「毒婦アルヴィーナ、貴様との婚約を破棄する」~渡り鳥が北へ帰る朝、断頭台の三年前へ転生した悪役令嬢は、全部先回りして差し上げますわ~
「毒婦アルヴィーナ、貴様との婚約を破棄する」
雪の残る初春の朝。断頭台の上で、私はその言葉を聞いた。
見上げれば、婚約者だったセドリック第二王子が、氷のような目でこちらを見下ろしている。その腕には、涙に濡れた蜂蜜色の髪の少女――義妹ミレーユが、勝ち誇った笑みを隠しながら縋りついていた。
「お姉さま……わたくし、こんなことになるなんて……」
(あら、また、その台詞。台本を覚えるほど何度も聞かされたくはありませんでしたのに)
毒殺の罪。ありもしない罪状。すべてはこの義妹が仕組んだこと。だと、誰も信じてはくれなかった。
刃を吊る縄が、ぎしりと軋む。
そのとき、遠く空の彼方から、鳥の羽音が聞こえた。
渡り鳥だ。春を告げる鳥、ラークスの群れ。北へ、故郷へと帰っていく白い翼の列。
「――ああ」
凍える喉から、掠れた声が漏れた。
(約束を、まだ果たしていないのに)
幼い日。誰にも顧みられず、屋根裏に追いやられた凍える冬。唯一、私に寄り添ってくれたものがあった。渡り鳥に姿を変えた精霊――《春告げの君》。
『次に春が巡る時、必ず迎えに来る。だから、それまで生き延びて』
そう約束したのに。私は、春を待てなかった。
刃が、落ちる。
首筋に走る冷たい風。世界が反転し、白い空が視界を埋め尽くす。渡り鳥の羽音だけが、やけに近く聞こえた。
――迎えに、来て。
それが、前世の私の、最期の想いだった。
◇
冷たい。
頬に触れる板の感触。埃と、古い木の匂い。
(……首が、繋がっている?)
私は跳ね起きた。心臓が早鐘のように鳴っている。落ちたはずの刃。断たれたはずの命。
だが、ここにあるのは――見覚えのある、狭くて薄暗い屋根裏部屋だった。
傾いた天井。割れた窓から差し込む、弱々しい冬の光。継ぎの当たった毛布。
手を見る。小さい。細い。まだ幼さの残る、少女の手。
鏡代わりの磨いた銀盆を覗き込めば、そこには青白い顔をした、十五歳の私が映っていた。断頭台に立った、あの十八の私ではない。
(まさか)
記憶が濁流のように押し寄せる。義妹の陰謀。婚約者の裏切り。父の無関心。そして――処刑。すべて、鮮明に覚えている。
「三年前……すべてが始まる前。ミレーユが、この家に来る前夜ですわね」
そのとき、腕の内側に、ちりりと熱が走った。
見れば、白い肌に浮かび上がる紋様。翼を広げた小さな鳥――渡り鳥の意匠。
(腕に……翼を広げた、渡り鳥の紋様。これは――)
頭の中に、声ではない声が響いた。
『春告げの君との約束の証。渡り鳥が運ぶ、まだ起きていない未来の光景を、そなたに届けよう。一冬に、一度だけ』
未来の光景。
「つまりわたくしは、破滅までの筋書きを、すべて知っている」
窓の外で、一羽の白い鳥が羽ばたいた。まっすぐに、私を見ていた。
「……そう。これは、やり直しの一冬なのですね」
膝の上で、拳を握る。もう震えてはいなかった。
「もう、大人しく殺されてなどやりませんわ」
凍える屋根裏に、静かな決意の声が落ちた。
「だったら話は簡単ですわ。全部、先回りしてやりましてよ」
◇
「お姉さま! お会いしたかったですわ!」
翌朝、公爵邸の広間に降りていくと、蜂蜜色の髪の少女が駆け寄ってきた。
ミレーユ。菫色の大きな瞳を潤ませ、両手を胸の前で組む。あどけない、愛らしい――そして、私が誰よりもよく知る、演技の顔。
「わたくし、お姉さまと仲良くしたいだけなの。ずっと、憧れていましたのよ」
(あら。台本、覚えるほど何度も聞かされたくはありませんでしたのに)
前世でも、この子はこうして近づいてきた。孤独だった私は、ほんの少し、心を許してしまった。その隙に、すべてを奪われるとも知らずに。
だが、今世は違う。
「ええ、こちらこそ。ミレーユ」
私は柔らかく微笑んだ。前世の私と同じ、儚げな令嬢の顔で。
ミレーユの瞳が、一瞬だけ、探るように光った。獲物を値踏みするような目。すぐにまた、あどけない笑顔で覆い隠されたけれど。
(今のあなたは、わたくしを『御しやすい姉』だと思っていればいい。まだ、牙を見せるのは早いですわ)
広間の奥、暖炉の前の椅子から、厳めしい声が響いた。
「アルヴィーナ。ミレーユは今日からこの家の娘だ。姉として、面倒をよく見てやれ」
父、オルヴァル・ノーヴィク公爵。私を一度も屋根裏から連れ出さなかった人。娘の処刑にすら、異を唱えなかった人。
「かしこまりました、お父様」
私は淑やかに頭を下げた。
父はもう、私に興味を失ったようにミレーユへ視線を移す。その目に浮かぶ、隠しきれない甘さ。ええ、覚えていますとも。
(お父様。あなたが自分の過ちに気づくのは、ずっと先――失う直前になってからですわ)
その夜。屋根裏に戻ると、忠実な侍女のエルナが、温かなスープを運んできてくれた。
「お嬢様、お顔の色が優れませんね。あの義妹君……どうも、わたしは好きになれません」
素朴な言葉に、私は少しだけ笑った。前世でも今世でも、変わらず私を信じてくれた、たった一人。
「エルナ。あなたの勘は、正しいわ」
窓の外で、渡り鳥が一羽、月夜を横切っていった。
◇
その晩、私は夢を見た。
いや、夢ではない。渡り鳥が運んできた、まだ起きていない未来の光景。
――薄暗い調薬室。ミレーユが、小瓶をすり替えている。無色の毒を、私の名で取り寄せた薬瓶の中へ。
『これで、お姉さまが毒を盛ったことになるわ。証人も、もう買収済み。ふふ、可哀想なお姉さま』
光景が流れる。日付。場所。手口。関わる者の顔。すべてが、水晶のように鮮明に。
目を覚ますと、腕の刻印がかすかに熱を持っていた。
(なるほど。今世でも、同じ手を使うのね)
私は羽根ペンを取り、覚えたことを紙に書き留めていく。毒物のすり替えが行われる日。買収された証人の名。毒の入手経路。
前世では、私はこの筋書きの『被害者』として、断頭台まで運ばれた。
「でも今は違う。わたくしは、脚本を先に読んだ観客ですもの」
翌朝、私は忠実な侍女を呼んだ。
「エルナ。あなたに、頼みたいことがあるの。誰にも気づかれず、静かに、正確に」
エルナは背筋を伸ばした。
「お嬢様の仰せのままに。お嬢様がどれほど貶められようと、わたしだけはお嬢様を信じております」
私は微笑んだ。
「まず、王都の薬種商・ヴェルデ商会の記録を写してきてほしいの。それから――王家の監察官、フェルディナンド卿が、いつ辺境を巡察に訪れるか。その日程を」
エルナが目を丸くする。
「監察官様を……? そんな大それたことを、いったい何に?」
「悪事というものはね、エルナ。証拠と、それを裁く者さえ然るべき場所に置いておけば――あとは、勝手に因果が回るものですわ」
私は自らの手を汚さない。毒には触れない。剣も抜かない。
「わたくしは、ただ証拠を積み、法の目を導くだけ」
窓辺に、白い渡り鳥が舞い降りた。まるで、私の言葉に頷くように。
「さあ、盤面をひっくり返しましょう」
◇
雪解けの近い、ある夕暮れ。
王家の監察官フェルディナンド卿が、辺境巡察の途上でノーヴィク公爵邸を訪れた。表向きは、防衛状況の視察。だが彼をこの日この時間に導いたのは――私だ。
「監察官様。よろしければ、東の離れの庭園をご覧になりませんか。冬薔薇が、見事に咲いておりますの」
私は淑やかにそう勧め、案内役を買って出た。
(東の離れ。前世でセドリックとミレーユが、幾度となく密会を重ねた場所。今宵もまた、二人はそこにいる)
生垣の角を曲がった、その瞬間。
「セドリック様……アルヴィーナお姉さまさえいなければ、わたくしたち……」
「案ずるな、ミレーユ。あんな冷たい女、僕にはふさわしくない。じきに、君を正妃に迎えてみせる」
甘く絡み合う声。抱き合う、第二王子と義妹の影。
監察官フェルディナンド卿が、足を止めた。その顔が、みるみる強張っていく。
「これは、いったい……」
私は、驚いたように口元を押さえてみせた。
「まあ……セドリック様と、ミレーユが……? わたくし、なんてものを、監察官様にお見せしてしまったのでしょう」
震える声。伏せられた睫毛。完璧な、傷ついた婚約者の演技。
(ごめんなさいね、監察官様。でも、あなたの『目撃』が必要でしたの)
生垣の向こうで、ようやく気づいた二人が振り返る。青ざめたセドリックと、凍りついたミレーユの顔。
「ち、違うのです、監察官様! これは、その……!」
ミレーユが慌てて涙を滲ませようとする。だが。
「第二王子殿下。婚約者を持つ御身が、その義妹と密会とは。……この件、王家に報告させていただく」
フェルディナンド卿の声は、氷のようだった。涙も演技も、王家の監察官の前では通用しない。
私は静かに、彼らへ視線を向けた。
「あら。わたくし、何も申しておりませんわ。ただ、冬薔薇をご案内しただけ」
淡々と。感情の一切を排して。
「見られて困ることを、なさっていたのは――あなた方ですものね」
夕闇の中、渡り鳥の羽音が、遠く空を渡っていった。
◇
雪解けの社交界。
ノーヴィク公爵邸の大広間に、貴族たちが集った。だがその空気は、いつもと違って張り詰めていた。
王家の監察官フェルディナンド卿の臨席。そして――先の密会が、すでに王家に報告されていたのだ。
ミレーユは、追い詰められていた。
こうなれば、と彼女は最後の切り札を切ろうとした。前世と同じ、あの手を。
「皆さま、聞いてください! お姉さまが……アルヴィーナお姉さまが、わたくしを毒殺しようとしているのです!」
菫色の瞳から、大粒の涙。震える指が、私を指し示す。
「この毒瓶が、証拠ですわ! お姉さまの名で取り寄せられた、恐ろしい毒が……!」
ざわめきが広間を満たす。だが。
私は、優雅に一歩前へ出た。
「あら、ミレーユ。その毒瓶」
静かに。ただ静かに、私は問うた。
「――どこから来たのかしら?」
ミレーユの動きが、止まる。
「そ、それは……お姉さまの名で、取り寄せられたもので……」
「王都の薬種商、ヴェルデ商会。取り寄せの記録には、確かにわたくしの名がございますわね。ですが」
私は、懐から一枚の書状を取り出した。エルナが写し取ってきた、商会の帳簿の副本。
「この日、わたくしは終日、辺境の防衛会議に出席しておりました。父公爵と、辺境騎士団長の署名入りの証言もございます。取り寄せに、行けるはずがございませんの」
「そ、それは……何かの、間違いですわ……」
「では、誰が? わたくしの名を騙り、この毒を取り寄せたのは」
私はさらに、二枚目の書状を掲げた。
「薬種商の証言によれば、注文に来たのは――蜂蜜色の髪の、若い令嬢。フードを目深に被っていたけれど、袖口から覗いたのは……菫の刺繍の入った、手袋だったそうですわ」
広間の視線が、一斉にミレーユへ集まる。彼女の手には、まさにその菫の刺繍の手袋が。
「ち、違う! わたくしじゃない! お姉さまが、わたくしを陥れようと――!」
「監察官様」
私は彼女の絶叫を遮り、フェルディナンド卿へ向き直った。
「あとの裁定は、あなた様に。わたくしは、ただ真実を並べただけですわ」
そのとき、青ざめたセドリックが叫んだ。
「フェルディナンド卿、これは……ミレーユが、勝手に……僕は関係ない!」
(あら。義妹を庇うどころか、真っ先に切り捨てて。愚かなお方。ええ、前世からずっと存じておりましてよ)
フェルディナンド卿が、重々しく頷いた。
「ミレーユ・ノーヴィク嬢。貴殿には、毒物の不正取り寄せおよび、公爵令嬢への誣告の疑いがある。同行を願おう」
「いや……いやよ! なんで! なんでわたくしが!」
崩れ落ちるミレーユ。前世で私が着せられた罪が、そっくりそのまま、仕掛けた本人へと返っていく。
(可哀想な妹、でしたっけ? ええ、本当に。自分で仕掛けた罠に、自分で落ちるのですもの)
私は、静かにその様を見下ろしていた。喚きもせず、勝ち誇りもせず。
ただ、雪解けのように、静かに。
◇
すべての因果が、回り終えた。
セドリック第二王子は、密会と不品行を咎められ、婚約者の座を剥奪。辺境の警備隊へと送られた。甘い顔で女性の人気を集めた王子は、もう社交界に居場所を持たない。
ミレーユは、毒物の不正取り寄せと誣告の罪で、修道院送りとなった。可哀想な妹を演じ続けた少女は、誰の同情も得られぬまま、雪深い北の地へ消えていった。
そして。
「アルヴィーナ」
書斎に呼ばれた私を待っていたのは、父オルヴァル公爵だった。
厳めしいはずのその顔に、初めて見る色があった。悔恨と、戸惑い。
「お前が……辺境に迫る魔物襲来を予見し、防衛の要を整えていたと聞いた。ヴェルデ商会の記録を押さえ、監察官を導いたのも、すべてお前だと」
「ええ、お父様。わたくしは、この家の娘ですもの。家名を守るのは、当然のことですわ」
父の肩が、震えた。
「私は……お前を、屋根裏に追いやった。ミレーюばかりを可愛がり、お前を一度も、顧みなかった」
(ええ。前世では、わたくしの処刑にすら、異を唱えなかった。……でも、それは口にいたしませんわ。今世のあなたは、まだその罪を犯してはいないのですから)
父が、深く頭を垂れた。武門の公爵が、実娘に。
「すまなかった。私は、お前という娘の価値を、見誤っていた」
失ってからではなく、失う直前に気づいた後悔。
私は、しばらく黙って父を見つめていた。許すとも、恨むとも言わずに。
「お顔を上げてください、お父様」
やがて、私は静かに言った。
「過ぎたことは、もう問いませんわ。ただ――これからは、わたくしを、この家の娘として、正しく見てくださいまし。それで十分です」
父は、何度も頷いた。目の縁に、光るものがあった。
書斎を出ると、窓の外はよく晴れていた。
屋根の雪が、ぽたり、ぽたりと解けて落ちていく。
長い冬が、終わろうとしていた。
◇
春が、来た。
初春の朝。雪解けの水が小川となって流れ、辺境の空に、渡り鳥の群れが帰っていく。北へ、故郷へと向かう、白い翼の列。
私は、公爵邸の庭に立っていた。もう屋根裏の少女ではない。自らの足で立ち、盤面をひっくり返した、ノーヴィク公爵家の令嬢として。
渡り鳥の群れを見上げる。前世、私が最期に聞いた、あの羽音。
(約束を、まだ果たしていない)
そのとき。
群れの先頭を、一羽だけが逆行した。北へ向かう仲間から離れ、まっすぐに、こちらへ舞い降りてくる白い鳥。
その輪郭が、光の中で、ぐにゃりと歪む。
羽が、灰銀の髪へ。翼が、逞しい肩へ。
地に降り立ったのは――軍装を纏った、長身の男だった。灰銀の髪。竜眼と呼ばれる、金色の瞳。冷酷な竜人将軍として、王国中に恐れられる男。
ヴォルフガング・ラークス。
だが、その正体を、私は知っている。
凍える冬の屋根裏で、唯一、私に寄り添ってくれた渡り鳥の精霊――《春告げの君》。
彼は、私の前で片膝をついた。氷の指揮官と呼ばれる男が、一人の令嬢の前に、こうべを垂れて。
「約束通り、迎えに来た」
その声は、噂とは似ても似つかぬほど、柔らかかった。
「今度は、君が春を待たずに逝ったりしないように」
金の瞳が、揺れていた。千年の時を、たった一人の少女との約束だけを胸に、渡ってきた瞳。
「遅くなって、すまない。前世では……間に合わなかった。君が春を待てずに逝ったこと、私はずっと――」
言葉が、途切れる。冷酷なはずの竜人将軍が、子供のように、うつむいた。
私は、思わず微笑んだ。
「あら。噂の冷酷な将軍様が、そんなお顔をなさるの?」
「……からかうな」
拗ねたように、彼が呟く。そのギャップに、胸の奥が温かくなる。
私は、彼の前に歩み寄った。
「ヴォルフガング。いえ――《春告げの君》」
その手を、取る。
「約束は、覚えていましてよ。『次に春が巡る時、必ず迎えに来る』。ずっと、ずっと待っていましたわ。前世でも、今世でも」
彼が顔を上げた。金の瞳から、一筋、こぼれ落ちるものがあった。
「アルヴィーナ……」
私の名を呼ぶ声だけが、どうしようもなく、優しかった。
雪解けの水が、きらきらと光る。頭上を、渡り鳥が渡っていく。
断頭台で果たせなかった約束が、今、春とともに成就する。
「さあ、参りましょう」
私は、彼の手を握り返した。
「――ああ、そうそう。渡り鳥がまた、新しい光景を運んでまいりましたの。隣国が、この辺境に、良からぬことを企んでいるようですわ」
私は、いたずらっぽく微笑んだ。
「でも、だったら話は簡単ですわ。全部、先回りしてやりましてよ。……今度は、あなたと二人で」
彼が、ふっと笑った。冷酷な将軍の仮面が剥がれ、千年前の精霊のような、穏やかな笑みが浮かぶ。
「ああ。今度は、二人で」
春の風が、二人の間を吹き抜けた。
長い長い冬を越えて。渡り鳥の約束は、ようやく、果たされた。




