寄り道
ちょっと長いです。
翌日は、午後のシッター業が休みの日だった。
隔週の水曜日は、芦田が保育園の迎えをすることになっている。
というのも、その月2度は、里緒が副業の仕事で夜の部クラスを受け持っていること。それからノー残業デーで、芦田が仕事を早く切り上げることができるためだ。
仕事帰りに保育園に寄るとなると、さすがに普段の時間帯には間に合わないため、園には前もって19時半までの延長保育を依頼してあった。
終業を知らせるチャイムが鳴り、芦田は席を立った。
上総を園に迎えに行くのは今日で2回目だ。
会社から園までは正味1時間弱といったところなので随分余裕はあるが、一旦仕事に取り掛かると長い時間没頭してしまう自分の性格を芦田はよく知っていた。
夕食は毎回ファミリーレストランでとることになっているし、特にこれといった用事もない。
のんびりといくか、と芦田は普段よりゆったりとした足どりでエレベーターに向かった。
「芦田くん」
玄関口で、呼び止められる。
振り向くと、後方に営業課の佐伯翠の姿があった。
彼女は広報・企画を目指して入社した芦田や佐倉と違って営業職に腰を据えており、芦田の異動後はなかなか顔を合わせる機会がなかった。
久しぶりに見た彼女の姿は以前と変わりなく、相変わらず派手ないでたちだ。
「佐伯、久しぶりだな。今帰りか?」
「まさか。ノー残業デーで会社に居づらいからとりあえず出てきたの。8時からO社の接待よ」
会話を続けながら肩を並べて駅へと向かう。
ざっくりとレイヤーが入った大人のショートボブスタイルの彼女は、今日は春らしくホワイトパールのパンツスーツを身に纏っており、鮮やかなルージュが一際目を引く。
相変わらず芦田には理解できないような高さのヒールを履きながらも、颯爽と歩くその姿は不安定なところが何ひとつなかった。
あんなヒールでよく営業が務まるなと言いたいところだが、仕事に関してはきっちりと結果を出している彼女にそれを口にするのはかえって藪蛇だ。
「そちらは今日上がり? 珍しく早いわね。何か用事でもあるの?」
「まあな。急ぐわけでもないけど」
「そう。それじゃちょっと付き合ってくれない? 接待までの時間潰し。奢るわよ」
普段だったらこの手の誘いは面倒で、誰かれ構わず断るところだが、このタイミングはちょうど良かった。先日佐倉から聞いた営業部長の栄転の話が本当かどうか、営業課の人間に聞いてみようと思っていたのだ。
部長には妻が亡くなった頃、かなり便宜を図ってもらった記憶がある。
当時世話になったぶん、ここは礼がてら祝いの品のひとつでも贈っておくべきだろう。
そう思って誘いを受けようと決めた芦田の脳裏に、里緒の言葉がちらついた。
『お迎え時間は厳守です。保育士さんだって困りますし、何しろ子どもは時間内にお迎えが来ないと不安になるんです。たとえそれが5分や10分の遅れでも』
契約について話し合いをした際に彼女から、そうきつく言われたことがあったのだ。
普段は穏やかで大概の事は笑って受け入れてくれる彼女だが、上総に影響を及ぼすことに関しては驚くほど自分の主張を譲らない。
上総にとっては最高のベビーシッターかもしれないが、芦田にしてみたら少々厄介だと思うところもあった。
「話したいこともあるのよ。知ってる? 例のCM制作の件」
“CM制作”という言葉に、芦田の目の色が変わる。
翠は一介の営業社員とはいえ、その美貌と知能を武器にして上層部から自分の利益になる情報を聞き出すこともあり、社内では非常に上手く立ち回る。
今回の新プロジェクトに関しても、何か新たな情報を知っているかもしれない。
「息子の迎えにいかなきゃならないんだ。時間はあまりとれないが、いいか?」
「……OK。じゃあお茶でもしましょ」
翠はにっこりと微笑むと芦田の腕を取り、ごく自然な仕草で自分の腕を絡ませ寄りそった。
電車を降りて5分ほど歩いたところでちょっとレトロな昔ならではの喫茶店に到着する。
扉を押すとコーヒーのよい香りが店中に充満していた。
「おい、本当に日暮里でいいのか。俺は帰る方面だからいいけどおまえ接待だろ、今日」
「大丈夫。得意先の渡部さん、覚えてる? 奥さんがこの近くのキルトショップ贔屓にしてるのよね」
「ふーん、手土産買うために寄ったわけか。さすが女性の目だな、キルトじゃ男はさっぱりだよ」
当時、芦田や佐倉の営業の腕は飛び抜けたものがあったが、翠もなかなか負けてはいなかった。
女性特有の視点や女の武器も上手い具合に駆使して成績を伸ばし、今では男性社員からも一目置かれる存在だ。
何しろ翠は入社して数年で子会社から、言わば引き抜きのような形でこの本社にやってきたのだ。
その裏には高級ホステスまがいの手法で上層部から口添えをしてもらったという薄暗い経緯こそあったが、それに匹敵する実力を十分兼ね備えているため、女の武器しか使えない蔭口だけが取り柄のそこらの女狐たちとはまるで土台が違っていた。
のし上がったからには営業課一本でやっていくつもりなのだ。
平気な顔して上司とやり合う上、非常に頭の切れる女で、芦田は一緒にタッグを組んで難関不落といわれていた某大企業との間で大きな契約を勝ち取ったこともあった。
「ところで、さっき話してたCM制作の件、何か新しい情報でもあるのか」
息子の迎えが迫っていることもあり、必要なことはさっさと済ませたい。
芦田はさっそく本題に入った。
「まあね、いろいろと。話してあげてもいいけどその前に、私の質問にも答えてくれない?」
モカ・マタリをゆっくりと口に運ぶと、翠は意味ありげに微笑んでみせた。
それを見て、芦田は心の中で思い切り舌打ちをする。
翠とは単なる同僚ではない。いわゆる男女の間柄だ。
妻の美波が亡くなってからというもの、芦田は荒れに荒れた。
あの頃は何も考えたくなくて、仕事にがむしゃらな毎日だった。
家に帰って一人きりでじっとしているのが耐えられず、空いた時間があれば同僚と飲みに行っては潰れるまで飲み明かす、そんな日々を繰り返していた。
その同僚のうちの1人だった翠と偶然2人きりになり、意識を失うまで潰れてしまってそのままベッドインしたのは、妻の死から1ヵ月が経った頃だった。
その後も気が向いたときには幾度か関係をもったが、彼女自身交際している相手がいたし、お互いに割り切った関係だった。
そんなことが2年ほど続いたが、芦田の異動後はバタバタしていたこともあって自然と連絡もとらなくなっていた。
それが今日は偶然にも帰り際に鉢合わせ、そして何を企んでいるのかどうしても芦田と話がしたいらしい。
「……手短に。何が聞きたい」
「息子さんのお迎えって、奥さんの実家にいるんじゃなかったの?」
――人のプライベートを探って一体何が目的なんだ、この女。
芦田は眉間に思い切り皺を寄せた。
過去付き合いのあった2年間、翠は一度だって芦田のプライベートに首を突っ込んできたことはなかった。
だからこそあの関係は続いたのだ。
「一体どういうつもりだ」
芦田の声が自然と低くなる。
「ふふ、そんな怖い顔しないで。ただの純粋な興味からよ」
「それなら答える義務はない。不愉快だ」
「あら、そう。こっちは例の件、大きな動きを見せているの聞いちゃったんだけどなぁ。あなた候補に挙げられてたんですってね。けど、お偉いさん方も大変みたいよ。メンバーの再選出にも手こずっているらしいし」
ぴくりと芦田の片眉が上がり、彼を纏っている不機嫌なオーラが途端に色濃くなる。
苛立った態度を隠そうともせず、芦田は煙草を口にくわえてライターを取り出した。
翠はそんな芦田にちらりと視線を送ると、化粧ポーチから手鏡を取り出して口元をチェックする。
「ちょっとお化粧直ししてくるわ。もし何か聞きたいんだったら1つに対してそっちも1つ質問に答えてもらうから」
そう言って席を立った翠が自分の視界から消えたところで芦田は、苛立ちを分散させるために煙草に火をつけた。
そして大きく息をひとつ吐くと、何とか気持ちを冷静に保った。
芦田は喫茶店とはいえ、こんな風に女性と二人でテーブルを囲むことなど仕事以外ではしない。
はっきりいって面倒だからだ。
女という生き物は、どうだっていいくだらない事を粘着質のアメーバみたいに聞きたがる。
『お茶しない?』だなんて言って、その目的は飲み物ではなく井戸端会議にこと他ならないのだ。
店長の迷惑も考えず、コーヒー一杯で平気で何時間も居座る彼女らのあの厚顔無恥で図太い根性を、なぜ仕事に生かそうとしないのだろうか。
世の女性たちが一体何を考えているのか、芦田にはさっぱり理解できない。
そして、これっぽっちも理解したいと思わなかった。
翠は普段からそういった女性特有の性質が見られず、男みたいに付き合えると思っていたが、どうやらそれはお門違いだったらしい。
それにしたって、今日の翠の態度は癪に障ってしょうがない。
普段ならばあんなことを言われて黙っちゃいないところなのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。
芦田にとってこのチャンスは、何に変えても勝ち取りたいほど価値のあるものなのだ。
化粧室から翠が戻ってくると、芦田は矢も盾も堪らず質問を突き付けた。
「それで、メンバーの再選出ってどういうことだ。何か動きに変化があったってことなのか」
「以前までの顧客とのトラブルが思った以上に長引いているらしいのよ。うちに声が掛ってることには変わりないんだけど、プロジェクトのスタート時期によってはメンバー変更が必要になってくるじゃない。他にも業務はあるわけだし」
「なるほど、取りかかり時期の遅れで当初とメンバー変更があるってわけか。で、今の段階ではいつ頃に召集がかかる予定だ?」
「ストップ。質問は1つずつ、次は私の番よ。息子さんのお迎えって……最近さっさと仕事終えて帰ってるみたいだけど、それと何か関係があるわけ?」
話の流れに乗ったままこのまま詰問を続けようと思ったが、案の定翠にこの手は通用しないようだ。
それにしてもこの女、自分の帰社時間まで把握しているとは本当にどういうつもりなんだ、と芦田は眉間に寄った皺を更に深いものにした。
「息子を引き取ることになった。召集はいつ頃だ?」
余計なことは口にするまい。
最低限度の情報だけ与えると、すかさず質問を返す。
翠は明らかに驚いた表情を見せると、先ほど自分が発した言動も忘れて芦田に畳み掛けた。
「引き取るですって? 一体どういう理由で――あなた、まさか再婚でもする気?」
「佐伯、召集はいつだ」
「……今のところ3ヶ月後くらいになりそうよ。メンバーが確定するのは再来月くらい。どちらも正確な時期は未定だけれど。そっちはどうなの?」
「身内の都合上だ。俺が選ばれる可能性は?」
これ以上プライベートに踏み込まれるのはうんざりだ。
翠のいかにも興味津々といった態度を目の当たりにして芦田の苛々は最高潮に達しようとしていた。
それをぐっと抑えて最後に一番聞きたかったことを問う。
「正直難しいわね。あなたが選ばれた理由って、ちょうど上手い具合に手が空いてたからっていうのが大きかったもの。でなきゃ製作課にまだ1年しか在籍していないのに声が掛るわけないでしょ」
翠の歯に衣着せぬ物言いに、さすがの芦田もグッと唸った。
確かに、数ヶ月前から担当していた中規模な企画が半月ほど前にお蔵入りとなり、芦田の仕事量はぐんと減った。
本来ならばすぐさま別業務に充てられるはずだったのだが、ちょうど時期的に上総のことが重なったため上司から、それなら落ち着くまでの間、空いた分はプライベートに費やせとお達しがあったのだ。
もしかしたら新プロジェクトの件を見越してのことだったのかもしれない。
せっかく掴んだ大きなチャンスが目の前から逃げていく。
芦田の頭の中が真っ黒になった。
「……けど。手がないわけじゃないわよ」
翠のその言葉にハッとする。
「もちろん、私の色目で上層部にお願いするわけじゃないわよ。そんなんじゃ、あなたのプライド丸つぶれだし」
それは当然だ、言うまでもない。
いくらチャンスだからといって、実力も認めてもらえぬまま女の力でプロジェクトに参加するなど、芦田のプライドが許すはずもない。さすがにそこら辺のことは、翠とてわかっている。
「……どういうことだ」
とそこで、芦田はスーツの内ポケットが振動していることに気がついた。
フラップを開き液晶画面を確認して、しまったという顔つきになる。
上総の通う保育園からだ。
慌てて時刻を確認すると、迎えの時間から15分ほど経過していた。
通話ボタンを押しながら、勢いよく店の外に飛び出す。
「はい、芦田です。申し訳ありませんっ」
「さくら保育園の奥田です、上総くんのお父様ですね。お迎えの時間は厳守でないと困ります。あとどれくらいで来られます?」
結構な年齢のいった保育士なのだろう。
第一声から畳み掛けるような声に、無遠慮な印象を受ける。
とはいえ、この場合当然だろう。
芦田はとにかく下手に出て嘘っぱちのいい訳を紡いだ。
「申し訳ありません、仕事が長引いてしまって。あと30分ほどかかってしまうのですが……」
「30分って……わかりました。できるだけ急いでください。上総くんも不安になるでしょうから」
「はい、本当にご迷惑おかけします」
通話終了を意味する電子音が聞こえたと同時に、「くそっ」という声が漏れた。
プロジェクトのことで頭がいっぱいで、迎えのことをすっかり失念していた。
とにかく急いで保育園に向かわなくては。
芦田は店に置きっぱなしの鞄を取りに戻るために方向転換をした。
するとチリンと扉に掛ったベルが鳴り、芦田の鞄を手にした翠が店外に現れた。
そして腕の中のそれを芦田に手渡すと芦田の首にするりと腕を絡め、そのまま顔を寄せる。
「さっきの話はまた次の機会に。息子さんのお迎え、急いだ方がいいわよ」
そう囁く声が聞こえたと同時に、唇が重なった。
――このクソ女っ!!
唇が触れた瞬間、手加減なしの力で翠を振りほどくと、芦田は一目散に駅に向かって走り出した。
※些細なことですが辻褄を合せるため『同僚』をほんの少し改稿しました。
活動報告での予告通り、恋愛要素を入れてみました。
あれ? 相手役が里緒じゃない……。
失礼いたしました。