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「毒婦アルヴィーナ、貴様との婚約を破棄する」~渡り鳥が北へ帰る朝、断頭台の三年前へ転生した悪役令嬢は、全部先回りして差し上げますわ~

作者: uta
掲載日:2026/08/21

「毒婦アルヴィーナ、貴様との婚約を破棄する」


雪の残る初春の朝。断頭台の上で、私はその言葉を聞いた。


見上げれば、婚約者だったセドリック第二王子が、氷のような目でこちらを見下ろしている。その腕には、涙に濡れた蜂蜜色の髪の少女――義妹ミレーユが、勝ち誇った笑みを隠しながら縋りついていた。


「お姉さま……わたくし、こんなことになるなんて……」


(あら、また、その台詞。台本を覚えるほど何度も聞かされたくはありませんでしたのに)


毒殺の罪。ありもしない罪状。すべてはこの義妹が仕組んだこと。だと、誰も信じてはくれなかった。


刃を吊る縄が、ぎしりと軋む。


そのとき、遠く空の彼方から、鳥の羽音が聞こえた。


渡り鳥だ。春を告げる鳥、ラークスの群れ。北へ、故郷へと帰っていく白い翼の列。


「――ああ」


凍える喉から、掠れた声が漏れた。


(約束を、まだ果たしていないのに)


幼い日。誰にも顧みられず、屋根裏に追いやられた凍える冬。唯一、私に寄り添ってくれたものがあった。渡り鳥に姿を変えた精霊――《春告げの君》。


『次に春が巡る時、必ず迎えに来る。だから、それまで生き延びて』


そう約束したのに。私は、春を待てなかった。


刃が、落ちる。


首筋に走る冷たい風。世界が反転し、白い空が視界を埋め尽くす。渡り鳥の羽音だけが、やけに近く聞こえた。


――迎えに、来て。


それが、前世の私の、最期の想いだった。



冷たい。


頬に触れる板の感触。埃と、古い木の匂い。


(……首が、繋がっている?)


私は跳ね起きた。心臓が早鐘のように鳴っている。落ちたはずの刃。断たれたはずの命。


だが、ここにあるのは――見覚えのある、狭くて薄暗い屋根裏部屋だった。


傾いた天井。割れた窓から差し込む、弱々しい冬の光。継ぎの当たった毛布。


手を見る。小さい。細い。まだ幼さの残る、少女の手。


鏡代わりの磨いた銀盆を覗き込めば、そこには青白い顔をした、十五歳の私が映っていた。断頭台に立った、あの十八の私ではない。


(まさか)


記憶が濁流のように押し寄せる。義妹の陰謀。婚約者の裏切り。父の無関心。そして――処刑。すべて、鮮明に覚えている。


「三年前……すべてが始まる前。ミレーユが、この家に来る前夜ですわね」


そのとき、腕の内側に、ちりりと熱が走った。


見れば、白い肌に浮かび上がる紋様。翼を広げた小さな鳥――渡り鳥の意匠。


(腕に……翼を広げた、渡り鳥の紋様。これは――)


頭の中に、声ではない声が響いた。


『春告げの君との約束の証。渡り鳥が運ぶ、まだ起きていない未来の光景を、そなたに届けよう。一冬に、一度だけ』


未来の光景。


「つまりわたくしは、破滅までの筋書きを、すべて知っている」


窓の外で、一羽の白い鳥が羽ばたいた。まっすぐに、私を見ていた。


「……そう。これは、やり直しの一冬なのですね」


膝の上で、拳を握る。もう震えてはいなかった。


「もう、大人しく殺されてなどやりませんわ」


凍える屋根裏に、静かな決意の声が落ちた。


「だったら話は簡単ですわ。全部、先回りしてやりましてよ」



「お姉さま! お会いしたかったですわ!」


翌朝、公爵邸の広間に降りていくと、蜂蜜色の髪の少女が駆け寄ってきた。


ミレーユ。菫色の大きな瞳を潤ませ、両手を胸の前で組む。あどけない、愛らしい――そして、私が誰よりもよく知る、演技の顔。


「わたくし、お姉さまと仲良くしたいだけなの。ずっと、憧れていましたのよ」


(あら。台本、覚えるほど何度も聞かされたくはありませんでしたのに)


前世でも、この子はこうして近づいてきた。孤独だった私は、ほんの少し、心を許してしまった。その隙に、すべてを奪われるとも知らずに。


だが、今世は違う。


「ええ、こちらこそ。ミレーユ」


私は柔らかく微笑んだ。前世の私と同じ、儚げな令嬢の顔で。


ミレーユの瞳が、一瞬だけ、探るように光った。獲物を値踏みするような目。すぐにまた、あどけない笑顔で覆い隠されたけれど。


(今のあなたは、わたくしを『御しやすい姉』だと思っていればいい。まだ、牙を見せるのは早いですわ)


広間の奥、暖炉の前の椅子から、厳めしい声が響いた。


「アルヴィーナ。ミレーユは今日からこの家の娘だ。姉として、面倒をよく見てやれ」


父、オルヴァル・ノーヴィク公爵。私を一度も屋根裏から連れ出さなかった人。娘の処刑にすら、異を唱えなかった人。


「かしこまりました、お父様」


私は淑やかに頭を下げた。


父はもう、私に興味を失ったようにミレーユへ視線を移す。その目に浮かぶ、隠しきれない甘さ。ええ、覚えていますとも。


(お父様。あなたが自分の過ちに気づくのは、ずっと先――失う直前になってからですわ)


その夜。屋根裏に戻ると、忠実な侍女のエルナが、温かなスープを運んできてくれた。


「お嬢様、お顔の色が優れませんね。あの義妹君……どうも、わたしは好きになれません」


素朴な言葉に、私は少しだけ笑った。前世でも今世でも、変わらず私を信じてくれた、たった一人。


「エルナ。あなたの勘は、正しいわ」


窓の外で、渡り鳥が一羽、月夜を横切っていった。



その晩、私は夢を見た。


いや、夢ではない。渡り鳥が運んできた、まだ起きていない未来の光景。


――薄暗い調薬室。ミレーユが、小瓶をすり替えている。無色の毒を、私の名で取り寄せた薬瓶の中へ。


『これで、お姉さまが毒を盛ったことになるわ。証人も、もう買収済み。ふふ、可哀想なお姉さま』


光景が流れる。日付。場所。手口。関わる者の顔。すべてが、水晶のように鮮明に。


目を覚ますと、腕の刻印がかすかに熱を持っていた。


(なるほど。今世でも、同じ手を使うのね)


私は羽根ペンを取り、覚えたことを紙に書き留めていく。毒物のすり替えが行われる日。買収された証人の名。毒の入手経路。


前世では、私はこの筋書きの『被害者』として、断頭台まで運ばれた。


「でも今は違う。わたくしは、脚本を先に読んだ観客ですもの」


翌朝、私は忠実な侍女を呼んだ。


「エルナ。あなたに、頼みたいことがあるの。誰にも気づかれず、静かに、正確に」


エルナは背筋を伸ばした。


「お嬢様の仰せのままに。お嬢様がどれほど貶められようと、わたしだけはお嬢様を信じております」


私は微笑んだ。


「まず、王都の薬種商・ヴェルデ商会の記録を写してきてほしいの。それから――王家の監察官、フェルディナンド卿が、いつ辺境を巡察に訪れるか。その日程を」


エルナが目を丸くする。


「監察官様を……? そんな大それたことを、いったい何に?」


「悪事というものはね、エルナ。証拠と、それを裁く者さえ然るべき場所に置いておけば――あとは、勝手に因果が回るものですわ」


私は自らの手を汚さない。毒には触れない。剣も抜かない。


「わたくしは、ただ証拠を積み、法の目を導くだけ」


窓辺に、白い渡り鳥が舞い降りた。まるで、私の言葉に頷くように。


「さあ、盤面をひっくり返しましょう」



雪解けの近い、ある夕暮れ。


王家の監察官フェルディナンド卿が、辺境巡察の途上でノーヴィク公爵邸を訪れた。表向きは、防衛状況の視察。だが彼をこの日この時間に導いたのは――私だ。


「監察官様。よろしければ、東の離れの庭園をご覧になりませんか。冬薔薇が、見事に咲いておりますの」


私は淑やかにそう勧め、案内役を買って出た。


(東の離れ。前世でセドリックとミレーユが、幾度となく密会を重ねた場所。今宵もまた、二人はそこにいる)


生垣の角を曲がった、その瞬間。


「セドリック様……アルヴィーナお姉さまさえいなければ、わたくしたち……」


「案ずるな、ミレーユ。あんな冷たい女、僕にはふさわしくない。じきに、君を正妃に迎えてみせる」


甘く絡み合う声。抱き合う、第二王子と義妹の影。


監察官フェルディナンド卿が、足を止めた。その顔が、みるみる強張っていく。


「これは、いったい……」


私は、驚いたように口元を押さえてみせた。


「まあ……セドリック様と、ミレーユが……? わたくし、なんてものを、監察官様にお見せしてしまったのでしょう」


震える声。伏せられた睫毛。完璧な、傷ついた婚約者の演技。


(ごめんなさいね、監察官様。でも、あなたの『目撃』が必要でしたの)


生垣の向こうで、ようやく気づいた二人が振り返る。青ざめたセドリックと、凍りついたミレーユの顔。


「ち、違うのです、監察官様! これは、その……!」


ミレーユが慌てて涙を滲ませようとする。だが。


「第二王子殿下。婚約者を持つ御身が、その義妹と密会とは。……この件、王家に報告させていただく」


フェルディナンド卿の声は、氷のようだった。涙も演技も、王家の監察官の前では通用しない。


私は静かに、彼らへ視線を向けた。


「あら。わたくし、何も申しておりませんわ。ただ、冬薔薇をご案内しただけ」


淡々と。感情の一切を排して。


「見られて困ることを、なさっていたのは――あなた方ですものね」


夕闇の中、渡り鳥の羽音が、遠く空を渡っていった。



雪解けの社交界。


ノーヴィク公爵邸の大広間に、貴族たちが集った。だがその空気は、いつもと違って張り詰めていた。


王家の監察官フェルディナンド卿の臨席。そして――先の密会が、すでに王家に報告されていたのだ。


ミレーユは、追い詰められていた。


こうなれば、と彼女は最後の切り札を切ろうとした。前世と同じ、あの手を。


「皆さま、聞いてください! お姉さまが……アルヴィーナお姉さまが、わたくしを毒殺しようとしているのです!」


菫色の瞳から、大粒の涙。震える指が、私を指し示す。


「この毒瓶が、証拠ですわ! お姉さまの名で取り寄せられた、恐ろしい毒が……!」


ざわめきが広間を満たす。だが。


私は、優雅に一歩前へ出た。


「あら、ミレーユ。その毒瓶」


静かに。ただ静かに、私は問うた。


「――どこから来たのかしら?」


ミレーユの動きが、止まる。


「そ、それは……お姉さまの名で、取り寄せられたもので……」


「王都の薬種商、ヴェルデ商会。取り寄せの記録には、確かにわたくしの名がございますわね。ですが」


私は、懐から一枚の書状を取り出した。エルナが写し取ってきた、商会の帳簿の副本。


「この日、わたくしは終日、辺境の防衛会議に出席しておりました。父公爵と、辺境騎士団長の署名入りの証言もございます。取り寄せに、行けるはずがございませんの」


「そ、それは……何かの、間違いですわ……」


「では、誰が? わたくしの名を騙り、この毒を取り寄せたのは」


私はさらに、二枚目の書状を掲げた。


「薬種商の証言によれば、注文に来たのは――蜂蜜色の髪の、若い令嬢。フードを目深に被っていたけれど、袖口から覗いたのは……菫の刺繍の入った、手袋だったそうですわ」


広間の視線が、一斉にミレーユへ集まる。彼女の手には、まさにその菫の刺繍の手袋が。


「ち、違う! わたくしじゃない! お姉さまが、わたくしを陥れようと――!」


「監察官様」


私は彼女の絶叫を遮り、フェルディナンド卿へ向き直った。


「あとの裁定は、あなた様に。わたくしは、ただ真実を並べただけですわ」


そのとき、青ざめたセドリックが叫んだ。


「フェルディナンド卿、これは……ミレーユが、勝手に……僕は関係ない!」


(あら。義妹を庇うどころか、真っ先に切り捨てて。愚かなお方。ええ、前世からずっと存じておりましてよ)


フェルディナンド卿が、重々しく頷いた。


「ミレーユ・ノーヴィク嬢。貴殿には、毒物の不正取り寄せおよび、公爵令嬢への誣告の疑いがある。同行を願おう」


「いや……いやよ! なんで! なんでわたくしが!」


崩れ落ちるミレーユ。前世で私が着せられた罪が、そっくりそのまま、仕掛けた本人へと返っていく。


(可哀想な妹、でしたっけ? ええ、本当に。自分で仕掛けた罠に、自分で落ちるのですもの)


私は、静かにその様を見下ろしていた。喚きもせず、勝ち誇りもせず。


ただ、雪解けのように、静かに。



すべての因果が、回り終えた。


セドリック第二王子は、密会と不品行を咎められ、婚約者の座を剥奪。辺境の警備隊へと送られた。甘い顔で女性の人気を集めた王子は、もう社交界に居場所を持たない。


ミレーユは、毒物の不正取り寄せと誣告の罪で、修道院送りとなった。可哀想な妹を演じ続けた少女は、誰の同情も得られぬまま、雪深い北の地へ消えていった。


そして。


「アルヴィーナ」


書斎に呼ばれた私を待っていたのは、父オルヴァル公爵だった。


厳めしいはずのその顔に、初めて見る色があった。悔恨と、戸惑い。


「お前が……辺境に迫る魔物襲来を予見し、防衛の要を整えていたと聞いた。ヴェルデ商会の記録を押さえ、監察官を導いたのも、すべてお前だと」


「ええ、お父様。わたくしは、この家の娘ですもの。家名を守るのは、当然のことですわ」


父の肩が、震えた。


「私は……お前を、屋根裏に追いやった。ミレーюばかりを可愛がり、お前を一度も、顧みなかった」


(ええ。前世では、わたくしの処刑にすら、異を唱えなかった。……でも、それは口にいたしませんわ。今世のあなたは、まだその罪を犯してはいないのですから)


父が、深く頭を垂れた。武門の公爵が、実娘に。


「すまなかった。私は、お前という娘の価値を、見誤っていた」


失ってからではなく、失う直前に気づいた後悔。


私は、しばらく黙って父を見つめていた。許すとも、恨むとも言わずに。


「お顔を上げてください、お父様」


やがて、私は静かに言った。


「過ぎたことは、もう問いませんわ。ただ――これからは、わたくしを、この家の娘として、正しく見てくださいまし。それで十分です」


父は、何度も頷いた。目の縁に、光るものがあった。


書斎を出ると、窓の外はよく晴れていた。


屋根の雪が、ぽたり、ぽたりと解けて落ちていく。


長い冬が、終わろうとしていた。



春が、来た。


初春の朝。雪解けの水が小川となって流れ、辺境の空に、渡り鳥の群れが帰っていく。北へ、故郷へと向かう、白い翼の列。


私は、公爵邸の庭に立っていた。もう屋根裏の少女ではない。自らの足で立ち、盤面をひっくり返した、ノーヴィク公爵家の令嬢として。


渡り鳥の群れを見上げる。前世、私が最期に聞いた、あの羽音。


(約束を、まだ果たしていない)


そのとき。


群れの先頭を、一羽だけが逆行した。北へ向かう仲間から離れ、まっすぐに、こちらへ舞い降りてくる白い鳥。


その輪郭が、光の中で、ぐにゃりと歪む。


羽が、灰銀の髪へ。翼が、逞しい肩へ。


地に降り立ったのは――軍装を纏った、長身の男だった。灰銀の髪。竜眼と呼ばれる、金色の瞳。冷酷な竜人将軍として、王国中に恐れられる男。


ヴォルフガング・ラークス。


だが、その正体を、私は知っている。


凍える冬の屋根裏で、唯一、私に寄り添ってくれた渡り鳥の精霊――《春告げの君》。


彼は、私の前で片膝をついた。氷の指揮官と呼ばれる男が、一人の令嬢の前に、こうべを垂れて。


「約束通り、迎えに来た」


その声は、噂とは似ても似つかぬほど、柔らかかった。


「今度は、君が春を待たずに逝ったりしないように」


金の瞳が、揺れていた。千年の時を、たった一人の少女との約束だけを胸に、渡ってきた瞳。


「遅くなって、すまない。前世では……間に合わなかった。君が春を待てずに逝ったこと、私はずっと――」


言葉が、途切れる。冷酷なはずの竜人将軍が、子供のように、うつむいた。


私は、思わず微笑んだ。


「あら。噂の冷酷な将軍様が、そんなお顔をなさるの?」


「……からかうな」


拗ねたように、彼が呟く。そのギャップに、胸の奥が温かくなる。


私は、彼の前に歩み寄った。


「ヴォルフガング。いえ――《春告げの君》」


その手を、取る。


「約束は、覚えていましてよ。『次に春が巡る時、必ず迎えに来る』。ずっと、ずっと待っていましたわ。前世でも、今世でも」


彼が顔を上げた。金の瞳から、一筋、こぼれ落ちるものがあった。


「アルヴィーナ……」


私の名を呼ぶ声だけが、どうしようもなく、優しかった。


雪解けの水が、きらきらと光る。頭上を、渡り鳥が渡っていく。


断頭台で果たせなかった約束が、今、春とともに成就する。


「さあ、参りましょう」


私は、彼の手を握り返した。


「――ああ、そうそう。渡り鳥がまた、新しい光景を運んでまいりましたの。隣国が、この辺境に、良からぬことを企んでいるようですわ」


私は、いたずらっぽく微笑んだ。


「でも、だったら話は簡単ですわ。全部、先回りしてやりましてよ。……今度は、あなたと二人で」


彼が、ふっと笑った。冷酷な将軍の仮面が剥がれ、千年前の精霊のような、穏やかな笑みが浮かぶ。


「ああ。今度は、二人で」


春の風が、二人の間を吹き抜けた。


長い長い冬を越えて。渡り鳥の約束は、ようやく、果たされた。

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