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第5週 吸血鬼に劣らず人間は自分勝手

エンディング一直線ですけど、この自分で書いた作品のエンディングに満足しているかと問われると、してないんですよねやっぱ。

ハッピーで終わらせたい気持ちはありますけど、当人同士で納得さえしていればノーマルエンドとしては成立するかなと思いこんな感じなった次第です。

 どこまでも澄んだ海のような青空が広がっているのに、どうしてか雨は止むことはない。

 雨が降りしきる山の中で、土砂に埋もれ息も絶え絶えになりそれでも意識がある。

 雨が上がり太陽が地面を燦燦(さんさん)と照らす、今日という日はそんなあべこべな真夏日。

 動くことはできず顔を傾ける、現状が視界の端々に映りだす。

 全壊したログハウス廃車確定のSUV、とても広く感じた敷地が今や影も形もない。全身が痛くて、両親に会いたくて叫びたい。それなのに俺はこの光景に圧倒され声がでなかった。

 この惨状を前に自分はぽつりとただ一人そこに居る、そんな夢を見た。

「誰だよ、お前……」

 暗い部屋の中で、鏡の映るのは誰か。

 身に余る身長と、お父さんやお母さんに似た顔付きをした、知らない人が鏡に映る。

 映っているのは知らない青年、なのに自分の動きと連動をしている。

 触れば自分が思ったように動き、あまつさえ頬に触れることすらできてしまう。

 頬を引っ張る、痛い。

 頬を(つね)る、痛い。

 頬を叩く、痛い。

 頬を殴る、痛い。

 気色悪い程に鏡の前の青年は、自身の思考とシンクロした現実を見せつける。

「はっ、あはっ、はははは。……死ねよお前、なんで俺は……」

 鏡の前の誰かは、自分の心情を表すように顔を引きつらせて絶望したかのように笑う。

 拳を鏡に叩きつけた。

 ただ無心で目の前の青年を消すために、誰かも分からない人間が砕けるまで何度でも。そうして鏡を砕き形を歪ませても、赤い血が徐々に顔の隙間を埋めるように侵食を始める。

 お父さんにも、お母さんにも似ていない。けれどもその面影を確かに感じる誰か鏡に映る、そんな現状から目を背けるように視線を落とした。

「……どこだよここ」

 閉ざされたカーテンを開く、発展した街並みと遠くに見える有象無象の人の姿。間違いなくここが東京であることは確かだ、けれど少しだけ違和感がある。

 自分が知っている東京と違うこと。

「なんか見覚えはある。けど変な感じだ、何か夢みたい」

 夢というには全てがはっきりしている、記憶のズレがあるようで、認識のズレはない。おかしいものをおかしいと思えない、そんな違和感から吐き気が込み上げた。

「……夢ならきっとそのうち」

 日は暮れ始め西日がどこまでも眩しい中、少しだけこの夢を探検しよう。

 そうすればこの吐き気も、少しはマシになると言い聞かせて。


 見るからに古そうなビルに足を運ぶ、無性に高い所へ上りたい欲が止められなくて。

 ふと見かけた都心としては珍しい、廃ビルといっても差し支えない建造物の中へ入った。どうぞご勝手にと言いたげな上階へと進める階段がある、ビルであればそれは当然か。

 古い建物だからかコンクリート系の階段は、どれだけ静かに歩こうがまるでヒールで歩く女性の如くコツン、コツンと一段昇るごとに反響音が木霊する。

「ボーっとするな、この音。古い木の階段よりもうるさいのに、耳障りじゃない」

 段差を昇り終え最後に踊り場を足で叩く、木霊のように繰り返される反響音は次第に止み、目の前には屋上へとつながるドアが見えた。

「そっか……、人が居ないから静かなのか」

 ドアノブを開く、するとどこからか聞こえる環境音が耳を(つんざ)いた。

 もう少しだけこの静けさを味わっていたい。そう思いドアノブから手を離す、日陰にあるコンクリート系の材質の床は、どこか冷たくて心地よい。

 横になろう、少し疲れた。


 蝶番が緩んでいるのか、金属の擦れた黒板をひっかくような不快な音が耳に届く。

 目を擦りながら開くとその場は真っ暗で、朧げに見えるのは天井に見える照明灯の形。どうやら一度手をかけたドアが開いてしまったらしく、隙間からは街灯やマンションの淡い灯りが漏れていた。

 ――キィィと甲高く耳に残る音を残し、音とは裏腹で扉に抵抗はなくスムーズに開く。

 外へと一歩踏み出すと、湿気と熱気が熱の波となって押し寄せる。(ばん)(りょう)の心地よさを感じる廃ビル内や床とは違い、酷く心地の悪い夜空が見える屋上だった。

「思った以上に高いなー」

 手すりにつかまり、相変わらず星が見えぬ夜空ではなく下を眺める。

 人々の往来と喧騒、自然のしの字もないコンクリと鉄の街並み。

 誰もかれもが見たことのない顔。そんな当たり前を前にして、思うことがあるとすれば、自分が持っていた筈の記憶よりやはり人が増えているそんな気がする。

 明日疲れか暗い顔をしスーツを着た壮年の人間もいれば、今を楽しむことに全てを費やしているような壮年の人間も居る。十人十色の千差万別とはよくいったもので幾ら同じような表情を浮かべていようと、実の所前者が幸せな人で、後者が不幸な人なのかもしれない。

「あの人は疲れそうだけど、あっちの人は案外余裕そう」

 手すりの上に乗せた顎は動かす、力なさげに指を差し向けた先に居る人を独断で診断していく。

 視覚から得られる情報など限られていて、会話もしたことがなければそれはただの偏見に他ならない。

 そういう遊びが案外楽しい、神様視点とでもいうのだろうか。

「あっちに居る二人組……片方はふえちゃんに似てる」

 俺は一目散に両手を手すりに押し付け、ビルの床に視線を移す。

 理由は分からないが嫌だった。成長した幼馴染の姿が確定させられているようで。

「他人のそら似かな」

 そうしてもう一度手すりに顎を乗せ、屋上からその二人を眺める。

 幼少の頃の印象はそのまま、身長が伸びたようにも見える。

 ふえちゃんは昔の印象よりも溌剌(はつらつ)に見える、でも相変らずふえちゃんの表情は分かりやすい、何を考えているかがすぐに分かる

 あれはきっと喧嘩をした後の顔だ、せんちゃんと喧嘩した時もあんな顔をしていた。

 そうして徐々にその二人組は、ビルの真下を歩いて行く。

 見るだけで話ている内容は分からない、この人々が行き交う喧騒の中で聞き取れるとも思えない。

 それでも聞き取ろうと耳を澄ませる。案外未来(みらい)()ならぬ、未来聴(みらいちょう)にでもなるかもしれない。

 高校生程になった彼女らが、何を話すのかがそれが気になった。

「………せんちゃんと……かない……、……読も……つかな……」

 途切れ途切れだが、確かに聞こえてきたのは、とても聞き馴染のあるような声。

「………かって?…丈夫………、……よりも………とね。気を……て………ゃって」

 確かに聞き覚えのある声、なにより彼女が呼ぶ馴染ある幼馴染の呼び名が頭の中で反響し続けた。

 得体の知れない何かに、現実を突きつけられるようで怖い。

 耳も目も背けたい、そういう意識の表れか足が勝手に後ずさる。

「違う……、あれはふえちゃんじゃない……」

 逃げ込むように、廃ビルの塔屋へ駆け込んだ。

 あの不快な扉の閉まる音が気にならない、その理由は手で顔を触るとすぐに分かる。

「めっちゃ汗かいてる……はは、もう勘弁してくれ」

 目を背けてきたこと、それがすぐ目の前に迫る。

 それがどれ程怖い事か本当は知りたくもない。けれど体は目を覚ましたがっている。

「目を覚まさなきゃ……」

 俺は再びドアノブに手をかけた。

 突風が俺の横を通り抜けていき、服やズボンを揺らす。

 そのまま手すりに歩み寄る。恐らく知っている筈の姿は、もうどこにも見受けられない。

 全てが幻覚であればよかったのに、心でも口でもそう思う。

「聞こえていないと思うから言うけどさ」

 ここから先の話は独り言、話し相手が居ないからこそ成り立つ一人芝居。

 在りし日の記憶、思い出、あらゆることが今では簡単に想起できる。

「俺はずっと秋鹿の言うこと、理解できなかったんだー」

 ずっと理解できなかったこと、それは今にして思えば子供の僻みに他ならない。

 どうして俺は口に出さなかったのか、もう終わった今となっては、残るのは後悔だけ。

 俺は目を閉じる。

 歯車は最初から狂っていて、虚構に移り変わった時点で終わっていた。それでも思い出そう、全ての記録に整理をつけるように、古いアルバムを扱うように丁寧に。

 壊れかけには違いない。だからこそ破れないように、ページをゆっくり開くのだ。


 ◇


 今にして思い返せば馴染みもあれば、懐かしさもある光景。

 短い秋空の下、暖秋を感じさせる日のこと。

 東京という地において並々ならぬ土地を有し、子供が遊ぶには広すぎる庭と、4人で遊ぶには広すぎる部屋。

 緋煩野家の敷地内の御屋敷と渡り廊下でつながった、離れというには立派過ぎた屋敷。

 そこに用意された、子どもが遊び場として使うには少々広すぎる一室、そこがいつも皆で集まる場所だった。

 最初は誰が、ここで遊ぼうと言い出したのか。

 それは緋煩野と親戚でもある、間違いなく俺だ。

 昔の緋煩野は、人前では騒がない大人しい子だった。

 親戚だからといって、最初から緋煩野を知っていた訳ではない。始まりは緋煩野の曽祖父が亡くなった葬式、喜びとは無縁の重苦しい雰囲気の場。

 その日は親に言われるがまま準備をし、普段着ることもない服を両親に着させられ、朝から馴染もなけば、賑わいもない。皆の顔が辛気臭い場所に居たのを覚えている。

 日が暮れても雨は降り続け、気づけば外は暗くなり家の照明のスイッチに手を伸ばす時間、俺はただ正座で待ち続けるのが退屈でその場を抜け出した。

 御屋敷は子供が探索するには複雑すぎて、気が付けば電気のついている部屋は無くなり、遠くに輝いて見える光が頼りだった。

 あるいは電気がついていない縁側を戻るというのは、子供過ぎて怖かったからかもしれない。だから目の前に見える光にばかり目が行った。

 気づけば渡り廊下を通って、唯一光がついている部屋の前に辿り着く。

『えと、おじゃまします』

 戸を開けた先に居たのは、人形と見紛う程の美しい少女。

 青みがかった黒色の癖のない髪の毛を椅子の背もたれに垂らす、自分よりも小さな少女がこちらに気づきオフィスチェアを回し振り返る。

『お兄さん、だれ?』

 彼女は心配になる程に、危機感もなくいきなり入ってきた俺にそう問うた。

 机には何冊も積み重ねた本。オフィスチェアでは足が届かないせいか、最初の勢いのままに何週か回っても彼女はこちらを見続けていた。

 俺が名乗っても、キョトンとした顔でくるくると回り続け、再び本に手を伸ばす。

 それがどういう訳か、帰る頃には帰らないで泣きつかれた、多分仲良くはなったんだろう。

 彼女こそが緋煩(ひぼん)()扇子(せんこ)、本が読むのが好きな俺より一つ下の女の子。

 すぐに遊びへ来ると約束したが、同じ幼稚園に通う秋鹿と仲良くなり3カ月すっぽかして泣かせたのは、考えれば人として本当に終わっている。

 緋煩野に再び会ったのは、緋煩野家へ親戚として出向いた翌年のこと。

 嘘をつきと泣き喚き3日3晩遊んだこと、彼女は覚えているのだろうか。


 春になり桜が散った頃、年長組になって自転車も一人で漕げるようになった時。

 秋鹿に緋煩野を紹介した。あの頃は秋鹿も人見知りが激しく、色々大変だった気がする。

 秋鹿とは家族ぐるみで遊んでいたが、一つ歳が下なこともあってか緋煩野だけが一緒に遊べなかった。今にして思えば、緋煩野という家の格が大きかったのだろう。

 けれどそんな事分からない幼少の俺は、基本的に楽しさを優先し行動していた。

『せんちゃんの家に遊びに行こう』

 今になって考えれば強引すぎる出来事。緋煩野とはずっと二人で遊んでいた、本の内容を教えて貰ったり、一緒に緋煩野の家の庭で体力の続く限り運動したり。

 けれど秋鹿とも遊んでこうも思った、どうせ遊ぶなら皆で遊びたい。そんな勢いだけの行動、そうして秋鹿を探検感覚で緋煩野の家に連れて行った。

 そこからどうしたんだっけ。

 そこの記憶が断片的だ。

 怒って、泣かれて、そして泣いて。口を利かない期間があったと思えば、気づけば仲直りして、小学校に上る。……振り返るほど濃い人生は歩んでいないらしい。

「あ、違うや……俺が拒んだのか、振り返るような人生を」

 髪の毛を風が揺らす、相変らず星は見えないが雲一つない透き通った夜空。

 やっぱり雨は嫌いだ、雨は雲が重なってこの空を見えなくする。

 夜か昼か、正直どちらでもいいが、なんとなく夜が良かった、だから無意識で夜を選んだ。

 理由は多分吸血鬼に出会ったから。長い時を孤独に生きる吸血鬼に出会い、そんな彼女と普通ではない日常を生きられたことが、俺にとって想像以上に救いだったのかもしれない。

「……足取りが軽いや、ちっとも怖くない」

 手すりを越え、足を容易く踏み出せる。

 パアヴァインは今どうしているだろうか?俺が死んだらまた悠々自適に生きるだろうか。

「……じゃ、行ってみようかな」

 限界だった。精神的にも、肉体的にも、だからお父さんもお母さんも許してくれるかな。

 そう思い俺は瞼を閉じて、足を一歩踏み出した。


 ◇


 恐怖はなく踏み出した一歩、重いと想像したその一歩はとても軽やかだった。

 無重力にも感じた、雲海にでも足を沈め一瞬の浮遊感が訪れたと思った矢先の事。

 まるで逃げることは許さないと言わんばかりに、誰かが力いっぱい俺の体を引き戻す。

 手すりの軋む音と共に尋常ではない力、一度は感じなくなった浮遊感を再び味わい、衝撃は1秒も経たずに訪れる。

 驚くべきことがあるとすれば、自分は生きている。景色も目を閉じる前とさほど変わっていない、強いて言うならば少しだけ後ろに下がっているか。

 気づけば俺は大の字で寝転がり、ただ唖然と目の前の状況を見た。

 息を切らし大きく肩を上下させ、普段の余裕と自信に満ち溢れた表情を崩し、額や首筋に汗を滴らせた緋煩野扇子が居る。

「扇ちゃん……どうして」

 艶やかな髪の毛が、汗の所為か肌に張り付くが彼女はそれを気にも留めない。

 状況が把握できずに呆けている俺に、緋煩野はズカズカと近づき、手を振りかぶる。

「馬鹿!本当に馬鹿!あり得ないほど馬鹿!びっくりするほど馬鹿!」

「ぶへッ、グヘッ、まっ、ドゥエッ」

 ビンタの応酬、一切の加減がないのは、それだけの怒りからか。

「痛い痛い。それより扇ちゃん、どうしてここに……」

「私を……舐めるな!」

 緋煩野は胸ぐらを両手で掴み、俺の体を揺らす。

 怒りに満ちた彼女の声色とは裏腹に、緋煩野の目元は赤みがかり腫れていた。

「私が余実の死を見過ごすとでも⁉……余実が限界なのも分かってる、だけど私は余実には生きていて欲しいの!……だから死なせない、死なせてなんてなるものか!」

「怖いって扇ちゃん」

「そうだよ?私は余実のためなら何でもしちゃう、なんなら怖く……扇ちゃん?」

「俺が言うのは懐かしいでしょ?緋煩野扇子で扇ちゃん。扇ちゃん呼びはま」

「わー!忘れろ、思い出すな!」

 おままごとで俺がお兄ちゃん役をやった時の名残だ、本人曰くえらく気に入ったとの事。

「頭を叩くな、ただでさえ記憶に自信がないんだぞ俺は」

 ぽかぽかと頭と胸元を叩き始め、気づけば縋るように抱き着いている。

 その姿は昔一緒に遊んだ、小さい頃の緋煩野扇子そのもの。少し懐かしさもあって、そんな彼女を泣かせたのは申し訳なくて、そしてやはり俺の理由で彼女を泣かせてしまった。

「余実、ご両親からの手紙は保管してるでしょ?それを取りに行こう、そしたら」

「あれは扇ちゃんが、用意してたんだろ?俺の為に」

「……あ、……うん、そうだよ。私が用意した」

 緋煩野は俯き、落ち込んだように体重を俺に預けるように乗せ、俺はその体重に負けながら廃ビルの屋上に寝転がった。

 緋煩野は昔のように、お腹の上に顔をうずめ視線を俺に向ける。

「最低な人間でしょ?余実に真実を明かしたくなかった。だから余実の両親が生きているって偽装をした、そうでもしないと余実がどこかへ行ってしまいそうだったから……、嫌ってくれていいよ」

「嫌わないよ、俺がお父さんとお母さんが居なくなった、死っていう現実を受け入れる位に強ければ良かっただけの話だった。でも俺は弱くて、そんな事実を受け入れられなかった」

「余実が気に病むことじゃないよ」

 緋煩野は勢いよく否定する為に、体を起こす。

「俺が気にするべきことだよ、でもまぁ結局今も受け入れられる気はしないんだ。記憶が小学校低学年で止まっているからかな?……きっと俺は何も変わっていなくて、扇ちゃんが作ってくれた理想の中でさえ生きるだけが精一杯。気づけば体だけが成長していってさ」

 空に手を伸ばす、幼少の頃に緋煩野と見た天体観測を思い出す。

 幼く月にも手が届くと思えた、あの日から何も変わっていない。

 もしあの日と違う所があるとすれば、俺の手はもう大人と遜色ない程に大きくなり、こんな街中では星を見る事は適わないことだけ。

 お父さんとお母さんにただ会いたいと、12年間も何一つ疑わずに生きていた。

 しかし心の奥底では理解は出来ていたのだろう、きっともう会えないのだと。

 どんどん生きているだけで精一杯。緋煩野が作ってくれた両親に会う為の生は、いつの間にか両親に会えるまでの生に変わってしまった。

 心の奥底で拒絶し続けている両親の死が、気づけば仕舞っておくことはできなくなり、結局それを認めないために考える時間を減らしいくかなくなった。

 眠っていれば考えなくて済む、そんな歪んだ考えが身も心も侵食されていって。

「余実はいつ思い出したの?」

「ビックリするほどついさっき」

 現実逃避をするために人を眺めていたら偶然、悩切と秋鹿の会話を耳にした。

「そっか、……どちらにせよ私は選択を間違えた。選びなおす機会はあったのに」

「間違ってないでしょ、多分だけど」

「そう?……手紙も偽装したし、電話も音声変換して余実のお母さんの声になるようにしたよ?普通は届かない書類を偽造したり、余実がある程度元気だった中学校までは生きているみたいに加工とかでなりすましもした物を、余実に見せていたりしてたけど本当に余実は許せるの?」

 ――待って、一旦整理させて欲しい。……やっぱり駄目な気がする。

「それは何らかの法に触れるんじゃ?」

「多分大丈夫……」

「おーい目を見て言え、目をー」

 一向に目を合わせはせず、仰向けになり空を眺めているのは、罪の意識に苛まれたか。

 髪と腕で表情を覆い隠し、赤みがかった頬と潤んだ瞳が微かに開いた隙間から覗かせながら、緋煩野は意を決したように声を出す。

「ねぇ余実」

 彼女にしては珍しい、少し震えた声だった。

「どうした?」

「余実はさ、私がずっと昔から余実のことが好きだったって、気づいてた?」

「気づけなかったなぁ。秋鹿の気持ちもわからなかったし、人の好意に鈍感なのかな俺って」

「そうじゃなくてさ」

 緋煩野は起き上がり、這うようにこちらに動き俺のお腹を乗せながら、顔を向ける。

「じゃあ改めていうね、……私の初恋は余実だよ。きっと最初で最後の恋心だね」

 改めて言われると、なんだかこそばゆい。

「そういわれもな……、それに最後ってことはないだろ」

「余実は何も言わなくていいよ、私は求めている訳じゃないから」

 何と答えるべきか分からずに、呆けている顔をきっと緋煩野は眺めているのだろう。

 見ていても面白い顔ではないだろうに、それでも彼女は視線を向けてくる。

 たまらず俺は目を逸らす、幼馴染でも流石に気恥ずかしさはある。

「今度は余実が目を合わせなくなったね」

「そんなマジマジと見つめられても、困るだろ普通は」

「そういうもの?」

 数多の界隈から動向を注視され、日常ですら衆目に晒される緋煩野とは慣れが違う。

「そういうものなの、そろそろ動いてもいいか?」

「ダメだよ、退けば余実は遠くに行くつもりでしょ?だから今だけは、私がこうやって重しになって余実が遠くに行けないようにしてるの」

「……、俺の腹が潰れて死んでも知らないからな」

「うん。だから私の重い頭が、余実が死なない程度に乗せとく」

 廃ビルの前を行き交う喧騒とは裏腹に、静かすぎる屋上で空を眺める。

 幾数万の星々の如くガラスの海が輝く渋谷、今日の月はそんな輝きに負けず劣らずの澄んだ色に見えた。

 何気なく視線を緋煩野に落とす、彼女の髪の隙間から見える瞳はとても綺麗で。

 まるで時が静止したかのように、綺麗な月でも夜景でもなく、優しくこちらを覗いていた。

「ねぇ余実?」

「どうしたのさ、扇ちゃん」

「月が綺麗だね」

 せめて月を見て言ってくれ。

「月ほど丸くないぞ俺の顔は。……もしかして丸い?」

「いいや丸くない、シュッとしてる。見なくても分かるんだ、月はずっと視界にあったから」

「なら落ち着いた今は、ゆっくり月を眺めてなよ。折角の満月なんだから、懐かしいだろ?」

 緋煩野はゆっくりとだが、不意を突かれたように目を大きく開ける。

 もしかして記憶違いかとも疑ったたが、緋煩野は何も言わず体を回転させ空を眺める。

「本当に懐かしくて……、あの頃と一切変わらない綺麗な月だね……」

 どこか唇が震えたような潤み声で、必死に月を掴むように手を伸ばす。

 もう随分と前、俺が月に触れてみたいと口にした時、緋煩野はどんな表情をしていただろう?呆れていただろうか、諭していただろうか、朧げな記憶では泣いていた気もする。

 ただそれだと泣く理由が思いつかない、見栄を張っても頑張って気づけば実現するのが緋盆野なのだ。そんな記憶はやはり気のせいだろう。

 記憶と似た今日の月、そんな満月を瞳に写しだす緋煩野の目は、パアヴァインにも負けない美しさがあった。


 ◇


 何時間経ったか月は傾き日が昇り始めた頃、俺と緋煩野は廃ビルを下った。

 辺りに居るのは夜通し酒を酌み交わした飲兵衛たちに、日の出に合わせて一日が始まる類の仕事人間達、それぞれがそれぞれの目的に足を動かしている。

「結局最後まで退かなかったな」

「まぁーね、こうしてくれるの前提で居たよ」

 俺は彼女が企てた前提にまんまと引っかかり、眠り眼を擦る彼女を担いでいるらしい。

 だが不思議と悪い気はしない、というより感謝が強い。昔よりは成長している、けれどこんな華奢な体には分不相応な物を、俺が背負わせたようなものだ。

「懐かしいね。昔もこうやって……おんぶしてもらった」

「そこらへんの記憶はないんだけど、俺ってそんなに変わってたのか?」

「変わってた……、何もかもにも無頓着。そんな……感じ」

「そっか……悪い事したな。扇ちゃんにも笛ちゃんにも」

「いいよ……気にしなくて。元は……、私が蒔いた種……」

 緋煩野が徐々に体重を預けるように肩に顎を乗せる、睡魔の限界が来たのだろう。

「ねぇ余実、……もし私が眠っても……居なくならない?」

 不安に彼女は聞く。だが俺にできる事は、彼女が背負った物を少しだけ軽くすることだけ。

「居なくならないよ、だから安心して眠っていい」

 今まで自分勝手に生きてきた、だからせめて彼女には勝手には居なくならないと誓う。

「そっか、少しだけ安心……」

 そう言うと、緋煩野は背中で寝息を立てる。

 何もかも昔と変わったけれど、記憶と何も変わらない緋煩野の安心し緩み切った顔につられて笑みがこぼれる。

「ちゃんと守るよ、起きるまで隣に居るから」

 スヤスヤと寝息を立てる彼女に呟く。この言葉にも、気持ちにも嘘はない。

 だがもう嘘は吐けない、それは火を見るより明らかで、そんな自分に俺が一番呆れていた。


 日は徐々に昇り、今日も気温は上がる。

 睡眠により力が抜けてずり落ちそうになる緋煩野を、一度ずらすように持ち上げ落ちてしまわないように姿勢を正す。

 緋煩野の繊細な髪が靡き、鼻孔をくすぐる。

「パアヴァインはどうしているんだろ」

 友と呼ぶには自尊心が高く、知人と割り切るには寂しがり屋。

 偉大で尊大な吸血鬼ツキキュウケ・パアヴァインの姿が、どこか緋煩野に重なった。

 傍に居る、多分それが緋煩野にとっての見返りになり得るのだろう。

 けれどせめてもう一度、陽の光も浴びられない尊大な吸血鬼と話がしたい。

 そんな我儘を抱く自分もいる、たかだか1カ月強と17年。優先するべきは迷うまでもなく後者だというのに、何をそこまで未練がましく思うことがあるのか。

「最低な奴だな、本当にさ」

 自嘲気味に俺は笑い、決して忘れることはなかった彼女の家へと帰路に着く。


 東から昇り燦燦(さんさん)と輝く太陽を、構造物の影に隠れ足を一歩と踏み出す。

 陽の光に晒し、緋煩野が陽に焼けでもしたら大変。そうなれば寝起き一番は、きっと文句から始まるだろう。

 それは困る。というか面倒、そして何かにつけて理由を用意し、彼女が用意した夏休みを満喫することになる。

 少し楽しそうだという思い、それは多分できないという思い。まだそこまで発生していないというのに、二つの贅沢な悩みに頭を悩ませるのは幸福な事。

 そんな道中、緋煩野の家の外観が見えてきたときに彼は居た。

 こんな暑さの中で神父のような衣服を身に纏った外国人。その佇まいからも目を引くが、記憶に違いはないと断言できる夏休みに入ってからの記憶と、衣服以外が全て一致しているその姿に見覚えがあった。

「おや?お久しぶりですね、何たる偶然でしょうか。これも主の御導きとでもいうのか……、あ、いや、失礼私を覚えていらっしゃいますか?」

「えっと空港で会った方……ですよね?神父さんだったんですね」

「覚えていただいて光栄です、そうなんですこう見えて私神父をしておりまして……っとそちらの女性はガールフレンドの方でしょうか?」

「え?いや違……イタッ……待って扇ちゃん起きてない?」

「ははっ、仲が良いのは確かなようだ。……そうだ折角の再会ですしよろしければモーニングでもいかがでしょう?」

 初対面の時もそうだが、外国人の感覚なのか距離感の詰め方が日本とは違う。

 どうにも会話の主導権が取られるのが、なんだか会話が難しい。

「すいません、今は遠慮させてください」

 優先するべきなのは、緋煩野の意思だから俺は断りを入れる。

「いえこちらこそ、私も日本に来るたび毎度注意されているんです。お前は相手のスペースに入り過ぎだ、とね」

 よかった。日本人としての感覚までぶっ壊れてはいないらしい、少し安心だ。

「そうなんですね……」

「そうなんです……」

「えっと、じゃあ失礼します」

「車呼びましょうか?」

「いえ大丈夫です、もう少しで着きますし、それに多分車に乗ったことを知られたら怒られるので。……そうだ、俺の名前は現似余実って言います、初対面という訳でもないですし……一応」

「良い響きのお名前ですね、名付けたご両親のセンスが伺える。っと、すいません偉そうに」

 礼節を欠いたと思ったのか、目の前の碧眼の彼は頭を下げる。

 個人的な印象ではあるが、外国人というのは日本人のように些細なことを一々謝罪はしないという認識だったが、ただ単に彼個人が誠実すぎるだけなのか。

「私はマーシー・エレイソン、見ての通り神父です」

「でしょうね。その服装で神父じゃなかったら、どう反応すればいいのか困ります」

「確かに。それにしてもヨサネさん、何だか元気になられましたね」

「そうですか?自分じゃそんな感覚ないですけど」

「なんというのでしょうか、顔色の良さというのでしょうか。悩みが吹っ切れた……、もしくは何かを手に入れた全能感とか?」

 ある意味では悩みは無くなった、そう言い換えてもいいのかもしれない。

 自分の内に抱えていた物も無くなれば、顔色も良くはなるだろう。

「全能感の抱いていると俺から感じたんだったら、多分それは今俺の背中で寝ているコイツの感覚が溢れているんだと思います。……っとと、ずり落ちる所だった」

 背負う態勢を整えながら、肩に乗っかる緋煩野の顔を見た。

 実に心地よさそうに眠っている。

「未成年ですからね?手は出さないでくださいよ?」

 気が付けば肩付近にエレイソンさんの視線が集中していた。

 顎を触りながら緋煩野の顔色を伺い眺めている姿に、俺は一歩後ずさりをして緋煩野を遠ざける。

 そういえばこの人、距離感の詰め方が早いという事を失念していた。

「失礼、確かに彼女からは……なんというのでしょうか?溢れ出る自信と自尊心、そして疲労を感じるなと観察してしまいました。これは本当に私の悪い癖、これ以上いかがわしいおじさんなんて印象をヨサネさんに抱かれないため、私はこの辺りで失礼します。ではヨサネさん……また」

「あぁ、はい。えっとまた今度?」

 軽く会釈をしマーシー・エレイソンは住宅街から、街の喧騒の中へ去っていく。

 少しだけ立ち話をし過ぎた、首筋を滴る汗が若干の気持ち悪さを助長している。

「もう少しで家に着くからな、着いたら起きろよー」

「……うん……起きてる……くぅ……」

「起きてないことがよくわかる。まぁもうひと踏ん張り、運動不足の体には堪えるねほんと」

 ふくらはぎの痙攣を若干感じつつ、見るからに古くからの豪邸と言わんばかりの門構えの姿をおよそ数百m先に発見し、俺はまた一歩を踏みしめる。

 果たして緋煩野は俺を帰す気はあるのか、理由も分からぬ気がかりが脳裏に過る。

 何かが心配だ、その何かが何なのかは分からないのだが。


 ◇


 こんな都会では閑古鳥は鳴かない、例え賑わっていない店があるとしても。

 生活音や環境音が終ぞ途絶えぬ都内の中の一角。

 そんな場所で確実な静寂を確保できるのは、霊園のような静かであるべき場所、あるいは自然公園のような都内の喧騒を忘れる為に向かう場所だ。

 それ以外の場所を考えるとなると、格式が高く都内においても広大な土地を有しているような金持ちの家くらいな物だろう。

 陽は傾き西日は窓から突き刺すよう、庭にある木々の隙間を通して、夕焼けは規則正しい寝息を立てる緋煩野の顔を照らしている。

 椅子から立ち、眠りを妨げないようカーテンの方へと足を運ぼうとすると、不意に袖口を引っ張られ俺は倒れ込むように戻された。

「どこ行こうとしたの?」

「カーテン閉めようとしただけだって、流石に眩しいだろ?」

 起き上がった体を緋煩野は、再び床に戻しその眩しさに顔を歪ませる。

「本当だ。ごめん……疑い過ぎた」

「謝らなくていいよ、信用も信頼もまだ残っている方が不思議だ」

「余実はちゃんと約束を守るもん、ちゃんと信用してるよ〝私〟は。……でも覚悟はしたい、余実がどこかに行くとしても、どこかへ行くことを知っておきたい。これは我儘かな?」

 俯きながら彼女は、恥ずかしそうに俺に問いかけた。

 信用してくれるのはありがたい、でも信頼は出来なかったからこそ、無理やりにでも手を引いて引き止めた。そりゃそうだ勝手に壊れて、勝手に忘れている人間を信頼しきっているのは危険で、それが盲目的過ぎる事は他ならぬ緋煩野本人が理解しているだろう。

「少しだけ話をしようか、余実。これを最後のお願いにするから」

「大丈夫だよ。ちゃんと扇ちゃんの気が済むまで、俺も腹を割って話すからさ」

 真剣な眼差しで緋煩野は俺を見つめる、けれどその瞳はどこか揺らぎを感じさせた。

 その表情に名前を付けるとするならば、決心。これ以外の表現は無い、いつもの自信と自尊心に満ち溢れた表情ではなく、今にも涙が零れそうな表情であった。


 斜陽を遮る布切れから、たった一つ漏れ出した光芒の如く一筋の電球色が見え隠れする。

 ベッドに晒される弱々しい光を頼りに、彼女は片手間に本を開こうとするが、この幽暗の部屋の中ではネコほどに夜目が利かなくては知ることも叶わない。

 緋煩野に添えられた光は、掌を照らす。持ち手はなく、その場にも無い彼女の瞳に映った記憶の欠片という書籍の1ページを開かんとする、彼女を照らすように。

 訪れた静寂を破り緋煩野は、意を決しその口を開いた。

「ねぇ余実は覚えてる?多分余実が私の前で初めて怒った時のこと」

「笛ちゃんと喧嘩した時?その時の記憶はちょっと朧げなんだよぁ。喧嘩をしてたってのは覚えてるけど、……よく考えたら、そのあと仲直りして仲良くなったんだから凄いよな」

「そうかもね」

 緋煩野は苦笑し、ベッドに体を預けながら会話を続ける。

「出会いも強引だったけど、仲直りは余実の強引さが招いた奇跡だね。あの頃の私たちはよくも悪くも余実が中心の環境だったから」

「馬鹿にしてるだろ?」

「ううん、全然?」

「満面の笑みを浮かべて言うんじゃないよ、……全く。それでその喧嘩のことがどうかしたか?思い出せって?」

「いいや、そう訳じゃないんだ……。まぁあの時の喧嘩は、私の傲慢さや身に余り過ぎる才能ってやつが招いた結果だからさ。なんせ何で遊んでも私が一番になるんだもん、そりゃ子供なら楽しくないよね」

 秋鹿と緋煩野が言い争う原因がそれであったとして、なぜ秋鹿と喧嘩にまで発展するのか。どちらかと言えば俺は、二人をなだめる側に回るべきだったはず。

「でも子供なのに大人気ないのは変わらなくないか?」

「何か言った?」

「何も言ってないです」

 困った真夏だというのに、緋煩野の笑顔を見ると背筋が凍るようにぞわっとする。

「まぁでも私が大人気なかった、根幹はそんなんだよ」

「そんなんだったのか」

 思った以上に理由が子供だ。小学校に上がる前、実際子供なのは違いないのだが。

 勝手に納得している俺を、緋煩野は見つめ口を開く。

「何で怒ったのか、その理由はね。私を庇ってくれたの」

「庇うって何を?」

 あ、駄目だ。馬鹿を哀れむような目を向けられている。

「いやまぁ、想像は付くって。あれだろ、扇ちゃんは大人気ないんじゃない、成長を促すためにボコボコにしてくるんだって、確か中学の時そんなこと言ってなかった?……だからその目やめてよー」

「ビックリするほど、何もかもが間違ってるね、逆に感心してた所だよ」

「でも秋鹿に中学の頃言ってただろ?強烈に記憶に焼き付いているから、間違いではないと思うんだけど」

「それは……まぁ言ったかも。実力をつけるのに手っ取り早い方法は、実力が上の存在から技術を吸収する事だと思うし、それが私の持論ではあるから」

「だろ?」

「でも違うんだよ、あの時はさ。二人は何をやっても私が一番なのは、天才だからだーとか、生まれつきのーとか、そういう事に余実は怒ってくれたんだ」

 緋煩野は俺の指先へ手を伸ばす、俺は差し出された手を見た。

 全てを抱え込むにはか細すぎる小さな手、けれど彼女は全てを抱え込む。

 なぜかと聞けば、何かを可能にする事ができる者の責務だと笑って答えるだろう。

 誰にも気づかれず一人で悲しげな表情を浮かべて、だからその結果の過程を知ることができる俺は、悲鳴を上げている彼女の手を取って優しく包む。

「余実は私の全てを天才として片づけなかった、皆が才能の二文字で終わらせる私の努力を認めてくれた。私が寂しいときもずっと傍に居てくれた」

 彼女は何度も口に出す、彼女が俺に抱いてくれた感情を全て。

 何度も、何度も、何度も、それらの言葉は緋煩野扇子という人間がいかに孤独だったかを物語るには十分すぎるモノで。

「皆から私を庇ってくれた、……緋煩野という家でも孤独だった私と一緒に遊んでくれた。……友達だって紹介してくれた、……私が私として生きると皆が離れていくのに、余実だけは変わらず接してくれた」

 皆が彼女を緋煩野として見る、それは普通のことだけど普通のことじゃなくて。

「誰もかれもが口を揃えて私の価値を決めつける中で、余実だけは私をただの扇子として見てくれた。そんな余実が……私にとってはヒーローみたいだったよ」

 ヒーローか、随分ロマンのある言葉だ。

 確かなことは言えない、けれど俺はそれが嫌だったんだと思う。

 主役や悪役として見ることはしても、誰も緋煩野の隣に居ようとしない。近づこうともしないのに、彼女を知ったようにただ賞賛し遠ざける行為が嫌だった。

 緋煩野が緋煩野ではなく、緋煩野扇子で居られる、多分そんな時間を作りたかった。

 彼女は誰よりも努力して、皆が望み、皆が羨む実力を手に入れている事。それを一番近くの真後ろで見てきたんだから、それを俺が認めてあげなくてどうするって話だ。

「自慢じゃないけど、高校で別れるまでは一番長く居たからな」

「そうだね、きっと両親よりも長い時間を過ごしたと思う」

「だろ?多分俺が一生かけて出会った人の中で、扇ちゃんが一番凄い奴だって、俺は全人類の前で宣言できるよ」

「じゃあ私が偉業を成し遂げた時には、自慢していいよ。私は余実にとって妹みたいなものだって、それを私はちゃんと公認するから」

 クスクスと俺の空想に緋煩野は笑みをこぼす。

 そうやって笑ってもらえた方が、俺にとっても気が楽だ。

 けれど現実が非情なのか、俺が非情のろくでなしだったのか。

 そこまで大事にしてくれていた時間を奪ったのは、紛れもなく俺自身。本当に正しく最低な行為だ、彼女が抱いたヒーローとはまるで違う悪人に他ならない。

「でもそれまでの日常の全て変わってしまうような、そんな出来事が起きた」

 彼女が口に出す、その一言は俺の心拍数を一段早くする。

 誰にだってある、受け入れられ難い事実。

 それこそ12年弱という期間心に封じた記憶。トラウマになっていない方が不思議というモノ、けれど逃げるのはもう辞めた。

 俺は飄々(ひょうひょう)と緋煩野の言葉の先を待ち、それを理解したのか彼女は口を開いた。

「12年前の夏、余実が小学校1年生の時だったね。私はまだ小学校に上がる前で一緒に居る時間は明らかに減っていてさ」

「結構変わらず遊んでなかったか?……あれ以上って、もう一緒に暮らすレベルじゃ?」

「まぁ、確かに……」

 彼女の微妙な反応を見るに、緋煩野にとっては学校の所為で会えないという事実の印象が大きかったのか。

 いやそれでも基本毎日会っていたような……。

「夏休みの終わりに打ち上げとして、余実とご両親たち、皆一緒に山荘で思い出を作るって決まってさ。嬉しかったし少し寂しかった、でもだからこそ気が済むまでって思ったよ」

 フラッシュバックするように、あの時の光景が鮮明に脳裏へ過る。

 振り返るとそこにあるのは、木々に隠れていた地表が剥き出しになった山の斜面。

 流れてきた土砂によって全壊したログハウス、山から落ちてきた針葉樹が、SUVの原型などを忘れさせるように叩き潰される。

 運よく土砂の下敷きにならなかった俺だけが、その場で動けずにその光景を目の当たりにしていた。

「余実はすぐに見つかった、多分外に出たんでしょ余実は。土砂崩れの被害は届いても一番被害が少ない所で余実が倒れていたから」

「あの時は雨が止んだのが嬉しかったんだよ、これで皆とバーベキューができるって」

 言葉は軽いが子供ながらに味わった絶望が、あの瞬間確かに希望に変わった。

「居ても立ってもいられなくなって、外に出て青空を自分の目で確認したかった。急いでいた訳じゃないけど、お父さんやお母さんと違ってサンダルだったからかな」

 あと10秒でも時間があれば、お父さんとお母さんは助かったかもしれない。

 あと10秒俺の行動が遅ければ、お父さんとお母さんと一緒に死ねたかもしれない。

「私は余実が生きてたことに安堵をして、一緒に泣いていればよかったって後悔もある。でも私は無駄に賢い子供だったkら、余実のこれからの心配をした」

 緋煩野は俺の胸を目掛け顔をうずめる。すすり泣くような息遣いと、彼女の後悔が生む震えを抑えるように、抱擁を受け入れる。

「ごめんね余実」

 あの日のことを思い出す。

 緋煩野の母親に、両親は後ろの車に居ると言われ、とても安堵したことを覚えている。

 お父さんもお母さんも無事、その確証という言葉が一番欲しかった。

 どうして緋煩野が後ろめたそうな表情をしていたか、多分彼女の謝罪がそれの答えだ。

「私がお母さんに言ったの、安心させるために安静で居させるために、希望を持たせようって。その言葉が裏切られた時、余実がどうなるかなんて考えられなかった」

 緋煩野の懺悔は続く、全ての後悔を吐き出すように。

 だから俺にできることは、彼女がこれ以上後悔を引きずらなくていいように背中をさする。全てを吐き出せれば、緋煩野が抱え続けた重りを外す事ができると思ったから。

「でも余実は、一度持ってしまった希望を裏切られる覚悟なんてしてなかった!……私が余実を壊した!…皆が好きだった余実を壊した!本……質は何も変わらないのに、ただ両親の死が受け入れらないだけだったのに、皆が余実から離れていった」

 怒号にも似た声が、部屋の中を響き渡る。

「でもその原因を作ったのは私だ、そう気づくのに時間は掛からなかった……」

 緋煩野が、緋煩野自身に怒りを向けるような声が響く。

 そして生まれてしまった罪悪感は、彼女の感情を意図も容易くかきむしっていた。

 俺の服を引っ張るように、緋煩野は更に顔を埋め。皆が知る緋煩野扇子という人間を取り繕う仮面が今だけ外れ、ただ子供のように泣きじゃくる少女がそこに居る。

「ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……余実の人生を私がめちゃくちゃにしてしまった……本当にごめんなさい……」

 許す、許さないの話ではない。

 そんな壊れた俺に、緋煩野は真面目に夢を見続けさせてくれた。

 凡そ12年間もの間、居るはずのない両親からの手紙も、誕生日にしかかかってこない電話も、普通受け入れるしかない筈の現実から、目を背け続ける時間を沢山くれた。

 これ以上彼女が彼女の手で自身を傷つけてしまわぬ様に、緋煩野の背中に手を回しゆっくりと、ゆっくりと背中に軽く手を添え優しく叩く。

「いいんだよ、扇ちゃん」

 言葉は裏があると探るかもしれない、でもこれは紛れもなく俺の本心だ。

「俺にはあり余る、理想にも似た現実を今まで作ってくれてありがとう」

 彼女の耳元で呟く、聞こえていても聞こえていなくてもいい。この彼女にとっての言葉が救いになるのか、はたまた重荷になるのかは分からない。

 頑張ってくれた君に少しでも報いたい、その思考の果てに至る行動なだけ。

 泣き続ける緋煩野を、せめて彼女が泣き止むまで離れず、そして離さずに居ようと思った。


 この夕暮れ時は、緋煩野にとって決別の時間。


 10年以上も隠し、維持し続けた。よく知っている昔のままの緋煩野扇子。

 過ぎ去った時間の中、いつか全てが元に戻り過去に置いてかれた俺を迎えに来るためだけにある、緋煩野扇子の後悔を清算しなければいけない場。

 呪縛のように絡みつく積年の呵責を、10年以上の時を経てようやく区切りがつけた。


 ◇


 満月から少しだけ欠けた空の中、とても過ごしにくく汗の粒が浮かぶ熱帯夜。

 まだ目を腫らしたままの緋煩野に手を引かれて屋敷を離れ、夜になろうと静まることを知らぬ街の真ん中、行く先々で記憶をたどり相違を感じさせる景色を見つめてみた。

 緋煩野は腫れた瞼が恥ずかしいのか、パーカーのフードを深く被り、両肩にシルクのような髪を乗せビル風に靡かれる。

 会話は少なく、行く先も決まっていない。泣き止んだ緋煩野が外へ出たいと言い、俺はそれについてきただけだ。

「というか結局どこに向かってる?ご飯食べに行くのか?」

「行かないよ。というよりいま何時だと思ってるのさ、こんな時間に普通ご飯は食べません」

「確かにそうね、お母さんにも言われたっけな。7時を過ぎたら間食は禁止って」

 思い返せば懐かしい記憶ばかり、そんな中ふと気になったことがある。

「そういえば扇ちゃん、スマホどうしたの?」

「余実の家で捨てたよ?もう必要なくなったし」

「要らないって、現代っ子とは思えない発言」

「そりゃ電話とかは使うだろうけどさ、正直余実の意思は変わらないんでしょ?なら私はそれを否定できないよ、……肯定もできないけど。とにかく余実の位置が……おっと」

「今とんでもない事を口走らなかったか?」

「さぁ~?」

 流暢な口笛を緋煩野は披露し、緋煩野は俺の手を今度は強引に引っ張る。

 深く被っていたフードが脱げ、元気いっぱいのやんちゃな笑顔が見えた。

「ようやく普通に笑ったな」

「ごめん、気を遣わせちゃったね。……でもこれは私の浅ましさで、ただの未練だよ?」

「まぁ心配はいっぱいかけたから、気の一つくらい遣わせてよ」

「そう?じゃあそんなご厚意には、甘えちゃおっかな」

 渋谷駅から徒歩1分もかからぬ場所、大きくカラオケの文字を掲げたビル。

 その上にはボーリング、ビリヤードにダーツと夜に似つかわしい娯楽の一覧が記載された施設。確かに気晴らしには丁度良いのだが、それでいいのか。

「んーーっしょっと、それじゃ行ってみようか、全員の目を私達に釘付けにしてやろう」

 大きく背筋を伸ばし、緋煩野は視線で確認を取るように振り返った。

「扇ちゃんに視線が集まる。の間違いだろ、俺は黙ってボコボコにされろってか」

「でも余実はこんな手加減できない私でも、一緒に居て楽しいんでしょ?」

 それを言われるとぐうの音も出ない、これが幼馴染の弱みというやつか。

 持てる時間を割いて極めた一芸を、彼女の間近で見れるという事実。

 例え周りの目は、俺のことを情けないと男という偏見が向くとしても。

 やっぱり少しだけ頑張るべきだろうか、ただやられるのは煽られる気がするぞ。


 木と木がぶつかり弾むような音が木霊するフロア、緋煩野はボールを後方へ送り出すようにスイングし、決して軽くはないハウスボールを悠々転がす。

 カカーン小気味よい音を立て、ハードメイプルの外皮をプラスチックで整えられた紅白のピン総勢10本は、連鎖的に各々が散らばり倒れていった。

 上部にある掲示板には、ド派手にSTRIKEの文字。

「YES!イエッス!」

 感無量なのか、彼女は大きくガッツポーズ。

 俺はハイタッチの手を差し伸べるが、周囲は彼女の感情とは裏腹に静まり変えっていた。

「扇ちゃんがいつもとんでもないスコア出すね、笛ちゃんとかがやりたくないって言ってた気がするけど、一人でもやっているの?」

「いやー?……余実の分も投げるねー」

「別にいいけど、3連続ストライクでご褒美でもあげようか?」

「えー、ご褒美かぁ。ほっぺにチューとかでもいい?」

「いやだよ、というかピアノのコンクールの時の話してる?」

 それはピアノのコンクール前に、緋煩野が納得いく演奏ができないと泣いていた時の話。

 ミスしなかったら好きなお願い何でも聞くと言ったら、平気で金賞を取り、快挙だとかで取材まで受けていた筈だ。

 ファーストキスは少しだけ汗の味、そんな記憶を俺は指を唇に当て思い出す。

「あ、覚えてたんだ。ちぇ、まぁ冗談だよ……よし13連続」

「片手間で人が一回も出せなかったストライク出さないでくれる?」

 そう静まり返った原因は、恐らくハウスボールで達成した記録のせい。

 おしゃべりしながら当たり前のように、ストライクを重ね続ける彼女が居るからだ。

 何度でも言おう、緋煩野扇子は凄いのだ。

 周囲と俺の反応が違うのは、その下地にある努力を知っているか知らないかでしかない。

「今回の余実は運が悪かったねぇー、スペアは結構出てるのに」

「そのあとガターで台無しだけどな」

「あっ。曲がりきらなかった……、残念14連続は断念。よし次へ行こう」

 楽し気に荷物を纏める緋煩野を背に、電光掲示板をちらりと見る。

 スコア300とスコア108。もしかして最後、代わりに投げてなかったら100すら届いていなかったのでは。そんな事実に自身が一番驚愕し、次の娯楽へと場所を移す。


 凡そ男性の平均身長の高さへ、2m以上の距離を取りダーツを投擲する。

 体の動きの内容は単純明快、そこに持ち点を丁度良く0へと持っていくゼロワンルールというモノが合わさることで、趣があるゲームとなっていて素人には難しい。

 ダーツという競技に抱く印象としては、夜の遊びと行った所か。しかし似つかわしいとは到底思えない人物が居ると、自然と目は引かれていった。

「あれエレイソンさん?」

「余実どうかしたの?手振っている人居るけども、知り合い?」

「知り合いというか、北海道に行くときに偶々ぶつかった人というか」

 マーシー・エレイソン。神父がこういう場に居るとのは、思い描く印象との乖離がある。

 彼は片手に持った醸造酒をテーブルに置き、こちらへと少し浮いた足つきで歩む。

「奇遇ですねぇヨサネさん。お連れの方は今朝方、ヨサネさんに背負われていたガールフレンドさんだったかな?」

「彼女じゃないですよ?でも本当に奇遇ですね。……あの疑問なんですけど、神父さんがこんなところで遊んでいても大丈夫なんですか?」

「ハハハ!大丈夫です、今の私はただのマーシー・エレイソン、神に仕える聖職者としての役割は17時に終わらせましたから…アッハッハ」

 明らかに酔っているのか、神父としての体裁はどこかへ置いてきたらしい。

「いい加減な神父さんだね、余実付き合う人はきちんと選んだ方がいいよ?」

「今までの印象は……、一応ちゃんと神父してたんだけど」

「はっはっは、これは手痛い所疲れてしまった」

「まぁいいや、さっさとダーツをしよう?今日はボーリングに続いていい結果を出せそうな気がするんだよね、私の良い所見てくれる?」

 手を組んで背筋を緋煩野は伸ばしながら、ダーツに手をかける。

「おや?ヨサネさん、お連れの方はダーツに自信があるんですか?」

「え?あぁはい。ダーツというか大抵の物事への自信と実力は、俺が知る限り一番凄い子なので」

「ほう……ならば私と一勝負どうでしょうか?これでも私、昔はダーツのプロを目指そうとしていましてね、それなりにプライドも自信もあるのですよ、どうです?」

「どうって言われても」

 だが決めるのは緋煩野の本人。

 そちらに聞いてくれという話、俺は困り果て視線を逸らす。

「ん?勝負したいの?別にいいよー」

 どうやら乗り気のようだ、俺は胸を撫でおろし安堵する。

「そう言ってくれるのを待っていましたよ。そうですねぇ、もし私に勝てたなら、私たち教会に勤めている人間しか知らない、世界の秘密を一つ明かし」

「いいねぇ、俄然やる気が出てきた」

 マーシー・エレイソンさんが全てを語り切る前に、緋煩野は言葉を遮り闘志を剥き出した。

 どうやら、やる気も湧き出てきたようだ、さて勝負はどうなるのやら。


 ◇


 701の数字を最初に丁度0にする、説明するとそこに難しいことは一つもない。

 あるとすれば場所により、記載される点数が2倍か3倍に増えたり、ど真ん中を射れば関係なしに50点ということだけ。

 問題はこれをどれだけ少ない投数で0に至るか、ここが一番の醍醐味なのであろう。

「いやいや、これは偶然だ……、そうに違いない」

「現実逃避は格好悪いよー、神父さーん」

 堪え切れぬ満面の笑みで緋煩野が投擲した3本目のダーツは、見事に真ん中を射た。

 20の外側、17の外側。そして最後はど真ん中と、一見バラバラに飛んだように見えるこの光景。投じたのは僅か12投だが内訳として、20のトリプルを10回、17のトリプルと真ん中50点をそれぞれ1回ずつ、これでしっかりと計701丁度に収まっている。

「ふぅー、集中したー」

「扇ちゃんお疲れ、肩でも揉もうか?」

「おねがーい」

 椅子に腰をかけ、緋煩野は脱力しながらこちらを見た。

「格好よかったよ」

「でしょ?」

 満足気に笑う彼女が残した結果は大楽勝、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)も良い所。

 何一つ危なげなく、最善手の最速手。勝負をごく短時間でものの見事に勝利を収めた。

 自らの実力をフルに発揮出来た時、緋煩野はよく笑う。これは彼女が負けていたとしても変わらない、緋煩野扇子として発揮できる最高の結果に勝敗は関係ないとのこと。

 他人には独りよがりの自己満足、そう映るかもしれないが、俺はそう思わない。

 彼女が最高のパフォーマンスを披露しても勝てなかったのならば、そこにあるべきは恐らく敗北の涙ではなく、相手へ送る賛辞の声の筈だ。

 まぁそう言って負けた姿を、片手で数える程度にしか見ていないのだが。

「さぁ神父さーん。私が知り得ない情報を教えてよ、神に仕える身で嘘はないでしょ?」

「蛮族だよ、それじゃあ」

 応答がない程度にはマーシー・エレイソンさんは、膝から崩れ落ちていて相当悔しかったらしい。

 しかしそこは流石大人、ほどなくして人混みが少ない所へと俺達を招く。

 あんな口約束を守るなんて律儀な人だと感心しつつも、俺はとりあえず緋煩野が口にしたドリンクを片手に持ち、彼女とぽんぽんと叩く席に着いた。

「これ、扇ちゃんのドリンクね」

「どうもどうも、勝利の美酒だねぇ。ソフトドリンクが普通よりも美味しく感じる」

 そんな軽口を後目に、マーシー・エレイソンさんは真剣な面持ちでこちらを覗き見る。

 彼の口がこう開く、俺達二人にしか聞こえない程の声量で。


「お二人はこの世に吸血鬼というモノが居ることを、知っていますか?」


 マーシー・エレイソンさんは、そう気軽に語った。

「吸血鬼ぃ?今時流行らないですよ、そんなの」

「信じられないのも無理はない……ですが、居るんですよ本当に奴らは」

 動脈を通る血液の循環が、爆発音を奏でながら流れているような感覚を覚える。


 曰く、夜を我が物顔で闊歩し、夜闇に紛れ人の生き血を吸う事でしか永らえることのできない蛮族。

 その外見は人を誘き寄せる為に、この世で最も容姿端麗という言葉が似合う存在であり。

 醜い生き方を、美しい外見で取り繕い、この世界で最も目を惹かれるモノは、一つたりとしてこの世界に反射しない呪いを神に与えられし、正しく異端の存在。


 今の自分はどんな顔をしているか、それを悟られたくなく顔を伏せた。

 しかし彼の言葉、パアヴァインが語った言葉。今繋がるべきではない点と点が、彼との会話を通して線となっていく。

 俯いた額には脂汗が徐々に浮かび、マーシー・エレイソンさんが語る話が夢か現かわからぬほどに、俺の見ている世界は酩酊していた。

「失敬、このような話流石に信じられませんよね、ですが?……おや?ヨサ」

 突如として液体が飛び散り、パシャと音立て俺の頭に降り注ぎ、天井を見上げた。

「す、すいません、お客様。……突然よろけてしまって」

「あらら……ってお酒くさッ、すいませーんタオル貰えますか?」

 脂汗か炭酸が混じったお酒かわからぬほどに、液体が額を垂れていく。

 タオルを受け取り、硬直している俺に緋煩野は一瞬目を合わせ拭いていく。

 確かに頭からは酒特有の臭いが漂い、視界の揺れが酔いによる揺れに変わりそう。

「大丈夫ですか?どこか具合が」

 倒れかかった従業員の介抱にマーシー・エレイソンさんは周る、目の前で突如として倒れかかった人がいるのだ、人として当たり前の行動だろう。

「まぁ拭くだけじゃ、臭いは取れないか流石に。臭い気になるよね?余実も」

「え、あぁ。確かにちょっとくらくらするかも」

 真剣な面持ちで、緋煩野は俺にだけに見えるように目を合わせと問いかける。

「それはそれで弱すぎない?」

 有無も言わせぬ迫力と、素気なさが入り混じりつつ、彼女は俺の手を取り立ち上がる。

「神父さん」

「なんでしょう?」

「ちょっと未成年がお酒の臭い漂わせるのは問題なので、ちょっと私たち先にお暇しますね、余実の家がすぐ近くにあるので」

「そうですか、もう少し話をして見たくはありましたが、……此度はここまでといたしましょう。また機会があればダーツをもう一試合」

「えぇ、この狭い東京の中でなら、また会える機会もありますからね。余実立てる?」

「あぁ……うん、大丈夫酔ってないよ」

「そう、よかった」

 俺を気遣うように心配げな顔を向け、受け答えを聞き安堵した表情を見せる。

 流石にそこまで弱くはないと思う一方、足早に手を引かれるこの状況に緋煩野の焦りを感じるのは気のせいか。

「えっと、エレイソン神父。折角ゆっくり話せそうだったのに、すいません」

「いえいえ、お気になさらず帰り道にはお気をつけください」

 視線を後ろに向けると、微笑みを向けてくるマーシー・エレイソンさんが、どことなく最初の雰囲気と変わって見える。

 だがもう視線を向けると、そんな印象は抱かない。

 けれど不安が見せた幻にしては鮮明だった。

「神父さん、今度はゆっくりその吸血鬼のお話を聞かせてください、もっとも余実は寝坊助なので、その時も一緒に居る確証はないですけど」

「……えぇ、その際は喜んで」

 その会話を最後に俺と緋煩野は、様々な喧騒轟く夜の渋谷へと顔をだす。

 手を引いてきた最初とは、打って変わり足早に歩く彼女に腕を引かれ帰路へ着く。

 見知った道が、見知らぬ道のように広く見える。

 通り慣れた道が普段と違って暗く見え、まるで幼心に抱いた知らぬことへの恐怖のよう。

 その恐怖を砕くが如く、緋煩野と一緒に歩けることに心底安心している自分が居た。


 もうすぐ家だと、心が(はや)る。

 何一つ変わりのない、行き慣れた道を当たり前に帰ってきた。

 心臓の音が鳴りやまぬ、どこか焦燥感を抱きながら。


 緋煩野の手を強く握り、俺は自宅の扉に手をかざした。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

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