第44話 あの日の、美咲
それは、幸太が抱えている秘密の核心に迫る問いだった。
美咲のまっすぐな眼差しはあくまで真剣で、幸太がお茶を濁そうとしても、それを許してくれそうにない気色だ。
「俺の……俺の部屋へ行こう」
幸太の提案に、美咲は黙ってうなずいた。
幸太は母と姉に、「美咲、ちょっと気分が悪いみたい。上にいるよ」とだけ告げて、彼女の手を引いて階段を上がった。
彼としてはこの時間に、最適な回答を用意したい。
が、彼の神経回路はこのとき、まるで切れかけの電池のように、従来の思考力を失っていた。
たまたまだ、美咲の気のせいだよと嘘をつくのもいい。というより、それが一番よさそうだ。地震があるかどうかなど、幸太に分かるはずもない。むしろ美咲の問いこそが突飛だ。
しかし、美咲を偽るのは、幸太にはこれ以上ない苦悩だ。
幸太と美咲とは、もう、これほど重大な件について、その場限りの嘘でとりつくろうことで解決のできるような、そういう関係ではなくなっていた。
彼らがどれほど、愛し合っているか。
どれほど、信頼し合っているか。
それを思えば、美咲を裏切ることはできない。
そもそもこれまでが、美咲を裏切り続けてきたようなものだ。
幸太は自分の正体を、彼が最も愛し信頼するひとに、隠していたのだ。
これ以上は、隠すことも偽ることもできない。
ところが、部屋に入っても、幸太は何も言えなかった。
床に向かい合って座り、美咲は幸太の両手を熱い掌で包み込んで、こう言った。
「コータ、お願いがあるの。私にうそ、つかないで」
本当のことを、美咲に伝えるべきだ。
美咲の言葉は、美咲の想いは、幸太の判断の天秤に、確かな傾斜をもたらした。
もう、美咲に嘘をつくことはできない。
だが、この秘密を明かしたら、どうなるのだろう。
美咲は、美咲は自分から離れてゆくのではないか。
もし、そうなったら。
幸太にはそれが、なによりも恐ろしかった。
彼は、奇妙でしかも不思議な体験ののち、二度目の人生を手に入れることになった。
高校3年生の自分に残した後悔を、回収するというチャンスを得たのだ。
美咲を愛し、彼女を自分の手で幸せにする。
それだけを考えて、この1年を送ってきた。
手を抜いたことは一度もない。
美咲をおろそかに考えたことは一度もなかった。
精一杯、全力で美咲を愛し続けてきた。
その自分が今、美咲を失ったら、どうなる。
それはもう、死ぬのと同じだ。
美咲は自分にとってのすべてだ。
幸太がそう思い、彼女にも伝えたその想いは、決して誇張ではない。
美咲は、彼にとってのすべてだ。
美咲のいない世界に、彼は生きる意味も、生きる情熱も持てないだろう。
Take1で、彼がある種の救いのように抱いていた、淡く甘い初恋さえも失う。
美咲とつくった思い出のすべても、はかなく、かなしくなるだろう。
それらの想いが、ほんのわずかな時間で幸太の胸中をかけめぐり、涙となってあふれた。
「美咲、ごめん。俺、美咲に黙ってたことがあるんだ」
言葉にすると、さらに涙のしずくが幾筋も流れた。
目の前にいる美咲の顔が、見えなくなるくらいに。
もしも美咲がいなくなったら、あとに残された世界は、このように空虚で、このように無表情で、このように彩りや美しさを失ってしまうのだろうか。
自然と、声が漏れた。
まるで5歳か6歳くらいの男児が漏らすような、悲痛な嗚咽だった。
もしも美咲がいなくなったら、彼はこのように泣き叫びながら、残された人生をむなしく孤独に送ることになるのだろうか。
ふと、感情の高ぶりとともに鈍った聴覚が、美咲の泣く声を聞いた。
「コータ、どうして。どうして泣いてるの?」
美咲の声は激しく揺らいでいたが、優しさといたわりに満ちている。
幸太は泣きじゃくりながら、美咲以上に不安定な声で、
「美咲が、美咲が離れていったら、俺、もう生きていけないよ……」
それは幸太の生涯、Take1も含めて、記憶に残っている限り最も悲哀に満ちた叫びであり、嘆きだった。
美咲が去ったら、彼はもう、生きてはいけないのだ。
美咲はそんな彼の絶望的な声を受け止め、そして彼を包み込むようにして、抱きしめてくれた。
「コータ、泣かないで。泣かないでいいんだよ」
そして、涙まじりにこうも言った。
「私たち、離れないよ。離れられるわけないでしょ……」
幸太は美咲の言葉に再び、荒波に揉まれる小舟のように感情を大きく揺さぶられた。
ふたりをつないだ愛。
今はそれだけを信じて、美咲にすべてを打ち明けよう。
そう決意を固めたとき。
不思議な言葉が、彼の耳元で聞こえた。
「私も同じ、私も同じなの」
幸太にはその意味が分からなかった。
美咲はすぐに語を継いだ。
「私も、分かってた」
はっ、と幸太は顔を離し、涙を拭って、視界を明らかにした。
正面に、美咲の瞳がある。
幸太にすがりつくような、何かを恐れ不安がっているような、そんな表情だった。
「分かってた……?」
「そう、私、分かってたの。地震があること、知ってたの」
意味が、分からない。
なぜ、彼女にそのようなことが分かるのだろう。
知っていた、とは。
美咲はかまわず続ける。
「今日、この時間に地震があるってこと、知ってた。東日本大震災」
「ぁっ……」
幸太は小さく乾いた声だけを漏らし、あとは言葉を失った。
そしてある予感を抱いた。
東日本大震災、という言葉をこの時点で知っているとすれば、それは予言者だけであろう。
あるいは、幸太のように未来の知識を手に入れられる者だけだ。
美咲は絶句する幸太に、決定的な一言を投げかけた。
「私、一度この地震を経験してるの。このあとも、12年間、人生を送ってる。でも、戻ってきたの。意識だけ、17歳の私に戻ったの」
美咲のその言葉を、幸太は明瞭に理解できる。
彼も、同じ体験をしたから。
もちろん、驚きはある。
ただこの期に及んで、美咲にだけ真実を告白させ、自分がただぼんやりと黙っているべきではないと、混乱しつつ思った。
今、彼よりも美咲の方が不安は強いはずだ。
「美咲……俺も、俺も同じだよ。美咲と同じ、12年後から、過去の自分に戻ってきたんだ」
「コータ……やっぱり、やっぱり同じだったんだね」
「美咲は、もっと早くに気づいてた……?」
「ううん、さっき。もしかしたら、コータも私と同じで、この日、地震があるってこと知ってるんじゃないか、私と同じなんじゃないかって、そう思ったの」
「美咲……ごめん。俺、ずっと黙ってた。美咲に、もっと早く打ち明けるべきだったのに」
「コータ、謝らないで。私だってずっと黙ってたんだから。もう謝らないで」
美咲はまた、ぼろぼろと泣きながら、幸太を抱きしめる。
幸太も、夢中になって美咲を抱いた。
美咲の首元からはこのときも、バラの香りがした。
何分も、何十分も、そうしていた気がする。
互いに泣き止んだあとは、愛するひとのぬくもりや、息づかいや鼓動、愛情をただただ感じていたいがために、そうしていたのだと思う。
一度、幸美が心配して、2階へと上がってきた。
「マシュマロちゃん……大丈夫?」
幸太は美咲と抱き合ったまま、何も言わず片手だけを上げて応じた。
姉の気配が消えたのを合図に、ふたりは互いの顔をじっと見つめた。
そっと、まぶたに触れ、頬に触れ、あごに触れる。
美しい顔、美しい表情だ。
女神や、天使が実在するとすれば、きっとこういう表情をしているのだろう。
すべてを救い、洗うような、慈愛と情愛に満ちた微笑み。
幸太はひとつ、尋ねた。
「美咲……?」
「うん、なに?」
「美咲はどの日から、戻ってきたの?」
「コータ、先に教えて」
「俺は30歳の、同窓会の日。12年ぶりに、美咲に会った日の夜だよ」
「私も同じよ」
「あの日の……美咲……?」
思わず声が震え、再び涙があふれた。
にじむ視界のなかで、幸太の知る30歳の美咲が現れ、目の前の美咲に重なった。
あの日の美咲が、いる。
「会いたかったよ……」
この言葉を、あの日の彼女に伝えることができるとは、よもや思っていなかった。
「愛してるよ、美咲……」
「コータ、私も愛してる。あなたに、ずっと、会いたかった……」
そしてまた、ふたりはどちらからともなく、数えきれないほどの意味とメッセージが込められた抱擁を交わした。