蒼銀の公爵令嬢は微笑む
レティシア・ヴァレンシュタインは、自分が破滅する未来を知っていた。
それは予言でもなければ神託でもない。
王立学院の卒業記念舞踏会。
大勢の貴族が集まるその場で、第二王子アルフォンスから婚約破棄を宣言される。
さらに平民出身の少女を虐げた罪を着せられ、公爵家ごと失脚する。
そんな未来が、ある朝突然、彼女の頭の中へ流れ込んできた。
まるで他人の人生を覗き見たような、不思議な記憶だった。
最初は悪夢だと思った。
だが何日も経っても忘れられない。
むしろ細部まで鮮明になっていく。
王子の冷たい声。
群衆の嘲笑。
父の絶望した顔。
母の涙。
そして処刑台へ向かう自分。
あまりにも生々しかった。
「お嬢様、お加減が優れませんか?」
侍女のマリアが心配そうに尋ねる。
レティシアは首を振った。
「大丈夫よ」
しかし大丈夫ではなかった。
もしあれが未来ならば、何かを変えなければならない。
ただ泣いて運命を受け入れるつもりなどない。
ヴァレンシュタイン公爵家は三百年以上続く名門だ。
王国の財政の三割を支える巨大な商業網を持つ。
そんな家を、自分のせいで滅ぼしてたまるものか。
その日の夕食。
父のローレンス公爵がワインを口に運んだ瞬間、レティシアは口を開いた。
「お父様。婚約についてお話があります」
食卓の空気が止まった。
兄のエドワードが吹き出しそうになる。
母のクラリスは優雅に微笑んでいる。
「珍しいな」
父が言う。
「お前から政治の話をするとは」
「必要なことです」
「聞こう」
レティシアは迷わなかった。
「第二王子殿下との婚約は解消すべきです」
兄が盛大にむせた。
父の眉がわずかに動く。
「理由は」
「殿下は近いうちに私を切り捨てます」
「根拠はあるのか」
「あります」
レティシアは静かに答えた。
「殿下は平民の少女エミリアと頻繁に接触しています。さらに宮廷の一部派閥がその関係を利用しようとしている」
父は黙っている。
だが目だけは鋭かった。
「続けろ」
「彼らは真実の愛という旗印を掲げるでしょう。そして婚約者である私を悪役に仕立て上げる」
「面白い」
兄が口元を緩めた。
「随分具体的だな」
「実際に動いているからです」
「証拠はあるのか?」
「まだありません」
正直に答えた。
しかしレティシアには確信があった。
未来の記憶が本当なら、間違いなくそうなる。
父はしばらく考え込んだ後、静かに笑った。
「証拠もない話であれば本来相手にしない」
レティシアの胸が沈む。
だが次の言葉は予想外だった。
「だが、お前がここまで真剣に話すのは初めてだ」
「お父様」
「調査させよう」
兄がにやりと笑う。
「面白くなってきたな」
こうして、公爵家は密かに動き始めた。
二週間後。
調査結果を受けた父の表情は厳しかった。
「驚いたな」
執務室でそう呟く。
机の上には大量の報告書。
第二王子アルフォンスが、確かに平民少女エミリアへ接近している記録が並んでいた。
さらに問題なのはその裏側だった。
王妃派と対立する貴族たちが動いている。
彼らは王位継承争いを有利にするため、アルフォンスを担ぎ上げようとしていた。
「お前の勘は当たっていたようだ」
父が言う。
「ですが、まだ間に合います」
レティシアは即座に答えた。
「婚約解消を急ぐべきです」
「正面から行えば敵を刺激する」
「だからこそ先に足場を固めるのです」
父は娘を見つめた。
以前なら考えられないほど冷静だった。
まるで老獪な政治家のように。
「……誰だ、お前は」
思わずそんな言葉が漏れる。
レティシアは苦笑した。
「ヴァレンシュタイン家の娘です」
それだけは間違いなかった。
その頃。
アルフォンス王子は学院の庭園でエミリアと語り合っていた。
「殿下」
「どうした」
「レティシア様は素敵な方です」
王子は不快そうに顔をしかめた。
「またその話か」
「でも」
「彼女は傲慢だ」
エミリアは黙る。
事実ではない。
彼女は何度もレティシアに助けられていた。
身分差別を受けた時も。
試験に悩んだ時も。
相談に乗ってくれたのはレティシアだった。
だが王子は信じない。
周囲の貴族たちも、王子が望む話ばかりを耳に入れる。
少しずつ歯車が狂っていた。
そしてその歯車を回している者がいる。
王宮の奥深く。
暗い部屋で一人の男が笑った。
「順調だ」
財務卿ギルバート。
王国屈指の策士と呼ばれる男だった。
彼の狙いはただ一つ。
ヴァレンシュタイン公爵家の排除。
巨大すぎる権力を持つ公爵家は邪魔だった。
だから王子を利用する。
平民少女を利用する。
貴族社会の不満を利用する。
すべては計画通り。
そう思っていた。
しかし彼は知らない。
レティシアもまた動き始めていることを。
数日後。
王都最大の商会が突然、公爵家との独占契約を発表した。
続いて鉱山組合。
海運ギルド。
地方領主たち。
次々にヴァレンシュタイン家との連携を強化していく。
ギルバートの顔から笑みが消えた。
「なぜだ」
情報が遅れている。
いや違う。
相手が早すぎる。
まるで未来を知っているかのように。
その夜。
レティシアは自室の窓から月を見上げていた。
未来は変わったのだろうか。
まだ分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
処刑台へ向かうだけの人生は選ばない。
誰かの都合で悪役にされたまま終わるつもりもない。
敵が王子でも。
宮廷でも。
王国そのものでも。
守るべきものがあるなら戦う。
レティシアは静かに微笑んだ。
その笑みを見た者は少ない。
社交界で冷徹と恐れられる公爵令嬢。
だがその瞳には確かな闘志が宿っていた。
王国を揺るがす争いは、まだ始まったばかりだった。
翌朝。
レティシア・ヴァレンシュタインは、王立学院へ向かう馬車の中にいた。
窓の外では王都の街並みが流れていく。
市場は活気に満ち、商人たちの声が響いている。
そんな景色を眺めながら、レティシアは静かに考えていた。
【敵を知りなさい】
前世の記憶が告げている。
感情で動けば負ける。
相手が何を考え、どう動くのかを知らなければならない。
そして今、最も警戒すべき人物は第二王子アルフォンスだった。
「お嬢様」
向かいに座る侍女マリアが声をかける。
「何かお悩みですか?」
「少しね」
「学院の件でしょうか」
「ええ」
レティシアは頷いた。
学院は貴族社会の縮図だ。
未来の断罪劇も、そこで準備されていた。
だからこそ無視できない。
「今日から少し動くわ」
「かしこまりました」
馬車が学院へ到着する。
巨大な門。
美しい庭園。
白亜の校舎。
そこには既に多くの生徒たちが集まっていた。
そして。
視線を向けた先で、一人の少女が立っていた。
栗色の髪。
透き通るような瞳。
平民出身の少女――エミリアだった。
未来では【聖女】と呼ばれる存在。
そして、自分を破滅へ導く重要人物。
だが。
レティシアは眉をひそめた。
【様子がおかしい】
未来の記憶にあるエミリアは、もっと明るい少女だった。
しかし今の彼女はどこか怯えている。
周囲の貴族たちから距離を置かれていた。
「平民のくせに」
「殿下に近づいているそうよ」
「身の程知らずね」
陰口が聞こえる。
エミリアは俯いた。
その姿を見て、レティシアはため息をついた。
【なるほど】
未来の自分は、この状況に嫉妬したのだろう。
しかし今のレティシアは違う。
目の前の少女は敵というより被害者に見えた。
「レティシア様」
突然呼び止められる。
振り向くと数人の令嬢たちが立っていた。
侯爵家や伯爵家の娘たちだ。
いわゆる取り巻きである。
「おはようございます」
「おはよう」
レティシアは微笑む。
すると一人の令嬢が口を開いた。
「エミリアという平民ですが、どうなさいますか?」
「どういう意味かしら?」
「殿下に近づいておりますので」
レティシアは冷たい視線を向けた。
「だから?」
令嬢たちが固まる。
「いえ、その……」
「私は誰かをいじめろと命令した覚えはないわ」
静かに言った。
だがその声には圧力があった。
「もし勝手な行動を取ったのなら控えなさい」
「も、申し訳ありません」
令嬢たちは慌てて頭を下げる。
レティシアは内心で苦笑した。
未来では彼女たちの行動すべてが自分の罪として扱われた。
ならば最初から止めておけばいい。
話は単純だ。
その時。
「レティシア」
聞き慣れた声がした。
周囲がざわめく。
第二王子アルフォンスが歩いてきたのだ。
端正な顔立ち。
華やかな金髪。
確かに絵になる人物だった。
だがレティシアの心は全く動かない。
処刑台の夢を見た後ではなおさらだった。
「ごきげんよう、殿下」
「少し話がある」
「ここでですか?」
「ああ」
王子は当然のように頷く。
その態度にレティシアは違和感を覚えた。
婚約者としての敬意がまるでない。
まるで部下を呼びつけるような口調だった。
「ではお聞きします」
アルフォンスは腕を組む。
「最近、妙な噂を聞く」
「噂ですか」
「私とエミリアのことだ」
やはり来た。
レティシアは表情を変えない。
「それで?」
「お前が流しているのか」
周囲が静まり返る。
しかしレティシアは即答した。
「違います」
「本当にか?」
「そもそも事実無根なら噂になりません」
アルフォンスの眉が動く。
「何が言いたい」
「殿下はエミリアさんと親しくしておられるのでしょう?」
「それは……」
「ならば噂が生まれるのは当然です」
反論できない。
事実だからだ。
周囲から小さな笑いが漏れた。
王子の表情が険しくなる。
未来のレティシアなら感情的になっていただろう。
だが今の彼女は違う。
怒れば相手の思う壺だ。
「婚約者として忠告いたします」
レティシアは静かに続けた。
「軽率な行動はお控えください」
「軽率だと?」
「王位継承権を持つお立場です」
その一言で周囲がさらに静かになる。
「ご自身だけの問題ではありません」
アルフォンスは何も言えなかった。
正論だったからだ。
だが正論ほど人を怒らせるものはない。
「相変わらず説教好きだな」
王子は吐き捨てた。
「失礼します」
レティシアは一礼する。
それだけだった。
王子に縋ることも。
怒鳴ることも。
嫉妬を見せることもない。
その姿にアルフォンスは逆に戸惑った。
【おかしい】
そう思った。
以前のレティシアなら、今頃感情的になっていたはずだ。
しかし目の前の彼女は違う。
まるで別人だった。
レティシアが去った後。
エミリアは小さく呟いた。
「レティシア様……」
彼女の胸には疑問があった。
噂で聞くレティシアと。
今日見たレティシアが。
あまりにも違いすぎたのだ。
その頃。
王宮の一室では、財務卿ギルバートが険しい顔で報告書を読んでいた。
「失敗だと?」
部下が青ざめる。
「申し訳ありません」
「第二王子と公爵令嬢の仲は悪化していないのか」
「以前ほどではありません」
ギルバートは舌打ちした。
本来なら今頃、レティシアは嫉妬に狂い始めているはずだった。
だが現実は違う。
冷静すぎる。
慎重すぎる。
まるで未来を知っているように。
「面白い」
だが次の瞬間。
男は不気味に笑った。
「ならば直接潰してやろう」
窓の外では夕日が沈み始めていた。
王国を揺るがす陰謀は、静かに動き出している。
そしてレティシアもまた知らなかった。
自分の運命を変える戦いが、想像以上に危険なものになることを。
学院祭の前日。
レティシアは父ローレンス公爵から一通の報告書を受け取った。
「集まったぞ」
「ありがとうございます、お父様」
机の上には分厚い書類が並んでいる。
財務卿ギルバートによる裏金工作。
貴族たちへの脅迫。
第二王子アルフォンスの名を利用した派閥形成。
そしてエミリアを担ぎ上げることで王家と公爵家を対立させようとした計画。
すべてが証拠付きで記されていた。
兄のエドワードが笑う。
「これだけ揃えば逃げられないな」
「ええ」
レティシアは静かに頷いた。
ようやく終わる。
長かった戦いも。
未来の破滅も。
その翌日。
王立学院の大講堂には貴族や王族が集まっていた。
アルフォンス王子。
エミリア。
そして国王もいる。
ギルバートは余裕の笑みを浮かべていた。
まだ自分の敗北を知らない。
やがて壇上にアルフォンスが立つ。
「皆に伝えることがある」
会場が静まる。
レティシアは目を閉じた。
未来の記憶ではここから始まる。
婚約破棄。
断罪。
破滅。
だが。
今回は違った。
「まず謝罪をしたい」
その言葉に会場がざわつく。
アルフォンスは真っ直ぐレティシアを見た。
「レティシア・ヴァレンシュタイン」
「はい」
「私は君を誤解していた」
誰も予想していなかった言葉だった。
アルフォンスは続ける。
「私が信じたものの中には偽りがあった」
ギルバートの顔色が変わる。
国王が冷たく言った。
「連行しろ」
近衛騎士が動く。
「なっ!?」
ギルバートが立ち上がる。
「陛下!」
「証拠はすべて揃っている」
国王の声は厳しかった。
「お前は王家を利用し、派閥争いを激化させた」
「違う!」
「黙れ」
騎士たちに取り押さえられながら、ギルバートはレティシアを睨んだ。
「貴様か!」
レティシアは答えない。
もう勝負はついていた。
ギルバートはそのまま連行されていった。
重苦しい沈黙。
その中でエミリアが前へ出る。
「皆様にお伝えしたいことがあります」
震える声だった。
だが真剣だった。
「レティシア様は私をいじめてなどいません」
会場がどよめく。
「むしろ何度も助けてくださいました」
アルフォンスは目を伏せた。
それが真実だった。
自分は噂ばかり信じていたのだ。
しばらくの沈黙の後、王子は口を開く。
「レティシア」
「何でしょう」
「婚約についてだが」
レティシアは微笑んだ。
「その件ですが」
周囲の貴族たちが息を呑む。
「こちらからお断りいたします」
静寂。
そして。
エドワードが吹き出した。
「ははは!」
国王まで笑いを堪えている。
アルフォンスは呆然としていた。
「私を振るのか?」
「はい」
「理由を聞いても?」
レティシアは堂々と答えた。
「信頼を失ったからです」
王子は反論できなかった。
完全な敗北だった。
「……そうか」
アルフォンスは苦笑した。
「君には敵わないな」
こうして婚約は正式に解消された。
だがそれは断罪ではない。
互いの合意による円満な解消。
未来とは全く異なる結末だった。
数か月後。
ヴァレンシュタイン公爵領。
広大な葡萄畑を見渡しながら、レティシアは風を感じていた。
「ようやく終わりましたね」
隣でマリアが微笑む。
「はい」
空は青かった。
処刑台もない。
絶望もない。
守りたかった家族もいる。
父も母も兄も笑っている。
そしてエミリアとも友人になれた。
未来は変えられたのだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「笑っておられます」
レティシアは少し驚いた。
頬に手を当てる。
確かに笑っていた。
破滅を恐れていた少女はもういない。
自分の力で未来を切り開いた一人の女性がいるだけだった。
風が吹く。
どこまでも自由な風だった。
レティシア・ヴァレンシュタインは空を見上げる。
そして静かに呟いた。
「今度こそ、私の人生ね」
その声は優しく風に溶けていった。




