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第3週 人間も吸血鬼も雨は好きじゃない

そしてここまで来てあれですけど、未完成版は削除します。

まぁ完成するまでの繋ぎではありましたし、とりあえず文にしただけ感が強かったので。

 8月第一月曜日、パアヴァインが眠りについていない東雲の時分に目を覚ます。

 寝ぼけ眼を擦りながら階段を慎重に下り、1階の数ある使用されていない部屋の戸を開くと、そこには使い古されいつ壊れてもおかしくないキャリーケースの姿があった。

「ねっむい……なんで昨日までに準備してこなかったのか……」

 過去の自分を呪いつつ、上手に進まないキャスターを引っ張りリビングへ。

 暫く使わないと掃除をサボってはいたが、それでも修学旅行では使用したはずなのに、見事に埃に塗れている。

 大きく口を開きあくびを漏らす。

 むずむずというか、少し喉が痒くなるのは問題か。

「掃除はまた今度に……、えっくし!」

 ハウスダストが舞う部屋、現実からの逃避行、からのまるで深呼吸。

 導き出されるのは、疑似的なハウスダストアレルギー症状。

 くしゃみ、くしゃみ、そして咳、行動事に毎度トリガーを引き、何度も騒がしくしていれば、自然と同居人の目にも留まった。

「どうしたんだ余実、お主がこんな時間に起床とは、なんとも珍しいことだが」

「そりゃあね、今日から北海道ですから」

「へ?」

「ん?」

 パアヴァインの口は広がったまま閉まらず、随分と愛嬌のある顔がそこにはある。

 こんな間抜け面でも黙っている彼女は、始めに名乗った通り威風堂々(いふうどうどう)、絢爛(けんらん)華麗(かれい)そして、誰もが賞賛する程に見目(みめ)(うるわ)しい。

 さながら現代の技術を結集した、ビスクドールにも劣らない、それがツキキュウケ・パアヴァイン。流石に日本人形としては緋煩野に負けるだろうが、それでも凄まじい物。

 しかも今の呆け顔ですら、それに匹敵するのだから恐ろしい。

 そもそもなぜ呆けているのか、伝え忘れ?いや言っているはずだ、確かに言った記憶が残っている。

 あれは確かそう、金曜日の夜のこと。

『来週月曜から、俺は札幌行くけど大丈夫?』

『……ん?…んー、任せろ、わらしはわらしだ』

 うん、パアヴァインにも了解は得ている。

 随分と顔が赤くなっていたが、幾ら聞いても大丈夫と返してきたのだから、大丈夫。

「俺はちゃんと言ったからね、月曜から札幌に行くって」

「聞いていないが?何をしに行くんだ?」

「何をしにって……秋鹿の応援」

「そうか……まぁ出発は夜であろう?こんな朝から急く程のことではな」

「何を言ってるのさ、昼には出るよ。ご飯は冷凍のがあるから、自分で用意してって言ったでしょ?」

「なんだそれ、私聞いていない、聞いていないぞ!一体そんな大事なことをいつ?」

「いつって、金曜の夜。サイゼで」

 パアヴァインは顎に手を当て考える、考えて、考えている。

 静まったタイミングを好機とし、俺はとりあえず下着等を、キャリーケースを計画的に入れる、メガホンと、あとはガイドブック、デジカメ、枕にタオルはいるのだろうか?

 着る物は最悪の場合、インターハイの会場になぜかあるアパレルショップという手も。

 手荷物用のバッグはどうするか、大きいと確かに邪魔だが、小さければ良いという訳でもない、こう丁度良いサイズのバッグを……。

「なにさ?」

「……てけ」

 こう丁度良いサイズを探す為に、宙に程よいサイズを描く中で、彼女は袖を引っ張り、何かを口にする。

「言っておくけど、パアヴァインが大丈夫って言ったんだよ」

 今から3日分のご飯を作り置きしろ、なんて言われたら俺は今すぐに準備を終わらせ家を出てやろう、そうしよう。

「つ、連れてけ」

「え?」

「私も連れてけと言っている!文句があるか!」

 赤面したパアヴァインが声色高らかに、命令口調で声を発する。

 文句があるか、あるかないかと言われれば、そりゃ有る。

「いや連れてけ言われても、チケットは一枚しかないし……」

「どうにかする、とりあえず私の服をお主のキャリーに詰めるからな」

「どうにかするって……」

 枕にデジカメ、バスタオル等々が雑に取り出されていく、折角無理やり詰めたのに。

 連れて行くのにも、チケットは無い。

 パアヴァインは変な所で意固地というか我儘だし、どうやって納得させるべきか。


 考えを巡らせるために、俺はリビングを出た。

 もしかしたら、僅かな可能性が脳裏に過り、階段下の収納スペースの戸を開く。

 やっぱりあった、体重を軽くできるパアヴァインであれば問題はない筈だ。

 パアヴァインはこうなることを見越し、自身の衣服を多めに買ったのかもしれない。

 流石に違うか。

「いいの見つけたよ、パアヴァイン」

「だから作はあると……、お主なんのつもりだ?」

「体重軽くできるでしょ?なら段ボールに入れて速達便で、これって結構いい案じ」

「いい案なわけがあるか!」

「へぐッ」

 パアヴァインの足が横腹にある、恐らくだが多分蹴られた、間違いなく。

 何も入っていない腹の中から、何か出るんじゃないかという衝撃、そして自分の足が床から離れているという衝撃、二つの衝撃の板挟みで意識が飛んでいく、二重の意味で。

 折角早起きしたのに、折角いい案だと思ったのに。


 ◇


 影が最も短くなる時、意識外から急かされた感覚と共に、俺は体を勢いよく起こした。

「遅刻…ッガ、……壁?」

 二段ベッドの上が天井、そんな可愛げのあるミスに巻き込まれたように、思い切り顔を何かにぶつけた事で意識がはっきりとする。不満があるとしたら痛みの伴う寝覚めくらい。

 ふと瞼を開く、そこには俺の胸元にブロンドの髪を垂らす美女と、見知った天井があった。

「失礼な奴だなお主、人様の胸を……まぁいい、随分心地よさそうに眠っていたが、準備はいいのか?」

「あぁ、うん……まだ大丈夫、正午の便だから。……じゃなくて、蹴ったよね?」

「蹴った?人聞きが悪いな、私はお主を蹴りはせんよ、なぜなら余実は友人だからな」

「確かな衝撃が脇腹にあった!」

「ほーう?まぁいいではないか、蹴りの一発や二発、お主がふざけた事を抜かすからだ」

「いやまぁ、段ボールに詰めるのは、確かに。まぁ」

「分かればいい。それにお主、最近所構わず寝ているだろう?先にその時間を作ったと思え」

 それを言われると確かに、最近は気がついたら眠っている事は多い。

 この無限の眠気はどこから来ているのだろうか、だからと言って蹴ることは無いと思うのだが。先にその時間を作ってくれたことに感謝するべきなのか。

 俺は深呼吸をして、今一度顎に手を当て考える。

「おーい、そこまで深く考えるな、手加減したとはいえ蹴ったのは事実だしな」

「手加減して人が宙に浮くくらいの力なのか……」

 俺が絶句している中、パアヴァインは手を差し出したので、素直に手を取ることにする。

 預けられた体重に負けない抜群の安定感、改めて見る準備が進んでいない惨状。

 大きなため息が出た。

 そして人の気も知らずに、彼女が執拗に脇腹をつついてくる。

「なにさ」

「私も手伝う、お主がそんな顔をするな。私がついて行く方法も見せる」

「半分以上パアヴァインの服じゃない?そもそもついてこないって判断はないの?」

「無いに決まっている。当たり前だろう?」

「当たり前なのか」

 当たり前らしい、そうなのか。そこまで当然の事のように言われると、まぁ妥協する。

 秋鹿達以外との旅行、それには未だに興味が湧くことはないが、同行人がパアヴァインならば少しは行ってもいいと思える。

 修学旅行しかり、他人と旅行なんて特段楽しみだと思ったことは無い。

 日を跨げば、疲労が蓄積し続けるこんな体では尚更、だが精神面は成長しているとも思う。

 そうえいば朝食も口にしていない。俺は重たい体を動かし、キッチンへと向かった。


 正午過ぎ、身を焼くばかりの酷暑の下。

 空からの陽光と、アスファルトに吸収された路面温度が照り返し、ホットサンドの如く両面焼きに耐え、俺は渋谷駅で羽田行きのバスを待っている。

 少なからずも感じる、この日差しと暑さ、そしてスニーカー越しに感じる地面の熱。

 これらはこの瞬間に置いて、人間が生きていく環境ではないと、告げているのだ。

「暑いのは、分かってるって」

 誰かに話しかけたかの様、独り言を呟く行為は、周囲に要らぬ誤解を与えるか。

 暑い、熱い、そう言葉に出す度に、キャリーケースが生き物の様に揺れ動く。

「北海道、今日の最高25度なんだって緋煩野から……はいはい、黙るって」

 太ももに挟んだキャリーケースから、人目を集めない程度の打撃音と衝撃の連続。

 東京は灼熱の太陽の下、真夏日が数週間と続いている。

 それを考えれば、きっとその気温は過ごすのに極楽。

 その暑さからの解放、それが待ち遠しく、そこに無事に辿り着くかの不安も少し。

 あれだろうか、パアヴァインの本音は、北海道というよりは、涼みたいから行くのだろうか、と言っても普段この時間であれば、彼女はエアコンを利かせ寝ているが。

「おー、ようやくバスが来たー……はいはい、暴れないでください」

 あれ?でもキャリーケースって……、言わないで置こう、多分更に暴れる。


 バスに乗ってさえしまえば、俺個人は快適そのもの。

 気づけば空港に辿り着き、搭乗の手続きさえ無事に終えればいいだけ。

「本当に大丈夫なの?これ俺が捕まる可能性はない?……おーい、無視するな」

 バスを降り、先ほどまで騒がしかったキャリケースが、今は突如として沈黙を決め込む。

 カメラには映らないのだから、X線にも映らないというのは、本人の談。

「X線に当てるのは、ここじゃないだろうし、とりあえずは大丈夫か」

 ぶつぶつと独り言を唱えるのは、一度止めて、ここは一つ男らしく腹を括る。

 そしてどこからか感じる視線は気にしない、予想は付くのだが、予想は当てしないでおくべきだ。まさか先に北海道へ行った奴が、わざわざ迎えに来ているなんて信じてはいけない。


 俺はある程度空いている席を見つけ、腰を下ろす。

 保安検査を抜け、乗り込むまでの僅かな時間ではあるが、そろそろ視線の正体が姿を現す頃合いだ。

「いやーこっちは暑いねぇ。それより余実ー、元気してた?」

 髪を下ろした普段の印象とは大きく変わり、薄く透き通ったリボンで髪を纏めあげた、見知った少女が、こちらを気にもかけず隣に座る。

「……はぁ、なんでお前はこっち戻ってきてるんだ?」

「あれ?驚きが少ないな、もっと驚いてくれると思っていたのに」

「驚いてはいる、行動力の高さに」

「うぇ?そういう驚き方?まぁ驚いたならいいか……、でも到着遅かったね、まるで今日の朝まで準備せずにいて、準備が終わる前に二度寝でもしたかのように?」

 怖いよー。緋煩野は俺の家に監視カメラを仕掛けている、もしかしなくても可能性は……。

「ちょっと待て、お前」

「監視カメラなんて仕掛けてないよ。そもそも朝から羽田だし、本当にただの推測、全部ね、当たってた?」

「いやほんと、ビックリするぐらい」

「それは何より。それじゃあ私は時間を潰してこようかな?余実を驚かすことはできたし」

「マジでそれだけの理由で来たのか……アイツ。まぁ俺もちょっと歩こうっと」

 ゲーム機を触り椅子で寝そべる子供、読書に耽る老人。

 各々が何かで時間を潰す中、割高に感じる空港の弁当を眺め、物見遊山に耽る。

 流石にこれが、この値段は高い。なんて野次馬根性の丸出しなのは下品か。

 よそ見に思考中、ならばさもありなん、俺はぶつかるべくしてぶつかり、尻もちをつく。

「すいません、よそ見していました」

 尾てい骨を打ったのか、お尻が痛い。だが先に謝罪が出たのは、多分間違っていない。

「こちらこそ申し訳ない、大丈夫だったかい?」

「はい、ちょっと考え事を……、あれ外国の方?すいません余りに流暢な日本語だったので」

 視線をあげた先にいるのは、珍しい青い瞳を持つ、ソフトモヒカンというべきか、ツーブロックというべきか、ブロンドと黒が混ぜ合わせた髪を持つ壮年の男性。

 年齢は30代と行った所、間違いなくモテるそんな雰囲気。

「本当かい?今日まで勉強してきた甲斐があったよ」

「凄いですね、……本当に外国の方特有の、カタコトさ?が全くないといいますか」

 それでいて物腰柔らか、これだけの人を女性は放って置かないだろう。

 だが薬指に指輪はついていない。明らかにモテそうなのに、結婚していないのだろうか。

 ジロジロと見るのは失礼なのだろうが、彼もこちらを見ている気まずさ、それがなんとも言えずに、体感では数分と言っていい程の時間が経ってから、意を決し声を出す。

「えっと……何か?」

「あぁ失礼、人差し指絆創膏、剝がれているのが少々気になって」

「あ、本当だ……あでも血は止まってる、大丈夫かな?」

 パアヴァインが血を飲む時、傷のつけ方は指先穿(せん)()の形。

 昨日も夜ご飯の後、遭難中にオアシスを発見したかのように艶笑(えんしょう)を浮かべ、パアヴァインは嬉々として、1滴ごとのテイスティングしていたことは覚えている。

 だがその際に貼った絆創膏は、寝る前には剝がしていた筈。

 しかもいつもは薬指の血を好んで飲むというのに、今日の気まぐれはどうしてなのか。

 傷跡的に血を飲んだことは間違いない筈だが、なぜ人差し指に変えたのだろう。

「変えの絆創膏をいるかな?こういう時の為に備えはあるんだ」

「あ、いえ大丈夫です、猫に噛まれたとかそんな感じなので」

 考えても分かりそうにない、適当な言い訳でここは乗り切ろう。

「そうか君がそういうならいいが……、ちなみに君はこれから何処へ?」

 この人、パーソナルスペースが広い。思った以上にぐいぐい来る。

 行先くらいは、オープンにするべきなのだろうか。とりあえず助けて、緋煩野。

「……?……あぁすまない、折角の出会いだったからね、同じ場所であれば、再び相まみえる機会もありそう、なんて思ってね」

「あー、そういう事か、俺は札幌ですね、新千歳です。あなたは?」

「私は九州に暫く滞在する予定だったんだが、今しがた予定が入ってしまってね。またすぐにこちらに戻ってくる予定だよ」

「あらら、それは大変そう……、まぁ俺も友人の全国の応援なので、それが終わればまたこっちに帰ってくるので似たようなものですけど……」

「そうか、ならばまた会えるかもしれない。……おっと流石に立ち話が過ぎたな、願掛けの様なモノだが、君の旅路に神のご加護がありますように祈るとしよう、それじゃあ」

 余実に向かい十字架を切るポーズ、初めて生で見た。

 多分クリスチャンだか、カトリックだか、だが外国人としては珍しくもないのか。

「そうですね、是非日本を楽しんでください。あと暑さには気を付けて」

「はっは、忠告ありがとう。もう少し早く……そうだな数週間程、早く聞きたかった言葉だ」

 社会人になれば、この人の様に過ごしやすい時期なんて関係なく働かなければならなくなる、学生に許された長い夏季休暇もない。

「やっていけるのかな、俺って」

 壁に寄りかかり、冷たいクーラーの風を浴びながら考える。

「おーい余実?もう少しで搭乗口開くよー、何してんの、天井なんて見上げてボーっとして」

「ちょっと日本の経済状況についてね、考えていたのだよ、高3だから」

「日経株価の始値はどんな感じ?」

 あぁ知っている、知っているとも、基本3万円台で4万円に乗るとニュースになるアレだ。

「知ってる筈がないだろ、俺だぞ?」

「それを威張られても困るよ。……なに?飛行機乗るの不安だったりする?」

「そこまでは子供じゃない、ただ」

「ただ?」

 こちらを心配そうに、緋煩野は顔をこちらに向ける、生意気なのにこういう所で気を遣える。本当に良い性格をしていて、秋鹿同様、俺には明らかに不釣り合いな幼馴染。

「なんでもない。個人的には、飛行機より車の方が苦手だな俺は。酔うから」

 多分子供が抱く、将来への漠然とした不安、二人のように何か誇れるものを用意してこなかった、自分の落ち度、自業自得に他ならない。

 新千歳行のアナウンスが響きわたる。

「じゃ、行こうか」

「おぉー引っ張られる―」

 彼女が俺の袖を引っ張り。搭乗口へと小走りで向かう。

 快適な空の旅が始まるのだ。


 空の旅は良い、どこまでも続く蒼い空に白い雲の海。

 偶に雲海の隙間から見えるのは、開発が進む陸地と山、そしてどこまでも広大な青い海。

 蒼穹(そうきゅう)(めい)(かい)、少し上に移るだけで蒼穹は黒色という宇宙に移り、少し下をで息を飲むような冥海を目では見られなくなる、空の蒼と海の青、同じ青でも異なる現象がもたらした同じ青、それが自由に見られるのが空の旅の代名詞。

 緋煩野が自慢げに、離陸前そう語っていた。

 上空から眺める、東京の人がごった返す景色と、北海道の一面緑の殺風景、それぞれの違いを改めて観ることのできる、いい機会でもあったはずだ。

 けれど俺の記憶は、既に荷物を待つ空港用コンベヤーの前で始まった。

「……むにゃ……」

「余実―、おーい、もう着いてるよー」

「ふにゃ……え?嘘、本当に?」

「意識の覚醒からの切り替え速いね、余実って」

「どゆこと?」

「寝起きが良い」

 緋煩野が向ける視線は、人おちょくった様な視線だが、なぜだろう悪い気はしない。

 問題はそれよりも、離陸前にシートベルトを締め外の景色を楽しみにし、待っていたはずなのだが、そこからここに至るまでの記憶が一切残っていない。

 そして仮に寝ていたにしても、この一切疲れが取れていない感覚が、より体を重くする。

「それにしても起きないからびっくり、脇腹にくすぐっても反応無いし、ほぼ意識不明」

「なんかね、最近はよく眠ってる。成長期かな?」

「今年の身体測定は173って言ってたよね?パッと見、伸びてる印象は受けないけど」

「夏休み終えたら5㎝伸びてるかもよ?」

「えぇー流石に20㎝も離されたくないなぁ」

「ん?160に乗ったって前言ってなかった?」

「あ、……お、余実の荷物来たよ、さ行こっか」

 鼻歌を交えながら、彼女はそそくさと歩き出す、髪を上げ敢えて露出させた耳元まで真っ赤に染まっている。

「あー、北海道も案外暑いかもー」

 わざとらしく手を団扇(うちわ)代わりにし扇ぐ姿。大人ぶって、実際大人より賢い後輩が見せる、年相応の恰好。恐らく生涯騙し切るつもりだった、サバ読みがバレた瞬間だからこそか。

 可愛らしい一面に、幼馴染としては微笑ましくて、すぐにからかおうとキャリーケースを手に取った。

「余実、荷物持ってき過ぎじゃない?」

 切り替えが早いなコイツとも思いつつ、妙に膨らみ、そして重さを感じるキャリーケースを見て、俺は嫌な予感を覚える。

「一応枕とか、そういうの。結構……持ってきた。嘘じゃないよ?」

 嘘。めっちゃ嘘。本当は決して大きくも、重たくもない荷物だったはず。

「……?…別に疑ってないよ?」

 多分これが幼馴染の信頼、今日ほど実感したことは無かった。

 問題は更にここから1時間は、この状態のままになり、キャリーケースをノックしても応答はないし、聞こえるのはもそもそと蠢く音だけ。

 まぁ大丈夫、大丈夫だろう、大丈夫という事にしておこう。

 彼女は絢爛(けんらん)華麗(かれい)にして、唯我(ゆいが)独尊(どくそん)たる吸血鬼様だった筈。


 ◇


 17時前、一向に見慣れぬ一面が緑の風景を眺め、うつらうつらとした意識で北上。

 荷下ろしで降ろされた荷物を見て、それは確認できた。

 明らかに先ほどよりも膨張している、ようにも見えるだけと思いたいキャリーケース。

 業務故か、親切心か荷下ろしする中年のバス運転手が、重たそうにしている姿に申し訳なさと、罪悪感が入り混じり。

「すいません、重たいですよね……本当にありがとうございます」

「いえいえ、これくらいは……今日はお客様も少なかったですから、お客様がお気になさらないでください」

 この運転手は良い人、間違いなく。このキャリーケースの重さが、それを証明してくれる。

「じゃあ余実、また後でーホテル着いたら教えてねー」

「はいはーい、……もう少しで着くから、……道に迷わなければ」

 言葉を紡ぎながら向かうのは、予約していたであろうハイヤー。

 高校生とは思えぬスムーズさで緋煩野は乗り込み、窓から手を振っている。

「どうせならホテルまで……、否これは我儘。あれは素だ多分。天然ってやつか」

 車が見えなくなるまで、手を振ってみたものの、どうするべきか。

 キャリーケースが道端で爆散するのが先か、ホテルのチェックインを済ませてから壊れるのが先か、壊れるのは確定として財布の中身を見ておくべきか。

 初めての北海道、本当に熱いように暑くない。あとは同じ街中でも木が多い、気がする。


 それは夕暮れ時のチャイムの様に、意識外から事象として突如現れた。

 キャリーケースの限界だ。

 フレームの留め具が、内からの力に耐えられず、折れたパーツはベッドに突き刺さるが如くはじけ飛ぶ。

 両面開き故にフローリングであれば、凹みを作る勢いでカーペットに叩きけられる。

 髪を揺らし、頭を振るい彼女は飛び出る、その姿はまるで大物を釣り上げた巨大な竿の様。

 苦し気に肩で呼吸するかのように、彼女は大きく息を切らせ、風邪を引いたかのように頬を紅潮させている。

 人の身で入れる隙間もない、狭苦しいそこに、ツキキュウケ・パアヴァインは居た。

 流石に無理があるという言葉は届かず、根性のみで己が作戦を実行しきったらしい。

 彼女の首筋に伝う汗を見て、念のために入れておいたタオルを俺は手に取る。

「えっと、パアヴァインお疲れ様。無理があったでしょ?やっぱり」

「……るな」

「え?」

 血にも似た真っ赤な眼光を光らせ、パアヴァインがボソリと呟くが、よく聞こえない。

「近寄るな、吐き気がする匂いを私に近づけるな。……それにしても熱い!この部屋は何度なんだ!……余実私を扇子で扇げ、だが私の半径1m50㎝以内入るな」

「えぇ……」

「早くしろ、私は今かなり機嫌が悪い」

 俺があっけにとれても、その邪知暴虐っぷりは鎮まることはしなかった。

 パアヴァインへ普段抱く印象とは(ことごと)く外れた、不機嫌な面持ちと、目を細め目つきが明らかに鋭くなり、椅子に腰かけ頬杖をつき、鳴りやまぬ舌打ちと貧乏ゆすりを続けている。

 パアヴァインが何に怒っているのかが分からない、他人に理解してもらうばかりで、自分では相手を(おもんばか)れない自分が酷く情けなく思えてきた。


 北の旅、汗とは無縁の、冷夏なり。

 北海道に到着した際に思いついた、カスみたいな俳句だ。

 夏だからという理由だけで、カバンに入れた扇子が役立つとは思わなかった。

 部屋の隅、カーテンの傍にあるベッドへと、わざわざユニットバスの出口から扇いでいる。

 そもそも風は届くのか、隣にあるエアコンでいいのではないか、つい先ほどまでは、自分が情けなく思えたが、時間が経ちふと考えてみると、あまりに横柄な態度ではないだろうか。

「扇ぐのを止めるなよ、見ているからな?」

「ちゃんとやってるって、……そろそろ機嫌直してー、夜は緋煩野達と食べる予定だからさ」

「……ふむ……、次はマッサージだ。足から頼む」

 なんだか怒っているというよりは、そっけない感じに変わった。どういう変化だ。

「近づくなって言ってなかった?」

「あん?あぁー匂いはマシになった、ほら早くしろ夕飯に遅れてもいいのか?」

 まるで王様気分のパアヴァイン、いいように使われている気がしなくもない。

 それよりも一声が、嫌な匂いがする臭いから近づくなというのは初めて言われたこともあってか、思いのほか心にダメージが、これからはお風呂に気を遣おう。

「じゃあ、お体失礼しまーす」

「うんむ……、ひん!おぅ……お?」

 パアヴァインへふくらはぎからのマッサージを始めると、艶めかしい声というには、随分と品も無ければ、彼女の言う立派さもない声。

 何とも形容できぬ感情と、このもやもや感で凄く気が散る。

 時刻は18時を過ぎ、スマホには確認できていない通知が確かに溜まり始めていた。


 ◇


 外にある温度計曰く20度以下、同じ日本とは思えない程に東京とは違い過ぎる。

 とても快適で過ごしやすいと一方、流石に夏とは思えない肌寒さを体感している。

「ここが巷で噂の北海道産コンビニ……ここはレアな店?入ってみようかな」

 お腹をさすっても、これ以上何かが入る気配は無い、買いたい物も無い冷やかしは御免という言葉があるが、果たしてどうするべきか。

「鳳凰、それとも不死鳥?鶏では多分無いと思うけど、いやコンビニと言えば鶏肉か?」

 東に向かえば、サッポロビール博物館や、雪印メグミルク歴史館があるらしいが、今の時間では流石にどこも既に閉館している。

「パアヴァインにホットスナックでも買うべきか?」

 少しくらいは北海道らしいものをと、探索して見つけた訳だが、どうするべきか。

「眠い……とりあえず入ってから決めよう、買いたい物はあるし」

 パアヴァインが欲しがりそうな物がなくとも、とりあえず消臭スプレーとブレスケアを。

「匂いわかんねぇ……、緋煩野たちにも気を遣われてる?」

 東京では炎天下の中バスを待っていたのもあり、ほのかに汗の匂いはする、かもしれない。

 ああ、また臭いと言われると、立ち直るのに時間がかかる気がする。

「何も考えずに唐揚げ買っちゃった、ただパアヴァインにあげるのも勿体ないか」

 ホテルに向かう帰路、一口唐揚げを頬張りながら、体臭問題を考える。

 ……普通に美味しい、コンビニと言えど店内調理、やはり侮れない。


 ◇


 旅先での起床、普段のルーチンに定められた朝とは違う、何もかもが違う朝。

 今日は不思議と、アラームの時間より早く目が覚めた。

「……見慣れた光景ではある」

 閉じ切ったカーテン越しにでもわかる、青く澄み切っているであろう快晴の空。

 そこに、(つや)やかな髪を体に絡まらせ、うつらうつらと船を漕ぎ、椅子に座る彼女がぽつり。

 ホテルに帰ってからは色々あった、パアヴァインを同室に入れる手続きをしたり、眠ろうとしたら新しいキャリーケースを買ってきたり、匂いは取れたと言われたり、色々あったが故に寝覚めの良い朝とは裏腹に、肉体的にも精神的にも疲労感は残っている。

「うん?……余実起きたのか……ふぇむらしーな」

 目を擦りパアヴァインがあくび混じりに、ふにゃふにゃとした口調で言葉を続ける。

「ごめん起こした?」

「んにゃ……これから眠りにつこうと……」

「眠たいんだったら、気にしなくていいから寝なよ」

「そうさせて……もらう……」

 俺の返答を受けるや否や、パアヴァいるは枕に顔を埋め寝息を即座に立てる。

 髪を引っ張らないように払い退け、半壊したキャリーケースからはシャツを取り出す。

 袖を通しながら、俺は一度冷静になり部屋一面を眺める。

 実の所この状況を知り合いに見られると、誤解を生むのではなかろうか。

 二人と同じホテルにしなくてよかった、胸を撫でおろし心からそう思った。


 昨日の夜もそうだが、朝も夜も東京とは比べ物にならない程に過ごしやすい。

 だが午前の時点で、昨日の最高気温を越えるというのはいかがなものか、勿論日にちによる寒暖差はあって当然だとは思うものの。

 最高25度さえ超えない昨日が異常で、本当は今日の気候が正しい北海道なのか、一日違うだけでこうも気温差があると調子が狂う。

「多分こういう意味でも、試される大地」

 スマホに移る天気予報を見ながら、到着予定駅の放送が流れる、到着駅は豊平公園駅。

「昨日ちゃんと、秋鹿に頑張れって伝え忘れちゃった」

 駅から500mもない場所にある、北海道立総合体育センター正式には北海きたえーる。 

 それが幼馴染である秋鹿笛寄が初の全国優勝を、高校3年間で初めて万全な体調で迎える、高校生活最後の集大成を決める場所。


 関係者、あるいは観戦者がごった返す会場前にあるグッズショップを無視し会場へ入る。

 プロスポーツではなく、学生スポーツの祭典としてチケット料金が無いのは毎年見ている身とすれば破格だとは思いながらも、メッセージアプリを起動する。

「えっと、緋煩野が一緒に居るみたいなんだけど……」

 この人混みで緋煩野を目印にするのは、流石にミス過ぎる。

「えーっと、どれもユニフォームが同じに見える……」

 この前これを言うと、本気で秋鹿に怒らたことを思いだし、訂正。

「あ、これは居るわ」

「はーい、よっ君ー、私がめちゃくちゃデザインに悩んだユニを馬鹿にしたー?」

 多分ユニがどれも同じって発言が、許せなかったんだろうなぁ、笑顔の筈なのに怖い。

 いや理解はしている、しているとも。俺はちゃんと秋鹿が選んだユニフォームの利点と、デザイン性を理解しているとも、夏休み前に授業並の時間で説明されたはず……。

「まずねよっ君、このユニフォームの利点は」

 スポーツ選手としては、あり余り過ぎるほどの胸を張りながら秋鹿は、自身のユニフォームがどのように優れているかの解説が始まる。始まってしまったのだ。


 秋鹿の道具教室が、開会式の準備も相まって顧問に連れていかれ終了し、俺は壁に腰をかけ大きく息をつく。

「学力強化日間が終わった時と同じ状態だ……」

 理解できること、脳が理解する為に活性化を起こし、情報を処理しているのがよく分かる。

 そんな時、音も気配もなく掌が頭に乗せられた、まるで子供を褒める母親のように。

「今年は遅刻しなかったね、偉いぞ余実」

 今年で18になると考えれば当たり前かもしれないが、久しく撫でられるなんて機会はなかった以上、久しぶりに撫でられることに悪い気はしない。

「俺の方が年上なんだけどな、おかしいな、子供みたいに扱われている気がするな」

「2年連続で寝坊したのは余実でしょ、高校最後は遅刻しなかった、だから偉い偉い」

「……髪をぐちゃぐちゃにすることを楽しんでないか?」

「バレた?まぁこれは2年間、笛ちゃんに心配かけた罰として受け取って」

 蠱惑的に緋煩野は笑いながら、改めて俺の髪かき乱す。

 選手らしき人が横目にこちらを二度見するということは、恐らく大層乱れた髪型になっているのだろう、これが罰というのなら甘んじて受け入れる。

「そんくらいにして貰って、秋鹿は大丈夫?大会前の秋鹿には怪我のジンクスが」

「大丈夫だよ、遊びで1プレーしてみたけど怪我とかはしてないし、高1の時みたいに熱もない、笛ちゃんが言うように完璧に、万全に仕上げてる」

「遊びで1プレーって……勝ちに執着しなかったんだろうな?」

「私が勝てたのは高2までだよ、今じゃ差は月とすっぽん、いや烏とシマエナガ?」

「シマエナガってあれか、空港とかでよく見た。烏とシマエナガって拮抗してない?」

「い、一応、烏はシマエナガの天敵だから」

 随分と含みのある言葉なのが気にはなるが、深く探らないでおこう。

 部活ではなく、本当にただの練習相手として相手をしていた緋煩野が、高2までは勝っていたという事実を心の中でだけ爆発させ飲み込むが、それでも最近は勝っていないらしい。

 語りながらも少しむくれ、悔しがっている表情をしていることからも事実だろう。

「ずっとこうだと可愛い後輩なのにな、緋煩野は……悔しいなら今からでも部活やれば?」

 よしよしと頭を撫でてやろう、と手を乗せたが簡単に払われる。

「元から可愛いでしょ?私は、それにそういう勝ち負けで悔しい訳ではないからね」

「どういう勝ち負けで悔しいんだよ、慰めてやるぞ?」

「内緒、さて……あとは笛ちゃん次第だ、目一杯応援してあげないとね」

 確かに、それはそうだ。

 遠くで手を振っている秋鹿を見つける、どうやら準備は済んだらしい。

 毎年毎年何か知らの理由で沈んだ顔ばかり見たが、今日は元気目一杯の笑顔を振りまくいつもの秋鹿だ。

 悲しむよりは、楽しんで。

 満面の笑みと、自信に満ちた彼女の表情を見ると、自然と俺も笑みが零れた。


 ◇


 冷涼なる北の大地、第何回かは知らぬ全国高等学校バドミントン選手権大会、その4日目。

 学校対抗、個人対抗ダブルスの日程を終わらせ、本当の意味で個人競技に移り各々が持てる心技体全てを駆使し、子供が背負うには重たすぎる1勝にそれぞれが一喜一憂する。

 負ければ終わり、勝てば殆どの休みを許されず再び試合、それが一つまた一つと着実に消化されていく。

 頑張れと応援することは、容易くそして無責任だ。

 手に汗握るのも勝手、勝ってくれ負けないでくれと思うのも勝手、だがそれらはプレーをするたった一人に集約される、期待という責任と重圧がプレーしている者には付きまとう。

 ならば、さらなる重りは乗せられない、乗せたくない。

 だから観客である俺達は、勝てとも負けてもいいとも思わず、ただ応援し続ける。

「圧倒的だね、笛ちゃん」

「そりゃ万全で完璧、なんて自分で言うくらいだし」

「まぁそうだけど」

 不意に呟いた、スコアを見れば一目瞭然な、含みのある緋煩野の言葉。

 シード権を有している秋鹿は、1日5試合が勝ち進んでも4試合で済む、疲労の溜まり方もシードの有無は大きい。

 今行っているのが今日最後の試合、その一角、4つ取り仕切られる準々決勝が一つ。

 短髪の髪と、スポーツ向きの体とも、スポーツ向きではないとも取れる恵まれた体躯を存分に使い、着実に1点を積み重ねる。

「大会で怪我とか熱を出してない、万全の秋鹿は凄いんだな。知らなかった……でも」

 存分にプレーを楽しみながら、最も逃し続けてきた日本一の称号に貪欲な少女。

「雰囲気が違う?」

「そうそう、なんか緋煩野みたい。勉強教える時とかあんな顔してる」

「どういうことかな?」

「なんでもありません」

 最後の1点を取り、勝ちを収めた秋鹿は満面の笑みを掲げ、俺達に手を振っている。

 後ろでは、確かにあったで筈の自尊心を砕かれ、地面に這いつくばり肩で息をする少女。

 紛れもなくあれは、緋煩野がよくする表情だった。

 実力から来る自尊心、それに付随する結果は示した、だからこその誇る表情。

 自身が上だという自覚が、傍目からは人を下に見ているようにも見える、自信に満ち足り自己肯定感が満ち、充実感に満ちた表情だった。

 スコアボードが示しているのは21―2、圧倒的な強さから称えられる声援。

 賞賛を浴びる人間の、特訓相手である緋煩野は得意気に鼻息を漏らす。

「そういう顔」

「笛ちゃんが私に似たってこと?」

 多分俺の目は冷めている、その顔をされると勉強を思い出すから。でも、そういうこと。

 納得がいかないと言わんばかりに、緋煩野は表情を正すが、ニヤケ面は見え隠れする。

 こういう所は年相応で可愛い奴と思い、未だ他試合の熱狂冷めやらぬ中、俺は席を立った。

 何度も辿り着いたが、それでも遠かった明日へたどり着いた。

 幼馴染としてできることがあるとすれば、精一杯の賞賛を送ることだろう。

「クールダウンで外に出てるかな?」

 日は暮れ、空は既に暗くなっている。

 会場外で外を見渡し、秋鹿を探す。

 秋鹿を見つけたいのに、なぜかそれよりも目を引く存在が、どういう訳かそこに居た。

 地につくほど異様に伸びた、ブロンドの絹糸の様な髪を、その女性は風で靡かせる。

 誰もが雰囲気に飲み込まれ、息を飲む。

 それがツキキュウケ・パアヴァイン、現実感のない美しさを持つ、吸血鬼。

 人の目を嫌う筈の彼女が、何故か人目につく場所に自ら足を運んだ、多分気でも触れた。

「おい、余実少し付き合え」

「え?いや今は秋鹿を探してるから、あとでじゃダメ?」

「駄目だ、お主にも関わる話だ。着いてこい」

「えぇ、そんな強引な……、あ、秋鹿だ。おーい」

 パアヴァインに服を引っ張られながら、緋煩野と一緒に出てくる秋鹿に俺は手を振る。

「あ、よっ……え?」

 秋鹿の動きは、こちらを見て静止した。

 怪我かと心配もしたが、どちらかというと驚きが近いのかもしれない。

「ちょっとパアヴァイン、秋鹿たち出てきたから一声かけてくる」

「あ、おい余実……、まぁいい。なるべく早く来い」

「わかったって、じゃあ行ってくる」

「ああ、幼馴染との時間を邪魔して悪かった」

「分かればよろしい」

 渋々だが納得し踵を返す、パアヴァインの背中を見送り、俺は秋鹿の元へと足を運んだ。

「お疲れ秋鹿、全試合完勝だったな」

「……と…れ?」

 あれ、思っていた反応と違う。やはり俺からの賞賛などは、要らないのかもしれない。

「秋鹿?」

 秋鹿は顔を俯きながら、ぼそぼそと口に出す。声が小さすぎてよく聞こえない。

「よっ君、あの人誰?」

 恐らくパアヴァインのこと、だが優勝した時に伝えると言ったが、どうするべきか。

「え?あー……なんて言えばいいんだろ、優勝後に教える予定だった秋鹿が知りたいって言ってた秘密なのかな?えーっと、そうだな何て言えばいいんだろう」

 パアヴァインというのは、秘密の一部であって、それこそ一番の問題は彼女が吸血鬼という事実であって、それを明かす場合は確実に一朝一夕の説明では納得してもらえない。

「なんで言ってくれなかったの?……なんでッ!言ってくれなかったのさ!」

 怒声のように声を張り上げた秋鹿に対し、俺は困惑する事しかできなかった。

「だって優勝するまで秘密にしてくれって、それに自分で言いふらす事でも」

「そうだけどッ……、そうじゃないでしょ!」

 訴えかけるような表情も、身振りも、そして声も、ここに居る全ての人から視線を集める。

「落ち着けって秋鹿、どうしてそんなに怒ってるんだ?」

「落ち着け?……私は落ち着こうとしてる!」

 けれど落ち着けてない、どうすればいいのかと視線を緋煩野に移すも、逸らされる。

 一回ちゃんと話しをと、俺は秋鹿の肩に手を伸ばすが、その手は届く前に彼女自身が拒む。

「ねぇ教えてよ、よっ君。あの人は誰なの?出会ったのはいつなの?なんで私に教えてくれなかったの?なんで私に期待させるようにしたの、なんでよりによって今……」

 大粒の涙を浮かべた必死の訴え、涙を流す秋鹿に俺は何もしてやれない。

 パアヴァインの名前を伝えればいい、それなのに彼女に弾かれた指先の僅かな痛みが、胸を締め付けるが如く、徐々に痛みを増していく。

 差し出したまま、どこに置けばいいのか分からない、そんな手が視界に残る。

 その様子を見てなのか、秋鹿は俺を突き放し、走り出す。

「俺が秋鹿を泣かせたのか、拒絶……された」

 追うこともできない、なんで拒絶されたのかも分からないまま、ただ立ちつくすだけ。

 昼の晴天とは打って変わり、水が一滴、また一滴と空から落ちてくる。

 それから雨が降りすさみ、周囲に居た野次馬も徐々に場を離れて行った。

 伸ばしたままの手は力なく垂れ、体に雨水が伝う中、突然雨が遮られた。

 希望的で楽観的な光景、そんな自分都合の景色が脳裏に過り振り返る。俺が過ちを犯しただから当然、そこにあるのは当然の光景。悲し気な瞳をし、傘を差しだす緋煩野だけが居た。


 ◇


 あの夜から雨が降り続けた木曜日、時計は午後11時を指していた。

 鬼気迫る迫力と、誰もが息を飲む試合結果と、持っていたポテンシャルを全て発揮し、誰も寄せ付けないスコアを掲げて、秋鹿が優勝を決めたらしい。

 らしいというのも、俺は火曜日の準決勝と決勝を見に行っていない。

 より正確に言うのであれば、行けなかった。

 札幌から、松濤(しょうとう)の自宅へ逃げるように帰宅したかった、多分逃げたくて。

 拒まれた理由が理解できなくて、どうすればいいのか分からなくて、けれどその問題を引き起こしたのは、自分自身という自覚だけはあったから、今もこうして逃げていた。

「どこまで歩くつもりだ?」

 生憎の天気の中、薄らと見える月明かりを背景に、彼女は傘を差しながら立っている。

 声の主こそが秋鹿が知りたがっていた秘密の一部。

 誰よりも夜が似合う、吸血鬼ツキキュウケ・パアヴァインが、畳まれた傘を差しだている。

 傘に隠れない彼女右腕は、雨粒が肌に当たるごとに、火傷のように皮膚を爛れさせ、気に留める隙も与えずに煙をあげて再生を繰り返す。

「早く取れ、痛くない訳ではないんだぞ」

「ごめん……」

 パアヴァインの今もできる傷跡が、行動を急かし俺は傘へと手を伸ばす。

 あと数㎝、指でも伸ばせば傘に届く。

 けれど弾かれた感触が今も指先に残っていて、指先は届かず、結局傘は取れなかった。

「……ごめん」

 怖い、拒絶されそうで怖い。

 行動を誤った、過ちがあった。けれど俺は何も謝れてない。だから怒られた、嫌われた。

 何も誤りも、過ちも、何に対して謝ればいいのかさえ理解できていない。

「はぁ余実、お主火曜から寝ていないというのに、よく動けるな、いつもは一日の半分以上を睡眠に費やしているというのに」

 ボーっと地面を眺め歩いていると、突如としてパアヴァインが口を開く。不思議と今は何故か眠たくならない、普段使ってもいない頭を使っているからだろうか。

「眠れないから、動こうと思ってさ……、ごめん心配かけた?」

「まぁ心配をしていないと言えば嘘になる、だが感心の方が強い。よくもまぁ無計画に100キロも移動する」

「ごめん……、違うことばかり考え」

「いちいち謝るな。そんな事はどうでもいい、そもそもここはどこだ。言っておくが、私は迎えに来たわけじゃない、余実の匂いを辿っただけだからな」

 遠くから着いて来れる臭いとは、なんだかショック過ぎて笑いたくもなる。

 パアヴァインの冗談か、あるいは本音か、少しだけ心が軽くなる。

 彼女の為にも、雨宿りできる場所を探すか、といってもスマホの充電はないが。

「とりあえずもう少し歩く、一応街中だと思うし」

「そうしてくれ、雨は嫌いなんだ」

「流水は吸血鬼の弱点だから?」

「よく知っているな、それもあるが、雨の中に居ると嫌な記憶ばかり思い出す」

「今の俺と同じようなもんか」

「まぁそんなところだな」

 意外だ、俺とは違うと言われるかと思っていた。

 弱まった雨の中で薄らと照らす月明かりと、街灯を頼りにただ歩く。

 髪を滴り、首を滴り、吸水ができなくなった衣服を伝う、きっと風邪を引いてしまう、夏風邪を引くと秋鹿に馬鹿だと言われる。それが悔しくて風邪は引かないと心がけていた筈なのに、今はそんなことはどうでもいいとしか思えない。

 視線の先にはコンビニと、ビジネスホテル。突発的な家出として泊まるには金の無駄遣い、けれどフライパンに水滴を落としたような、蒸発音がどこかへ入ろうと俺の体を動かした。

 秋鹿のように、辛いけれど拒絶してくれたら、考えなくても済んだのにと思いながら。


 同室ならば部屋があったらしく、安心安全の屋根の下で泊まれることになった。

 シャワーを浴び、冷めた体を温めなおす。そうして今はホテル内のコインランドリーで規則性のない洗濯機の音たちを聞きながら、壁に寄りかかり虚空を眺め呆けていた。

 いつまでも足が動くと過信した先ほどとは違い、足を止めると普段の運動不足がたたってか、睡魔と疲労が着実に押し寄せ意識を朦朧(もうろう)とさせている。

「あぁ余実、ここに居たか」

 もう聞き慣れてしまった声、声を上げる元気もなくて俺は軽く手を上げた。

「あまり私の目が届かない所へ行くな、一昨日も話しただろう」

 まるで子供に言い聞かせる親のように、女性は優しく諭し隣に座る。

 優しく諭してくれるのはいつも秋鹿で、自分で壊した筈に一縷(いちる)の望みをかけ顔を上げた。

 そこに思い望んだ光景などはない。そこにあるのは洗濯機の筐体に反射する、コインラインドリーに一人膝を抱え座る酷く滑稽で醜い俺の姿だけ。

 ずっと近くに居たのに、秋鹿を理解できなかった。ずっと続くなんて夢物語で何もしてこなかった自分の怠慢、自分が引き起こした事実が自己嫌悪を加速させる。

「追われているって話でしょ?そもそも何に追われるのさ」

「教会」

「教会?アーメンとかそういうやつ?」

 そういえば空港であった人も、神の加護とか何とか言っていた。正直に言えば、宗教に怖いイメージはあるが、そこまで危険視する必要があるのだろうかとは思う。

「そうその教会だ。まぁ神の名を借り異端への裁きを下す、お主が考えるより数段は野蛮な連中だがな」

「捕まったらどうなるの?」

 パアヴァインは自らを異端者と語った、自らを人ではない怪物であると。

 何かを裁く、言葉だけならば実直な行動そのものの体現だろう。

「私が死ぬ、それだけだ」

 だがパアヴァインが自嘲気味に話す、それは到底笑えるようなものではなかった。それなのに彼女は、その顛末が起ころうとも興味は無いし、非難もしないそう言いたげに呟く。

「死ぬって、パアヴァインが?なんで?」

「余実、想像くらいつくだろう?人間の理を外れた存在、怪物の結末なんて物は、中世以前から決まってる定番だ。心臓に杭をさしたり、銀のナイフで貫いたり、それこそ燃やしたり」

「でも!パアヴァインは、パアヴァインは何もしていないんでしょ?」

「さぁな」

 またも冗談気味に自嘲し話す、だがこれは命の問題だと、俺はパアヴァインを睨みつける。

「……余実、今お主の傍にいるのは、あくまで弱体化した吸血鬼だ。私が語らないだけで、お主はこの世最も邪悪な存在がかもしれないし、無差別殺人の真犯人かもしれない」

 だがパアヴァインは力で従わせようとはしない、やろうと思えばできる筈だ。彼女が弱体化していても、普通の人間よりも強いなんてことはこの体で味わっていること。

 けれどパアヴァインは、それを今はと、かもしれないと、強調する。

「今の私でも力を振るえばやりようはある、だけどやっていない。そう思っているな?」

「事実最初だけでしょ」

「まぁする意味がないからな。私が犯人ですと宣言しながら、罪を犯す馬鹿は愉快犯くらいだろう?血を飲むために人を殺しても、その痕跡で居場所が割れる。ならばお主のような善良なモノに取り入って、血を分けて貰ったほうが得だ、それに」

「言い訳を聞きたい訳じゃない、パアヴァインはその行動を起こさない」

「なぜ言い切れる?出会って数週間と経たぬ、お主が」

 本当はやりたいなんて、絶対に思っていない。

 だって俺である必要がない、俺に固執する意味も価値もない。もしもパアヴァインが生存する事しか考えていないのなら、今日だって俺を追いかける必要はなかった筈だ。

 たった3週間、ずっと一緒だった筈の幼馴染と過ごした年月に比べれば、僅かな時間。それでも俺には、今のパアヴァインはどこか自暴自棄に見える、だから本音を聞きたい。

 10年以上も一緒に過ごした幼馴染の真意を、未だに何一つ理解できていない自分でも、言葉にしてくれれば少しくらいは理解できるはずだ。

 そのくらいのお節介は許される、だって俺はパアヴァインの友人なんだから。

「今のお主は、少しだけ逞しく見えるな。……まぁ、いいか。けど笑うなよ」

 そうパアヴァインがお節介で、肌を焼いてでも近くに来てくれた。

 緋煩野や秋鹿以外にできた友人に、それくらいの格好つけは許される筈、だから俺は。

「笑わない」

 力強く真摯に、自分の気持ちを正直に答えた。

 言葉に納得してくれたのか、顔を俯かせながら指を絡め両手で片足を抱きかかえる。

 ゴトゴトと洗濯機の回る音だけが鳴り続けていたこの場所が、徐々に機械の力強さを失うと同時に、違和感を覚えるほどの静けさ訪れようとしていた。

 1分だろうか、それとも5分が経ったであろうか。洗濯機は完全に静止し寂しささえ覚える、静寂に包まれたこの場所でパアヴァインは口を開く。

「怖いんだ、私は」

 いつもの自信に満ち溢れ、傲慢さ溢れる彼女の影は、影も形も残っていない。まるで普通の少女の様に弱音を吐く。

「決して死が怖い訳じゃない。ただ私は、私の逃避に余実を巻き込んだ。直接ではないが吸血もした、これは私の過ちだ。私の過ちが余実を巻き込み、奴らが余実を裁く理由を作った」

 絡ませていた指を外し、俺の手にその指を絡ませる。

 横目に見えるパアヴァインの指先は、確かに震えていた。

「最初は再生するまでの、時間稼ぎだった。お主は私を認識するまでに三度顔を合わせていることを知っていたか?」

「えっ……三回も。いや一回目はあれでしょ、多分家を訪ねてきた時?」

「言っておくがそれは三回目」

「あれ?」

 割と自信はあったのだが、否定の言葉が思った以上に強い。

「でも別にどこで出会ったとか、そういうのは関係ないんだ。人の身も保てなくなった私を、お主はそれを突如目の前に現れた化け物ではなく、助けるべき人として扱った、それだけだ」

 いつもとは違う、しおらしくて弱々しいパアヴァインがそこに居る。

 ブロンドの髪の隙間から薔薇より明るく、ルビーより暗い色、一見すれば痛々しい血のよう。それでも綺麗としか形容できない赤い瞳が、俺の動向を伺うように覗いていた。

「こんな事を言うと尻軽と思われるかもしれないがな、私は嬉しかったんだ。私に好意を抱き言い寄る者も居た、私を恐れ畏怖する者も居た。」

「まぁ想像はしていたけど、羨ましいくらいにモテモテだね」

「まぁな、だがお主だけだったよ。私に善意で近づき、目の前で鼻血を出しながら意識を失うのは、そういう意味でも……そうだな余実だけだ」

「全く記憶に無いんだけど、俺そんなダサい事になっていたの?」

「その時のお主には、私が吸血鬼であるなんて知り得もしなかったはずだが。お主の出した鼻血のお陰で、私は命を繋いだ。……ただ私にはそれでも、善意を信じられなかった」

 パアヴァインの話す俺は、俺の記憶には無い俺の姿。確かに自分が褒められることが気恥ずかしいのに、記憶に無い所為かまるで現実感がない。

 それよりも思うのは、勘付いてはいたが、俺の眠気はきっと普通ではないのだろう。

「だから寝込みを襲おうとした。知っているか?吸血鬼は招かれなければ、決してドアから家へ入れない。あの日の夜、ベランダに降ってきたのはそれが理由だ」

「そんなルールが?あれ?でも最初あった時、俺は外で気を失ったんでしょ、流石に外で寝てた覚えはないよ?」

「血で見てくれの再生はした、まぁ家にお主を突っ込んだのは根性だな」

「それは、なんかごめん」

 パアヴァインは俺のことをお人好し言うが、こちらからすれば彼女も大概だ。

「そこからはお主と私の記憶には、凡その齟齬はない」

 少しの静寂を待ち、パアヴァインは俺の手を引き立ち上がる。

 久しぶりに彼女の顔を、瞳を見た。きっと誰もが彼女の真っ赤な瞳に魅了される、鮮やかで凛として自信に満ち溢れていることが分かる瞳。

 けれどその瞳が、今は揺れていた。多分その感情の正体は、決心と覚悟それと哀傷(あいしょう)

「……この3週間。私の生きた数百年と比べれば、瞬きにも等しい短い時間だ。……けれど私にとってのこの3週間は、余実が歩み寄ってくれたその日から、夢物語と語るに相応しい3週間だった、本当に大切な記憶だ」

「そう?……少し照れちゃ」

 言葉は遮られた。

 彼女のきめ細やかな髪が視界を覆い、一本一本が肌をくすぐるように包み込む。

 触り慣れぬ薄い皮膜のような羽が優しく腰に添えられ、次の瞬間彼女は多く羽ばたいた。

「これは考え抜いた結果だ。私が与えられる選択肢は二つ、いや一つ。これしか思いつかなかった、だから余実」

 パアヴァインは羽ばたき跳躍する。すぐそこに迫る筈の天井さえも、出会ったあの日の夜のようにすり抜け、俺は何が起こっているのかもわからずに目を瞑る。

 次に瞼を開いた時、そこは雲の下。月すらも見えぬ曇天の夜空の中に俺達は居た。

 雨は今も降っている。故にパアヴァインの肌は火傷のように皮膚が爛れ、そして急激な再生を繰り返し白煙が上がっている。

 心配させまいと冷静ぶっているが、その実彼女は、痛みで何度も表情を歪ませていた。

「何やってのさ、早く中に入らないと」

「余実、よく考えて答えろ」

「そんなことホテルの中でも」

「私を拒絶しろ、拒絶して、自分は悪逆無動(あくぎゃくむどう)たる吸血鬼に利用されていたと言え。そうすれば余実を救おうと思う人間は居る、流石にそこまで世界は腐ってないはずだ」

 言っている意味が分からない。

 だってそれはまるで。

「パアヴァインは」

「余実」

「目を付けられて危ないから」

「いいんだ」

「俺だけが助かるために」

「余実が気にすることじゃない」

「パアヴァインを売れってこと?」

 全てを飲み込み諦め、それでも納得した。そうも言いたげに彼女は自嘲気味に笑う。

 そして苦痛に溢れた表情で、パアヴァインは強く頷いた。


 たった3週間の付き合い、それも巻き込まれた形。

 折角用意した部屋を使わず俺の部屋を自由に使うし、1日1回指から血を出すのは少し痛い。パアヴァインの言う事を聞く理由は、幾らでも用意はできる。

 多分俺は天邪鬼なのだと思う、用意した理由も提案も納得なんてできないのだから。

 パアヴァインは雨が嫌いだと言った、雨には苦い思い出があるからと。

「嫌だ!」

 だから俺は嫌だと叫ぶ。

 パアヴァインは雨には苦い記憶があると語った、俺も雨の日が嫌いだ。

 でもこれ以上雨を嫌いにならない為に、これ以上雨を嫌な記憶の象徴にしない為に。

「嫌だじゃない!余実、お前は私の案を飲むしかない!それがお前を救う」

「救ってほしいなんて言ってない!それはパアヴァインの都合だろ!」

 拒絶する、幾ら彼女の言葉が正しくとも。

「このッ分からず屋……」

 楽しかったとパアヴァインは語った、ならばもう少しでいい。彼女にとって瞬きにも満たない、けれど大切だと思ってくれた時間を俺が守る。

「だってパアヴァインは言った!」

「何をだ!あくまで私達の関係は、利害の一致に過ぎなかっただろう!」

 パアヴァインは確かに言ったのだ、俺にとってもかけがえのない言葉。

「俺と友達だって。なら友達として頼ってよ!簡単に終わらせようとしないでよ!」

 本当に大切な記憶と言うのなら、嫌な記憶で蓋をしないでくれ。

「……私は吸血鬼だ、私は怪物だ!……余実は人間で、私は化け物だ!」

 彼女は弱々しく、自らに言い聞かせるように何度も叫ぶ。その差だけは埋まらないから。

「そんなモノ関係ない!吸血鬼だとか、怪物だとか、それでもパアヴァインは俺の友達だ」

 だからってそれを納得したくない、緋煩野も秋鹿も大事な幼馴染で友人だ。付き合いも全然違う、けれどもそんな事は問題なんかじゃない。

「何も、余実には何も出来ないだろ!私と一緒に居ても殺されるだけだ、だからお主を私から遠ざけたい、友を思って何が悪い!」

 夜闇の中で声が響く、怒声のような泣き言のような、そんな声色。

「なら俺が死ぬ時は、パアヴァインの腕の中で死んでやる。絶対に一人でなんて殺されてやるもんか。血だって幾らでもくれてやる」

「お笑い種だな、全部お前の都合じゃないか、誰がお前の死に顔を」

 無理やり納得している顔、痛みに耐える顔。そんな顔は見たくない、だから崩したい。

「そう全部俺の都合だ、でもパアヴァインにそんな顔をして欲しくない。もっと自信満々で常に人を見下して、尊大に振舞っていて欲しい」

「な、なんだいきなり」

 きっと恥ずかしい事を言っている。彼女が心配してくれた俺の命をベッドする、だからこれくらいの覚悟は必要な筈だ。

「俺と一緒に居よう、パアヴァイン」

 自分の命、そんな重りの天秤にこんな言葉が見合うか分からない。

 意表を突き、呆気にとられる。彼女の気の抜けた表情をようやく暗がりから取り戻せた。

 今はそれだけで満足だ。



 雨粒なのか、それとも涙なのか、それはきっとパアヴァインにしか分からない。

 けれどそれは必然と瞼から頬へと伝っていく。

 だから拭い、雨粒から守る為にも今は抱きしめる。

 友人としてできるのは、この程度だ。

「やめろ……これは涙じゃない……雨だ!」

「いいから、……友達としてできる事、今はこれしか思いつかないから」

 彼女は絢爛(けんらん)華麗(かれい)であり、赫々(かっかく)しく、堂々(どうどう)たり、尊大なる吸血鬼。その名はツキキュウケ・パアヴァイン。

 月も星々も見えない夜空で咲く、棘の生えた真っ赤な一輪の薔薇の如き存在。

 彼女に涙は似合わない、だから彼女は涙を決して人前で流さない。

 それでも彼女が涙を人前で流す場面があるとすれば、その相手は多分吸血鬼の存在を認めるような異端者だけ。




 ホテルの一室、折角買った服が雨のせいで再びずぶ濡れになっていた。

「乾燥はパアヴァインに任せたから、やることはないな……横になろ」

 改めて思う、俺も雨の日が嫌いだ。理由は不明、だが記憶にある限り、それは昔から。

 あれから日を跨ぎ、空の隅が明るくなってきて雨が少しだけ弱くなる。

 秋鹿に拒絶された、嫌われた。ただでさえ嫌いな雨が更に嫌いなっていく。彼女を理解することもできない自分が更に嫌いになっていく。

 雨の日は嫌いだ。雨音が不安を駆り立てて、雨粒が窓に当たる音が心の遣り所を無くす。

 罪悪感もある、未だに秋鹿を理解できない自分が情けない。だけれど雨の日が少しだけ嫌いじゃなくなった。

 でも雨上がりが嫌いだ、理由は分からないけれども、何故か起こる胸騒ぎを制御できなくなり呼吸が荒くなるから、雨の日を好きなれる事があっても多分一生、雨上がりが嫌いだ。



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