御言葉
言葉は変遷する
これは、遠近を比べればハッキリと分かる
それは距離であったり、時間であったりする
そしてそれは、既に実証されている
同じ中国語でも、地方によっては違う言葉のように五つの方言に別れるとか
因みに共通語は北京語です
日本の狭い国土でさえ、青森、東京、大阪、鹿児島では、方言の差がある
祖父母世代と話すと、方言が強くて言ってることが、なんとなくしか分からない
100年前ならば、言葉に方言なみの隔たりがあるし、平安時代ならば、もはや違う言葉です
だから、言葉に正しさを求めるなんてナンセンスな話
何しろ、この時さえも段々と変化しているから
ゆっくりだから認識できないだけ
例えば、表記で、[話]が正しくて、[話し]は正しくないとする
送り仮名の違いだけど、いったい誰がどんな根拠で決めているのだろう?
私は、どちらでも良いし、どちらでも伝わるだろうし、その時々に相応しい、美意識にかなう方を選ぶだけの話しである
それが使い方として正しいと決まるのは、多数決です
流通が多いほうが後世に残り、結果として正しいとされるのだろう
もし言葉に人格があって、どっちが正しいか聞いたとしたら、本人だとしても答えられないだろう
でも、きっと便宜上でも、正しいと決めないと困る人もいるのだ
それに、あまりに言葉が乱れても、バベルの塔が壊された後の状態になりかねないし、それもまた困る
だから、別段出所の怪しげなその正しさを否定するものでもない 仮に認めてあげなくもない
治水工事みたいなものかもしれない
しかし、それは大抵は美しくない
だが、公用文の必要性は便宜上認めたとしても、創作の場では話は別です
絵とか音楽とかの芸術に正しさを求めるのも自由だけど、求めないのも自由です
まあ、ざっと100年もたてば、言葉は大分崩れて、新しく、全く別の言葉になってるでしょうけど




