雨に思えば
自分を振り返るに、傍観者的な立ち位置であるな、と思う
いつ頃からか定かではないが、昔から、そうだからとしか言いようがない
当事者としての意識がまるでない
どこか他人事、我関せず
だから、一所懸命だとか真剣だとかの心の持ち様に、とんと縁がない 経験がない
だから、感動もしない
泣くこともない
感極まって泣く気持ちが分からない
傍目から見てて、心持ちを想像する事は出来るが、理解は出来ない
だから、人生の節目節目に感動しなければならぬ催しに遭遇はしても、行動は変わらず、そのまま自宅に帰るだけです
これが、私の普通なので、物心ついた頃から、こうだから他と比べようも無い
当時者の熱い思いや覚悟などは無きに等しいが、それは主観が無いことだから、自分というフィルターは透明に近く、世の中を公正に観ることができる
限り無く客観的に見れる
それが良いのか悪いのかは、分からないけど、様々な有り様があり、多様性が承認されるこの世の中ならば、犯罪に至らない限りは、…まあ、良かろうと思っている
いまさら変えようがないし、変える必要も感じないから
でも、もしかしたら周りからは感性が鈍く感じられてるかもしれない…それは当事者意識の欠如の成せる技です
その様に見えてるだけで、本当は、かなり傷つきやすいと自分で感じてます
だから、いつも悩んで精神を消耗させている
人波に晒されるだけで、疲労します
世の中の有り様に、いつも、心痛めています
ああ…なるほど、だからかと納得する
もし、私が当事者意識を過度に持っていてら、多分生きてはいまい
神経剥き出しで、劇物に触れるようなもの
だから、遠距離が必要なのです
即ちそれが当事者意識を排した、客観的傍観者的な位置
ああ…引き篭もりたい
でも、そんなわけにもいかない
ただデメリットは、かなりある
お祭りやイベントが嫌いになる
いや、これは立ち位置や見方ではなく、性格故かもしれない
楽しむより、事故とかアクシデントが気になり、いっそのこと無くした方が良いと感じる
だって、成功させるに、様々で膨大な課題が発生するのは必定ではないか
いったい誰が解決して、誰か責任を取るのだろう?
そんなことを、やりもしないうちから考えるだけでウンザリする
万事こんな感じだから、私のような人間だけでは世の中は回らないと思う
それにしても、最近感じることは、この傍観者的立ち位置から責任感希薄にアーダコーダと言う輩が多く出没するのを苦々しく思う
おっと、これは同族嫌悪か?はたまたブーメランか?
いや…違うな
私の場合、ここでしか呟いてない、一人言です
全く世間に影響も揺らぎもない
それは居酒屋で酒を飲みながら愚痴を言うに似ている
普段は私は無口ですから
私が言うのは、自ら何もせず、解決に奔走する人達を、何故か傍観者的立場から糾弾する人達の事です
いやいやいやいや、何故に他人事なのか?他人を糾弾、非難批判してる暇があるならば、やりなよ。
当事者たるべきなのに、責任感がまるでなく、何故か傍観者敵立場にスライドして、解決するために苦労している人達を妨げるのだ
正義の立場から糾弾する者達の顔は、なんとみにくいものか
仕事や立場で、言わざるを得ない人達は、感情を排して、或いは内心では言われる人達の心情を慮りながらも淡々と役割をこなすはずだと推測する
何故ならそれが最低限の礼儀だから
比べて、あのみにくさは何なのさ
ああ…うつくしいものが見たい
しかし、引き篭もりではそれは見れない
ボランティアではない、通りすがりの普通の人が、思惑ではなく、その人の自然な心のあるがままに、自然と他人の為に成す行為には、ハッとさせられる
何の得もないのに、雑踏から現れ、雑踏に帰っていく
名前すら分からない
地味で、得難い、所作です 見ることはレアです
人とは、産まれ落ちた時には皆変わらぬスペックなのに、中身や育ち環境で、こんなにも差が出来るのかと思うと感慨深い
ちなみに、今日の私は休みなので何を為すわけでもなくゴロゴロしている、何故なら休みですから