その②:ヒントは『転送されてない』
「あー、腰が痛い! こっち側の魔法陣もあと少しかな……?」
ぼやきつつ、とんとん、と自らの腰を叩くアンであった。
なにしろ武装した一個小隊が並べる規模の転送魔法陣である。たったひとりで地道に作業していれば、点検だけで日が暮れる。
軍事機密扱いなので、専門家の応援も呼べない。
アンも専門家というわけではないが、ヒリングは全盛の時代になかった新しい魔術なので手伝いができないのだ。
「すみません、お嬢様……私が不勉強なばかりに……。代わりと言ってはなんですが、腰をお揉みましょうか?」
「うーん、下心は……なさそうだね。なら是非、お願いしようかな」
「お嬢様、私が年がら年中、卑猥な妄想をしてるような言い方はご遠慮ください」
「される側の僕が言うのも贅沢だけど、無心でいられる自信はあるかい?」
ヒリングはしばし長考した後、口を開いた。
「……ないですね」
「ないんだ」
「お嬢様の生の柔肌に触って、よぎらないほうが逆に失礼というものです」
「君、開き直ることを覚えたよね。あと直に触らせるとは、ひと言も言ってないよ」
「ひどい……騙しましたねっ!」
「勝手に騙されただけだよね!」
冗談もそこそこに、アンが終わったー、と顔を上げる。
気づけば、永遠に終わらないとさえ感じられた点検作業も完了していた。
「結局、お力になれませんでした……」
ヒリングが、しゅん、と肩を落とす。
どうやら本気で落ち込んでしまったようだ。
「いや、話し相手がいてくれるだけでも助かったさ。一日中ぼーっと単調作業なんて――僕ひとりじゃ退屈で正気を失ってたよ」
大袈裟な比喩ではなく、アンの本心なのだった。
「そう……ですか。それで魔法陣はいかがでした?」
「【メモ:どちらも異常なし】だね! 少なくとも、術式の書き損じはなかったよ」
「そのわりに、嬉しそうですね……」
「考えてみたまえ。遥々竜の巣近くまで馬車に揺られ、丸一日かけて調べ上げてただの整備不良でしたじゃ、それこそ肩を落としていたさ。
移動費と宿泊費はあちらが出してくれるとは言え、もう『探偵』じゃなくて『なんでも屋』だよ」
探偵手帳をこれ見よがしに、とんとんと誇示する。
迷い猫の捜索なども書かれていたはず、とヒリングは口には出さなかった。
「それに、この大規模転送魔法陣にはエクスカ・メタマトン――僕の学生時代の友人が関わっているから不備がなくてよかった。という私情もある」
「お嬢様のご学友の……エクスカ様、ですか?」
「ヒリングにはまだ紹介したことなかったね。今回の容疑者じゃないから、覚えなくていいよ」
そう言いつつ、アンは魔法陣の敷かれた部屋をさっさと後にする。
足取りに迷いはなく、行き先は決まっているようだ。
「どちらへ向かわれるんですか?」
「調べながら、考えていた可能性があってね。目撃証言の聞き込みに行くから、ここからは時間との勝負だよ」
◆
「もう当面のあいだ馬車は勘弁だ。それこそ転送魔法陣が使えたらいいのに」
馬車から降りたアンは、んーっと大きく背伸びをする。
転送魔術の実践が近場では意味がないため、辺境の駐屯地から街までろくに整備もされていないガタガタの獣道を座りっぱなしであった。
件の大規模なものに限らず、解決まで全面的に転送魔法陣の使用は中止されている。
「ヒリングは平気そうだね」
「前にも申しましたが、同じ姿勢のまま、棺で何日も眠ることもありますから」
とくに自慢する風でもなく、さらっと白い髪をかき上げる。
「いいなー、羨ましいなー」
「此度は眷属になりたい、とはおっしゃらないので?」
「だって……なったら『性欲』とか増すんでしょ?」
少しのあいだ言葉の意味を考えていたヒリングであったが、はっと気づいて、声を張り上げるのだった。
「私は――『サキュバス』じゃありません!」
アンは懸命に口元を手で押さえ、笑いを堪えている。
「お嬢様、吸血鬼に対する最大の侮辱です。怒りますよ?」
「ごめんて、だってそんな……大声で否定しなくても……ふっ、ふふっ」
ひとしきり笑うアンを、まったく、とヒリングが叱責した。
「さあて、街へ繰り出す前に基地内で聞き込みだから、もうふざけないでね」
「ふざけてるのは、お嬢様のほうでは……いえ、もういいです」
話が進まないので彼女側が譲歩した。
「えー、この基地の出入り口は隠し通路の存在を考慮しなければ、西門と東門それに正門か。『正門ではないだろう』から、西か東のどっちかだろうね」
「ええと……お嬢様、転送で別のどこかへ飛ばされた男の行き先を調べなくても、よろしいので?」
「ああ、それ自体はすごく簡単なトリックだよ。
トリックと呼んでいいのかさえ、微妙なところさ――【メモ:最初から、男は転送されていない】からね」
ヒリングが、きょとんと赤い瞳をぱちくりさせる。
「その、私にはわからないので一応、推理を聞かせていただけますか?」
「転送魔法陣が『大規模』だったのがポイントだね。点呼が出発前なら、現地でひとりくらい転送されてなくても、わからないだろう」
「例えば、魔術を阻害する魔道具を使用したり……?」
そんな大仰じゃなくていい、とアンが軽く否定する。
「転送前に――こう、一歩下がるだけさ」
とんっと、彼女はその場で跳び下がってみせた。
「おお……大きい分だけ、たしかに、そちらに注意が向きますね」
ヒリングの視線が思わず、揺れたでっかいものを追う。
「ん? いま何に感心したの?」
「い、いえ、お気になさらず……私は『吸血鬼』ですから」
要領を得ない解答にアンが首を傾げる。
「と、ところでお嬢様……聞き込みを急ぐのでしたよね?」
「ああ、そうだった。転送魔法陣が使われた日に、いるはずなんだよ。【メモ:この基地から堂々と出て行った兵士】がね」
探偵モードになった彼女に、なんとか気を逸らせた、と安堵するヒリングであった。おい、最大の侮辱はどうした。
◆
「やっぱり我が家が一番落ち着くなあ。フィールドワークでボロボロだよ。いったん、ここらで小休止しとこう」
基地を後にしたふたりは、もう日も暗いとのことで、探偵事務所に戻っていた。
手洗いうがいと、軽く洗顔を済ませたアンはソファに寝転がり、顔にハンチング帽を被せ、ぐでーっとした姿勢で語りかける。
「お行儀悪いですよ」
「いいの、家ではヒリングしか見てないもん」
信頼され喜ぶべきか、保護者として厳しく注意すべきか、悩む彼女であったという。
そう言えば、とそこでヒリングが思い至る。
「ここから時間との勝負なのでは? のんびり寝ていてよろしいので?」
「ああ、いいの。【メモ:その人が向かったのは西の『貧民街』】ってわかったし。
うら若き乙女が夜中にそんなとこ出歩いてたら、人さらいに遭っても文句は言えないよ」
「この私がお嬢様に危害は加えさせません」
「探偵の僕が事件を起こす側になってどうするのさ」
ソファに仰向けになったまま、帽子だけ脱いで、アンはかぶりを振った。
「ですが、相手はお嬢様をさらようなゲスなのでしょう? 掃除しておいたほうが世のため平和のためなのでは?」
「それは国や警察の仕事だよ。僕たちは私立探偵、私刑はご法度。あっちから申し出られたら協力はするけど、積極的には関わるべきじゃない」
議論は終わり、とまた顔を帽子で隠してしまった彼女である。
ヒリングは怪訝そうに眉をひそめる。
「なんと、表現すべきか……お嬢様らしくありませんね……」
「僕のこと、使命感に駆られる『正義の味方』とでも思ってた?」
「ただのデカパイ名探偵ではない、とは……」
「そっか、幻滅したかい?」
軽口にも反応せず、彼女は問い返す。
「私はお嬢様に幻滅できる身分ではありませんし、幻滅できるほど人間に詳しくなったつもりもございません」
「――僕が助けるのは、推理のついでで助けられる人だけだよ」
シャワーに向かうアンを、吸血鬼はただ見送るだけだったらしい。
【ここまでの調査レポート】
・どちら側の転送魔法陣も異常はなかった。
・それもそのはず、最初から『転送なんてしてない』のだから。
・転送の同日、堂々と出て行った兵士がいる。
・向かった西は貧民街、気を引き締めないとね。(ヒリングが暴れないように)
(第3問その②・了、つづく)