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Well-being for Life!  作者: chai
2章 新しい生活
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新生活

 引っ越しを済ませ、全ての面において新しいスタートを切ってから約2週間が過ぎた。

 最初の数日は慣れない環境に戸惑うこともあったが、この新しい生活スタイルは里緒にとって、かなり過ごしやすいものだった。

 

 外はまだ薄暗く小鳥のさえずりが聞こえ始める――時刻は5時半を過ぎた頃、里緒の1日が始まる。今までより起床時間が1時間ほど早くなったため、これに慣れるまでは少々きついだろう。しかし、夏に向けて朝日が昇る時刻が早くなっていくことから、早起きを習慣化したいと思ったら春先からスタートするのがベストなのだと、どこかで読んだことがある。


 簡単に身なりを整えて家を出発し、電車で2つ駅を越えれば芦田家の最寄り駅に到着する。

 合鍵で家の中に入って朝一番にすべき仕事は、布団の上で丸くなっている上総を起こすことだ。

 意外にも彼は寝起きがよく、一度声をかければ放っておいてもそのうち自ら顔を洗いにいってくれるため、里緒としては非常にありがたかった。きっと田舎で祖父母と生活をしていた頃からの習慣なのだろう。 

 前日に下準備をしておいた朝食をテーブルに並べているうちに、上の階からはネクタイを締めた芦田が、下の階からは少し眠たそうに目を擦っている上総がダイニングに姿を現わす。親子が食卓につく頃になると洗濯機からピーピーとお呼びがかかり、里緒は両手でランドリーボックスを抱えて物干し場へと向かうのだ。

 そして芦田が会社に出かけてから、ようやく里緒の朝食タイムとなる。2人と一緒に食事を取ってもいいのだが、これは1日1度は親子だけで食卓を囲んでもらおうという里緒のささやかな計らいだったりする。

 そうして後は、上総を保育園に送ったその足でもう一つの職場に向かえば、午前中のベビーシッター業は終了だ。

 講師の仕事は昼前に終了するため、午後は保育園の迎えの時間までが里緒のフリータイムになる。  

 通常であれば18時頃にお迎えに行き、食事を共に済ませ上総を風呂に入れると、芦田が帰宅するまでの時間を2人でゆっくりと過ごすのだ。

 マンションへの帰宅時間は平均午後9時と一般的なOLに比べたら遅い方だが、それでも芦田家で食事を済ませているため、特にすべきこともなくプライベートな時間に費やせる。

 残念ながら下見の際には存在していたはずのブルーレイレコーダー内臓の42型テレビ豪華セットはそのままそっくり芦田家へお引っ越しとなってしまったため、2回りほど小さな自前のテレビを持ち込んでお気に入りのDVDを鑑賞したり、少し豪華な入浴剤を入れて長めのバスタイムを過ごしたりして里緒は夜の時間を楽しんでいた。




「上総くん、それ嫌なの?」


 夕食のハンバーグに添えられている野菜たちの中から器用にグリンピースのみを端に寄せるという見事なまでの箸さばきに、里緒はうっかり拍手しそうになるのを慌てて堪えた。

 この生活にも少しずつ慣れ始め、最近ではお喋りにかまけて食事が疎かになっていると里緒から注意を受けることもある上総だが、今日は何も聞こえませんとばかりに無言で箸を進めている。もちろん、グリンピースをキレイに避けながら。

 こんなしらっとした姿は父親の芦田にそっくりだと里緒は思わず吹きだしそうになった。


 

「一口だけ食べてみようか」


 スプーンにすくって口元に持っていく。

 ぷいっと顔をそむける上総に苦笑いをしながら、里緒はハンバーグを一口サイズに切ってその中に無理やりそれを一粒埋め込んだ。


「はい、パクーンっ!」


 今度は素直に口を開ける。

 上総は吐きだそうとはせず、見事にそれを噛み砕いて飲み込んだ。

 そうして里緒はその要領で、5粒ほどのグリンピースを上総のお腹の中に収めることに成功した。


 里緒が子ども慣れしているということもあったが、上総は思っていたよりも手がかからない子どもだった。

 最初はなかなか声を発さない様子に心配をしたものだが、3日ほど経つと少しずつ話しかけてきてくれるようになった。

 警戒心が強く、尚且つ極度の人見知りである上総から、里緒はどうやら信用できる相手として早々と合格点を戴けたようだ。


 保育園では自己主張が苦手で内に籠りやすく、不安定な表情をしていることが多いと聞いており、まだ馴染めてはいないらしい。しかし、突然祖父母の元を離れて新しい園に通い始めてからまだ2週間と経っていないのだから、それは無理もないだろう。

 担任となった保育士は経験豊富そうであったし、先生たちの雰囲気も明るく、いつ訪ねても園内では気持ちのいい挨拶が飛び交っている。

 律子は『何せ時間がなくて、とりあえず一番に受け入れてくれた園に決めちゃったの』と言っていたが、これは大当たりかもしれない、安心して上総を任せられそうだと里緒はそう思っていた。

 いち早く園での生活にも慣れてもらうためには、家庭内で安定した生活を送ることが何より欠かせない。

 芦田の話では義両親は愛情深い人たちのようだし、今回の急激な環境の変化が影響しているだけで根本的に心に大きな問題を抱え込んでいるわけではなさそうだ。となると、彼が本来の姿を早く取り戻せるためにもスキンシップの時間を特別たっぷりと取ってあげればいい。

 芦田がいない時間は自分が、しばらくの間は少し甘やかしてあげるか、と残りのグリンピースを自分の皿に移した。



 上総を風呂に入れて暫くすると、玄関から音がした。

 これがもし亜衣であったなら何をおいても一目散に玄関に駆け付け、父親である淳平にハグ付きの熱烈歓迎をするところだが、上総の場合まだ不慣れなせいか、それとも芦田の性格(キャラクター)に問題があるせいなのか、父子揃って妙に他人行儀な節がある。

 お出迎えはしたいのだが、どうしたらいいのかわからないようで、上総はいつも玄関先まで来るとモジモジとして里緒の背後に隠れてしまう。しようがないので上総の耳元で「せーのっ」と小さく掛け声をかけ、声を合わせて「おかえりなさい」と挨拶をするのだ。


「ただいま」


 

 まだ少しぎこちない手つきで上総の頭を撫でながら、芦田は里緒に軽く会釈をする。 

 歩きがてら今日の上総の様子を芦田に報告すると、里緒は芦田の分の食事を皿に盛る。

 自室で着替えを済ませた芦田がリビングに顔を見せたところで里緒の本日の業務は全て完了だ。


 

「それではまた明日伺います。失礼します」

「ああ、気をつけて。どうもお疲れ様です」


 一礼をして玄関に向かうと、先回りをしていた上総が自分を待っていてくれた。

 これはここ2週間ほどの日常となっている。


「じゃあ、上総くん。また明日ね」

「うん、バイバイ」


 上総に見送られて芦田家を後にする。

 只今の時刻は20時20分。21時前には余裕で自宅に着けそうだ。

 里緒は軽やかな足取りで駅に向かった。



 里緒が居なくなると芦田は一人食卓につく。

 ソファでテレビを見ている上総を呼んで『今日は何して遊んだんだ』などと声をかけることはせず、新聞片手に黙々と里緒の用意した食事を口に運ぶのも、芦田家の日常のひとコマだった。


 この2週間は、芦田にとっても思っていた以上に快適な生活だった。

 仕事においての人を見る目は確かだと自負している芦田だが、さすがに他人が自由に自宅を出入りするとなれば、自分のプライベートに多少なりとも影響が出るんじゃないかと少し心配をしていたのだが、それはただの杞憂に終わったようだった。

 “虐待は犯罪だ”なんて口走ったり、流されやすそうでいて自分の意思は曲げないような意外と気の強い部分もあるようだが、今のところそんな素振りも見せず、彼女はよくやってくれていると芦田は思う。

 通常1日のうちに里緒と同じ空間で過ごすのは朝夕合計してせいぜい1時間を過ぎるほど、しかもお互いの姿を認識して会話をするのはそのうちの20分にも満たないということも、大きく影響しているのだろう。

 最初の半月はできるだけ同じリズムで生活をした方がいいという里緒からの提案通り、今のところ仕事量を少しセーブしながら上総の様子を窺っているのだが、特に問題なく順調のようだ。

 毎朝保育園に行くのをぐずる姿は気になるが、里緒によると通い始めの園児は大概そんなもので、上総は泣き叫ばないだけ優秀な部類に入るらしい。 

 里緒の仕事ぶりに関しては保育園については慣れているだけに心配無用だし、芦田が帰宅すると一日の出来事を簡潔にまとめて報告し、尚且つ漏れのないよう文面にも残してくれるため、その日の上総の様子は手に取るようにわかった。息子との相性も抜群のようで、上総はこの短期間ですっかり里緒に気を許し、よく懐いているようだ。 

 芦田に対しても、雇用関係という一線をきっちりと引いて、特に干渉してくることもない。

 契約時に、上総に影響がでる場合に限って芦田のプライベートにも口を出す権利が欲しいと公言していたのを渋々承知したが、この様子なら大した問題でもないだろう。


 付け加えるならば、彼がこの生活をかなり快適と感じている大きな要因の1つは、里緒の余計なお世話にならない程度の気の利いた気遣いのおかげなのだが、そのことに芦田自身はまだ気づいていない。



 ともあれ、この生活の滑り出しは概ね好調だった。




新生活編、スタートです。

私の中ではようやくお話が始まったような感覚です。


お気に入り登録や評価をして下さった方々、どうもありがとうございます。


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