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きみがいるだけで

作者: 久遠 睦

第一部:完璧という鎧


第一章:有能さの鎧


東京、丸の内。ガラス張りの高層ビルが空を切り取る街。その一角にある大手商社のオフィスで、青山里美(28)の一日は始まる。彼女のデスクは、まるでショールームのように整然としていた。寸分の狂いもなく並べられた文房具、優先順位に従って完璧に分類されたデジタルファイル。彼女が送信するメールは常に簡潔かつ的確で、複雑なプロジェクトを涼しい顔で捌いていく様は、同僚たちの間では半ば伝説と化していた。

「青山さん、さすがだね。この前のプレゼン資料、役員からも絶賛だったよ」

「ありがとうございます。お役に立てて何よりです」

感情の起伏を見せない穏やかな微笑み。それが、彼女の定位置だった。周囲は、仕事もプライベートも完璧な、非の打ちどころのない女性だと思っている。だが、その完璧さは、彼女が意識的に身にまとった鎧に過ぎなかった。

彼女の内面では、常に途方もないプレッシャーが渦巻いていた。仕事は、努力と成果が理論的に結びつく、予測可能で制御可能な世界だ。だからこそ、彼女はそこに全精力を注ぎ込む。完璧主義は彼女の性分であると同時に、最も効果的な自己防衛の手段でもあった 。

「青山さん、もしよかったら、駅前にできた新しいイタリアンでランチでもどうかな?」

営業部の若手エースが、少し緊張した面持ちで声をかけてきた。一対一の誘い。彼女の脳内で、即座に警報が鳴り響く。予測不能な会話、評価基準の曖昧な関係性。それは、彼女が最も苦手とする領域だった。

「お誘いありがとうございます。ただ、申し訳ありません。午後イチでまとめないといけない資料がありまして。またの機会にぜひ」

断りの言葉は、何度も繰り返してきたせいで、淀みなく滑らかに出てくる。相手を傷つけず、しかし確実に距離を置く。その技術だけは、仕事同様に完璧だった。恋愛やプライベートな人間関係は、仕事のように明確な成功法則が存在しない。だからこそ、彼女は「失敗」する可能性のある土俵に上がることを極端に恐れていた 。

本当は、恋愛に憧れがないわけではない。ただ、どうすればいいのかが全く分からないのだ。頑張り方が分からない。だから、いつも後回しにしてきた。仕事という名の鎧をまとい、その内側で小さくうずくまっている自分には、誰も気づかない。それでいい、と彼女は自分に言い聞かせる。今日もまた、完璧な「青山里美」としての一日が過ぎていく。


第二章:喧騒の中の視線


その夜、部署の歓送迎会が東京駅近くの賑やかな居酒屋で開かれた。ガラス張りのモダンな店内で、仕事終わりの解放感に満ちた声が飛び交う 。里美はこの喧騒が苦手だった。オフィスの静寂の中でこそ能力を発揮できる彼女にとって、この無秩序な熱気は消耗するだけだ。ウーロン茶の入ったグラスを片手に、当たり障りのない相槌を打ちながら、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。

「ここ、いいかな?」

不意に隣からかけられた声に顔を上げると、そこには一つ年上の先輩、田中健人たなか けんとが立っていた。別の部署だが、いつも明るく、誰にでも気さくに話しかける姿を遠目に見ていた。太陽のような人だな、というのが彼女の印象だ。

「あ、はい。どうぞ」

健人はにこやかに隣に腰を下ろした。会話は当たり障りのない仕事の話から始まった。その領域ならば、里美も鎧を脱がずに済む。安心して淀みなく言葉を返していると、健人はふと話題を変えた。

「青山さんってさ、会社にいる時と、今みたいな時と、雰囲気違うよね」

どきり、と心臓が跳ねた。スイッチを入れていることを見抜かれたのだろうか。動揺を悟られまいと、曖昧に微笑む。その時だった。テーブルの端に置かれた唐揚げを取ろうとして、彼女の箸が滑る。唐揚げは、コロコロと無様にテーブルの上を転がった。

「あっ……!」

顔が熱くなる。またやってしまった。仕事では決してしないような、おっちょこちょいなミス。完璧な仮面が剥がれ落ちる瞬間に、羞恥心がこみ上げる。慌てて拾おうとする彼女を、隣の健人が穏やかな声で制した。そして、悪戯っぽく笑いながら、こう言ったのだ。

「大丈夫、大丈夫。見ていたらわかるよ」

その言葉は、唐揚げを落としたことだけを指しているのではないと、里美には直感的に分かった。それは、彼女が必死に隠してきた、仕事用の完璧な自分と、不器用で天然な素の自分との間にある大きなギャップ、そのすべてを肯定するような響きを持っていた 。

他の誰もが彼女の完璧さを称賛し、時に敬遠する中で、健人だけが、その鎧の隙間から漏れ出る不器用さを、欠点ではなく、ただ「わかるよ」と受け止めてくれた。非難も、嘲笑もない。ただ、温かい眼差しがあるだけ。

それは、誰かに本当の自分を「見られた」初めての瞬間だった。恐ろしいはずなのに、なぜか心の奥がじんわりと温かくなるのを、里美は感じていた。


第三章:戸惑いの視線


飲み会の翌日から、里美の世界は少しだけ色を変えた。オフィスで健人の姿を見かけるたびに、心臓が大きく音を立てるようになったのだ。廊下ですれ違う時、給湯室で鉢合わせた時、彼女は決まって緊張し、視線をどこにやればいいのか分からなくなる。恋愛に奥手な人間が好意を抱き始めた時の、典型的な反応だった 。

無意識のうちに、彼女の視線は健人を追っていた。彼はいつも人の輪の中心にいた。後輩に的確なアドバイスを送り、同僚と楽しそうに談笑する。その姿は眩しく、そして遠かった。

彼女の頭の中では、自己否定的な思考が渦巻き始める。仕事ができる女性が恋愛において陥りがちな、過剰な論理的思考と自己分析の罠だった 。

(……ただ、親切なだけだ。あの人は誰にでも優しいんだから)

(仕事もできて、あんなに明るくて人気者なんだ。彼女がいないはずがない)

(私に声をかけてくれたのだって、きっと気まぐれ。深い意味なんてない)

そう結論づけることで、彼女は自分の心に予防線を張る。期待して、傷つくのが怖い。だから、芽生え始めた淡い感情に気づかないふりをした。今まで以上に仕事に没頭し、分厚くなった鎧の内側で、健人への意識を必死に押し殺そうと努めた。だが、一度動き出してしまった心は、もう彼女の制御下にはなかった。


第二部:最初の光


第四章:静止した時間


残業を終え、オフィスフロアにはもうほとんど人影はなかった。壁の時計が午後九時を指している。里美は一人、エレベーターホールへと向かった。静寂の中、到着したエレベーターに乗り込む。閉まりかけたドアの隙間から、すっと滑り込んできた人影があった。

「お疲れ様」

息を切らすでもなく、涼やかな声。健人だった。

二人きりの密室。エレベーターという、どこでもない場所。職場という役割から解放された、束の間の空白地帯。その狭い空間が、里美の緊張を極限まで高めた。彼の纏う柔らかな香水の匂い、静かな呼吸の音。全てがやけに鮮明に感じられる。彼女は階数を示すデジタル表示をただじっと見つめ、心臓の音を悟られまいと必死だった。

(何か話さなきゃ……でも、何を?)

頭の中は真っ白で、気の利いた言葉一つ浮かんでこない。沈黙が重くのしかかる。

チン、と軽い音がして、エレベーターが1階に到着した。ドアが開き始める。安堵と、ほんの少しの寂しさが胸をよぎった、その瞬間。

「この後、よかったら食事でもどう?」

健人の声は、穏やかで、何気なかった。しかし、そのタイミングは絶妙だった。もし事前に誘われていたら、彼女はいつものように理由をつけて断っていただろう。考える時間があれば、彼女の複雑な防衛本能が作動してしまうからだ 。だが、この不意打ちのような、それでいて優しい響きを持つ誘いは、彼女の思考が追いつく前に、心の扉をすり抜けてきた。

「……え?」

「ダメかな?」

首を傾げて笑う健人の顔を、里美は呆然と見つめていた。そして、気づいた時には、彼女の口から小さな声がこぼれていた。

「……はい」

それは、彼女が長年築き上げてきた鉄壁の鎧を、いとも容易く貫いた、最初の一筋の光だった。


第五章:もう一人の自分


健人が連れて行ってくれたのは、丸の内の高層ビルにある、夜景の美しい和食ダイニングだった。個室に案内され、二人きりになると、里美の緊張は頂点に達した 。

オフィスでの彼女は、見る影もなかった。おしぼりで手を拭けば、派手に水を飛ばしてしまう。メニューに視線を落とせば、緊張で文字が頭に入ってこない。健人が何かを話しかけてくれても、気の利いた返事ができず、しどろもどろになる。これが、彼女の「天然」な素の姿だった。

だが、健人はそんな彼女を馬鹿にしたり、呆れたりする素振りを一切見せなかった。彼女が言葉に詰まれば、辛抱強く待ち、別の質問で会話を繋いでくれる。彼女の失敗も、まるで面白いものを見つけたかのように、楽しそうな目で見つめている。その優しさが、里美の心を少しずつ解きほぐしていった 。

健人は、仕事以外のことを巧みに引き出してくれた。休日の過ごし方、好きな音楽、子供の頃の話。彼に促されるままに自分のプライベートな話をすることは、彼女にとって未知の体験だったが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、自分のことをもっと知ってほしいという気持ちが芽生えていることに、彼女自身が驚いていた 。

食事も終盤に差し掛かった頃、里美はアルコールの力を少しだけ借りて、ずっと胸につかえていた質問を口にした。

「あの……田中先輩って、彼女、いるんですか?」

言ってしまってから、心臓が口から飛び出しそうになる。もし「いるよ」と答えられたら、この温かい時間は終わってしまう。

健人は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふっと笑みをこぼした。

「いないよ」

その、たった四文字。

その言葉が耳に届いた瞬間、里美の心に、堰を切ったような安堵と、説明のつかない喜びが広がった。なぜこんなに嬉しいのだろう。その答えは、もう明らかだった。


第六章:緑の線の先に


その夜、里美は健人にお礼のLINEを送った。そこから、二人の間の緑色の吹き出しのやり取りが始まった。

最初は、二、三日に一度の事務的な連絡だったかもしれない 。だが、それはすぐに毎日の習慣へと変わっていった 。

『おはよう。今日も一日頑張ろう』

『お疲れ様。さっきの会議、大変だったね』

『今日のランチ、美味しかったよ』

健人から送られてくるメッセージは、他愛もないことばかり。でも、その一つ一つが、里美の一日を彩った。朝の挨拶で始まり、夜の「おやすみ」で終わる。その安定したリズムが、人間関係に不慣れな彼女に、大きな安心感を与えてくれた 。

顔を合わせるのが苦手な彼女にとって、文字でのコミュニケーションは、自分のペースで心を開ける安全な場所だった 。画面の向こうの彼を想いながら言葉を選ぶ時間は、もどかしくも、甘い。

変化は、会社の同僚たちの目にも明らかだった。デスクでスマートフォンを見て、ふと頬を緩ませる里美の姿が、頻繁に見られるようになったのだ。氷のようだと噂されていた彼女の周りの空気が、少しずつ柔らかくなっていく。分厚い鎧に、確かなひびが入り始めていた。


第三部:疑念の影と夜明け


第七章:嫉妬の声


変化は、思わぬところから波紋を広げた。里美に密かに想いを寄せていた同期の男性、鈴木がその一人だった。彼女の柔らかな表情の変化と、健人との親密な空気を感じ取った彼は、焦りを覚えていた。

ある日の昼休み、鈴木は意を決して里美を食事に誘った。

「青山、よかったら今日、二人でランチ行かないか?」

里美は、いつものように丁寧な言葉で、しかし以前よりも明確な意志を持って断った。彼女の心には、もう健人以外の男性が入る隙間はなかった。

その拒絶にプライドを傷つけられた鈴木は、去り際に、棘のある言葉を投げかけた。

「そっか、残念。……まあ、田中先輩、狙ってる人多いから大変だよな。頑張ってね」

その声は、表面的には励ましているように聞こえたが、その裏には冷たい嘲りが滲んでいた。その一言は、毒の矢のように、里美の最も脆い部分に突き刺さった。


第八章:沈黙への後退


その夜、里美は自室のベッドの上で、鈴木の言葉を何度も反芻していた。

(狙ってる人が、多い……)

その言葉が、彼女の心の奥底に眠っていた不安と自己肯定感の低さを、一気に呼び覚ました。彼女の完璧主義と失敗への恐怖が、再び鎌首をもたげる 。

(そうに決まってる。あの人は格好良くて、仕事もできて、誰にでも優しい)

(私みたいに不器用で、恋愛の仕方も知らない人間を、本気で相手にするはずがない)

(きっと、もっと綺麗で、もっと気の利く、完璧な女性がたくさんいるんだ)

(今、私に優しくしてくれるのは、ただの一時的な気まぐれ。いつか、彼は本当の相手を見つける)

恋愛を理論的に考え、最悪の事態を想定して自己防衛する、彼女の悪い癖だった 。健人の優しさは本物だと信じたい気持ちと、自分が選ばれるはずがないという諦めが、彼女の中で激しくぶつかり合う。そして、彼女は傷つくことから逃げるために、後者を選んだ。

翌日から、里美は再び昔の彼女に戻った。オフィスでは、一切の感情を排した「真面目モード」全開の仕事人。周囲を寄せ付けない、冷たい空気を纏う。

そして、その変化は、健人とのLINEにも現れた。毎日続いていた温かいやり取りは途絶え、彼女からの返信は短く、事務的になり、やがて既読のまま放置されるようになった。二人の間に築かれつつあった心地よいリズムは、無残に断ち切られた 。


第九章:問いかけ


数日が過ぎた。健人は、里美の急な変化に戸惑い、そして深く懸念していた。彼女が意図的に自分を避けているのは明らかだった。彼は、彼女が再び厚い鎧の中に閉じこもってしまった理由を知りたかった。

ある日の夕方、健人は会議室から出てきた里美を呼び止めた。人気のない廊下で、彼はまっすぐに彼女の目を見て、静かに尋ねた。

「最近、どうしたの?何かあった?」

その単刀直入で、けれど心からの心配が滲む声が、里美の張り詰めていた心の琴線を、ぷつりと断ち切った。

完璧な自分を演じ続けることへの疲労。彼を好きな気持ち。彼にふさわしくないという絶望。失うことへの恐怖。抑え込んでいた感情の全てが、濁流となって溢れ出した。

「……っ、私じゃ、ダメなんです!」

涙声で、言葉が途切れ途切れに紡がれる。

「田中先輩は、素敵で、仕事もできて、みんなに好かれてて……。それに比べて私は、不器用で、おっちょこちょいで、恋愛なんて全然わからなくて……。先輩に優しくしてもらえたのだって、きっと、たまたま……。もっと素敵な人がたくさんいるのに、私なんかが隣にいたら、迷惑だって……!」

それは、彼女の告白だった。彼への想いと、自分自身への深い劣等感。長年彼女を縛り付けてきた、弱くて臆病な、ありのままの心の叫びだった。彼女はついに、最後の鎧さえも脱ぎ捨て、丸裸の心を彼の前に差し出したのだ 。


第十章:新しい一歩


里美の涙の告白を、健人は最後まで黙って聞いていた。そして、彼女が言葉を詰まらせ、俯いてしまった時、彼は驚くほど優しい声で言った。

「俺が好きなのは、その里美だよ」

里美は、信じられないというように顔を上げた。濡れた瞳が、健人の姿を捉える。

彼は、穏やかに微笑んでいた。

「仕事が完璧な青山さんもすごいと思う。でも、俺が気になったのは、飲み会で慌てて唐揚げを落としてた里美だ。俺といる時、緊張してうまく話せなくなる里美だ。その、不器用で、一生懸命な君が、好きなんだ」

それは、彼女が最も恥じ、隠そうとしてきた部分だった。その欠点だらけの自分こそが、彼が惹かれた理由だという。彼女の存在そのものを、根本から肯定する言葉だった 。

「狙ってる人が多いとか、俺には関係ない。俺がずっと見ていたのは、里美だけだよ」

鈴木の言葉によって植え付けられた疑念の種を、健人の真っ直ぐな言葉が、根こそぎ抜き去っていく。

空っぽになったはずの心に、温かい光が満ちていく。

長い間、彼女を覆っていた分厚い氷が、ゆっくりと、しかし確実に溶けていくのが分かった。

健人は、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。驚くほど温かい。

「だから、もう一人で悩まないで」

「……はい」

涙で濡れた声だったが、それは今までで一番、素直な返事だった。

夕暮れの光が差し込むオフィスビルの一角で、二人はただ静かに立っていた。劇的な何かが起こったわけではない。けれど、確かな何かが始まった。

完璧な鎧を脱ぎ捨て、ありのままの自分を受け入れてくれる人の隣で、青山里美の新しい一歩が、今、静かに踏み出されようとしていた。


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