第1週 吸血鬼は夜に顕れた
最初に説明を忘れていたんですけど、大きく変った点は1キャラを削除したことだけで。
それ以外は作品のブラッシュアップに、使ったので未完成版を見ていれば内容変わんねーと思うと思います。
日が西に傾き空から茜色が消え、街灯がつき始める道を進む。
陽は落ちた。だというのに着用している半袖のワイシャツからは、絶えずと言っていい程に汗が滴り、暑いそして熱い耐えられる暑さと、耐えられない熱さの違いを叫びたくなる。
といってもこの時世、言ってしまうと昼だろうが夜だろうが、暑さに変わりはない。
文句の二つ三つは心に仕舞い、閑静な住宅街の中を俺は歩く。
星空は見えなくとも満月と見間違う程の月の下で、ふと嫌な予感が脳裏に過った。
高校の三学年。今日がその高校生として最後の夏季休暇その前日、いわゆる夏休み前。
約40日程度の休みを、ただ怠惰に過ごせるかと言えばそうでもない。
大学に向け勉学に取り組む者あり、部活動最後の大会へ調整を進める者、果ては最終学年ではないにもかかわらず、難関大だろうが海外だろうが受かる学力を持っている者も居る。
ここに居るのは、その中でも稀有であろう将来に向けて何もできない、愚鈍な者。
将来に備える者。将来が結果で決まる者。将来を既に確定しているような者、三者三様ではあるが、それ以外に属する者も居るという話。
いわゆる誠実やら、真面目からは程遠い人間も居る。
そういった出来た人間でない人間が、高三の夏に脳裏に過り冷や汗をかく物とは何か。
「やっば……、課題を学校に忘れた……」
「えぇー流石に8時過ぎてたら学校は締まってるよ、明日取りに行ったら?」
「いやいやこういう日はね、居るんだよ。残業している教師がね。化学先生残業好きで教頭に怒られたって話してたし、まぁ誰か居ると信じて……ちょっと行ってくるー」
「ちょっと、よっ君。本気?怒られるよー」
学校へ向かうまでの距離としては、渋谷駅から山手線に乗ろうが乗りまいが、凡そ30分かかることに違いはない。到着予定としては9時前、確かに教師に怒られる可能性はある。
「大丈夫、大丈夫ー」
「大丈夫って……、多分バドの顧問居るけど、怖いよー」
脅しをかけるように、幼馴染の秋鹿笛寄が声を出す。
スポーツの邪魔をしない短髪と、男性平均並みの身長故に後ろ姿を見れば男とも取られる様を何度か見かけ。しかしよくよく見れば、彼女の健康的なボディラインと、正面に実った女性らしさが、その考えを改めさせた。
そんな女性らしさを持つ秋鹿も、その実は全国区に名を馳せる程にバドミントン選手。
その部活動のコーチはさぞかし怖いだろう、多分鬼軍曹とかそういった類のモノ。
けれど俺は秋鹿の心配と静止を振り切り、俺は学校に向けて踵を返すが直ぐに止まる。
バドミントンで鍛え抜かれた肉体。
余程の事でもない限りは、彼女が暴漢に捕まるという心配はない。
だが紛れもなく彼女は女子である事実があり、それが引っかかり振り返る。
「帰り道、大丈夫そう?」
「住んでいるよっ君が一番分かってると思うけど、ここ高級住宅街だよ?間違いなく私の家よりこっちの方が安全。それにここを抜けたらすぐおっきな道出るし、そもそも私さ、よっ君より足速いからね?心配するなら自分の心配じゃない?」
「いやでもまぁ一応男子だし?」
「身体測定でも、殆ど私に負けてるじゃん」
「それはまぁ……そうだけども……」
「わかればよろし、じゃーねー」
「わかった……、気を付けてね」
こうなれば男としての甲斐性はなし。だが確かにもし荒事に巻き込まれたとして、きっと秋鹿は無事だろう、そういった確信がある。
そしてきっとそれと同時に、勝手に巻き込まれ怪我人を一人献上する事にもなるだろう。
秋鹿笛寄という人間からすれば、それほどに俺は頼りない存在ではあるのだ。
「ん?こんな時間に誰から?」
秋鹿に手を振って見送り、自虐に耽っていると、スマートフォンに入ったメッセージアプリが突如として着信音を響かせた。
誰だこんな時間にとも思うが、俺に通話を申し出る相手などは想像がつく。
発信者の名前には緋煩野扇子の名前、自身より一つ下の後輩で秋鹿と同じ俺の幼馴染。
「なんかよう?俺今から学校に課題を取りに行かなきゃいけないんだけど?」
『誰かさんの課題を人のカバンに入れてた、馬鹿な余実はだーれだ?』
「馬鹿は余計だよ馬鹿は」
『そう?ごめーん、まさか定期試験で赤点をぎりぎりで回避して、順位も下から数えた方が速い現似余実先輩が、自分の事を馬鹿じゃないとは思ってなかったー』
「言っておくが文系科目は平均点にギリ乗った、誰もがお前の様に努力できる奴だと思うなよ?聞いてるか?おーい緋煩野?」
『……煽てようが、私のバッグに入れた理由が代わりにやっといてな時点で無駄。渋谷駅側に居てあげるから早く取に来てね、夏休み開始早々補導なんて御免被るし』
2キロ強の移動距離が1キロ弱に変わった、ここは素直に感謝しておこう。
終業式の今日、秋鹿の部活動も休みということもあり、幼馴染3人でカラオケに行ったは良いモノの、秋鹿に絶対に面倒な事になるから教えるなと言ったが、緋煩野曰く。
『私の情報網を舐めるな』
とのことであっさりと、秘匿していた期末試験の順位が明らかになっていた。
「なぜに久しぶりに皆で遊んだのに、秋鹿が隣で騒いでいる中。俺は緋煩野に勉強を見られなきゃならんのじゃ」
愚痴の一つや二つは言いたくなって当然だ。
どうして人間、高校生になると生活というモノが一変するのか。
秋鹿も緋煩野も、小学生までの間は殆ど毎日と言っていい程には遊んでいた筈で。
それが中学に入ると緋煩野は中学受験で別の学校。秋鹿はバドミントンと、毎日だったのが週末に変わり。高校になるとそれが月に1回、定期的に集まるだけに変わった。
星空は見えない虚ろな空を、ぼーっと眺めながら現似余実は考える。
「皆は何のために勉強して、何のために部活をしてるんだろ?」
将来に向けて、言葉にすれば単純で理解しやすい。ではその将来は何を指すのだろう。
お金、あるいは地位並びに権力。もっともなことをいうのであれば安心の為、そんな漠然とした物なのかもしれない、けれどこうも思う自分が居る。
明日も分からぬ我が身という訳でもないし、破天荒に明日の事は明日の自分がと先延ばしをする訳でもない。
ただ現似余実という人間としては、将来というモノがどうしようもなく希薄で、想像ができないモノであるのだった。
夜9時前、中学生であればそろそろ青少年健全育成条例にでも引っかかる時間帯。
補導されることは無くとも、職質の一つや二つを受けてもいい時間だというのに。
この国の首都であるこの街は、夜という言葉を知らないのか、視界の端々が煌めき五感全てが騒がしいと告げてくる。
駅の近くに居るとは言われても、具体的な場所は伝えられてない身としてはここから人探しのターンがある事が正直面倒くさい。
ハチ公前の様な分かりやすい場所が欲しかった。
足は右往左往、視線を左から右へ、さてどこに居るのやら。
間違いなく人通りの妨げになっていただろう、フードを深く被った人と俺はぶつかった。
「テテ……すいません。人を探していて」
どうやら尻もちをついたのは俺だけのよう。
視線をあげると、真っ赤なフードを被った相手はフードから眼光で人を射るかのように、鋭く尖らせている。
「えっと……大丈夫ですか?」
ずっと黙り込まれるのが不気味で、見るから大丈夫そうな相手に何故か俺が心配をする。
「気にしなくていい、ところでこの近くで休める所はないか?」
ちょっと口調は強い、怒らせている訳ではないのだろうけど。
「ホテルならどこでも休めると思いますけど……、値段とかですかね?」
「いや泊まる訳ではないんだ。そうだな、少し体を休めたい」
「なら喫茶店とか?あとはネカフェ?」
「普通のカフェはないのか?」
「えっ……喫茶店とカフェに違いってあるの?」
「あるだろう……それは」
多分最近で一番の驚きだ、思わずため口になってしまうほどには。
というかこれはあれだろうか、慰謝料代わりに奢れという話だろうか。
「えっとじゃあ、カフェの店名とかを……、スマホあります?」
「すまん、道順を教えてくれ。生憎なことにスマホを落としてしまってな」
それは流石に交番行くのが先なんじゃ、そう思いはしたが心に仕舞っておこう。
「なら俺が案内しますよ、……といっても地図頼りですけど」
「お主は何かやることがあったんじゃないか?誰かを探していたようにも見えたが」
余計なお節介とでも言いたげに、相手は俺に確認を取るが、まぁ乗りかかった船の様な物どう思われようが正直どうでもいいというのが本音ではある。
「あぁー、いいんです。多分渋谷駅の方に居るとしか言われてないんで」
つい忘れていたとは口が裂けても言わないようにしよう、本気で忘れていた。
とりあえず脳内でプランを考えた、この人にカフェを案内してお金渡す。
緋煩野を探すのはそれからだ、大丈夫、それでも遅くはないはず。
「えっとこっちみたいですね」
スマホの地図における、今自分が向いているのはスマホが示す方向なのか、スマホが間違っているのかという問題に向き合う。
それでも俺はスマホを信じよう、けれどダメだった時の言い訳を考えながら歩き始めた。
「ところでお主」
「えっおぬ?……なんですか?」
「先ほど転んだ時に手を怪我していないか?少し血が滴っている。私のハンカチをやるから、傷口は隠せ」
「え?本当だ、痛いなんか無かったのに……、あ、でもハンカチは俺も……無いじゃん」
用意しとけよと心でツッコミを叫び、何かないかとカバンの中を漁る。
「えっとでもティッシュとか……は、そうだ今日学校で切らしてた。……えっとー、でも何かあった気が……あ、指切っちゃった」
「そんな顔されても、私にどうしろというんだ。使っていいと言っているんだ、気にせず使えばいいだろう」
そんな無様を見せているとフードから見える鋭い眼光が、少しだけ和らいだ気がした。
「いや、それはそうなんですけど」
相手からすればカバンを弄り、カバンには碌な物が入っていない少年、端的に言えば常識がないようにも映っているはず。
恥ずかしい思いを一人芝居で味わい、申し訳なく手渡されたハンカチを手に取った。
そんな思いの後にハンカチを握りしめ、歩いていると地図アプリの音声案内が終わる。
「ここかな?……名前もあってるし」
「すまないな、わざわざ道案内どころか送ってまで貰って」
「いえいえ、どこの都会もそうですけど、本当に意味わかんないくらいにはぐちゃぐちゃですから。逆にそういう人に手を差し伸べないと」
「優しいな、お主」
そう真正面から言われると面映ゆい。
ポリポリと頬をかいていると、フードの人は手を差し伸べる、握手だろうかと俺も手を伸ばすと。
「違う、握手じゃない。ハンカチだ」
違ったらしい、また恥ずかしさがプラス1といった所。
しかし血を付いてしまった物を、そのまま渡すというのは衛生的によろしいのだろうか。
そんなことに頭を悩ませている瞬間、一陣のビル風が吹く。
渡そうとしたハンカチは風に乗り飛んでいき、そして深く被っていたフードが脱げ、相手の顔が露わになる。
髪の毛一本一本がこの目で確認できるほど、艶やかなブロンドの髪が靡き。
そして何より目につくのは特徴的な真っ赤な瞳、それこそ瞳そのものが眼光と放っていると見間違うほど、美しい目そのものだ。
「あ、……ハンカチすいません」
「いや……まぁいいんだ、そこまで貴重な物でもない、ただ……」
「ただ?」
「いや……何でもない。……というより、私の顔に何かついているか?」
「ごめんなさい、とても綺麗な瞳だなって」
恥ずかしいことを言っている、それは百も承知だ、けれどこの感想に嘘は吐きたくない。
「なんだそれは、口説いているのか?」
「いや全然違くて、本当に感想といいますか……なんといいますか」
「分かってる。冗談だ、冗談。そう本気で受け取るな」
そう言って目の前に居る彼女は踵を返し、カフェへと足取りを進める。
何か言いたかった筈で、けれど何を言いたかったかは思い出せない。
そんな自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなりながら、話しかければ思い出すのではなんて馬鹿な思考で口を開けた。
「あ、あの」
「ん?どうかし」
俺が呼び止めたのだ、当たり前に彼女はその真っ赤に瞳をこちらに向けた。
そして気づけば彼女は、俺の肩へと顎を乗せるよう体重をかける。
「あ、えっと、大丈夫ですか?本当に」
何を言いたかったかなど、そんな思考は全て頭から吹き飛び、考えよりも体が勝手に動く。
突然倒れ込みかけた彼女の両肩を、俺はしっかりと支えた。
「すまない、少し眩暈がしただけだ、抱えてくれて助かった」
本当に焦った、心臓の動悸は止まらない、ちゃんと動けてよかったと一先ずの安堵。
「それはよかった、……えっと救急車とか要ります?」
「そこまで重症じゃないよ、本当に立ち眩みしただけ。……それで何か用があったんじゃないのか?」
「あっ、えっと。何を言おうとしたか忘れ……ちゃった?」
「ちゃったか……、まぁまた会えた時にでも思い出してくれ」
そう言ってブロンド髪の赤瞳の彼女は、カフェへと足を進める。
本当に何を言おうとしたんだと首を傾げ、思い出せないなら大層な事ではないと断言。
そう、今から考えなければならない事に比べれば、今思い出す必要はない事だと思い知る。
「あ、忘れてた」
「随分、楽しそうだったね余実。大人な外国人お姉さんとは、いい夜を過ごせたのかな?」
怖い、嬉しそうな笑顔という表情としか形容できないのに、笑っている顔が怖い。
声の主は、美しいとされる濡烏の髪をした、ロングの髪をハーフアップにした少女。
放って置いても綺麗な癖毛一つない髪を、丁寧にセットまでしていると、やはりそのルックスと大和撫子という言葉が似つかわしい髪質が合わさり更に周囲の目を引いている。
ストレートでも十分に緋煩野は際立つというのに、自宅以外ではすることがない。
そんな感想を後目の本来の目的を思い出す、元は緋煩野を探しに来たんだったと。
それを思い出すには、些か遅すぎたよう。
笑顔で近寄る彼女に対して、俺は顔を引きつらせる。こんな状況では手をあげるしかない。
圧倒的敗北。抵抗はしない、好きなだけこき下ろせ。覚悟の降参とも言い換えられる。
そういえば今日行ったカラオケ店もこの付近だ、なぜ緋煩野がここに居るのか。
「いやぁ、奥手だと思っていたけど余実も案外やるもんだね、見直したよ私は鼻が高い」
「何がだよ。お前の方が頭は良くても、俺の方が先輩だからな?言っておくけど」
「いや歳だけで誇られても、お爺ちゃんじゃないんだからさ」
「歳以外に誇れる物がないんだよ、特にお前とか秋鹿みたいに、努力をしまくっている奴が近くに居るとな」
「そこまで卑下しないでよ、これじゃあ私が悪者だ」
「お―よしよし、悪者になっても俺はちゃんと贔屓目で、緋煩野を応援してやるからなぁ」
「気安く頭撫でんな、髪のセットが崩れる」
確かに時間をかけセットした髪、女にとって髪は命というようにそれを崩すのは、デリカシーに欠ける行動か。
「なんでやめるのさ」
「いやだと思ったからですけど……」
「髪は崩れるけど、やめてとは一言も言ってない。……それに少し懐かしいし」
「懐かしい?俺って、緋煩野のこと撫でたことあったっけ?」
全然思い出せないが、彼女の人を蔑むような瞳を見るに、そんな過去はあったのだろう。
ならば緋煩野の気が済むまで、精々頭を撫で続けるとしよう。
どうせ明日からは夏休みなのだ、時間は腐る程にある。
とりあえず撫で続け、緋煩野は満足感を得たのか頭を振るい、俺の手から逃れるように体を遠ざける。
「なんだもう終わりか」
「流石に撫ですぎ、人を猫みたいに扱わないで」
「猫みたいに気持ちよさそうにしてたのは、誰だよ」
「してませんが?」
自信満々に言い切ったなコイツ、写真を撮っておけばよかったか。
手入の行き届いている事が分かる、良い触り心地だったのだが、制限時間一杯の様、残念。
「というよりあの人誰なの?知り合い?」
「お前がどこに居るかわかんなかったから、探していたらぶつかっちゃって、まぁ成り行き」
「なーんだ、それで道でも聞かれたの?」
そうそんな感じ。話が早い、よく話せば誤解もこのようにと俺は頷く。
「それにしては、もの言いたげに呼び止めてなかったかな?」
「待て、緋煩野。お前一体どこから見ていた?」
なぜそこまで知っている?こういう場合は、偶々通りかかって目撃したとか、普通そういうモノではないのだろうか。
これが最初から見られていると話しは変わる、悪いことはしていないというのに。
まずい嫌な汗が流れてきた。
「そりゃ最初から見てたよ、知ってる顔が知らない人と一緒に歩いてるんだもん。そりゃ尾行するでしょー、常識的に考えて」
それは非常識だろ、というのは心の声。鎮まるべし。
「そもそもなんで駅前に来いって言って、駅前に居ないんだよ」
「財布落としちゃってさ、カラオケに居た時はあったから、一応聞いてきた」
そうしたら、と言わんばかりに緋煩野は指先をカラオケから、この場所へと移動させる。
経緯としては理解した、どうして帰る準備をしているのかは理解できないが。
「交番行かないのか?最近買ったばっかりって言ってただろ?」
「財布の中に大した物は入ってないからね、3千円くらいだったかな」
「秋鹿とかにそれ言ったら、多分怒られるぞ、幾らお金持ちでもーって」
「確かに笛ちゃんならそう言うだろうね、でも余実は言わないでしょ?」
「いや言うね、今日帰りコンビニ寄りたくなったらどうするんだよ」
お金が無ければ何も出来まい、生意気な後輩には先輩が指導してみせよう。
「ふっふっふ、余実は時代遅れだねー」
何か企むように顔を下に向け、垂れた前髪の隙間から鋭い眼光が、俺を突き刺すように覗き込む。そんな状態でもふと見せる横顔を見て思うが、緋煩野は本当に顔が良い。
だが全てを見透かしたように横目で見てくるその目つきは、まず間違いなく子供が泣く。
「知らなかったかな余実……。現代はキャッシュレスなんだよ!お金を持たないってのが、今の美徳なんだよねー。おや?失礼。未だ現金で支払う余実には分からなかったかな?」
最大の自慢気な顔で、緋煩野は声高らかに語る。
髪をかき上げ、凄まじい程の上から目線、謙虚さの欠片もないことこの上ない。
「お前だって、……えっと、確か2年に上がるまでは現金派だっただろ」
「聞こえなーい、生粋のキャッシュレス派の私には、現金派の声は聞こえなーい」
耳を塞ぎ仕草をし、青に切り替わった信号を我先にと緋煩野は歩きはじめる。
無駄に対抗心が強く、上に行く為には一切の努力を怠らず、誰よりも1番に近く立ち、立つ覚悟も持つ、生意気で面の良い二人の幼馴染が一人。
それが緋煩野扇子という、少女なのであった。
「でもなぁ、なんか昔の緋煩野はもう少し可愛げが……、スカウトとかもあったよな?」
「残念、今もあるよ。でも確かに昔ほどではないね、身長かな?160行かなかったし」
「スタイルよりも、まずは性格だろ」
「それは血肉そして骨子に至るまで、善性で出来ている私の良い性格だからかな?」
「あぁー、うん、いい性格なのは間違いないよ、見ていて気持ちいいもん」
「そっか、そっか、ならばこれからも私はこの性格を貫いていくとするよ。……あと一応交番に寄ってみる。たかが3千円、されど3千円だ」
たかがと言い切ったぞ、高校生にとっての3千円をたかがと。
「あいつ、今幾ら溜めてるんだろう?」
故にそんな下世話な考えが、俺の脳裏に過る。
うむ、これは正しく煩悩だ。頭を108回程叩くべきか。
だが俺がそんな想像をするのは、前提として緋煩野は凄い子という事実からだ。
第一に俺達3人の幼馴染は、きっと羨まれるほどに恵まれている。
俺の両親は、海外へ出向中。たしか10年は帰ってきてない。手紙と偶の電話で完結することが多い、働くのが好きな両親だと理解している俺自身も納得はしている。
ここで緋煩野が登場する。緋煩野扇子ではなく緋煩野家と現似が遠縁ながらも親戚だった。その縁もあってか家に振り込まれる生活費を、変わりに管理してくれている訳だ。
緋煩野と現似が親戚で、現似と秋鹿の関係は両親が中学からの付き合い。そして緋煩野扇子と秋鹿笛寄を会わせたのは俺。
そんな偶然もあり、10年以上を共にしても苦を感じぬ出会いがあった。
秋鹿は両親から多大な愛情を受け、逞しく育ち。
俺は現似の受け継いだ土地に、親が建て替えた高級住宅街の一角に住んでいる。
緋煩野に至っては親族が政界に進むのが当たり前の環境。紛れもなく東京という土地で、個人の家として有していいのか不安になる程の豪邸に住んでいる。
正直に言うと俺には不相応な物。
だが緋煩野や秋鹿は恵まれた環境を言い訳にさせない、確かな実力を持っている。それがスポーツであるか、勉学であるかはさて置き。
ある意味で、緋煩野だけが異質なのだ。
「どうしたの?ぼーっとして、私の貯金残高の想像でもしていた顔をしてるけど」
「ぴんぽーん」
緋煩野扇子という少女が蓄えた、人生を惜しまぬ異常な努力によって、文字通りに常軌を逸し誰もが彼女に口出しできない実力を、若干16歳という年齢で宿しきっている。
「なんでいきなり預金残高?」
「高校入る前に見せてもらった金額だけで、どえらい金額だっただろ?確かにあれだけあれば、財布の一個や二個を無くしても、痛くも痒くもないのかな?って思ってみたり」
「余実ー、私が幾らお金を溜めていても、物を雑に扱っていい理由にはならないんだよ」
彼女は当然のことを、まるで俺を諭すように言うが、全くもってその通りだ。
「まぁ落としたかもって場所に無ければ、あとはコスパの問題だ。探す時間がその金額に見合うか、その時間を別な事に割けば簡単に金額以上の物が成せないかとか」
「まぁ理屈は分かった」
素で一に努力、二に努力、三四に努力を地で行くのが緋煩野の凄い所。
「おっけ、伝えたいことも伝えたし、じゃあ私帰るからー」
颯爽と走り去ろうとした緋煩野の首根っこを掴むが、彼女はそう簡単に止まらない。
なぜそれだけ華奢な体から、身長の適正体重はあるはずの自分の体が意図も容易く、引きずられるのは、その制服に隠された素肌は筋骨隆々の証なのかもしれない。
「重いんだけど?……私の家来たいの?……あ、夜ご飯作るの面倒とか?」
「いやそうじゃなくて、家まで送る。今一緒に居るのに一人で帰すのもって感じだし」
「あ、そう……じゃ、ご厚意に甘える」
急にしおらしくなられると、こちらとしてもどう接していいのかで、調子が狂う。
流石に彼女は、秋鹿のように恵まれた体躯ではない。
だが秋鹿と同じく、危険な目に遭う事はないだろう。
こんな時間なら余計なお世話でも、出来得る限り可能性を0に近づけたいのは、可愛い後輩の為だろうか。
駅の改札を通る、自宅からは程遠い後輩の家への帰路へと着く。
「お腹いっぱい……、食べ過ぎた……」
「私と同じサイズの茶碗だったでしょ?普段からちゃんと食べてるの?」
「食べてはいる……」
俺はお腹をさすり、敷地内にある外門の前で足を止める。
幼馴染として遊びに来た事もあるし、親戚の集まりで踏み入ったこともあるが、改めて見ると緋煩野の家は全体的におかしい。
「それにしてもでっかい門だよな、いちいち開けるの面倒そう」
「昼間はくぐり戸も開けてるから、そっちは普通のドアみたいな感じだよ」
「お前なら一回くらい、こっちの扉はぶっ壊してそうだな」
「ぶっ壊したよ。余実が昔かくれんぼでズルした時にね。もうあれは鬼ごっこだった」
「そんなこともあったか?」
「そんなこともあったんだよ」
5年以上の時間が経てば、記憶もあやふやになっているのか、はっきりとは覚えていない。
けれど緋煩野がそう覚えているのなら、そうなのだろう。
夜という事で人の確認によって開く、この重そうな門扉の開閉が自動とは、流石だ。
そればかりか緋煩野家で、夕食までご馳走になってしまった。気づけば時刻は10時前。
「お父さんも言ってたけど、車じゃなくていいの?夜遅いし」
「今乗ったら吐きそうだから遠慮しとく」
「笛ちゃんとかには、そのアピールしないようにね。時と場合によっては噛まれるから」
「別に秋鹿は、小食アピールされても怒らないだろ」
「チッチッチー。笛ちゃんはね、エネルギー効率が良いけど悪いのさ、満足感の問題かな」
良いのに悪いとはどういう事だ?と思い少し考え込むが、その答えは正面にあった。
「あぁ、む」
「どこを見ているのかな?余実せんぱーい?」
視線がバレた、そうなれば出来る事はただ一つ。
「じゃ…、じゃあまた明々後日ー、だ…大丈夫、ちゃんと図書館には行くからー」
逃げの一手である。
現似余実が持てる最大の脚力で、走り去るそれだけがこの場から逃げ出す唯一の行動。
緋煩野扇子曰く、彼女にとって自分の力だけではどうしようもない事象、それがこの世には三つあるらしい。
一つ目は大抵の人類がそうであるが、世界で1番になれない事。
二つ目は秘密で。
三つ目が緋煩野扇子は、緋煩野という親族の遺伝子を嘲笑われるが如く、バストサイズが自身の想定よりも大きく下回り、成長する気配が無い事らしい。
秋鹿の胸を羨ましそうに揉みながら、カラオケ中に語っていた。
勿論俺は視線を逸らした、手でも覆ったが、だが指の隙間から見える物はあるのだ。
普段では到底作ろうとも思えない夕食を前にした所為か、いつもよりも体が重たい。
逃走に用いた全力疾走もあってか、横腹に尋常ではない激痛が走っていた。
送る際には電車を使用したが、時間や暑さの事さえ考えなければ実際の所、歩くとしても大した距離にはならない、というよりは電車を利用しようがしまいが渋谷駅から2キロ弱ならば、車や自転車でこそ時短を図れど、それ以外はどっこいどっこいだろう。
詰まる所約1.5㎞の移動ならば、食後の運動にはもってこいである。
「星見えねー」
高層ビル、マンション群、そして10時を回っても無くなるという事はない車の往来と、ひとたび通りに出てしまえば否でも目立つ広告群が余実を歓迎する。
風情も趣もクソもない、撤回するクソは探せばある。
「将来の事なんて考えられないけど、自分で選ぶなら、ある程度静かな所……それこそ」
想像そして空想を脳内に浮かべる、都会に住んでいる身としてはどこかで聞いた様な田舎こそが想像しやすかった。
「それこそ……なんだっけ?」
駅は徒歩20分、コンビニには10分、そんな都合の良い田舎を空想していると、確かに持っていた筈の田舎の印象がすっかり脳内から抜け落ちる。
こうなると思い出すまでが長い、思い出したとしてもなぜ思い出そうとしていたか。
本来の理由を忘れている自信がある。
「夏休みどこか行ってみようか……」
顎に手を当てて考える、どこにしようか。北海道にはいくのだが。
約40日の夏休み、その間に答えを導き出せばいいと思い、余実は帰路をのらりくらりと歩いて行く。
流石に通りを外れると人通りは減る。人によっては眠りについている時間でもあるのだから当然だ、それにしても自宅に近づくにつれ人が減っているように思える。
推測するならば、アレだろう。
緋煩野を怒らせ逃げてきたからこそ、背後を振り返ると緋煩野が居るのではないか。
心霊番組を見た直後に、偶々、偶然同じ場面に出くわしてしまった際、何度も一応振り返得るやつだ。異常はないかを確認したくなる、そういう感じの心理的何かだと思う。
「なんか悪寒が……、まぁもう自宅近くだしね。流石に緋煩野も来ていないと見せかけて?」
そんな馬鹿な話があってたまるかと、自分に言い聞かせながら振り返る。
当然そこには誰も居ない、居ないと理解しているのに肩を撫でおろし安堵している自分が、少し恥ずかしいが己が身の安全が無ければ、ほにゃららというモノだ。
何もない事をこの目で確認したからこそ、視界を正面に戻す。
ほらもう自宅、具体的に言えば2件先にある一人暮らしには勿体ない、庭とガレージがあり大層立派な一軒家が、海外に居る両親の不在を守る現似余実の家である。
家には異変はない、隣人宅が燃えているなんてこともない。真っ黒な髪を下ろして顔を隠し道の真ん中で佇む白装束の女も居る筈がない。
けれどどういう訳か、現似家の塀に寄りかかる姿はあった。
それが美しい女性だという事は、遠目からでもよく分かる。
純金にも劣らない、輝かしいブロンドの髪が彼女の身の丈を包むように広がり、その美しいブロンドの髪を、意匠だと一蹴するかのようなルビーの瞳。
そしてこんな感想を終わらせるが如く広がる、真っ赤な絨毯。
それは今も地面を侵食するかのように、徐々に、徐々にと俺の足先まで広がり続ける。
それが血だと認識するのに、そう時間は掛からなかった。
「えっ……?……え?」
ただ自分の足元まで迫りくる血の絨毯を認識するよりも、半身を抉られたとしか形容できない彼女。そんな相手に怪我人だからと、余計な思考を巡らせると脳のキャパシティを越えて固まる前に、そんなことよりも強烈に誰かの死を拒みたくなった。
多分だけれど、そんな考えで俺は彼女に駆け寄った。
「大丈夫…わわっ……」
駆け寄る、だがなんと情けないことに俺の足は震え、そして血だまりに足を取られる。
地べたへの顔面ダイブ、人生初めての経験だ。
顔を上げ再度目の前の彼女を見た、彼女はそこに居る。痛みもある、そしてこの口元を滴るモノは鼻水ではなく、鼻血であるのだろう。
「腕無い……それよりもこっから止血ってどうするんだ?……とりあえずハンカチは無いんだった……えーっと……大丈夫ですからね」
その惨状を前にしては、全ての言葉に多分と着けたくなる。
全ての思考がネガティブに連結される、けれど俺の体はネガティブな未来を否定する為に動いた。
俺は学校で習ったことを、よく覚えてはいないダメな学生だ。けれど曲りなりにも学生として学んだ身、脳に教養が身について居なくても、体は覚えているのかよく動く。
ブロンドの髪に包まれ俯いた彼女を、そうっと体を横にする。
「あれ?……どうし……て?」
俺はこの顔を知っている、俺はこの人を知っていた。
「なんであなたが」
頭が痛む、ズキンズキンと頭が痛む。
頭の内側から金属バットで殴られているんじゃないかと、疑いたくなりもする衝撃が何度も、俺の頭に痛みを与える。
駅前でぶつかった彼女がそこに居る。
髪はここまで長くなかった筈だが、駅前で話した彼女であると俺は確信出来ている。
そのどこまでも深紅の綺麗な瞳、それを見紛うことなどありはしない。
怖い、原因が理解できないから怖い、この人と会ったのは今日が初めてだ、なのにどうして胸も頭も痛くなる。
どうして味わった事もない感情なのに、これほどまでに忌避感が残る。
「考えるのは後っ……今は助けないと、救急車を呼」
言葉を言い切る前に、俺の言葉は遮られた。
この状況を表すのであれば奪われた、が正しい言葉かもしれない。
ただでさえ現在に理解が追いついてないというのに、たった今まで横にさせていた筈の彼女の顔が眼前に広がる光景が、キャパシティの限界を告げる警鐘が響く。
直後のことだ。
マウストゥマウス、俗にキスと呼ばれる行為によって俺の言葉は遮られ、あろうことか唇が奪われている、それこそ息ができない程に。
時間が静止したよう、そんなことはあり得ない筈なのに。
生暖かい感触が唇を触れ、半開きになった口腔からは血独特の味がする。
なにが起こったのか理解できない、そもそも理解が追いつく筈がなかった。
既に思考はオーバーフローを起こしている。
彼女の唇が名残惜しそうに離れる、彼女の真っ赤な瞳に視線が奪われ、そして彼女のブロンドの髪に視線が覆われる。
全身から力という力が抜け、崩れるように座り込んだ。
人生初めての粘膜接触は、理解できない状況で後からの感想など思い出せないであろう、強烈な状況下で行われた。
そんな初めての経験。
形容し難い程どうしようも無い程に心地良く、包まれているようで安心感を覚えた。
深紅を纏い久遠の愛を伝える薔薇色の様な、美しさを覚えるルビーの様な、あるいは恐怖を抱かせる真っ赤な血の様な、そんな赤い瞳で余実を彼女は見つめている。
「……あ……え……?」
何か言うでもない、ここが現似余実の限界点というだけ。
常識の限界。理解できない現実を前にして脳は理解を拒み、状況から逃れるように瞼が徐々に重たく圧し掛かる。
どういう訳か、余実が覚えたのは形容できない程の恐怖でも、否定でもなく、しばらくの間感じることのなかった、温もりのような何かが心を満たしていった。
心地が良い、温かい、そして子守唄の聞かされたよう。
現似余実は眠りに誘われ、瞼を閉じた。
◇
瞼の裏に光を感じ、重たく開くことを拒む瞼を擦る。
雲一つない晴天の青空が、部屋を明るくし惰眠を貪る為の逃げ場を減らす。
陽の光で目を覚ます健康的な起床とは裏腹に、体はとても気怠く、起き上がるのも億劫な朝だった。
「怠い……てか体が重い……」
けれど体は起こさなければならない、なぜか、それは視界に入る情報が告げている。
「学校!時間は⁉」
時刻は午前8時を指し示し、電源の点いていないテレビには制服姿の自分が映っていた。
「なんでアラーム鳴ってないんだ、今日は」
身支度を最速で済ませ、尚且つ走って行けば何とか間に合うか。
階段を駆け上がり、クローゼットに入ったワイシャツと下着を手に取り、洗面所へと足を運ぶ。洗顔とその他諸々を済ませ、乱雑に脱ぎ捨てられた靴に足を通し、扉に手をかけた。
「ッチ、最悪、忘れてたぁー。焦って損したー」
心底自分自身が嫌になり、無意識に舌打ちが出る。
玄関に置いたあった電子時計が、今日が土曜日だという事を示していたからだ。
「緋煩野の家から帰った後……なにしてたんだっけ?」
びっくりするほどに緋煩野の家を出てからの記憶がない。
「…スマホはー、ポケットか、しかも返信してない。絶対に月曜何か言われるなこれ」
ポケットに入っていたスマホを開き、中身を確認するもあるのは別れた後の通知のみ。
家に居る、つまり普通に帰宅は果たしている、ただその間を思い出せない。
「あとでいいや、考えるのなんて」
寝心地の悪い制服を脱ぎ捨て、ワイシャツは再び元あったクローゼットに仕舞う。
二階の自室で寝巻を着用し、余実は自室のベッドに沈み込み、眠気はすぐにやってきた。
瞼が閉じかけたその刹那、自室の椅子にかかっている季節外れ真っ赤なマフラー。
片づけなければと思うべきなのだろうが、恐らく違う理由で視線が吸い付いた。
「赤……、赤…い……なんか」
赤いマフラー、何でもない赤色、好きな色という訳でもない。
ただやたらと目を引く、この部屋に点在する赤を無意識に視線で追っている。
なんだか気持ち悪い、こういう時に取るべき行動は一つ。
ふて寝だ、ふて寝。
なぜだか最近は、幾らでも眠れる気がするし、事実いつまでも眠っていられるのだ。
◇
夏休みが始まって、早三日。
夏季休暇最初の月曜日、もう朝陽で目を覚ますことは無くなり、何かしら用事が無ければ気が済むまで眠っていられる生活になった。
夏休み前日の不可解な夜のことなど、既に頭の隅に追いやり記憶にも残っていない。
今日は夏休み当日ぶりの、慌てふためき朝だった。
「……ねっむ、……てかあっつ、服前後逆だったし」
今日の最高気温は35度前後、猛暑日に迫る予報がされていた。
こういう日は、家から出ずクーラーの前で、それはもう自堕落にソファーで伸びる行為こそが、全人類アンケート総投票数トップの行動とも思うのだ。
余実の身から出た錆が原因ではあるが、幼馴染は俺がそう過ごす事を許さなかった。
「夜も暑ければ、朝も暑い……なんか涼しい所に行きたい……このまま駅から北の方へでも行ってやろうかな?」
「どこに行こうだってー?余実せんぱーい。ただでさえ赤点ギリギリの成績を、留年確定にまで落としたいのかな?」
呆れたような顔をし、こちらをジト目で見つめた彼女が居た。
大事に使われていることが分かる、年期の入った麦わら帽子をかぶり、著名人が如く色の濃いサングラスをしている緋煩野扇子だ。
「そりゃこんな名前な場所に来たら、誰だって逃げたくなるだろ」
本日の目的地、その名は勉強カフェ、かつてここまで言葉にするだけでも億劫な名前があっただろうか。
第一声よりも先に、バックレなかったことを褒めてくれないものか、……無理そうだ。
「わざわざこんな所に金払いたくない……、別に俺の家でもよかっただろ?」
「余実の家で、余実は勉強をしないでしょ」
「ぐっ、流石に高三だぞ?……やってるさ」
「はいはい、人の目を見て言えるようになってから言ってくださいねー」
一人でも勉強できますと、視線での訴えを続けるが、残念ながら無意味そう。
「一人で言ってるだけだから、いいですよーだ」
一人芝居で自身を慰めながら、俺は緋煩野の後ろを歩く。
小さな背中、平均はあるが俺から見れば小さな背。一本一本にまで手入の行き届いた絹髪。少なくても俺の中では絶世の美少女としか例えられぬ顔と佇まい、見慣れた筈なのにどうしてか何かを思い出しそうになる。
「余実?隣に座るの?別に教えやすいからいいけど」
「ん?あ?ごめん、髪を見てた」
「髪って、そこは服じゃないの普通。まぁいいや勉強しよう、勉強」
「勉強しようかって、そう言って小説を取り出す奴は、お前以外で見たことがないよ」
緋煩野は少し髪を気にしたように手櫛を通すと、赤のブックカバーを付けた小説を持つ。
こちらはちゃんと今日に備え、少しだけ自分で机に向かい課題を進めたというのに。
「私の課題はもう終わったからね、今日は余実が分からない所が出てきたら、ちゃんと後輩の私がしっかりと教えてあげるよ」
「嫌味なやつー」
嘲笑うかのように彼女は小悪魔的な笑みを浮かべ、早速本を読み始める。
臨時講師としては申し分ない実力と見るべきか、俺を馬鹿にするためだけに早く終わらせたと見るべきか。
だがまぁ、この行為がやさしさから来るのは事実だろう。
けれど俺にはその優しさに応えることはできないと、何故か諦めにも似た感情が発露するのはどうしてか。
くたびれた体に鞭を打ち、カフェの外まで足を進める、どうしてか空は暗い。
電源を切っていたスマホを起動、最初に映し出される時刻は20時を回っている。
その事実を目にするよりも瞼が落ち、眠気がやって来る。
数字と一部英単語に対する拒絶はよくある、活字までも拒絶するのは初めての経験。
課題を進めれば、緋煩野が作り出した応用問題がやってくる。
無情なわんこそば形式、食べ物じゃない分ギブがギブアップにならない。
それもあってか昼を抜き、夜も抜いたと言っても過言ではないのに、何かをお腹に入れたいと思えるほどの食欲がない。
これはアレだ、疲れすぎた時に体が逆を突いてくるアレだ。
「課題とか勉強を手伝ってくれたお礼だけど、本当にここでよかったのか?」
「いいよ、変に高い所行くのも面倒、それに余実はサイゼ好きだったでしょ?」
「まぁ好きだよ、身の丈にあってる場所だ」
「お金はちゃんと送ってくれてるんでしょ?おじさん達」
「いやいきなり年初めに、手紙と一緒に三桁万円振り込まれても使えないって、半年経ったら三桁万円が四桁に乗り始めるんだぞ?」
「まぁ確かにびっくりするか………」
「流石のお前でもビビる金額だろ?」
「金額自体はそこまでかな、運用したことはあるよ、まぁ使うとなると確かに困るね」
「うっわ……」
知ってはいたがこの後輩、とんでもない金銭感覚で生きている。
浪費家という訳ではなく、お金を扱う事を楽しんでいて、お金を生み出す実力は最高峰。
そしていい意味でお金に執着がない、破滅なんて心配がないのは安心。
「自分で聞いといて引かないでよ、流石に傷つくんだけど」
流石に顔に出ていたみたいだ、手を使って口角をあげる。
「冗談、冗談だよ、自分の力で稼ぐイメージをできない人間の僻みだと思ってよ」
「……探す気が無いの間違いじゃない?」
「なんか言ったか?」
「なんでも?……私の貯金残高を呟いただけだよ」
「え?凄い気になるんだけど?」
「ちゃんと余実が高校を卒業できたら、その時は教えてあげる、だから頑張って」
そこまで馬鹿ではない、否定を語ろうと思いはする、思いはした。
そんな中で緋煩野は振り返り様に人差し指を、薄い口紅で塗られた口に宛がう。
いつもとは違う髪型、準備時間が長いとできる髪型か先日に会った時とはまた違う雰囲気を纏う、それでも彼女に抱く感想は綺麗の一言なのだから凄いのだが。
確かに2年時から成績の下落は激しい、それを夏休みの間で見返してやる。
なんて、思ったりするのはタダだ。
◇
夕食を済ませ、要らないと言いつつ強く拒みはしない、緋煩野を家へと送る。
そうして彼女と別れ、今は帰路へとついている。
「次の学力強化日間は来週……、しばらくは休めるな」
出された課題はちょこちょこと進める意思はある、あるのだがそれ以上に一日ごとに溜まる疲労が馬鹿にならない。
「日を追うごとに、肩が重たくなってる気がするー」
肩を軽く回してみる、5回を超えた辺りで明確に疲れが出る。
原因が目の前に転がっているならば、対症療法も探れるが、そこまで都合は良くない。
自宅へ向かう道すがらの塀に背中を預け、胸に当て原因を考えてみる。
考えられるのは自律神経やら、あとは体調不良、過労、運動不足にストレス、当てはまるとすれば過労だろうか、今日の勉強が原因?
「勉強が理由で過労なら、大概だな、いやほんと」
流石にあほらしいと首を横に振る、自宅まで数十mと迫った帰路を再び進む。
そういえばの話だが、先週の金曜日もこの道で何かがあったような気がする。
とても、とても赤くて、赤黒い真っ赤な何か、それが脳を焦がすように頭に焼き付いている。血の色のような何かと、人の大きさ程ある金色の何か。
首を捻り記憶を探る、地面を見ていた視線を上にあげ自宅前を見る。
そこには背丈ほどあるブロンドの髪と、シックなデザインのロングドレスを着た幼さと成熟さの相反する二つを併せ持った女性が、血の色にも似た瞳を夜闇に輝かせ、余実家のインターホン前で佇んでいた。
知り合いだろうか、どこか見覚えはある、デジャヴというやつかもしれない。
「あの……家に何かよう…ですか?」
「あぁお主がここに、ん?」
日本人離れした風貌とは打って変わり、流暢な日本語が彼女の口から紡がれる。
外国人特有のカタコト感もない、こちらに住み始めて長いのだろうか?それとも生まれからこちらなのだろうか?
「えっと両親は今海外なので、そっちに用事なら」
「いやお主の両親ではないな、間違いなくお主に用があった」
「俺に?俺は貴方みたいな綺麗な人は知りませんけど、……もしかして偶に聞く初回だけやたら綺麗な人が来る訪問販売的な話ですか?」
「違うが?お主はドレスで訪問販売する輩を見たことあるのか?」
「まぁ確かに見たことは…、なら上がりますか?言っておきますけど、強盗だとしても金品はないですからね」
「なんだ家にあげるのか」
「あげて欲しい訳じゃないんですか?」
「いいや、あげてくれると助かるな、しばらく外に居たからな……流石に暑い」
「そういう事なら言ってくださいよ、すぐ水用意しますから……、はいどうぞ」
自宅の鍵を開き、扉を開き今も見慣れない彼女を自宅に通す。
来客が来た際のお茶請けなんてない、緋煩野を自宅に招こうとした姿がこれか。
とりあえず、とりあえずだ。戸棚を開いてみよう、インスタント食品と調味料。
隣はキッチン用品、緑茶の茶葉、コーヒー豆と続いて、見つかったのは何となくコンビニで買っていた最中と羊羹があった、消費期限は多分大丈夫。
和菓子は口に合うだろうか、だが日本人たるモノ日本食を布教するべきだと思う。
俺は心の中で完璧な言い訳を用意し、コーヒーと羊羹をトレイに乗せ、ダイニングテーブルの上に置く。
「粗茶ですが、どうぞ」
「粗…茶…?これはコーヒー……、いや、まぁいい、羊羹は好きだ、ありがとう」
「緑茶の方がよかったなら、緑茶にするけど」
「いや構わない、決して飲めない訳じゃない、苦いのがな……」
カップに口をつけ、小指を立てながら口に含む姿はとても優雅で、気品すら感じさせる。
所作の美しさが緋煩野とは分類が違う、外国マナ―の最上級クオリティといった所。
けれど一口ごとに苦さに対し渋い顔を見せるのは微笑ましいような。
ほんの少し、少しだけ外国人に抱いていた、理想像的な何かが崩れ去る音が聞こえてきた。
「なんだ?その表情、何か言いたい事でもありげな顔だな」
「いや別に。ちょっと疲れていると言いますか、解釈違いと言いますか……」
理想と現実のギャップというのか、外国人の知り合いに日本文化を勧めるという、一度はやってみたかったことを出鼻で挫かれた感覚だった。
「解釈?何の話かは分からないが……まぁ疲れているのなら、席に着くといい」
「ありがとうございます?」
「なぜ客に家主が礼をしているのか分からないが……まぁそれはいい、今日訪ねた理由はだな。いつかの夜にお主に私は助けられたのだよ、まぁその礼を伝えに来たという話だ」
「助けた?俺が?貴方を?」
自分で考えるのもなんだが、俺は人助けを積極的にする質ではない。
今日の緋煩野が手を差し伸べてくれたように、俺自身がしゃんとしていないからこそ助けられることの方が多い。
故に現似余実が手を差し伸べる範囲は顔見知りか、余程の状況と呼べる場合。
「ちょっと待ってくださいね、頑張って思い出すので」
「別に思い出さなくともいいんだが……、……思い出されても困る……」
何かをぼそぼそと目の前の彼女は口にする、内容は良く聞こえなかった。
そもそも、これだけの美貌の持ち主を忘れている事実、それに納得がいかない。
物語における主役を張る様な美男美女だろうが、俺の様なモブだろうが、彼女ほどの美貌を持っていれば横を通れば目で追うだろうし、もう一度見かければ忘れていようが強制的に記憶から呼び覚まされる、彼女はそんな存在だ。
「駄目だ全然思い出せない。ていうか……、座ったらどっと疲れで……眠…た…く」
視界がぼやけてくる、船を漕ぐように体が揺れる。
「大丈夫かい?随分と疲れているようだが、日を改めようかな?」
「いや……、ちょっと……休めば」
駄目だ、意識が保てない。
衝撃ともに視界全体にフローリングが広がる、生暖かい液体が鼻から頬へ伝った。
恐らく鼻血が出たのだろう、最近、他の所でも鼻血を出した気がする。
顔面を床にたたきつけられたというのに、眠気は一向に冷めず、瞼は徐々に閉じてゆく床には赤い鮮血が広がっていく。
「拭かなきゃ……、あれ……なんか……浮いてる?」
眼下に広がっていた床が少しずつ遠のく、抱えられるように視線は天井へズレた。
幾千、幾万、数百万にも見紛う、きめ細やかなブロンドの髪が顔にかかって鼻孔くすぐる。
何よりルビーの様な、棘のある薔薇の様な、あるいは血の様な、赤色の瞳が目を奪われた。
白人である彼女だからか、これほどまでに赤が際立っているのかもしれない。
けれどそれ以上に、恐らく彼女だけが持つ、その赤色がどうしようもなく綺麗に見え。
同様に赤色に忌避感を覚え、それでもその赤に縋りたいとさえ思う、そんな矛盾。
再び体が揺れる、急停止を味わった感覚に似ていた。
そういえば来客対応も、お風呂も、洗濯も、やるべき事をまだやっていない。
それなのに体が重たく、意識の限界も訪れる。
「あか……きれい」
この目に映る、その赤に魅入られ、俺は抗えぬ疲労感に押し負け目を閉じた。
◇
怠惰に生きる。惰性で生きる。目的なく生きる。
生きる、生きる、生きる、生きる。
ただ生きているだけでも、それは凄い事。
皮肉か、比喩か、息をしているだけで偉い、生きているだけで偉い、なんて言葉があって。
けれどそれが当てはまるのは、怠惰でも、惰性でも、目的がなくとも、生きる意思がある者に当てはまるような気がして。
不安があれ、恐怖があれ、どれだけ今には生産性がなくとも、それが一生涯、あるいは過去においても、全てにおいて価値がない者と論ずることができる者は少ないだろう。
何を考えていたかも覚えていない金曜日、その深夜、現似余実は不意に目を覚ます。
月曜の夜に挨拶に来た外国の方は、気を遣い帰ってしまったらしい。
皿に盛りつけた羊羹は綺麗さっぱり無い。用意していた緑茶も飲んだのだろうが、コーヒーだけは殆ど手を付けられていない事実に、少し笑ってしまった。
随分と眠っていて、それに気づいたのが火曜の昼。
階段に垂れていた血の跡を拭きとり、念の為にお茶請けを買いに行き1日。
冷蔵庫に碌な物がないと気づき、買い物に行き、それを使って夕食を作り1日。
食欲がないけれど、お腹に食事を詰め込み、課題に少し手を付けて眠りにつく1日。
気が付けば夏休みの1/6が終わった事、予定が無ければ無限に時間を浪費する事に危機巻を覚え、予定を考え机に向き合っていたのが今日16時頃の話だ。
「何時間も寝ていたはずなのに、まだ眠いんだけど……」
夜風に当たっていれば目も少し冷めるかと思い、窓を開く。
心地良いとは言えない夜風を浴び、半月の月を眺めながらスマホを眺めてみた。
メッセージアプリの通知が経った1日で溜まっていた、学力強化日間が来週の火曜日に行われることや、秋鹿のバドミントンの調子が絶好調である事の報告。
返信するべきなのだろうが、何故かそれすらも億劫でぼーっと月を見上げている。
流石の東京でも住宅街になれば、昼間程は騒がしくはない。
「良い夜だー、眠気は吹き飛ばないけど……」
近所迷惑にはならないよう、ボリュームは抑えてはしゃいでみる。
「ならお主のその眠気、吹き飛ばしてやろうか?」
声が聞こえた。
まるで余実の言葉に反応したような声が、どこまでも暗い夜闇の中から聞こえてくる。
声はどこから?庭から?道から?いや違う。
声は上空から、確かに上空から聞こえてきた。
視線を上に移す、シックなロングドレスを身に纏い、背丈ほどもあるブロンドの髪を夜空に輝かせ、世界の法則に反するように遠くからでも広がって見える。
異様にも目立つ、真っ赤な瞳を持つ女性が、俺を目掛け空から落ちてきた。
「え?…へ、あ、受け止めなきゃ」
あの高さから人の体が落ちれば、間違いなく人は死ぬ。
そもそもなぜ空から、そんな思考に惑わされつつも、一心不乱に両手を広げる、受け止められる気もしないのが問題だが。
降ってきた彼女は、俺へ飛び込むように舞い降りる。
「え?軽っ」
人の姿をしている筈の彼女は、どういう訳か羽毛よりも軽い。衝撃など微塵も感じさせないせいでギャップが発生するなんて思ってもみず、俺はひたすら彼女を強く抱きかかえた。
そして夜空から降ってきた彼女と目が合い、彼女は口を開く。
「名乗るのが遅れたな、私はツキキュウケ・パアヴァイン。人間ではないこの世界の異端者にして、誰もが恐れるヴァンパイア」
「これはご丁寧に?えっ……ヴァンパイア?……吸血鬼ってこと?」
「あぁ、私はその吸血鬼だ。伝承よりも気高く、孤高の血を吸う怪物、良きに計らえよ」
吸血鬼を名乗る、羽毛布団よりも軽い女性は、正しく意味不明な事を口に出す。
これは夢、夢だろう。夢に違い無い。
そうに違い無いのだが、これがもし現実だとするならば。
皆が寝静まった深夜に、窓から音もたてず確かに吸血鬼が夜に顕れた。
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