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 鬱陶しい梅雨空に、さらにもっと黒い暗雲まで漂い始めた。重要参考人として任意同行した陳麗甜。始めは長男の張大樹(だいき)が逮捕されたことについて、

 「私の監督不行き届きでした。大変申し訳ございません」

 と素直に謝罪した。だが、大樹が父親の張徳倫銃撃計画に関わっているのを知っているんじゃないか? バイクの後ろで夫を撃った人物を知っているだろう? 羅賓って名前を知っているよな? 大樹は2つスマホを持っているぞ、両方のスマホの電話料金はあなたが支払っていたのではないか? そのスマホの保護者欄にあなたの名前があったぞ、どういうことだ?といったことについては、何も知らない、の1点ばり。さらには、夫の張徳倫と最近喧嘩が絶えないようだが、あなたが息子たちに命じて、夫を撃ち殺そうとしたんだよな?という話に及ぶと、

 「どうして私があの人を殺さなくちゃならないんですか? 確かに喧嘩もよくしますけど、私はあの人を愛してるんです!」

 と言って怒り出し、しかも噂通り、一度怒り出したらどこまでも止まらない。事情聴取に当たった本庁の刑事も話し方がまずかった。常に陳麗甜を見下し、威圧的な態度をとっていたからだ。一転して刑事が陳麗甜をなだめすかそうとしても、陳麗甜の怒りの炎はどんどん強くなるばかりで、取調室の天井まで焦がしてしまいそうなほど。

 「こんなこと、人権侵害もいいところです。あなた方を訴えますよ。もう警察には一切協力しません。今後は主人に会いに、病院へも来ないでください!」

 結局何の成果もなく、もつれた糸をさらにほどけなくしたまま、陳麗甜を開放することにした。海老名や戸塚警部の予言通り、事件は長期戦の様相を見せつつある。


 さらには海老名のもう1つの予言通り、第2、第3の事件を暗示するような積乱雲まで、稲光を発しながら北から迫って来た。埼玉県警からの連絡によると、埼玉県和光(わこう)市の荒川(あらかわ)の河川敷で変死体が発見されたのだ。

 近所の住人が愛犬を散歩させていたところ、その犬(犬種はミニチュア・ダックスフント)が本来の猟犬としての本能に目覚めたのか、突然激しく吠え出し、人が滅多に入らないような草藪の中に入ろうとした。犬になかば引きずられるような形で飼い主が付いて行くと、そこには雑草がほとんど生えていない直径1メートルほどの地面がむき出しに。しかもその犬が短い脚で地面を掘り出そうとすらするので、さすがに不審に気づいた飼い主が110番通報。警官たちがその場所を掘り出してみると、人間の変死体が……

 死後約1カ月ほど経過の成人男性。一部白骨化。死因も身元も不明。

 和光市といえば、東京都と境を接する東武東上(とうぶとうじょう)線の沿線。ひょっとしたら池袋北署管内の住人かもしれないということで、埼玉県警からの要請もあって、最近出された捜索願を調べてみたものの、該当者はなし。

 今のところ張徳倫銃撃事件とは無関係だが、海老名たちの不安感は、いつ雷鳴とともに頭上を直撃するかわからないところにまで近づき始めた。


 その一方で、上がらない雨はない、と言ってもいいような期待感も、雲の間から見え始めた。張徳倫をバイクの後部座席から銃撃した人物が、ついに特定されたのだ。

 池袋5丁目の中国人女性留学生・周夢静(しゅうむせい)(23歳)。もっとも、この氏名と年齢が本当のものであるかどうかは疑わしいが。防犯カメラに映っていた2種類の画像を元に聞き込みを続けた結果、人物と住所がやっと特定できたのだ。住まいは、事件の起きた珠江飯店から直線距離にして200メートルほど離れたマンション。

 相変わらず鬱陶しい雨の降る中、本庁捜査1課の中国語の話せる某刑事と海老名の2名で、任意同行を求めに周夢静の部屋へと出かけた。相手はまだ拳銃を持っているかもしれないので、防弾チョッキを着用して。

 「この蒸し暑い中、防弾チョッキかよ」と海老名は文句を言っていたが。

 2人が自宅玄関前で周夢静に任意同行を求めたが、女はそれをあっさりと拒否。

 「そうですか。こっちもこの雨の中、歩き疲れたんで、ちょっと一休みがてら、部屋に上がらせてもらえませんかね」

 と海老名が言うと、なぜか海老名は突然、女に顔面を拳で強く殴打された。

 突然のことだったので、もう少しで床に倒れるところだった。だが海老名は鼻血を流しながらもすぐに立ち直り、本庁の刑事が腰を抜かして床にへたり込んでいる間、部屋の中では海老名と女とが大乱闘に。

 女は相当な武術の達人のようである。だが中学まで柔道を、高校では空手を、大学ではキックボクシングをやっていた海老名も負けてはいない。前日、大森に剣道で大敗した悔しさもあって、最終的には海老名が周夢静を組み伏せ、その場で現行犯逮捕した。

 周夢静の部屋からは、中国製の92式拳銃と弾倉、パスポート、そして山のようなクマのプーさん関連のグッズが押収された。拳銃はどこで手に入れたのかは不明だが、中国の警察官がよく使用するもの。弾丸は張徳倫の体内から摘出されたものと、薬莢(やっきょう)は珠江飯店前の路上で発見されたものと同一。パスポートは後に偽造と判明。

 署の取り調べに対し、周夢静は一貫して黙秘を通した。日本語で話しかけても、中国語で話しかけても黙秘のまま。羅賓のことが話題に出た時、一瞬だけ表情を変えたが、一言も口を割ろうとしない。だが押収された証拠品の数々や、海老名に対する暴行という事実もあり、黙秘を続ければ続けるほど、それだけ犯行事実を雄弁に語っているようなものだった。


 「ま、何はともあれ、一件落着だ。よくやったな、エビ」陰気な藤沢係長が珍しく海老名を褒め称えた。このようなことは滅多にない。

 「痛い代償をみやげにもらいましたけどね。せっかくの美男子ぶりが台無しだ」と海老名はぼやいた。殴られた時に出た鼻血はもう止まったが、目元には青みがかった(あざ)が今も残っている。

 「エビちゃん、大丈夫?」海老名の向かい側の席にいる新田が声をかけた。数日前までの闇より暗い表情が嘘のように、すっかり元気を取り戻して出勤している。

 「ああ、殴られるのは慣れてるからね」と海老名が答えた。「昔ボクシングやってたし。酒飲んでぐっすり眠れば、そのうち殴られた記憶も忘れる。いずれにしても新田さんのおかげだよ。ありがとう。新田さんの執念がなければ、犯人を特定できなかったんだし。これで妄想の中の王子様と仲直りできるね」

 「え、やだ、私、何か言ってたっけ?」と新田が眉をしかめて言うと、周りから失笑がもれた。

 「でも羅賓が何者なのかわからないことには、こっちも落ち着かないな」と藤沢係長。

 「俺が気にしてるのもそれですよ。荒川の変死体も、何か今回の事件と関係があるんじゃないか、って気がするし」と海老名。

 「周夢静はまだ黙秘を続けてるんですか?」と新田。

 「あれは検察に連れていかれるまで、黙秘を通す気だろう」と係長。「いずれにしても、あの女からは何も期待できん。あきらめよう」

 「あーあ、すっきりしないな。窓の外のように」

 と海老名が嘆いているところへ、国際犯罪捜査係の中野がやって来た。

 「海老名さん、鑑識の大原さんから頼まれた『丸出の鼻水』の件なんですけど……」

 「丸出の鼻水って……俺は鼻水の成分を調べてくれ、って言った覚えはないんだけどね。文字を復元してくれ、とは頼んだけど」

 「す、すいません。失礼しました。その大原さんが復元した文章を、僕が翻訳してみたんですけど」

 と言って渡された文書には、上段に中国語(中野の説明では、正確には広東語)の簡体字の原文。下段にはその日本語の訳文が書かれていた。その訳文は次の通り……

 「もし私に何かあったら、それは劉学友のせいだ。その時は、あの裏切り者に罰を与えてくれ。このことは誰にも話すな」

 劉学友は裏切り者? 罰を与える? 馬美玲の部屋にあった不動産広告のチラシ。その裏には、こんなことが書かれてあったのだ。後に丸出が鼻紙にしてしまったが。海老名の頭の中で、思考力が高速で回転を始めた。

 丸出がこれで鼻をかんだ時の、馬美玲の悲鳴。天安門事件の時、学生運動の幹部だった劉学友が裏切り者なら、これを書いたのは同じ幹部の王国栄? 馬美玲は劉学友も王国栄も知っている? 馬美玲の夫は謝家衛。その謝家衛は1カ月前から海外へ出張中、ということになっている。荒川の河川敷で発見された変死体は、死後1カ月。羅賓のSNSは1カ月前から更新が止まっている。撃たれた張徳倫が中国の携帯電話会社と契約して、新しい事業を始めると言い出したのも、ここ1カ月前から。全てほぼ同じ時期。ということは……

 劉学友=張徳倫? 王国栄=謝家衛=羅賓? 

 雨の中、海老名は急いで署を飛び出した。


 一方、周夢静に撃たれた張徳倫は、搬送された病院の一般病棟でベッドに寝たまま、天井から吊るされたテレビを見ていた。テレビが見やすいように、少しベッドの上半身の部分を上げながら。

 まだ少し胸は痛いが、意識もはっきりしているし、言葉を話すのにも問題はない。今すぐ退院してもいいぐらいだ。俺を撃った犯人も逮捕された、という話だし。だが警察が犬のように嗅ぎ回っている間は、もうしばらくこの病院にいて、まずい病院食を我慢しなくてはならない。ずっと面会謝絶ということにして。妻の麗甜は気の毒だが、よくやってくれた。もう警察には一切協力しない、だとさ。あいつは俺のことを何も知らないはずだが。俺はもうすぐ全てから解放される。やはり神様というのは存在するんだな。これから先、俺の人生は花道だけだ。もう少し我慢しさえすれば。

 そんなことを張徳倫が考えている時、誰かが病室に入って来た。白衣を着た医師らしき女性。

 ああ、女の医者か。俺の担当じゃないはずだけど、まあ、よく見る顔だ。

 白衣を着た女は、張徳倫が寝ているベッドの前に立った。そして懐から折りたたみナイフを取り出すと、それを広げて右手に振りかざす。女の憎しみに満ちた目付き。

 この女は医者じゃない。こ、この女は王国栄の……

 「救命呀(ガウメンア)(助けてくれ)!」張徳倫の大声が病室内に響く。

 女がナイフを振り下ろす。

 ……とその瞬間、女の後ろからもう1本の手が伸びて、ナイフを持った右手首をつかんだ。女の右手はねじ上げられて、そのまま後ろから組み伏せられた。落ちたナイフは床に転がる。

 「馬美玲さん」海老名が女を組み伏せたまま言った。「張徳倫さんに対する殺人未遂容疑で、あなたを現行犯逮捕します」


 取り調べに際し、馬美玲は全てを自供した。バイクの2人組に張徳倫を銃撃するよう指示したことも。

 夫の謝家衛は、張徳倫に殺されたに違いない。丸出が後に鼻をかんだ例のチラシの裏の書き置きを読んで、そう判断したという。約1カ月前に謝家衛は、その書き置きを残して以来、姿を消したまま。

 海老名の推理通り、謝家衛の正体は天安門事件の際、学生運動の幹部だった王国栄だった。馬美玲は、結婚前から本人にそれを知らされていた、という。張徳倫が劉学友であることも。また、例の羅賓の正体も、やはり謝家衛=王国栄だった。

 謝家衛が姿を消し、羅賓のSNSも更新されなくなったことで、羅賓の仲間内では騒ぎが始まった。書き置きには「誰にも話すな」とは書いてあったが、自分一人だけでどのようにして相手に罰を与えることができるのか? 馬美玲はある日、特に信頼を寄せている少数の仲間たちを自宅に呼び寄せた。その中には、すでに逮捕されている周夢静や張徳倫の長男の大樹も含まれている。馬美玲と謝家衛の高校生の娘なども加えて、全て10代、20代の若者たち。

 「あんな親父(おやじ)、俺がぶっ殺してやる!」と大樹は息巻いた。

 張大樹はある日、ふとしたことから自分の父親の秘密を知った。親父は天安門事件と関わりがあったのか……小さいころからよく知っている、あの謝家衛も。謝家衛は今でも密かに中国の民主化運動を続けている。そのこともある日、どこかで知ったらしい。それに比べて今の親父は何だ? 金のことしか考えない、ただの俗物じゃないか。大樹はやがて謝家衛の運動に共感を持ち、それに関わりを持っていく。

 謝家衛がある日、SNSをやってみたいが、サイバー攻撃が怖くて自分名義のスマホではやりにくい、と大樹に相談すると、大樹は、だったら俺のスマホを謝家衛さんが使ったらいい、もう1つスマホを契約しておくよ。ということでもう1つスマホを買い、それを謝家衛に預け、契約時の代金も毎月届く料金の振込用紙も、謝家衛が払うということで合意。大樹が名義上、スマホを2種類持っていたのは、そのような理由による。

 大樹の父親に対する憎しみは火薬よりも早く瞬間的に破裂したが、ここで馬美玲が止めに入った。

 「大樹、あなただけは絶対にやめて。あなたがあいつを殺すとなったら麗甜……あなたのお母さんが何と言うか。彼女を二重に悲しませるようなことだけは、したくないの」

 なら、どうすればいいんだ?と部屋中大騒ぎになったところへ、周夢静が話し始める。私は拳銃を持っている、それであいつを撃ち殺す、と。

 話によると、周夢静は江蘇省で警察官だったらしい。だがある日、忠実な共産党員でもある男の上司からセクハラを受けて以来、中国が嫌になり、前から憧れていた日本に密入国してきた、とのこと。向こうの警察署から拝借した拳銃も一緒に。

 かくして具体的な張徳倫銃撃計画が練られ始めた。俺が直接親父を殺さなきゃいいんだろ?ということで大樹がバイクを運転し、拳銃を持った周夢静を途中で拾って後部座席に乗せ、馬美玲が張徳倫を店の外にある席におびき寄せる。そして作戦は見事に成功……かと思われたが、張徳倫は一命を取り止め、大樹も周夢静も逮捕。ついに馬美玲は、病院へ行って張徳倫を直接刺し殺す、という最後の手段に出た。

 埼玉の荒川の河川敷で発見された変死体は、通っていた歯科医院の治療記録から、謝家衛であることが判明した。幸か不幸か、馬美玲の予感は正しかったのである。


 そして一方の張徳倫も、謝家衛に対する殺人及び死体遺棄容疑で逮捕された。

 2度も殺されかけて、観念したのであろう。謝家衛の殺害を素直に自供した。長年の親友を殺したくはなかったが、脅されて仕方なく殺した、とのこと。

 発端は2カ月前。珠江飯店の常連客から、個人的に話を持ちかけられた時から。その客は、中国の某大手携帯電話会社の日本法人社長・候丹(こうたん)という名の人物。50歳前後の丸顔で腰の低い人懐っこさ。

 あなたにぜひとも我が社の販売代理店事業をやってもらいたい、と候丹は説得を始める。張徳倫は、今さら畑違いの事業を始めて成功する自信がない、と言って初めは断った。だが候丹も諦めることはなく、あなたなら絶対にできる。20年前まで勤めていた貿易会社での、あなたの活躍ぶりを耳にしました。あなたには今でも才能があるんですよ……などなど。そうやって1か月間も、粘り強く候丹におだてられているうちに、張徳倫も思わずその気になってきた。

 そして話は決まり、2人は固く握手。そうと決まったら、早速うちの中国本社の取締役に会ってもらいたい。ちょうど今、日本に来てるんですよ。ということで、六本木(ろっぽんぎ)にある会社の日本法人にまで出向いて、来日中の取締役と面会した。

 取締役の名は呉富森(ごふしん)。年の頃はやはり50歳前後。その目の輝き具合から話し方に至るまで、いかにも有能なやり手といった印象。

 「こんな味気のないオフィスじゃなくて、店でおいしい料理を食べながら話をしましょう。全部私のおごりですよ」

 近くの高級中華料理店の個室を借りて、高級料理を囲んでの会合が始まった。珠江飯店の料理長ですら絶対に作れないような絶品料理に、五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡るようなうまい紹興酒。そして夢に満ちあふれた会社の長期経営計画と、張徳倫に対する褒め言葉の数々……天国とはこういう所なのだろうか? 張徳倫は思った。

 途中で候丹が、私はまだ仕事が残ってますんで、と言って退席すると、個室の中は張徳倫と呉富森の2人だけに。2人だけになっても、初対面の呉富森はその話し方も魅力的で、気まずさが卓上に上ることすらない。

 「さて、張徳倫さん、ぜひともわが社と契約を結びたいと思いますが、一つだけ条件があります」と呉富森は言った。「その条件とは……王国栄をこの世から消してください」

 張徳倫の目の前に黒い疑問符が立ちはだかる。呉富森は話を続けた。

 「張徳倫さん、あなたのことは何でも存じてます。本名は劉学友。『六・四(天安門事件)』の際に学生運動の幹部的存在でしたね。その後、王国栄とともにうまいこと日本へ密入国して、別人に成り済ましている。だが私の目はごまかせませんよ。あなたは中国国内で『和平演変』を画策していることで、今でも指名手配されてます。必要とあらば、今すぐこの場で、あなたを殺すこともできるんですよ。もしそれがお嫌でしたら、今すぐ王国栄を殺してください。王国栄……今の名前は謝家衛ですか。あいつは未だに日本国内で、我が国に対する和平演変を画策し続けている。党の幹部からも催促されてます。直ちに王国栄、つまり謝家衛を始末してください。さもなくば、あなたがこの世から消されることになるんですよ。王国栄を殺した暁には、あなたの名を我が国のブラックリストから外し、我が社との契約を正式に進めたいと思っております。あなたは劉学友という昔の名前に負い目を感じることもなくなり、正式な手続きで日本に在住する張徳倫として、胸を張って生きていけるようになるでしょう。そのためにも今言ったことを実行してください。よろしいですね?」

 張徳倫は一気に天国から地獄へと突き落とされた。甘い話には毒があるとは聞いていたけど……

 確かにかつての親友である王国栄、つまり謝家衛のことは、ずっと気にかかっていた。日本に来てから段々と政治から距離を置き始め、やがて完全に捨て去ってしまった張徳倫。それとは対照的に、謝家衛は中国の言う「和平演変」、つまり民主化運動を諦めることはなかった。仕事の傍ら、時間を作っては在日中国人たちを集めて、民主化を求める集会を開いたりしていた。だが明らかに中国のスパイと思われる妨害や脅迫に悩まされ、徐々にその規模は縮小。インターネットが一般的になると早速ホームページを作って、相変わらず中国の民主化を呼び掛けたものの、中国政府からのものと思われるサイバー攻撃に何度もさらされ、結局これも断念。

 その間に中国は全く民主化しないどころか、それを嘲笑うかのように経済成長を遂げ、金銭的にも物質的にも豊かになっていく。民主化に関心を持つ同朋たちも年々減っていく一方。中国を脱出しさえすればそれでいい、どうせ中国政府には勝てないし、怖いし、政治なんかに関わりを持ちたくない、と言う意見だけしか聞こえてこなくなった。

 だがそれでも謝家衛は諦めない。密かに同じ志を持っている同朋はまだいるはずだ。たとえその志が小さな残り火であろうと、息を吹きかけ続ければ、中国政府ですら消せないほどの巨大な炎になるはず。そんな信念の下に謝家衛は同志を集め、中国の民主化を訴え続けた。もっとも謝家衛も年を重ねるにつれて、段々と疲れてきたのか、民主化を訴える言葉から少しずつ鋭さが鈍り、角が取れて丸みを帯び出し、ついには主に若者を中心に、クマのプーさんを利用して中国政府の首脳陣をからかって遊ぼうという、他愛のない小さなサークルを形成するところにまで落ちぶれてしまっていたが。

 「王国栄、もういい加減に政治から手を引かないか? おまえの命が心配だ」

 張徳倫は何度も謝家衛に忠告したが、謝家衛は耳を貸さない。それどころか、

 「劉学友、おまえも変わったな。天安門広場で、あれだけ大声で民主化を叫んでいた、あの劉学友と同一人物とは思えんよ。おまえの方こそ、もう一度目を覚ませ」

 次第に2人の仲は疎遠になっていった。その後は単なる仕事上の付き合いのみで、顔を合わせるだけ。

 「3日間だけ猶予を与えます。その間に王国栄を消してください」と呉富森なる人物は、張徳倫を脅した。「さもないと……わかってますね? 逃げたり隠れたりしても無駄ですよ。あなたや王国栄は24時間、いつどこにいても常に監視されています。よろしいですね?」

 その3日後の晩遅く、張徳倫は謝家衛に電話をかけた。

 「2人だけで話したいことがあるから、ファミレスでコーヒーでも飲まないか?」

 こんなことはいったい何年ぶりだろう? 謝家衛も同じことを考えていたに違いない。妻の馬美玲も娘ももう寝てしまっている。例のチラシの裏に書き置きを残して謝家衛は部屋を出て、マンションの前に停まっていた張徳倫の自家用車に乗った。

 「話って何だ?」

 と謝家衛が聞くと、張徳倫は車を運転しながら、

 「いや、久しぶりに色々と話したいことがあるんだ。もう何年も俺たち、仕事以外で話をしてないだろ?……そう怖い顔をするなよ。料理して食おうってわけじゃあるまいし」

 池袋郊外の空席が目立つ深夜のファミリーレストランに入り、ドリンクバーを注文した。

 「俺がおまえの分も持ってくる。コーヒーでいいよな? 砂糖とミルクはいるか?」

 と言って、張徳倫は席を立った。謝家衛は昔から、砂糖とミルクをたくさん入れた甘ったるいコーヒーが大好きなのだ。2人はコーヒーを飲みながら話をする。

 「そういえば噂で聞いたんだけど」と謝家衛は言った。「おまえ、✕✕って携帯電話会社の重役と、最近よく会ってるみたいだな」

 「ああ、実はあの会社の販売代理店事業を始めてみないか?って話を進めてるところなんだよ」

 「やめとけ。もう俺もおまえも50を過ぎたんだ。今さら新しい事業に手を出して、成功するわけないだろ。それに……」謝家衛は真顔だった。「あの会社は絶対に危険だ。あの会社の日本法人は中国大使館の近くにあるし、向こうの外交官たちの出入りも多い。スパイの溜まり場だという話だぞ」

 「へえ、そうなんだ。でもただの金儲けの話なんだから、政治のこととは関係ないよ」

 「劉学友、おまえはいったい何のために、中国から逃げて来たんだ? 天安門広場で虐殺された同朋たちの無念を晴らしたいとは思わないのか? だから俺は……俺は……」

 謝家衛のろれつが回らなくなり始めた。張徳倫が謝家衛のコーヒーの中にこっそりと入れておいた睡眠薬が、効果を表し始める。

 「……とにかく……あの会社だけは……絶対にやめろ……」と言って謝家衛は眠り込んだ。

 駐車場に停めておいた車まで、意識のない謝家衛を背負って戻り、彼を後部座席に座らせると、張徳倫は謝家衛の首を絞めて、車中で最後のとどめを刺し始めた。張徳倫に強く首を絞められ、意識がなくても苦しくて暴れ出す謝家衛。涙を流しながら張徳倫は、両手で首を絞め続けた。やがて謝家衛はグッタリと動かなくなり、脈も心臓も止まる。

 張徳倫は号泣した。泣きに泣き通した。こんなに泣いたのは何十年ぶりだろう? 身体中の水分という水分が、全て目から出尽くしてしまうのではないか、と思えるほど泣き通した。長年の親友をこんな形で失うなんて……

 その時、車の窓ガラスを外からたたく音が聞こえてきた。窓の外にいたのは、あの呉富森という悪魔である。

 「確かに王国栄の最後を見届けました。よくやりましたね」と呉富森は言った。「でもまだ、これで終わりではありません。王国栄の死体を絶対に見つからないよう、処理してください。ただどこかに置き去りにするとか、その程度では駄目ですよ。それ以上の処理が必要です。それに東京都内は絶対に避けてください。よろしいですね?」

 そのような指示を受けて、張徳倫は車を運転し、謝家衛の遺体を埼玉の荒川の河川敷まで運んだ。埼玉といっても、東京都との境目からほんの少し離れた程度の場所。真夜中の荒川の河川敷は、街灯すらない真っ暗闇。遠くに見えるビルや橋の明かりも、足元まで照らすほどの力はない。幸か不幸か、その日はよく晴れていて、月が暗い夜空に明るい穴を開けていたが、その光ですら人が滅多に入らない草藪の中では力不足。

 張徳倫は相変わらず泣きながら、草藪の中でシャベルを使って地面を掘り、謝家衛を中に埋める。埋め終えた時には、東の空が少し明るくなり始めていた。もうすぐ夜明け。涙もすでに乾いていた。

 全ては悪い夢だったんだ、と張徳倫は考えることにした。俺の知ってる王国栄は、もうこの世には存在しない。王国栄は30年前、天安門広場で人民解放軍に撃ち殺されたんだ。その後、俺の近くにいた奴は、王国栄によく似た謝家衛という別人。あいつは親友の王国栄ではない。謝家衛。政治に首を突っ込んだまま抜け出せなくなった、馬鹿な奴。その謝家衛も消えた。邪魔な奴はもういない。もう全てを忘れよう。人生はまだまだ続く。俺は常に前を向いて生きていかねば……


 呉富森と候丹という人物について、その後の行方はわかっていない。例の携帯電話会社の日本法人によれば、そもそもそのような人物は存在しない、とのこと。

 中国本社でも、呉富森という名の取締役など存在しないことが判明した。また日本法人の社長も違う名前である。張徳倫の話とは違い、実際にはこの日本法人の社長、年の頃は40歳前後のまだ若手。顔は細面で野心を満々とたたえた目付きをしている。明らかに全くの別人。

 だがこの会社自体が張徳倫による謝家衛殺害と、何かしら関係があるのは間違いのないこと。警視庁本庁は、この会社の日本法人に社内捜索を要請するなど、さらなる追及を深めようとしたが……


 「おそらくこの2人、中国政府の諜報員だろうな」藤沢係長が言った。「中国大使館の方でも圧力をかけてきた。ま、直接殺害に手を染めたわけじゃないらしいから、軟弱な日本政府もこの件に関しては、もうこれ以上追及しないだろうよ。よって今回の事件はこれにておしまい、だな」

 「こんなことでいいんですかね、この国は」と海老名が嘆いた。「オモテナシだか何だか知らないけど、外国人は増える一方……ま、外国人自体が悪いわけではないですけど、それと同時にスパイも増える一方だ。外国のスパイに関する法整備もなしに外国に門戸を開けば、犯罪も増える一方ですよ、フジさん」

 「法整備に関しては俺らの仕事じゃないからな。俺らの仕事は、あくまでも整備された法の下で市民の安全を守ることだから」

 「ま、そうですけどさ。でもこれじゃきりがありませんよ。頭のいい奴はみんなうまい方法で自分の思い通りのことができるけど、俺らみたいな無能は何をやっても駄目。これが世の中というものなんでしょうかね? まあいいや、酒でも飲むか」

 「エビ、今はまだ勤務中だぞ」

 「わかってますよ。今のは陶淵明(とうえんめい)という、中国の詩人の詩を口ずさんだだけです……それにしても、まったく鬱陶しいよな。雨上がってくれないかな?」

 鬱陶しさはさらに重みを増す。丸出為夫が今日も署に来ているのだ。

 「エビちゃん、おチビさん、今日もお仕事がんばってますな」

 丸出はそのまま仲良しの立川(すすむ)刑事課長の席まで行って、楽しそうに雑談を始めた。

 丸出が姿を見せたことで、海老名の隣の席の大森も暗い表情。

 「おい、大森、元気出せよ」と海老名は大森を励ました。「まだあのこと気にしてるのかよ? 丸出に知られた以上、どうしようもないだろ。いっそ開き直れ」

 「でも僕、もう警察官失格かもしれないし。エビさんほど頭よくないし」

 「俺だって頭よくないよ。むしろ俺、おまえよりもバカだし。ま、丸出ほどじゃないけどな……あ、そうだ、丸出といえば」と言って海老名は、座っている回転椅子を大森の方へ近づけ、小声で話し始めた。「大森、丸出がいつもベレー帽をかぶってる理由、知ってるか?」

 「シャーロック・ホームズになったつもりでいるから、じゃないんですか?」

 「それもある。でももう一つ、理由があるんだ。あいつがいつも帽子をかぶってるのは、後頭部を隠すためなんだよ。あいつの後頭部、はげてるんだ」

 「え? それ本当ですか?」と言う大森に、少しだけ笑顔が戻った。

 「本当本当。俺、実際にこの目で見たことあるもん。しかもあいつ、それを相当気にしてるぜ。いつも帽子をかぶってるのは、それが一番の理由なんだ。これは今のところ、俺とおまえだけしか知らない、丸出の秘密な」

 海老名と大森は忍び笑いを始めた。どんよりとした梅雨空の中、2人の趣味の悪い忍び笑いは、雲の透き間から時折顔を出す、明るい青空に似ていなくもない。


(次回に続く)

作中に引用した言葉の原文を、ここに記しておきます。


まずはプークマの言葉

“Because Poetry and Hums aren’t things which you get, they’re things which get you. And all you can do is to go where they can find you.”

A.A.Milne “The House at Pooh Corner”

第9話 “In Which Eeyore finds the Wolery and Owl moves into it” より


次に陶淵明の詩(一部分)

「人皆盡獲宜 拙生失其方 理也可奈何 且爲陶一觴」

 雑詩 其八より

(書き下し文)人皆な盡く宜しきを獲るも、拙生、其の方を失ふ。理や、奈何すべき。且く爲に一觴を陶しまん。

(もう少し正確な現代語訳)普通の人たちはみんな、自分なりのやり方でうまく世渡りをしているが、私は馬鹿だから、なかなかうまくいかない。当たり前のことだけど、どうしたらいいものだろうか? まあいいや、酒でも飲んで楽しもう。(前半の部分、少し意味合いを変えています)


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