お花見
4月も中旬にさしかかったこの時期、桜もちらほらと散り始めている。
上総の保育園通いは、まだまだ園に慣れたとは言い難いものの、彼なりに少しずつ手探りで自分の居場所を作ろうとしているようだ。
担任である主任保育士の摂子も「ゆっくり見守っていきましょうね」と言ってくれている。
彼女はこの道20年、そして3人の子育てをも経験しているベテラン保育士で、複雑な家庭環境にある上総に特別目をかけてくれており、里緒も何かと彼女を頼りにしていた。
本日は、これまで単調に過ごしていたルーティーンに少し変化をつけようと、里緒は初めて自分の判断でスケジュールを変更した。
もちろん自己都合からではなく、上総のためである。
そのため前もって、今年最後のお花見をしようと妹に連絡をしてあった。
講義が終了したのを見計らったかのように梓から連絡が入る。亜衣と2人、車で40分ほどかけて川崎からやって来てくれたのだ。
急ぎ足でビルを出ると、梓の妊娠・出産時期はほぼ里緒の愛車と化していた、ナイトブルーのボディをしたミニバンが里緒を出迎えてくれた。
カーナビに目的地である“さくら保育園”を設定すると、梓の運転で上総を迎えにいく。
亜衣と会うのはちょうど1ヶ月ぶりのことだった。
久しぶりの再会に興奮気味の亜衣は車内では里緒にべったりで、ピンク色のキャラクターバッグから例の洋書絵本を取り出すと、里緒に読んで見せてと強請ってみせた。
保育園までの道のりの間、十分にスキンシップの時間をとると、里緒は亜衣に1つだけお願いをした。
「今日一緒に遊ぶおにいちゃんは、ちょっと元気がないから優しくしてあげてね」と。
亜衣は両親と伯母である里緒からの愛情を一身に受けて伸びのびと自由に育てられてきたため、素直であまり手のかからない子だ。
ただ、これまで自分だけのものだと思っていた里緒が急に家から距離を置き、久々に再会したかと思えば知らないお兄ちゃんの世話をしているとなると、子ども特有の激しい独占欲を表すかもしれない。
そうなると上総の居場所が無くなってしまうものだから、里緒はそれを危惧して前もって亜衣に注意を促しておくことが必要だったのだ。
2歳の子どもとはいえ、心を込めて納得のいく説明をすれば、大人が思っているよりも遥かに理解を示してくれるものである。
とはいえ『彼はママがいなくてね』などとあけっぴろに話してしまえばそれこそ素直な2歳児のこと、『お兄ちゃん、ママ死んじゃったの? かわいそうね』などと言い出しかねない。それはそれで厄介である。
そんなことにならぬように、里緒は最大限の配慮をしてシンプルかつ心に響く言葉で姪を諭したのだった。
里緒の複雑な気持ちをどれだけ理解してくれたかわからないが、亜衣は「うん、優しくする!」と天使の笑みを浮かべてそう答えてくれた。
「わぁ~きれいだねぇ」
天気予報では明日から数日間、雨が続くといっていたから、今日を逃せばもう花見のチャンスはやってこないだろう。
里緒たちと同じことを考えている人たちが多いのか、公園はシートを敷いて散り始めた桜を楽しんでいる人々で溢れていた。
少し心配していた子どもたちは、2人仲良くというわけではないが梓の作ったお弁当を美味しそうに頬張っており、それぞれ満足そうだ。
妊娠が発覚する前は栄養専門学校を進学先に希望していた梓は専業主婦となった今、日々料理の腕に磨きを掛けている。
「はい、みんな沢山食べてね」
梓特製のお弁当はその腕前が十分に発揮された出来となっており、色鮮やかなおかずの数々は子どもたちだけでなく里緒の心までもウキウキとした気分にさせた。
「梓、腕上げたねぇ。せっかくだから通信か何かで栄養士の資格とっちゃえば?」
「うーん、もうちょっと亜衣が大きくなったら考えてみる。そうだ、お姉ちゃん。クーラーボックスの中に余分に入ってる分、今日の夕食のメニューにでもしてね」
妹の優しい心遣いに、自他共に認めるシスコンである里緒は胸をジーンとさせられる。
うんうん、と頷きながら感動中の里緒の両隣りで、子どもたちはせっせと手と口を動かしていた。
彼らに人気があるのは、幾種ものキャラクターおにぎりと、チーズ入り一口ハンバーグだ。
ハンバーグといっても実は具材の半分は細かくミンチされた野菜で占められているのだが、野菜嫌いの亜衣は全く気付かず頬張っており、それを見た里緒たちは亜衣に気づかれないようにこっそりと親指を立てて勝利の目配せをした。
「それでお姉ちゃん、どうなの? 新しい仕事は」
心配性の妹夫婦は今回の里緒の仕事に関してあまりいい顔をしない。
特に淳平は契約書のコピーを送ってこいだの、一度芦田に合わせろだの、まるで口うるさい父親のようだ。
「今のところやり易くて気が抜けるくらい。まぁでも、今は様子見かな」
芦田とはまだお互い手探り状態で、意外にも彼のあの横柄な態度は今のところ見られない。
とはいっても単に、彼と顔を合わせている時間が短いだけのことかもしれないが。
そろそろ生活が落ち着いてきたので今後のことを色々と話し合う機会が増えるだろう。
これからが問題だ。
「……お姉ちゃんってさ、今彼氏いないの?」
突然の質問に一瞬驚いたが、すぐさま里緒の眉間に皺が寄る。
この2年半、あれだけ長く一緒の時間を過ごしてきたのだから、自分に交際相手がいないことぐらい承知しているだろうに、嫌味のつもりだろうか。
それに、元彼と別れて妹のために川崎に越してきた姉に一体どの口がそんな事を言えるのか。
里緒は返事をする気になれず、無言で妹を睨んだ。
こちらに越してくる以前、里緒には地元で恋人と呼べる男性がいた。
システムエンジニアの彼はたびたび出向させられていたため長期で会えないこともあったが、3年半の付き合いで相性も良かったし、2人の間には特に問題もないように見えた。
ところが妹の妊娠が発覚すると事態は急変し、最終的には妹夫婦のために職を辞めてこの地を離れることを理由に、里緒は彼に別れを告げたのだった。
「そのさ、芦田さんだっけ。その人は何歳くらい? かっこいいの?」
「は?」
脈絡のない質問に、里緒は再び眉を顰めた。
まさか人妻のくせに、コブつき男性に興味があるんじゃあ、と妹の真意を疑う。
「30前後で、顔は……整ってはいるんじゃない? それが何よ」
「淳ちゃんがね、心配してんの。その人強引な性格みたいだし、専属ベビーシッターってほら、要は母親代わりでしょ。お姉ちゃんただでさえ子どもに弱いんだから、その父親に情が移って……とかさ」
――いやいやいや。ないから、それ!
心の中で思い切り否定する。
あの異常なまでの心配にはそういう意味が含まれていたのか、と里緒は電話越しにしつこく別の仕事を勧めてきた淳平のことを思い出した。
たとえ、2年半彼氏がいない干からびた女であろうと、あんな男とだなんてとんでもない話だ。
「心配してもらって有難いけど。私、当分恋愛はパス。結婚には興味ないし。それから、芦田さんのことは個人的には1ミリも関わるつもりないし、男性としての魅力もゼロだから、安心して!」
正確に言えば、男として以前に人間としての魅力もゼロ、いやマイナスである。
語尾を強めて答えると、もうその話は終わったとばかりに亜衣の鞄から絵本を取り出して、食事を終えた子どもたちに声を掛けた。
♢ ♢ ♢
「――White dog, white dog, what do you see? 」
「「ホァイドッグ、ホァイドッグ、ワッドゥーユシー? 」」
「I see a black sheep looking at me. 」
帰りの車の中で、子どもたちはすっかり仲が良くなったようだ。
これも全て、今彼らが読んでいる絵本のおかげかもしれない。
昼食後に里緒がこの本を読み聞かせようとしたところ、お互い同じ本を持っているといった共通部分が嬉しかったのか急に相手の存在を意識し始めたのだ。
毎日のように読んでいるせいか、2人とも完全ではないにしろ文面を暗記してしまっているらしい。
「上総くんも随分気に入ったんだね、その本」運転しながら梓が不思議そうに言う。
「ああ、この子も持ってるのよ、これ。しかも一等のお気に入り」
「へえ、偶然」
実際2人で一緒に買ったので半分偶然のようなそうでないような気もするが、里緒はそれ以上説明するのも何だか億劫でそれに答えることなく、子どもたちとの言葉遊びを続けた。