スーダラ節
みんな平等で、誰がやっても同じなら、私がやらなくても、誰かがやるだろう
平等の世界では、責任は無数に分散され、霧のように消えてなくなる
それって脱税の領収書の金額を細かく切って、脱税の証明を物理的に不可能とさせる手口に似てる
全員平等、全員責任とは責任不在と同義となる
そもそも責任とは、何だろう?
責任も概念の一種であるには、違いない
ならば、人が創りしもので、自然界には存在しない
あってもなくともよいものだが、あった方が人には都合が良いのだろう
辞書を引いてみる
義務、損害賠償、結果に対して原因、処理する人、応答する…
要は、因果から、対応しなければならない人を決めたのだ、経済的社会的必要性から
でなければ、賠償を追及できないと困る人がいるから
ならば、経済的事由としては拘る必要はなさそうだ
今では保険会社が対応してくれる
問題は道義的なもの、復讐の矛先である
誰を血祭りにあげれば順当なのか?
今では、責任は、あまりにも都合が良く使いまわされてる節がある
つまり、人柱、見せしめ、生贄…
責任とは、フィクション、幻想
本来は存在しない、あるとしたら決断行動した自己に帰するもので、他者に責はない
あとは、やられたら、やり返せばよいだけの話しだ
因果は概念であるが、現象でもあるから、これは当然
つまり、責任は存在しない
そんな、義務は存在しない
むろん、人の都合に良いならば、設定しても構わない
それを一方的に都合良く利用しなければ
ここでもやはり、天秤で測るが肝要、偏ってはならないと私は考える
但し、天秤で測る対象を間違えてはいけない
影響、利益、お金の流れ先、結局誰が得をしたのか?
それが本当に責任を取るべき義務のある人です
デゴイで生贄に出された人ではない
私自身は、責任とは他者が追及する為のものでなく、自己が感じるものであると、考えてる