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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
14/29

キャッチボール

「お帰りなさい」


 予定されていた打ち合わせがなくなって比較的早い時間に帰宅した芦田は、自宅のドアを開けたが早いか息子から、熱烈とまではいかないものの、いつにない歓迎を受けた。

 普段から起きているときはこうして玄関まで出迎えてはくれるのだが、今日のように息を切らせ、いかにも“心待ちにしていました”とばかりの笑顔付きだったことは未だかつてない。

 代わりにいつもなら無言でモジモジしながら自分を迎える上総の隣で「ほら、お帰りなさいは?」と彼を優しく促すベビーシッターの姿が見当たらなかった。


「ただいま、上総。若宮さんは?」


 あっち、と扉の向こうを指差すと、何だかご機嫌な様子で自ら芦田の手を掴んで先導する。

 こんなことをされるのも全く初めてのことで、一体どうしたことかと芦田の心は妙にざわついた。

 こんな風に息子に積極的に慕われることは経験上殆どなく、すごく変な感じだ。

 母親のいない子どもにとって“父親”という存在が大きなものであろうことは理解しているものの、いつもどこか遠慮した素振りを見せているこの息子が自分を心の底から慕っているとは正直思えない。

 芦田自身もそうだが、いや、自分のせいだろうか、きっと上手く父親に甘えることができないのだ。

 そうはいったところで、実際積極的に甘えてこられたとしても正直上手く対応できる自信は芦田にはなかったが。


「あ、お帰りなさい。お仕事お疲れさまでした」


 いつもと変わらない様子で自分を(ねぎら)う里緒を見て、芦田は少し気持ちが落ち着いた気がした。

 テーブルを見遣(みや)ると、どうやら食事の支度の最中らしく、自分がめずらしく夕食の時間に間に合ったことを知る。

 3人で食卓を囲むのは、この生活が始まってからこれで2度目だ。

 上総はそれで喜んでいるのだろうか、と芦田は首を捻った。


「夕食を一緒にするの、久しぶりですね。今日は話すことが沢山あるのでちょうど良かったです」


 普段は帰宅すると先ずその日の様子の報告を聞き、夕食を外で済ませていない場合は里緒の好意で食卓の準備だけしてもらう。

 そうしてすぐに彼女は帰宅するため、共にする時間はせいぜい20分というところだ。

 今日は一緒に夕飯を取るので、もう少し長い滞在となるだろう。

 芦田は自室で手早く着替えを済ませると、リビングのソファにちょこんと座っている上総をちらりと見た。


 

「朝お伝えしておいたように、今日はお昼からお花見に行ってきたんです、妹たちも一緒に。上総くんかなり楽しんでくれたみたいで。話聞いてあげてくださいね」


 すぐさまキッチンから里緒の声が掛る。

 これは、親子のコミュニケーションを図れといっているのだろうか。

 芦田はのっそりと上総に近づいた。

 里緒のいない親子2人きりでの時間は、まだお互いがこの生活に慣れていないせいもあってか正直ろくなコミュニケーションがとれていない。

 元々かどうかはわからないが現在の上総は口数が少ないし、芦田は子どもと何を話したらいいのかわからないしで、『飯食うぞ』だとか『もう寝なさい』だとか、生活するのに必要最低限と思われる会話しか交わしていない気がする。

 むしろ里緒と3人でいる時間の方が、彼女が2人に話を振ってくるぶん口数が増えるというものだ。

 今日は上総の態度が普段より柔和なため、芦田もほんの少し息子に歩み寄ることにした。

 めずらしく隣の席に座ってみる。

 『どうした?』という表情を上総に向けると、少し興奮気味の息子は抱きしめていたスケッチブックをパラパラと開き、大きな桜の木が描かれているページを嬉しそうに見せてきた。


「今日の花見の絵か?」


 一般的に4歳児がどんな程度の絵を描くものなのか自分にはさっぱりわからないが、それでも上総の絵は意外と上手な部類に入るんじゃないかと芦田は思う。

 ただ、桜の木が茶色とピンク色で描かれている他は、全て黒色で描写されているのが気になったが、子どもの描く絵は、普通そんなものなのだろうか。


 

「上手く描けてるな。これは誰だ?」

「かずさ」

「これは?」

「あいちゃん。……ご本持ってるのがりおちゃんで、これはあいちゃんママ」


 指を差してすらすらと説明する上総は、いつもに比べるとかなり饒舌だ。

 これには芦田も少し驚いた。

 暫く考えて、今度は別の質問をしてみる。 


「これ、何してるんだ?」

「お弁当食べて、ブラウンベアー読んでる」

「ブラウンベアー?」

「今お気に入りの絵本です。今度一緒に読んであげてください」


 はて、と首を傾げた芦田にすかさずキッチンからフォローの声が入る。

 ふぅんと相槌を打つと、普段里緒が上総に質問をしている様子を思い出しながら「お弁当何がおいしかったんだ」「あいちゃんって誰だ」などと、さして興味のない問いかけを何とか試みてみた。

 すると上総から「おにぎりとハンバーグ」だとか「えーと、お友達」だなんて返事が返ってきて、芦田はスムーズな親子の会話が出来ている自分に、これまた驚いた。

 ――これが俗に言う、言葉のキャッチボールというものか。

 やはりあまり自分には向いていないなと思いつつ、普段の自分からは想像もできない会話内容であることに思わず苦笑する。

 続けて2、3質問をして会話を続けるもネタ切れになり、途端にお互い無言となってしまった。

 その微妙な空気に耐えきれず、芦田は思わずソファから立ち上がろうとする。

 とその瞬間、タイミングを計ったかのように「ご飯できましたよ」と里緒から声が掛かって、芦田はようやくほっと息をついたのだった。





 ♢ ♢ ♢


「亜衣はね、お野菜が大っ嫌いなの。なのに気付かないで美味しそうにハンバーグ食べてたでしょ。このこと亜衣には内緒だよ」


 夕食を食べながら、上総に例のミニハンバーグのネタばらしをする。

 以前自分も似たような手口でグリンピースを食べさせられたことも忘れ、上総はその話に声を立てて笑って見せた。

 そんな上総の姿を見た里緒は、『梓、亜衣、グッジョブ!』と2人に感謝した。

 そして興味がないような顔をしてその話を聞きながら昼の残りのそれを口にしていた芦田が、実は心の中でこっそり、『野菜の味が全くしない……』などと感心していたことは、笑い声を立てている2人には知る由もなかった。


 

「その点、上総くんは好き嫌いは殆どしないし何でも食べるから偉いね。グリンピースも食べられるようになってきたし。きっとおっきくなれるよ」

「……そうだな、偉いぞ」


 そうして2人に褒められて少し恥ずかしそうに笑顔を浮かべている上総は、ここ数週間で一番生き生きとして見えた。




 里緒が夕食の後片付けをしている間に親子2人は風呂を済ませ、後は寝るだけとなった。

 本来ならこのまま帰ってもいいのだが、せっかくの機会なので芦田とゆっくり話をする時間をとるために、上総が寝入るのを待つことにする。




「上総は随分明るくなったんですね、この様子じゃ何も心配することもないかな」


 芦田は今日の上総の様子を見て、これでますます安心して仕事に力を入れられると口元を緩ませた。

 佐倉から新プロジェクトの話を耳にしてからというもの、上総のことをどうしようか気になっていたのだ。

 プロジェクトの一員になればしばらく残業が増えて、息子と過ごす時間がぐっと減ることになる。するとこのベビーシッターは“上総くんが気持ちの上で不安定になります”などと云いかねない。

 それゆえこの話を今まで言い出しにくかったのだが、今日の様子からするに、きっと問題はないだろう。

 もしかしたら先日のように快く、『お仕事頑張って下さい』と笑顔で引き受けてくれるかもしれない。

 しかし、里緒の言葉は期待したものとは程遠く、芦田はとたんに出端(でばな)を挫かれることとなった。


「そうですね、いい方向には向かっていると思います。ただ、上総くんはまだまだ安定しているとは言い難いです」

「え? 若宮さんだって今日の上総の様子見たでしょう。僕も少しずつ息子といい関係を築き始めていると思うんですが」  

「もちろん、それはそうです。ただ、今日は特別で……。初めて早お迎えでお花見に行って、お気に入りの絵本を同じように気に入っているお友達と出会って、すごく気持ちが高揚しているんです。それでいつもと様子が違うんだと思います」


 さっきまでの浮かれた気持ちが途端に台無しになり、芦田は苦虫を噛み潰したような顔になった。


「すごくいいことですけどね。たまにこうやって昼間にお出かけしようと思うんです。私の都合と上総くんの様子を見てタイミングのいい時にでも。いつも6時お迎えではちょっとかわいそうでしょ。芦田さんは忙しくてお休みにあまりお出かけできないと思いますし」


 里緒からの有難い提案も、今の芦田の心には何も響かない。

 今芦田の頭の中を占めているのは他ならぬ、新プロジェクトのことだけだった。


「……わかりました、その辺は好きにしてください。それから、ちょっと来月から仕事が忙しくなりそうなんです。また詳しいことが分かったらお話しますんで」


 硬い声でそう返事をすると、芦田は「お疲れさまでした」とぼそりと呟いて、そそくさと自室へ引っ込んでしまった。




「……何よ、あれ?」


 急に態度を翻した芦田が扉を開けて部屋を出ていく様子を、ただ唖然として見送ることしかできなかった里緒は、呆気にとられる余り暫くの間動くことさえできなかった。

 本当だったらこの後に、『でもきっと、上総くんの中で今日一番うれしかったことはパパとたくさんお話ができたことですよ』『父親の存在ってそれだけ大きいんです』と、そう続けようとしていたのだ。

 今日は上総はもちろんの事、芦田だって息子と積極的にコミュニケーションを図ろうとしており、とてもいい傾向だった。

 それが突然、一体全体、何が彼の態度を硬化させてしまったというのか。

 頭を捻りながらも、里緒は先ほどの芦田の言葉を思い出し、腹を立てた。

 ――好きにして下さいって、自分の子どものことじゃない!

 そうして気分を害したまま玄関に向かおうとしたが、暫く思案したのちバッグからボールペンを取り出すと、テーブルに向かい、筆を走らせた。



 一方、芦田は芦田で自室に籠り、一人いきり立っていた。

 つい先ほどまでは、全てが順調にいくと信じて疑わなかったのに。

 今日の上総との会話の様子を見ていただろうに、一体何が問題だというのか。

 ――なんなんだ、あの生意気な物言いは!

 もしかして今まで遠慮気味だった上総が急激に父親に親しんだ姿を見て、嫉妬でもしたんだろうか。

 ふと芦田は、そんな全くもって見当違いの考えに行きついた。

 そうだ、きっと彼女は子どもの扱いに慣れている分、子どもたちから好かれることにも慣れている。

 あまり親子関係がうまくいっていない芦田より自分の方が好かれていると考えるのは自然だ。

 それが、急に芦田にべったりになったものだから、面白くなかったのだ。

 きっとそうに違いない。

 里緒のことを『大層な妄想癖』と先日馬鹿にしたばかりの芦田だったが、新プロジェクトのことで冷静に物事を考えられないでいた彼の独断と偏見による邪推っぷりも、なかなかのものだった。

 今後仕事が多忙になる件に関して正論で切り返されたらば、この推論を主張して『君こそ自分の仕事に責任を持ちたまえ』とでも言ってやればいい。

 そう思いつくと芦田は口元をにやりと歪め、全てが解決された気になって悠々と眠りについた。




 

何でも自分の思う通りに運ばないと気が済まない、王様体質の芦田パパ。

里緒は彼を見事更生させられるのでしょうか。


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