病んだ社会
社会構造上の諸問題を、現場で解決しようとしても無理
後から後から泉のように渾々と湧き出る汚水を処理するようなもので、根本的に解決しなければ、現場が疲弊するだけ
それは対処療法
資本をゴミ箱に棄てるようなもの
無理は、永くは持たない
決壊する前の堤防やダムを想像してしまう
人は神様ではない完全ではない
全てを理想的に、正義、平等など己れの欲望、欲求を完璧に充足させるは不可能だから、まずは自分の足元を見て切実な問題を優先的に解決するが妥当
理想とは贅沢
贅沢も人には必要だけれども、まずはオヤツよりゴハンを優先したい
昨今の社会システムは、資本家に有利で、だから誰も彼もが資本家を目指し、それを奨励するは結構なことだけど、現実に働く人は誰?
労働を卑下するわけではないなら、労働を他人に任せて、その成果を享受しておきながら働かないとは、どういうことだろう?
世の中は金を払えば、それで良いというわけではない
受け取りを拒否することも出来る
金銭授受のシステムに参加する必要もない
便利だから参加してるだけ
固定化された社会ならば、尚更、誰が新規参入するだろうか?
働かない他人のためだけに一生働きとおすことがわかりきってるならば…
たとえば、働かない人が、億ションに住み、ステーキや寿司を食べ、着飾り、旅行へ行き、人生を楽しんでいるときに、同じ社会で、日曜休日を返上し深夜、夜通し働かなくては生活できないと分かってしまったならば…そんな社会には参加したくない
その人材は、何処へ流れていくのだろうか?
彼らも喰わねばならない
そして糧がなければ、奪うしかなくなる
行動の意思決定の責任は自分にあるのは当然としても、現象に対し、個別に逆らうのは鯉の滝登りほどに難しい
社会参画しない若者が、どんどん増えて、全体の過半数…臨界線を越えたら、善悪は逆転する
物や金が溢れているのに、そのほとんどを持っているのが働かない数%の人達だけとしたら、そんな都合良く決められたルールに従う謂れはなくなるから…自然と無効となってしまう
混沌な社会の誕生です
殺伐とした世紀末な世界は、厳しく、好みではない
無能で虚弱な私は、真っ先に淘汰されてしまうに違いない
ここは、やはり、社会の血管の詰まりを解消して栄養を身体の隅々まで巡らせるのが、社会を長生きさせるに必要
フォワグラは不健康、一箇所に溜め込んでは、やはり社会は病んでしまう
固定化せず、流動させることだ
風のように水のように流されてしまえばよい
水洗トイレのように