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五人目

 抱きしめて離れた時、ふうかは諦めたような哀し気な貌をしていた。頭から離れなかった。ラブホテルのベッドに隣り合って薄暗い天井の換気口を眺めていても、彼女の貌は僕に纏わりついていた。怒るでもなく苛立つでもなく、ただただ自分の哀しみを見つめるように目を伏せて、何もかも諦めたように柔らかく唇を結んでいる。そんな顔だった。僕はふうかが時折見せるこの表情が好きだった。ふうかはあまり人気のある嬢ではなかった。男っぽい顔立ちのせいか、痩せたハリのない身体のせいか、愛想の悪い子供のような態度のせいかは知らないが、いつも難なく当日予約が取れて常連もほとんどついていないようだった。そういう所も気に入っていたので、僕は月に一回は彼女を指名していた。


「信司くんのお母さんは、どんな人?」


 語尾を伸ばす舌足らずな声を零しながらも、ふうかは僕の腕をつねるように弄っていた。愛撫というよりただの手遊びのようだった。


「知らないよ。母さんは僕を産んだせいで死んだんだ」


「そっか」


 ふうかの声はいつもと同じ調子で全く同情の色が見えなかったので、僕はどこか安心した。話を続けることにした。


「母さんは元々体が弱くてね。子供を産むことも医者に反対されてたくらいなんだ」


「何で産んだんだろうね」


「分かんないね」


「じゃあお父さんは?」


「父さんは、熱心なキリスト教徒でね。母さんとも教会で知り合ったんだ」


「ふーん。じゃあ信司くんもキリスト教徒? ……なわけないか」


 ふうかは乾いた声で笑ったが、ぼくは目を伏せるだけだった。どちらともなくキスを交わした。また同じように寝そべった。


「幼稚園の頃は僕も神様を信じていたと思う。父さんに連れられて教会にも通ってたよ。でも、小学生の頃になると駄目だった。原罪っていうのがどうしても理解できなかったんだ」


「どうしてアダムとイブの罪を関係ない私達が負わなくちゃいけないかって事?」


「その時に僕が生まれていない以上はどうしようもないからね」


「うん」


「僕が躓いてからも父さんは熱心に教えてくれていたけど、僕は理解できなかった。アダムとイブがしたことで僕に罪があるとはどうしても思えなかった。だから分からないって正直に言ったよ。そしたら……父さんは顔を真っ赤にして怒り出してね。『お前が智子を殺したんだ』って、母さんが僕を産んでから弱って死んでいった時の事を細かく話して聞かせて『お前はそれでも罪を感じないのか』って、物凄い形相で肩を掴まれたよ。僕が分からないって言ったら、父さんは僕を突き飛ばして、ゴキブリでも見下すような目で睨んで、何か叫んでいたよ。聞き取れなかったけど。それから殆ど口を聞いてくれなくなって、虐待まがいの事までして僕の矯正を試みようとしたようだったけどそれも不発で、僕が中学生になる頃には諦めがついたみたいでさ『お前は悪魔の子だ』なんて書置きを残して蒸発してしまったよ。残された僕は親戚の家をたらいまわしさ」


「産んでくれなんて頼んでないのに酷いね。責任があるとしたら、死ぬかもしれないと分かってて産ませたご両親に責任があると思うけど」


「そうだね。僕もそう思うよ。でも、同時にこうも思うんだ。僕も父さんのように罪を感じたいって。命がけで僕を産んでくれた母さんに許しを請いたいって。血と肉を捧げて人類の罪を贖おうとしたキリストの前に跪きたいって。そういう風にも思うんだ。でも……やっぱり僕には分からない。僕には罪が分からないんだ。罪悪感というのがどうしてもつかめないんだ。母さんのほかに3人も人を殺してみたけど駄目だったよ。殺している時は見えるような気がするんだ。自分がどす黒く染まって、悪そのものになっていくような感覚があって、罪が掴めそうな気がするんだ。でも、終わってみると何もかも霧のように消えてしまっている。僕の罪は過去になってしまっている。そうなるともう、駄目なんだ。だってどうしたって過去は変えられないんだから、今の僕にはどうしようもないじゃないか。いくら嘆いてみせても、反省するフリをしても何もかも白々しいだけなんだ」


 それから僕は、手に掛けた三人の話を一気に吐き出した。ふうかは驚くでもなく、平然としているように見えた。ずっと黙って聞いてくれていた。


「僕は分からないんだ。母さんと、僕が殺した三人の違いが分からない」


「でも、お母さん以外の三人はあなたが自分の意志で殺したんだよね?」


「あの時の僕は、何か衝動のような物に突き動かされていたんだ。本当に意志なんてあるのかな。……それに、今思い返してみると全部ただの妄想だったような気もしてくるんだ。実際、妄想と過去の違いってどこにあるんだろう。もう、何もかも分からなくなってくるんだ」


「この世界があって、自分に意志があって、過去との繋がりがあるって信じる事が、生きるって事なんじゃないの?」


 ふうかは少しだけ非難するような尖った口調になっていた。


「なるほどね。君の定義だと、僕は生きていないって事になるんだろうな。その通りかもしれない。でも、僕にはどうしようもないんだ」


「私が磔にして殺してあげよっか? そしたら、きっと後悔できると思うけど」


「そりゃあ、拷問すれば誰だって意のままにできるだろうさ。でも、そういう事じゃないんだ。僕は自分の理性の中で罪を感じたいんだ」


 ふうかは僕を説得する事を諦めたようで、何も返すことは無かった。黙って長い睫毛を閉じ伏せていた。寝てしまったのかも知れない。


「きっと僕は間違っているんだと思う。何が間違っているかは分からないけど、とにかく何かを間違えているんだと思う。何か、気付いていない事があるんだ。何か……」


 ふうかは眠ってしまったのだろうか。無機質なエアコンの音だけが響いていた。


「あなたはお母さんの献身に耐えられなくて、自分が悪人になる事でお母さんを呪おうとしているんじゃないの?」


 ふうかは口を開いていたが、目は閉じたままだった。口元は笑っていた。


「……それは違うよ」


「どうだかね。あなたはお母さんが憎くて仕方ないんじゃないの?」


「そうやって僕を怒らせて殺して貰おうって魂胆だったとしたら無駄だよ。悪いけど、僕はもう誰も殺す気はないから」


「なんで?」


「約束したから」


「ああ、三人目に殺した人と?」


「うん」


「私も好きだな、三人目の人」


 やがてアラームが鳴った。準備をして一緒にホテルを出た。駐車場で目が合った。その時彼女が手を振り上げていた。平手を落として来た。僕の頬ではじけた。ただ当たるだけの軽い平手打ち。大袈裟な音だけが顔に響いた。痛みは殆どなかったが、脳の奥にしみこむような得体の知れない衝撃があった。僕は動くことが出来なくなった。


「じゃあね」


 世界がおかしくなっていた。駐車場も並んだ車も川沿いの道路も送迎の車に去っていくふうかもどこか赤みがかって歪んでいた。明らかに彼女の平手打ちのせいだった。気恥ずかしいような焦燥があって、顔が熱くて仕方なかった。いてもたってもいられなかった。堰を切ったように、僕の中に何かが溢れかえっていた。さっきの平手打ちがまだ頭に響いていた。彼女は、どうしてもっと強くぶってくれなかったのだろう。顎が外れるくらい拳を打ち込んで、倒れた所に馬乗りになって死ぬまで殴ってくれればよかったのに。なのに、そうはならなかった。彼女はそうしてくれなかった。罪に対して明らかに不釣り合いな罰とも言えない罰が、あまりにも弱々しい小さな抵抗が、僕の何かを変えてしまったのかもしれなかった。ふうかの言う通り、僕は母さんの献身に耐えられなくて、最悪な形で母さんを呪ってしまったのかもしれない。僕は、母さんに人間でいて欲しかったのかも知れない。僕は、最低な事をしてしまったのかも知れない。何もかも可能性に過ぎなかったが、可能性でも十分過ぎた。車に飛び乗った。僕は向かわなければならなかった。行き先が警察署か十字架かは分からなかったが、とにかく僕は向かわなければならなかった。


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