【承】ベクトルと標準
注意事項1
起承転結はありません。
短編詐欺に思われたら申し訳御座いません。
注意事項2
創作部。の二人。
大晦日に会うことにしました。
「じゃあ、場面描写して。今此処で」
大晦日に兄さんに連れて来られたのは神社の手水舎の付近だった。元旦では無いせいか、人も少なく、二人が棒立ちになっても迷惑は掛からない。
怪訝な顔をする私に、兄さんは淡々と続ける。
「君が見た景色に近いものが、この辺りで見られると思ったから。光の描写が少し甘いんだよね。だからもう一度。先程私が指摘したところを踏まえて書いてみて」
「光に括る必要はある?」
兄さんは場面描写、つまり、光に着いて拘っている様だが、此方としては其れに括る事無く、感じたままに描写したい。光だけじゃなくて、音とか、感触とか、そういうの全て含めて。
そう言うと兄さんは少し考える様に視線を逸らした。視線の先には手水舎があった。
「まぁ、ないね。ただベクトルと標準は合わせて欲しい」
なんじゃそりゃ。
「早く書いて。ぼーっとしていると後回しになるから」
五本柱の東屋の真下に手水舎があった。荒削りの角張った岩の上に亀が居て、そこから水が吐き出されている。其れはこの地名をありありと写していた。
多くの参拝者達が弧を描いた水から水を汲み取り手を清める。その度に其れは形を変え、ただ静かに地に降り注いだ。其れは丁度、葉の間を掻い潜って届いた、木漏れ日の様に。
ちらりと兄さんを見ると私が持っていたスマホを覗き込む。
「まだ短いけど……」
そう言うと、兄さんは暫く眺めた後に、静かに笑った。
「悪くは無いと思うよ。少なくとも、昨日のものより大分纏まっている様に思える」
絶賛しないところが非常に兄さんらしい。
そこで書き始める前に、兄さんが言っていた『ベクトルと標準』についての事が気になった。あれは一体どういう意味なんだろう。
「ベクトルと標準って何?」
「どういうテーマで書き表したいか。例えば極端な話、今の景色を水墨画として表したいなら、使う言葉は墨とか、濃淡とか、水墨画を連想させる様な言葉を選ぶ。人の営みに着いて表したいならば、手水舎を訪れた人々の指の動き、話し声に重きを置く。
そうすると言葉の粒が揃いやすい。読み手にとって纏まりのある文章に感じられる」
唖然として見るを私を兄さんはケラケラと快活に笑った。
「分からないなりに書いたんだ。でもまぁ自然に重きを置いたと言うことは、何となく分かったからね」
及第点だと思う。質問の時間を与えられなかったけれども、ちょっと考え無しだったかな。
けれども兄さんの言いたいことは恐らく、読み手をそう思わせる様に此方が誘導しろ。ということだろう。
「そう思わせるように誘導するって事?」
「そう。いいね。良く見られる様になってきた」
オマケ
「そう言えばなんで此処を選んだの」
「今年一年有難う御座いました。という意味と君と私の文才が上がりますようにとの願いを込めて。相応しいだろう? 此処」
人に何かを教えるって難しいよ……。
其れが例え昔の自分であっても。
客観的視点がないんだもん。
と弱音を吐きます。
短編を書く時に、『出来れば』心掛けたい事。
テーマを決めるんですよ。
どういう方向性で書きたいか。何を連想して欲しいか。
其れが前の小説では出来ていなかったんです。
宝石と水墨画は私の中では別のテーマで使用します。
だから気に止まる。流れが淀む。
まずそこをどうにかさせる為に、『君はどういうイメージで書いてるの?』『何を連想したの?』と議題を吹っかけているんです。
今回はまんまぶっ飛ぶ事無く、『自然と手水舎に訪れた人達』を連想して書いているので、そこまで狂わなかったかなと。
明日は絶対、お会い出来ないと踏んだので、今のうちにお会いしておきました。
今年一年、お世話になりました。
新年は何書こうかな。