四人目
チャイムの音に玄関扉を開くと女が立っていた。
「何かお悩みはありませんか?」
「特にありません」
「それは何よりです」
宗教か何かの勧誘だろうか。黒服の女は40歳くらいに見えた。顔の起伏が濃くて目が澄んでいるので白人のハーフかもしれない。痩せ気味ではあったが、広い肩幅も長くうねる黒髪も包容力と存在感を湛えていて、引き付けられるように目が離せなかった。
「あなたは神様を信じておられますか?」
僕は何も返さず、女をじっと眺めまわしていた。胸はそれ程大きくないが、メリハリのある身体をしていた。女の方も僕の視線に気づいたのか、口を結んで表情を硬くしていたが出て行く素振りは見せなかった。黙って話だけ聴いているとキリスト教系の宗教勧誘らしい事が分かって来た。
「私は信じています。聖書に書かれている通り、キリストは私達の為に命をなげうって死んでくださったのです」
「死んでくださった?」
そうですと大真面目に微笑む女に、僕は思わず鼻を鳴らしていた。
「死んでくださったなんて、良くも言えたものですね」
「全ては主の御計画の通りです」
「そりゃあそうなんでしょうよ。僕が言いたいのは、人間の側から反対する事はできないのかって事なんです。本当に神を信仰しているなら、『あなたの一人子に罪を被せないでください。私達は罪を背負って生きていきます』とでも言うべきなんだ」
「しかし主は和解を求めておられます。和解の為にはキリストの血が必要不可欠でした。そして神と人との和解はキリストの望みでもありました」
「イエスは神を呪って死んだじゃありませんか『主よ、主よ、何故私を見捨てたのか』って」
「それは旧約聖書からの引用で、本当に主を呪っている訳ではありません」
「死ぬ間際に悠長に引用していられるのもすごいですがね、じゃあイエスが神を呪いたかったら何と言えばいいんですか? 何を言っても無駄って事でしょうよ。救われたくてたまらないあんたたちが勝手に好意的に解釈してしまうんですから。イエスがどんな下品に神を罵っても、どんなにグチグチ後悔しても、あなたは知っちゃこっちゃないんでしょうがね」
「聖書に書かれている通りイエスは生涯、神に対して誠実でした。私もそう信じています」
女は動じる素振りも見せず落ち着いていた。突き倒して怯えさせてやりたくもなったが、僕は何とか押し留まった。
「素晴らしい。結構なことですね。イエスが苦しんで死ぬ事が必要だったと言うなら、あなたも必要とあらばイエスと同じような苦難を耐え忍ぶ覚悟を持っていなければならないという事になりますが。そのあたりどうなんですか?」
「もちろん、何が起こっても私は主に身を委ねます」
やはり女が動じる事は無かった。らちが明かないので切り口を変えてみることにした。
「ところで僕は人殺しでね。今までに3人も人を殺した事があるし、これからも殺すと思います」
女の表情は変わらず微笑みで固まっていたが、脚の筋肉の僅かな動きに伴って体幹が揺れた。僕の話を信じたかどうかは知らないが、重心を後ろに持たせて逃げる準備をしているのだろう。恐らく反射的に。
「逃げない方がいいですよ。逃げたら殺します」
ナイフを取り出して刃をむき出しにしてみると、真顔で平坦な表情がみるみる真っ青になっていった。やがて澄んだ瞳も黒い長スカートも挙動不審に震え揺れ始めた。眩暈を堪えているようだった。
「もしあなたが叫んだり逃げたりした場合、当然あなたも殺しますが、ついでになるべく沢山の人を殺します。20人は行けると思います。この選択は誰も得しないのでお勧めしません。私だって色々面倒なので避けたいんですよ。殺される20人もあなたも、まだ死にたくは無いでしょうしね。逃げるとか叫ぶという選択は最悪なので、真っ先に除外したほうが良いという事です。分かりますか?」
瞳に芯が戻って、女の焦点が合って来たようだった。僕の方を向いていた。僕の言葉が理解できているようだった。僕は続けた。
「あなたが取るべき道は二つに一つです。一つは、暫くのあいだ僕に監禁される道です。あなたがこの選択を取ったなら、拘束はさせてもらいますが、それ以外で僕はあなたに指一本手出ししません。ただこの場合、警察に見つかって捕まるまでの間に僕はなるべくたくさんの人を殺します。もう一つの選択は、あなたが僕に身を委ねる道です。キリストのように酷い辱めを受け、磔になって、鞭打たれて殺される道です。あなたがこの道を選んだ場合、僕は今後誰も殺しません。誓ってもう人殺しはしません。人を殺すのはあなたで最後にします。……大丈夫ですか? 僕の言葉が理解できていますか?」
女は青ざめてはいたが、不思議と平静を取り戻しているようだった。深く頷いた。
「ではお尋ねしましょう。自分だけ助かって他人を犠牲にするか、僕に身を委ねて他人の為に自分を犠牲にするか、あなたはどちらを選びますか?」
「私は……十字架を選びます」
ナイフを取り落として僕は彼女を抱きしめていた。暖かくて、広い胸だった。「……母さん」声が零れていた。離れて女を見ると、怪訝そうな顔になっていて僕は少し恥ずかしかった。誤魔化すようにナイフを拾って畳んで内ポケットにしまい、彼女の手を取る。細くて滑らかな指だった。残った左手で扉を開け放つ。昼下がりの陽ざしが眩しかった。僕は彼女の手を引いていった。彼女は諦めたように脱力して僕の後についていった。「乗ってください」助手席に座らせた。山へと車を走らせた。女は相変わらず青ざめてはいたが、じっと窓の外を見ているだけで、逃げる気も暴れる気も叫ぶ気もなさそうだった。目的地の山間の丘には二時間ほどでついた。僕は道の端に車を停めると、また彼女の手を取って薄暗い木々に分け入って行く。視界はすぐに開けて、見渡しのいい丘が柔らかな起伏を露わにした。丘の頂上には白い十字架が二本立っていた。左がポストモダンアーティストの相浦アキラの墓で、右が金を燃やしていた老爺の墓だった。
「死体の処理用に安く買った土地なんです。あーあ……もう草が生えてるな。先週草刈りしたばかりなのに」
僕はとっくに女の手を離していたが、女は言われるでもなく僕の後をついて丘を登っていた。二本の十字架の間、丘のてっぺんまで行くとまた視界が開けた。
「いい眺めでしょう?」
雄大な山々が鮮やな起伏と陰影を象って水平線の向こうまで続いているようだった。山底に目を落としてみると稲刈りを終えて黄金色に光る棚田が階段のように下っていて、最下層には瓦屋根の家々が慎ましやかに沈んでいる。
「素敵ですね」
彼女は何かを訴えかけるような目をしていた。もしかしたら彼女は、この雄大な景色の中に僕が神を感じて回心する僅かな可能性に思い至ったのかも知れない。
「あなたは、本当はとても誠実な方なんだと思います」
女の声だった。
「バカ言わないでください。僕は人殺しですよ。そして、今もあなたを殺そうとしている」
僕は彼女の手を引いて引き返し、物置小屋に向かった。十字架と皮鞭と五寸釘と金槌とスコップを取り出して、芽吹いたばかりの下草の上に並べ置いた。
「ずっと待っていたんです。あなたのような人を。だからあらかじめ準備もしてあります」
彼女は完全に蒼白になっていた。眉間に皺を寄せて、口を堅く結んで、今にも泣きだしそうに顔が歪んですらいた。
「今ならまだ引き返せますよ。どうしますか?」
青黒い唇が震えていた。目が光って、明確な敵意の色を露わになったが、それも一瞬の事だった。息の音がゆっくり流れて、彼女は柔和に微笑んだ。勝利の余韻と絶望が同居したような貌をしていた。
「私は十字架を選びます」
僕は彼女に服を全て脱ぐように命じた。タオルで作った猿轡と目隠しで顔を覆い、瞬間接着剤と布テープで固めた。彼女にはもう何も話して欲しくなかったし、目で何かを訴えるような事もして欲しくなかった。後は大体聖書に書かれている通りにした。十字架に釘付けになった彼女は手足から血を垂れ流していた。肩が外れて胸が潰れ、呼吸が苦しいようでずっといびきのような荒い鼻息を立てて呻いていた。日が明ける頃には音は消えていた。瞳孔が開いて心臓も止まっていた。死んでいた。それから五日ほど放置していたが、カラスや大量の虫に集られて死んだままで復活する事はなかったので、骨になるまで待ってから埋めた。丘の十字架は三本になった。