょうか? お休み中どこかへ遊びに行ったとしても芦田さんだってきっと大変ですよ、デパートの時みたいに」
確かにあの日はかなり体力を消耗した上、息子と逸れてこの女性の世話になったのだった。
里緒からあの話を持ち出されてしまうと芦田の分が悪い。
けれど彼女の言うように、ゴールデンウィークともなると、どこもデパートでの人混みなど比ではないだろう。
そんな時に家族が集まりそうな場にのこのこと出かけていけば、先月の二の舞どころではないかもしれない。
そう考えると里緒の提案はかなり理に適ったものであった。
「そうですね、言われて見ればそちらの言う通りだ。義父に連絡して都合のつくようだったらそうします」
「よかった!それでは―――」
途端に満面の笑顔になった里緒の次の発言に、芦田はこれまた仰天した。