回答編、その③:拝啓、親愛なる私の『傘』へ
「ここだけ、かすかに魔力が揺らいでるね。〈条件付き結界〉は閉じた空間。でも、開く以上、必ず『綻び』はある。先に当たりをつけてないと些細な違いでわからないほどだけどね」
トンネルまで絞り込んだ時点で探知系の術師に任せれば一発なのに、とヒリングは思ったが口には出さなかったらしい。
アンが片手のひらをかざし、魔力を集中させると、トンネルの壁のある地点に小さな魔法陣が浮かび上がる。
もう片方の手でコートから懐中時計を用意し、慣れた手つきで入口を開く。
「さあ、答え合わせの時間だ――墾!」
魔法陣が広がった直後、周囲の風景が一変していた。
「空気が……じめじめしていますね」
無論、湿度の話ではなく、全身にのしかかるような重圧を感じる。
空全体がどす暗い。
なぜか、トンネル内にいたはずなのに――『空』がある。
より正確に表現するならば〈結界〉内部はガラス状の窓と天窓に覆われていた。
「お嬢様、来ます……っ!」
ヒリングの警告の直後、バンッ、と窓に赤い『手形』が貼り付いた。
かと思えば、四方八方が幾度となく叩かれる。無数の手形を伴って。
「うん、間違いなく『見えざる手』だね」
「お嬢様、いやに冷静ですね……あれに触られたら衰弱では済みません。生命エネルギーを急激に根こそぎ吸い取られて――即死します」
「恐怖し過ぎた人は逆に感覚が麻痺するっていう心理効果のことかい? 心配せずとも、僕はちゃんと恐れているとも」
アンは暴力的な豪雨のような物音にも動じず、窓も一瞥しただけで、チッ、チッ、と時を刻む懐中時計の針をじっと見つめている。
「あと3秒……2、1」
秒針が1秒に差しかかる手前でアンは予め用意しておいた人形を取り出し、ぽいっと放り投げた。
バシッ、と身代わり人形の脇腹付近に、濁った赤色の『手形』が張り付く。
奇妙な獲物の手応えを確認するように地縛霊がついに実体化――赤黒い無数の腕が人体に巻き付いたような悍ましい姿を現した。
「うん、入ってから30秒で発動、計算ぴったりだね。あと30秒、もとい26秒だけ動いていいよ」
「10秒で片付けます!」
地縛霊の顔面を覆う腕が裂け、ギョロリと大きな目が開く。
セミオートで発動する魔術とは異なる、目視による結界内部への必殺攻撃が来る予備動作だ。
なお〈結界〉全体が視野となるため、死角に隠れることは不可能である。
「造血献醸――血管切り裂き刃」
小瓶の蓋を勢いよく破壊しながら、飛び出た血液がナイフを形成した。
妖しく、それでいて美しい、ワインレッドの刀身であった。
フルボトルとは――『ふたり分のワインの量』を指す専門用語である。
強過ぎるヒリングがアンと『ふたりで生きていく』ために、力を抑制する手段として考案された彼女の専用魔術だ。
「あれ、やばいな。魔力が強まってる。
推理が悪いほうに外れた? 術式の発動条件は侵入後の『移動速度』だと睨んだのに、しかも運動量に比例しない? 狙われてるのは――僕のほうだ」
「なっ……! この土壇場で焦らせないでください!」
彼女の実力をもってすれば、時間的な猶予は十二分にあるというのに、ヒリングは目に見えて焦っていた。
ガラス張りの〈結界〉内部の床を蹴り、高く跳躍。地縛霊とすれ違いざまに、刃を振り抜く。
「穢らわしい手で――お嬢様に『触れる』な!」
実体化した首根っこが切断されて致命傷となり、パンッ、と地縛霊が破裂した。
そのはずなのに、未だに結界が消滅する様子がない。
「ちいっ、本体がまだどこかに残って!」
ヒリングが周囲を文字通り血眼で探すが、それらしいものは見当たらなかった。
「いや……これは『残留思念』ってとこだね。元が怨念だから、理には適ってる」
「冷静に分析してる場合ですか!」
「参ったな、身代わりの人形は一体しか用意してないよ。
敵の懐で戦う行為を甘く見ていた。敵の懐は誤用かな? 敵の胃袋、とでも言うべきか?」
「お嬢様、それは……」
「残念だけど、今度こそ死を前に恐怖が麻痺しているよ。これは〈呪殺〉だ。物理的にも魔術的防御でも防げない――あと10秒ほどで、僕は死ぬ」
懐中時計を見つめながら、アンは日常会話でもするように呟き、助手に向き直る。
「さよなら、ヒリング・ブラッドリリー、敬愛する真祖の吸血鬼よ。
君と行動できて楽しかった。生前の〈契約〉どおり、僕が死んだらこの体は好きにしたまえ」
「そんな! 逝かないで、お嬢様! アンブレラ・アンブラーラ!
あなたはもう、私の『傘』なんですよ!」
ヒリングが、千年生きた吸血鬼の威厳もなにもかも放り出して、少女の胸にすがりついてすすり泣く。
「そ、そんなに泣かないでおくれ……ヒリング。頼むから顔を上げて?」
彼女は大きな胸の中で「嫌です!」と叫んでいる。
「もう、本当に参ったな――とっくに『〈結界〉は解除されている』のに」
「…………へ?」
空は壁と天井で覆われ、足元には線路がある。ふたりは既に、トンネルの中に戻ってきていた。
「寸前で魔力切れ、じゃあないね。時間がぴったり過ぎる。
おそらく、発動はしたが発動で魔力を使い果たし、効果の適用前に〈結界〉が消滅したことで効果処理そのものが――」
早くも調子の戻ったアンは、探偵モードを続行中である。
「……お嬢様、ここは危険です。推理なさるなら、安全なトンネルの外でどうぞ」
まだ泣き腫らした痕の残るヒリングだが、声だけは平静を装っている。
「もう危険じゃないよ。魔物なら君が倒してくれたじゃないか」
「――線路の上は列車が通ることをお忘れですか?」
「おっと、こりゃ一本取られたね」
アンに習い、『さっきは何も言わなかった作戦』に切り替えたヒリングに、おとなしく腕を引っ張られていくアンであった。
「これにて、謎はすべて解けましたね」
呑気に小鳥がさえずる森を歩きながら、ふとヒリングが呟く。
時刻は昼下がり。
木の葉のすき間から日差しが照り付けているが、偉大なる吸血鬼の真祖である彼女は、この程度では火傷どころか、日焼けすらしない。
「いいや、この事件最大の謎〈ホワイダニット〉がまだ残っているよ。
ここで【問題:急行列車の個室で乗客が次々と『手形』を付けられた、なぜか?】を振り返ってみよう」
「ですから〈結界〉の通過地点が偶然、同じ部屋に重なっただけだと……」
「事件に偶然はないものだ。考えが逆だったのさ。時間じゃなくて部屋が先にあって、そこに合わせた時間だったとしたら?
よーく思い出したまえ、あの部屋は『ふたり部屋』だった。
ふたり部屋っていうのはね――ふたりで泊まるものだ」
そこまでヒントを出されては、真祖の吸血鬼の沽券にかかわるというもの。
その沽券はさっき、みっともなく失った気もするが。
ともかく、アンに変わってヒリングが推理の続きを述べる。
「……昔、あの列車に乗った恋人同士がいた。そのうち、どちらかがトンネルの近辺で命を落とした。
あれは『ドレインタッチ』ではなく、乗り合わせた誰かを探して、【答え:ただ手を伸ばしていただけ】だった?」
「ほとんど正解。でも、おそらく恋人じゃなくて親子で命を落としたのは子どものほうだろうね。
昨夜調べていた中に、当時のそれらしき資料もあった」
「お嬢様……どうして親子とまでわかるんです?」
アンは勝ち誇るために、適当を言っているわけではない。
彼女はこと推理において、そんな――つまらないことはしない。
「『手形』の位置が腰の辺りだった。まるで迷子の子どもが親の服をこう、ぎゅっと掴むようにね」
実際に屈んで、ヒリングの喪服のような黒いワンピースの裾を掴む。
「お、お嬢様、か、可愛過ぎます……うちの子になる?」
「何を言ってるんだ、君は。困るんだよね、『色ボケ吸血鬼』は」
唐突にハシゴを外された勢いで、ずっこけたい気分のヒリングであった。
「やっぱ、死んどけばよかったですね」
「辛辣なんだよね! さっき私の『傘』がどうとか言ってたくせに!」
「言ってません。真祖たる吸血鬼の〈真名〉にかけて、言ってません」
「そんなことに〈真名契約〉を使うな! それ破ったら大変になるやつでしょ!」
「はい、〈契約〉破棄扱いで大変なことになります。具体的には死にます――この場でただちに灰になって死にます。
ですから、お嬢様は私に死んでほしくなければ、言ってないことにするしかありません」
「こ、姑息なっ、自分を人質に、こいつ……プライドとかないのか!」
プライドと天秤にかけても、彼女の前では、格好つけていたかったのだろう。
木漏れ日の照らす穏やかな森を、ヒリングがアンと逆方向に駆けていく。
「こらー、ヒリング! 逃げるなー!」
この時、村の近くで追いかけっこをするふたりの少女が、住民に目撃されていた。
そのうち、ひとりの真っ白な肌の少女の顔はワインのように赤くなっていたという。
【今回の総括】
・改めて資料を当たると、やはり事件発生開始時期とほぼ一致する落石事故の記録があった。
・地縛霊の正体は、あの村に住む子どもであった可能性が高い。
・しかも運悪く、あのトンネルが死霊たちの吹き溜まりになっていたようだ。
・僕からも〈教会連盟〉に浄化魔法の依頼を強く推奨する。
ところで、アンから先に狙われた原因だが、あれは当初の予測どおり運動量を感知しており正確には『一定の速度で動く物体』に反応していた。
ヒリングの『それ』は焦って乱れ、落ち着いていたアンが狙われたというわけだ。
「もっと素直になればいいのに、ヒリング。僕のこと、好き過ぎるんだから」
(第1問・解決、つづく)