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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
16/29

遅刻

更新後すぐに、さらっと手直ししました。

アップ直後に読まれた方は、読み返していただけると嬉しいです。

 今日は、最低の一日だった。

 芦田は戸棚から取り出したウイスキーをグラスに注ぎ込み、ソファの上にどっかりと座りこんだ。

 



 電話を受けた時は焦ってしまったが、よくよく考えてみれば保育園というのは働く親が子どもを預けるための場所である。仕事が押してしまって迎えが遅れることなど、きっと日常茶飯事だろう。

 それも自分は常習犯ではなく、これが初めての事だ。

 連絡を入れなかったのは少々不味かったが、父子家庭でうちが大変なことは保育園側だって承知しているのだし、さっきあれほど謝ったのだから大目に見てくれるはずだ。

 電車に揺られながら芦田は自分に都合のいようにそう結論付ける。

 そしてその上、今回自分の忙しさをアピールしておけば今後何かあった際にも都合がいいだろうと思案する芦田の心の中には、反省の欠片ひとつさえ存在していなかった。



 結果として、約束の時間から遅れること50分。

 ようやく保育園に到着した芦田が悠々と上総の教室へ向かうと、室内にはまだ新人とみられる若い保育士が一人、清掃をしていた。

 ノックをして上総の居場所を尋ねると、延長保育は別の教室なのだと教えられ、身を翻したところで「あのう」という躊躇いがちな声に引きとめられる。


「その、口紅が……落としてからお迎えに行った方がいいかと」


 突如、脳裏に高笑いをする翠が現れ、芦田は瞬時のうちにそれを頭の中から抹殺した。

 代わりに収まっていたはずの腹立だしさが一気にぶり返す。

 ――あの、クソ女っ!!

 本日2度目の心の中の罵倒である。

 ボキャブラリーのなさは否めない。

 きっと自分が園を出た途端、あの若い保育士は面白おかしく自分のことを吹聴するのだろう。

 芦田は世の中の女と名前のつく全ての生き物がこの世から抹殺されればいい、と一瞬本気でそう思った。

 唇に付着している紅を乱暴に拭い去ると子ども用トイレの鏡で確認し、芦田は今度こそ上総のいる教室へと向かった。



「芦田さん。連絡はしないわ、1時間近く遅れるわでは困ります。上総くん、お腹をすかせて待っていたんですよ」


 用意していた言い訳の台詞を紡ぐ暇も与えられず、摂子から先制攻撃を食らった芦田は、その迫力に押されるように「はい、申し訳ありません」としか口にすることができなかった。

 芦田の到着を今か今かと待ち構えていた担任保育士の攻撃は、その後もさらに続く。


「ご家庭のご事情はわかります。ですが、お迎えの時間が難しいのであれば事前に言っていただくとか、ベビーシッターさんにお願いするとか、いろいろやりようはあるでしょう。入園一ヶ月のうちから、それもお父さんのお迎えは今日でまだ2回目だっていうのに、こんな調子では困ります。上総くん、お父さんがお迎えになかなか来ずに、沈んでしまって……」



 結局、芦田はこってりと絞られることになった。


「――とにかく。このようなことは今回限りにして下さいね」 

「はい、本当に申し訳ありませんでした。今後はこのようなことがないように必ず気をつけますので」 


 芦田はとにかくペコペコと頭を下げ、謝罪の言葉を何度も口にした。

 最近では仕事でだってこんなに頭を下げやしない。

 ――なんで自分がこんなおばさんに、ここまで責め立てられなきゃならないんだ!

 心の中ではそう思いつつ、申し訳なさそうな表情を崩さないことに注意を払っていた芦田は、ろくに摂子の言うことなど聞いてはいなかった。


 散々お灸を据えられて逃げるように保育園を後にすると、芦田はその足でファミリーレストランに立ち寄り上総と2人、遅い夕食をとった。

 2週間前は、なかなか機会のない外食に目を輝かせていた上総だったが、今日はしょんぼりとした表情で食欲もない。昨日の様子とは大違いだ。

 結局、半分以上残されたお子様用のハンバーグカレーは芦田が平らげることとなり、終始無言の夕食を済ませた親子は、これまた会話のないまま自宅に辿り着いたのだった。




 ――今日の上総、いつにも増して無口だったな。

 アルコールを口にしながら、芦田はぼんやりと考え込む。



 教室に顔を見せた父親を視界にとらえると、上総は一瞬泣きそうな顔をして、それからまた元の無表情に戻った。


 

「今日は悪かったな。……その、仕事が忙しくてなかなか抜けられなかったんだ」


 帰り際、そんな誠実さのかけらもない嘘に塗れた謝罪を吐いた父親に対し、上総は無言のまま頷くだけだった。

 元々口先だけの詫び文句ならば得意とするものの、真剣に人に謝るという行為を苦手としていた芦田はそれ以上の謝りの言葉を口にすることなく、その後の上総との会話も続かぬまま、ただ気まずい思いで居た堪れなかった。


 ――あそこであいつの誘いに乗ったのは大きな間違いだった。 

 確かに翠の話は有益な情報だったが、用事のあった今日に無理に話を聞かずとも、別の日程を組めばよかったのだ。

 しかし、たかだか遅刻のひとつぐらいで、あそこまで言われるとは思ってもみなかったのだ。

 地域密着型の保育園に、どこぞの高級ホテルと同等のサービスを求める芦田は、今回の園の対応にまるきり納得がいかなかった。 

 何よりあのベビーシッターの忠告を無視した結果がこの事態を招いたということが気に食わない。

 昨夜の生意気な態度といい今回のことといい、どうにも胸糞が悪くてしようがなかった。


『あなたのところのベビーシッターさんね、とてもしっかりされている方よ。まだお若いのにこちらも学ぶことがあるくらい。頼りになるからといって人任せにしてしまうと、彼女がいないときに芦田さんが一番困ると思うの。大変だと思うけれど頑張って下さいね』

 説教を食らった直後に、あの保育士に言われた言葉を思い返す。


 確かに人任せにし過ぎているという自覚は芦田にも多少なりとあった。

 仕事にかまけてあまり気にしていなかったが、大概の事はこちらが気づく前に、先回りして里緒が対応してくれている。毎日の洗濯や芦田の分の食事などは、契約には一切含まれていなかったはずだ。

 しかし芦田が頼み込んだわけでもない、「自分の分もついでにここでやっちゃいますから」といって進んで家事までこなしているのは彼女の方なのだ、それを受け入れて何が悪い。

 少々心が揺れたものの、芦田は最終的にそう開き直った。


 だいたいにして、大きな組織で働くということがどういうことなのか、小さな世界に留まっている種の人間たちには到底理解できまい。

 それだから、ああしてピーチクパーチク“子どもが、子どもが”と騒ぎ立てるのだ。

 その子どもの養育費を稼いでいるのは世の父親たちだという事実を、彼女たちは忘れているのではなかろうか。

 少し気分を持ち直した芦田はグラスの中の氷を追加しようとキッチンの方角に視線を向けて、ダイニングテーブルの上にぽつんと置かれている一冊のノートの存在に気がついた。

 里緒が上総の成長ノート兼、芦田への連絡帳として使用しているものだ。

 そういえば昨日、あんな風に自室に引き上げてしまったものだから、昨日の分をまだ読んでいなかった。そう思って芦田は“連絡ノート”と書かれたその本を手に取った。

 再びソファに身体を沈ませて、文章が書かれている最後のページを探す。



 4月12日 火曜日。


 ――これだ。 



 保育園:朝から調子がよく、普段より明るかったとのこと。

     お部屋で音楽をかけて皆でダンスをしたそうです。

     お便りなし。

 11:30お迎え――児童公園にてお花見(妹母子:姪2歳)


 ※初の早お迎えに珍しく大はしゃぎ。先生もびっくりでした。

 ※初対面のため緊張するも、ランチは食欲旺盛。ハンバーグやおにぎり等

 ※姪がかずさくんと同じお気に入り絵本をもっており、一緒なのが嬉しかったのか、いつになくテンションが高く、仲良く2人で絵本を読んでいました。


 いつものように保育園の様子とそれから花見について、簡潔ではあるものの上総の心情が的確に捉えられている。

 通常だと家で何をして過ごしたかがその後に続くのだが、昨夜は芦田の帰宅が早かったためか特に記載されていなかった。

 芦田はそれを読み終えると、ページの一番下に書かれている文面に焦点を合わせ、大きく表情を変えた。



 今日はかずさくんにとって、とてもよい1日になったと思います。

 早お迎えやお花見ももちろんですが、今日一番うれしかったことはパパとたくさんお話ができたことだと思います。

 お父さんの存在は、それだけ大きいんですね。

 お仕事は多忙だと思いますが、出来る限り今日のようなコミュニケーションをとっていただけると、かずさくんもきっと喜ぶと思います。

 明日はお迎えをよろしくお願いします、時間は19:30です。

 本日もお仕事お疲れさまでした。



 少し線の細い丁寧な字で“若宮”と締められているその文章を最後まで辿ると、芦田はしばらくの間、開いたページに書かれた文字を睨みつけ、額に手をやった。

 サイドテーブルに置かれたグラスに手を伸ばすと解け残った氷がひとつ、からりと音を立てる。

 芦田は低い唸り声をあげると、グラスに残った琥珀色の液体を一気に飲み干した。





 ♢ ♢ ♢


 翌朝はいつも通り7時前には里緒がやってきて、これまた普段同様、芦田がまともに彼女と顔を合わせた時間はほんの5分にも満たなかった。

 芦田がダイニングに顔を出すのは上総と顔を合わせて取る朝食の間だけだし、里緒はその時間帯、洗濯物やら自分の身支度やら色々とやることがあり、齷齪(あくせく)と家の中を動き回っているのだ。

 無論のことながら先日の大人げない態度を弁解する暇もなく、芦田は慌ただしく家を出発した。

 たとえ時間があったとしても、謝罪のひとつも出来なかったであろうが。


 里緒はそんな芦田の様子は気にも留めなかったのだが、しかし反対に上総の落ち込みようが酷く気に掛かった。

 一昨日前はあんなにもご機嫌な調子だったのに、昨日保育園で何か特別嫌なことでもあったのだろうか。

 朝の日課である「今日は何かありますか」という里緒のお決まりの台詞に対し、今朝の芦田は特には何も言っていなかった。

 普段に比べて多少苦々しい表情だったような気はしないでもなかったが、元々仏頂面をしていることが多い芦田のことだ、一々気にしていたらきりがない。

 今日は早目に出発して何か変わったことがなかったか保育園で聞いてみよう。

 そう思った里緒は手早く全ての準備を済ませ、いつもより少し早い時刻に家を出た。



「え? お父さんから何も聞いてないんですか」


 驚きで目を丸くして――というより、唖然とした摂子の様子に、里緒は眉根を寄せた。


 

「やっぱり、昨日保育園で何かあったんですか」

「ええ。実はお父さんが、こちらに連絡を入れないままお迎えの時間にこられなくてね――」


 眉を顰めると摂子は芦田の迎えが1時間近く遅れたこと、そのため上総がとても不安になり泣き出しそうな表情をしていたこと等をつぶさに語ってみせた。 

 本来であれば一介のベビーシッターにそこまで話をするべきではないのだが、何せ保護者である芦田本人が、上総に関することは全面的に里緒に信頼を寄せるので保護者代わりだと思って彼女に何でも話して欲しい、と保育園側にそう頼んであったのだ。

 どう見ても父親の芦田よりも里緒に心を寄せているように思われる上総の姿を見て、口にこそ出さないものの、これじゃあ一体どちらが本当の保護者なのかわかったものじゃないと園の保育士たちは皆そう思っていた。

 そのせいだろうか、摂子の説明にも自然と力が入る。


「話はしてみたんですけど、頭を下げるばかりでこちらの言うことをしっかりと聞いて下さっていたのかどうか心配で」

「……そうでしたか」


 摂子から事の顛末を聞かされて、里緒は芦田の行動に呆れるやら上総が不憫に思えるやら、複雑な気持ちになった。


    

「シッターさんにこう言うのも何だけど。あなたからもできるだけお父さんご本人にもう少し園のことに介入してもらえないか打診してみてくれないかしら、立場的に難しいのかもしれませんけど。芦田さんが園に来られる機会が増えれば私たちも何かしら対応できると思うの」


 芦田親子の家庭事情や里緒が元保育士であったこともあって他の保護者に比べると話をする機会が多いせいか、この1ヶ月の間に、この主任保育士とはずいぶん打ち解けた間柄になっていた。

 それだからこそ彼女は里緒にこうして、少し突っ込んだ提案をしてきた。

 どちらもお金を頂戴して人様の子どもを預かるといった面では同じ立場、同じ気持ちであり、ともに上総のことを心配する者同士なのだ。


「はい。私もできるだけ芦田さんときちんとお話をする時間を取ってみます」


 里緒は改めて、上総の担任であるこの保育士の存在を心強く感じた。


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