3
海老名は、馬美玲という女性の自宅へ聞き込みに出かけた。あの事件当時、張徳倫と商談中、最も間近にいた人物だ。
1メートルと離れていない場所で、人が撃たれるのを目の当たりにしたわけであるから、そのショックは相当なものだったであろう。顔や上着は張徳倫の血で染まり、青白い顔で呆然としていた姿は、まるでホラー映画に出てくる幽霊のようだったのを、海老名は記憶している。ただその一方で当時の聞き込みでは、しっかりと話ができるだけの気丈さも持ち合わせている女性だった。
数日ぶりに見た馬美玲は、あの当時の姿が実は女優の演技だったと思えるほどに、ごく普通の47歳の女性に戻っている。名字と違って丸顔の、どちらかといえば子熊かパンダ。某大手アニメ会社の方ではなく、アーネスト・シェパードが原作のイラストで描いた方のプークマに似ていなくもない。
「思い出したくもないこととは思われますが、もう一度お話の方をよろしいでしょうか?」
馬美玲は夫の謝家衛(52歳)と娘の3人暮らし。日本で生まれ育った16歳の一人娘は現在、高校へ通学中。夫は現在、中国へ出張中ということになっている。
実は海老名が気になるのは、この現在日本にいないらしい夫の謝家衛の方。年齢も張徳倫と同じなら、張徳倫一家とはお互い、家族ぐるみの付き合いがあるとのこと。
海老名が通された居間の片隅には、高さは低めだが横幅の広い、大きなガラスケース付きの家具があり、その上には中国の神様を象った人形が一体。その脇には、色鮮やかな線香を刺した線香立てや、レモンなど柑橘類の供え物が置いてある。壁には赤を基調とした色鮮やかな札も張られていて、いかにも一般的な中国人の家庭の雰囲気。
「あ、奥さん、それより玄関の鍵、閉めました?」
海老名が馬美玲に聞くと、
「いえ、閉めてませんが」
「今すぐ閉めてください。怪しい奴が入って来るかもしれないんで」
と言った矢先、突然玄関の方で物音がした。
「不用心ですな。たとえ在宅してても、鍵は常にかけておくものですぞ」
聞き覚えのある声。遅かったか。
馬美玲より先に玄関前に出た海老名は、無断で入って来た丸出為夫を追い出そうとした。
「おっさん、俺に付いて来たろ。このマンションに入ろうとした時に、電柱の影に隠れてたのを見たぞ。それもデカい傘差して。隠れる意味ないだろうが。とにかくこっちは仕事で来てるんだから、今すぐ出てってくれ。不法侵入罪で現行犯逮捕してもいいんだぞ」
「そうですか。ならこっちは酒気帯び運転のことを……」
「おっさん、頼むよ。こっちは真面目に仕事してるんだから。あんたのお遊びに付き合ってる暇はないんだよ。ほら、行った行った」
「奥さぁん、この刑事さんはですねぇ、お酒を……」
と丸出は大声を上げ、結局は海老名の方が折れることになった。
3人が居間の食卓の席に着くなり、丸出は開口一番、
「ははん、奥さんは湖北省の出身ですな?」
「はい、ハズレ。この人、広東省出身。でしたよね?」と海老名は馬美玲に確認した。それからまた丸出に向かって、「だから黙ってろ、って言ってんじゃねぇか。もう一言もしゃべるなよ。いいな?」
ようやく馬美玲に対する聞き込みが始まった。まずは事件当日に聞いた話の再確認。張徳倫が撃たれた時、馬美玲はテーブルを挟んでその反対側の席。バイクの2人組から見て後ろ向きだったそうで、バイクの2人組を見る余裕すらなかったと言う。海老名は、
「今日ここへ伺ったのは、珠江飯店……というより、張徳倫さん一家のことを、もっと詳しくお聞きしたいと思いまして。あの店には調味料の卸売り以外にも、昔から家族ぐるみの付き合いがあるそうで」
「そうです。もう20年以上の付き合いになりますね」と馬美玲が、昔を懐かしむような口調で言った。「まず日本に留学しに来てすぐ、同じ日本語学校に通う陳麗甜と親友になりましてね。同じ広東出身で、すぐに意気投合しました。今でももちろん大親友です。その後、麗甜は張徳倫さんと付き合い出して、私は張さんの親友だった今の主人と付き合い出して、それぞれ結婚へと至ったというわけです。張さんも主人も同じ広東出身だから、相性が合ったのでしょう」
「なるほど、ご主人と張徳倫さんとも親友同士ですか。確か2人とも同い年ですよね? 52歳で……初めて出会った時、2人はどんな職業に就いていたのでしょうか?」
「2人とも、香港の貿易会社の日本法人に勤めていました。あの当時は2人とも、本当に仲が良かったですよ。私たちより日本にいた時期が長かったから、もうあの当時から2人とも日本語がペラペラで」
「2人が来日したのは、いつ頃だか聞いてますか?」
「大学を卒業してからみたいですよ。1991~2年頃と言ってたかな?」
「91~2年頃といったら、天安門事件が起きてから数年後のことですよね?」
「そうですね。あの事件以来、街で見かける軍人や警官の数も多くなって、中国社会全体が息苦しくなりましたから。それで中国から出て行ったんでしょう。私や麗甜も息苦しい中国が嫌で、日本に来たようなものですから」
「ところで天安門事件の直前に、北京で学生たちが民主化運動をしてたのは、ご存じですよね? ご主人や張さんと、そのことについて話をするようなことはありますか?」
「うーん、昔はよく話をしてましたけど。馬鹿な奴らだ、あいつらのせいだ、みたいなことを言って」
「そうですか。ところで劉学友、もしくは王国栄という名前に心当たりがありますか?」
「さあ……誰ですか、その人たち」
「2人とも天安門事件の時、学生運動の幹部だったんですよ。どうも今2人とも、この池袋に住んでるらしい、という情報を耳にしましてね。ちなみに漢字ではこう書くらしいんですけど……」海老名は自分の手帳をめくって、何も書かれていないページに大きく「劉学友」「王国栄」と書き、馬美玲に見せようとした。
その時、いきなり丸出が大きな声でくしゃみをし出した。このことで居間全体の波長が急に乱れ始め、落ち着くまでに数秒間かかった。
「……すいません。この2つの名前に、本当に心当たりはないですか?」と海老名が手帳に書いた名前を見せながら、馬美玲に聞いた。
「ないですね。池袋に住んでるんですか? もし本当なら、ちょっと怖いです」
「わかりました。次にご主人のことについて、お聞きしてもよろしいでしょうか? ご主人は今、中国に出張中だとか。いつ頃向こうに行かれました?」
「1カ月前……5月の中旬からですか」
「で、ご帰国はいつの予定で?」
「本来なら昨日にでも戻る予定でしたけど、あともう1カ月かかる、とか言ってました。難しい商談なんで時間がほしい、とか言って」
「なるほど。ところでご主人は張さんと親友だった、とさっき言いましたよね。今はどうなんでしょう?」
「今でも親友のはずですよ。ただ最近はあまり会ってないみたいで。何しろ主人は忙しいんですよ。いい調味料を求めて日本中、世界中を駆けずり回ってますから。調味料を買い付けるのは主に主人の仕事でして。私はその調味料を、契約している飲食店に売るのをまかされてます。もちろん珠江飯店とも取り引きがありますよ。だから当然、私はよくあの店に行きますけど、主人の方はなかなかその機会がなくて」
「そうですか。わかりました。ところで奥さんはよく見てなかったと言ってましたけど、張さんを襲ったバイクの2人組、2人ともクマのプーさんのキーホールダーを身に着けていたという話なんですけど、クマのプーさんと聞いて心当たりは?」
「クマのプーさんといえば、最近中国で禁止されてますね。知ってるのはその程度ですけど」
「そのプーさんについて、張さんと何かお話をされたことがあるでしょうか?」
「張さんと直接その話をしたことはないんですけど、麗甜が言うには、張さんはプーさんが嫌いだそうで。プーさんの絵が描かれたコップとかを今すぐ捨てろ、と言ったらしいですよ。どこに中国政府のスパイがいるかわからない、とかいう理由らしくて」
「なるほど。ところでクマのプーさんの物語とかはご存じですか? クマのプーさんの登場人物にクリストファー・ロビン……」
と海老名が言ったところで、丸出がまた大きなくしゃみを一つ。
「おっさん、もっと控えめにくしゃみできないのか?」海老名もついに怒り出してしまった。「だいたいくしゃみする時は、せめて口に手を当てろよ。しかもさっきから鼻がグジュグジュ言って、気に障るし」
「すいませんな。どうも風邪をひいたみたいで」と丸出は言い訳をした。
「バカでも風邪ひくのか」
「警官でも、酒気帯び運転をされる方がいるのと同じことです。誰のこととは言いませんが」
「もういい、頼むから静かにしてくれ」と言って、海老名は馬美玲の方に向き直り、「大変失礼いたしました。もう少しで終わりますから、あと少しのご辛抱を……で、クマのプーさんにクリストファー・ロビンという少年が出てくるのをご存じですか?」
「いえ、あまりよく知りませんが」
「ちなみに漢字では、こう書くらしいんですよ」と言って、海老名はまた自分の手帳に「羅賓」と書こうとした。
その最中に突然丸出が、「は、鼻水が……」と言って立ち上がり、神様の人形が置いてある家具の方まで、覚束ない足取りで歩き出した。そして人形の前に置いてあった不動産広告のチラシで、鼻をかみ出す。
その時突然、なぜか馬美玲は大声で悲鳴を上げた。
海老名が鋭さを内に秘めた目で見つめると、馬美玲はすぐ理性を取り戻して、
「あ、な、何でもありません。その人形が倒れるんじゃないかと思いまして……ゴミ箱そこにありますから、かみ終わった奴をそこに捨ててください」
昼過ぎに署に戻ると、海老名は鑑識係の席の方へ行き、大原拓也という度の強い眼鏡をかけた係員に声をかけた。
「大原君、確か筆跡鑑定は得意だったよね? 筆跡鑑定といっても少し意味合いは違うけど、例えば紙に水性のボールペンで字を書いて、その字というか、インクが濡れたり汚れたりして消えてしまった場合、その消えた字を復元できたりとか、できるかな?」
「紙の質にもよりますね。あとは書いた人の筆圧とか」
「実はちょっとお願いしたいのは、これなんだけど……」
海老名はビニール袋に入れた、B5版程度の紙1枚を見せた。もっと濃いインクで印刷したら裏写りしそうな、質が悪く薄い紙。表面は部屋の間取り図などが描かれた、不動産広告のチラシ。裏面は本来白紙だったが、青いボールペンで何かが書きつけてあり、そのほとんどの文字が水か何かで濡れて、青く滲んで原型を留めていない。所々黄色い付着物もある。しかも一度クシャクシャに丸められたものを少しばかり広げただけで、ここからいったい何を復元するのか、疑問だけが見えない文字ではっきりと書かれているような紙。
実はこの紙、丸出が先程、馬美玲の自宅で鼻紙として使用したものである。つまりは、この紙の裏に書かれた文字が濡れて滲んでいるのも、所々黄色い付着物があるのも、みんな丸出の鼻水。
「はあ……丸出の鼻水ですか」大原は不快そうに顔をしかめて言った。
丸出がこの紙で鼻をかんだ時に、馬美玲が悲鳴を上げるのを聞き、海老名はすぐに気づいた。この紙には何か重要なことが書かれてあるに違いない。神様の人形の前に置いてあったのも、それが理由だろう。丸出が鼻をかみ終えて、クシャクシャに丸めてゴミ箱に放り込んだ後、海老名は馬美玲の目を盗んで、こっそりと持ち帰って来たのだ。
「鼻水と、クシャクシャにしてしまったのとで、かなり難しいかもしれないけど、明らかにボールペンで、しかも強い筆圧で何か書いてある」と海老名は説明した。「おそらく文章は中国語だと思われるけど、何とか復元できないかな? 中国語なら復元し終えた後に、国際の中野君だか誰だか、中国語ができる奴に翻訳してもらえばいい。何とか頼む。それも大至急」
同じ日の午後、事件はついに厚い壁に穴を開け始めた。バイクの2人組のうち、運転していた方の身柄を確保したのだ。
あのバイクを運転していたのは、張徳倫の長男の大樹。張大樹はあの事件後、バイクで小竹向原まで逃走し、池袋へ戻って友人宅で1泊した後、翌日の昼過ぎに服を着替えて、珠江飯店の入っているビルの3階にある自宅へ戻って来た。大樹を泊めた友人の母親が、正直に大樹のことを認めたのが、解決のきっかけだった。
さらには本庁のサイバーセキュリティ対策本部からの情報によると、主に羅賓がSNSで使用しているスマートフォンが、この張大樹名義のものであることも判明。大樹が羅賓である可能性も高い。
張大樹は取り調べに対して、バイクを、
「盗んだんじゃなくて、借りただけです」などと言い訳した。
誰に借りた?と聞かれると、黙秘した。また父親の狙撃計画についても、
「ただバイクを運転するよう、頼まれただけです。後ろに誰か乗せて、うちの前で一度止まって、途中で降ろして、あとは適当な所でバイクを乗り捨てろ、と頼まれました」
じゃあ誰に頼まれたんだ?と言われると、黙秘した。自分の父親が自分の後ろの席の誰かに撃たれた時、どう思った?と聞かれると、
「すげぇことすんな。親父の奴、よっぽど誰かに憎まれてたんだ、と思いました」
父親を狙撃したのは誰だ?との答えは、
「知りません。初対面ですし、ヘルメットかぶってたし」
クマのプーさんのキーホールダーを身に着けていたのは、どういう意味だ?
「お互い初対面で顔もわからないから、それを目印にしよう、ってことで」
君はプーさんのグッズをよく集めていたね? それが理由か? 「かもしれないっすね」……なぜプーさんのグッズを集めてた? 「✕✕✕(中国の国家主席)に似てて面白かったから」……プーさんを利用して中国の指導者たちをからかおう、という組織があるはずだけど、知ってるか? 「知らないっすね」……羅賓って人物を知ってるか? 「誰っすか、その人」……君のスマホのSNSで使われてるハンドルネームだよ。「え? マジっすか? 全然知らないっすよ」……とぼけても無駄だよ。君のスマホは……、「違いますね。俺のスマホ、会社も機種も全然違うんっすけど」
こうして取り調べは深夜まで延々と続いたが、張大樹は日本生まれの日本育ちということで、流暢な日本語と誰に似たのかわからない悪知恵で、刑事たちを翻弄し続ける。相変わらず、誰に頼まれたか、バイクの後ろの人物は誰か、羅賓とは何者か、なぜ羅賓のスマホを持っているのか、ひょっとして君が羅賓か、という質問に対して、最後まで口を割ることはなかった。やっとバイクを盗んだことだけは認めて、とりあえず取り調べは終了。大樹の容疑はあくまでバイクの窃盗だけだからだ。
「バイクの鍵をかけたまま、その場を離れる奴が悪いんっすよ」と大樹は、負け惜しみの言葉を言い放った。
一方、バイクの後部座席の狙撃手。こちらの方も包囲網の口が閉じ始めた。あれからデパート内のトイレで着替えて再び別人に成り済ましてから、池袋駅周辺をあちこちうろつき続けた挙句、やがてその方向は池袋5丁目方面へと移動。間違いなくこの近辺に住んでいるか、そうでなくても必ず目撃証言が出てくるはず、とにらんだ。あとは地道に聞き込み捜査に専念しよう、ということで、数日間ほぼ徹夜で防犯カメラを見続けてきた新田は、とりあえず帰宅させることにした。
「王子様、ごめんなさい、私を見捨てないで」新田は泣きながら、うわ言をつぶやいていた。
翌朝の捜査会議終了後、河北署長は課長や本庁の刑事など、一部の幹部たちを署長室に集めて内密の会合を開いた。その中には、なぜか丸出もいたが……
会合終了後、署長室から出て来た戸塚警部は、自分の席には戻らず、まっすぐ海老名と藤沢係長との席の間に立って、ため息を一つもらした。顔の表情が冴えない。頭の輝きだけは相変わらず冴えわたっていたが。
「張徳倫の妻の陳麗甜を、重要参考人として任意同行させることにした」
「どうしてまた」と藤沢係長。
「息子の大樹が逮捕されたけど、だれの指示を受けたかとか、羅賓のこととか、肝心な点について口を割らないから、少し揺さぶりをかけてみよう、ということらしい。ひょっとしたら陳麗甜が羅賓じゃないか、彼女が夫に対する銃撃を指示したんじゃないか、撃たれた夫と最近、喧嘩が絶えなかったからということでな」
「その程度で重要参考人ですか。いくらさっきの会議で、息子の持ってたスマホが別物だったといっても、その保護者に容疑を向けるというのも、どうなんですかね。それに夫と喧嘩が絶えないと言っても、あんな回りくどい殺し方をするとは考えられないんですけど」
張大樹自身が取り調べで供述していたように、羅賓が持っていたと思われるスマートフォンは、実際に大樹が逮捕された際に持っていたものとは、別物であることが判明した。契約している携帯電話会社もスマホの機種も、全くの別物。名義上、大樹はスマホを2種類持っていたことになる。ただ大樹はあくまでもそれを否認。電話料金は母親の預金から口座振替で支払っているので、よく知らないとか。羅賓が使っていた方のスマホの電話会社によると、契約や購入はオンライン上で進められ、料金の支払いは毎月振込用紙を使用。未成年である大樹の保護者欄には、母親の陳麗甜の名前が入力されていた。
「確かに陳麗甜が殺害を指示したとは、到底思えない」と戸塚が言った。「俺はその女には実際に会ったことがないから何とも言えないけど、ただ署長たちの意見によれば、陳麗甜は今回の事件について何かを知ってるんじゃないか、という判断だ」
「やめた方がよくありませんか? やばいですよ」と海老名が言った。「俺はあの女に会ったことがあるからわかるけど、あの女はかなり直情的で、裏表があるような性格の持ち主とは思えないんですけどね。だからすぐ夫と大喧嘩したり、すぐ仲直りをしたりの繰り返しなんです。仮にあの女が何かを知ってるにしても、今同行したら黙秘し通すか逆ギレするかで、捜査が行き詰まりかねませんよ。それより夫の張徳倫の怪我の回復を待って、夫から事情を聞いた方がまだ早くないですか? あの張徳倫、絶対に撃たれるだけの何か後ろ暗い理由があるんじゃないかと思うんですけどね」
「俺も今のエビと同じ意見を言ったよ。ま、そこは課長たちの強い後押しには勝てなかった。課長代理でしかない俺は力不足だった、ってことで」と戸塚は、自嘲気味に苦笑を浮かべた。
「課長たちというのは、うちの立川に組対の大久保課長……」と藤沢係長。
「そう、この2人が強く後押ししてな。あとは丸出。あいつの名推理とやらには、開いた口が塞がらなかったよ。『陳麗甜が間違いなく羅賓だ、あの女は性転換した元男だ、チンという名字がその証拠だ』だとさ」
「はああぁ? そんなバカ過ぎる推理を署長は真に受けたんですか?」と海老名は怒りをあらわにした。「まったく、この署の上の奴らには、ろくな奴がいない……あ、戸塚さんはもちろん別ですよ。でも立川バ課長は丸出とすっかりお友達になってしまったし、大久保課長は暴力団と癒着してるし」
「エビ、大久保課長のことは、あくまでも噂の段階だ」と藤沢係長は、周りの目を気にしながら海老名に言った。「証拠もないのに軽々しいことを言うんじゃない。それに、ろくな奴がいないと言うんなら、おまえも人のことを言えるか?」
「俺は丸出やヤクザと友達になるほど、落ちぶれちゃいませんよ。酒の神様と仲良くした方がはるかにましだ」
「その酒の神様との付き合いも、ほどほどにしておけ」
「ま、まだエビの方が、はるかにまともかもな……とにかくそういうことだ。長期戦になることは覚悟しておいてくれ」戸塚はそう言って、自分の席に戻って行った。
「戸塚さんには同情するよ」藤沢係長がつぶやくように言った。「あの立川課長にも逆らえないんだからな。ま、陳麗甜を呼んだところで、俺ら1係には今のところ、あまり関係はないと思うけど。俺らの仕事はとりあえず、張徳倫を撃った奴を逮捕することだけだ。その包囲網も段々と狭まってきている」
「でもフジさん、羅賓の正体がわからないことには、第2、第3の事件が起きかねませんよ」と海老名は係長に言った。
「そうだな。陳麗甜の任意同行がうまくいくことを祈るだけだよ。とりあえず今は、そのことを一旦忘れよう。エビ、おまえも手が空き次第、張徳倫を撃った奴の聞き込みに加わってくれ」
「わかりました。それにしても丸出の奴、あいつさえいなければ、捜査がやりやすくなるのに、あの疫病神め」
「エビさん、丸出さんのことを悪く言うべきじゃありませんよ」と突然、海老名の隣の席にいる大森が言った。「丸出さんには、丸出さんなりの考えがあると思うんですよ。それを尊重しないと」
「どうした大森、おまえまで丸出と友達になっちまったか。ついこの前まで丸出の顔を見れば、番犬みたいに吠えまくってたくせに」
「丸出さんはすごい人です。僕は彼を過小評価し過ぎてました。あの人のことを悪く言ったら痛い目に遭いますよ」
「ああそうかい、この前あの病院で丸出にしばかれたのが、そんなに痛かったか、このチビ。おまえもその程度の、1円玉よりも価値のない奴だったのか、おチビさん。身体も小さければ人間としての器も小さいな、このチビ! チビ! チビ!」
「エビさん、僕に喧嘩を売るつもりですか!」ついに大森は怒って立ち上がった。
「喧嘩売ってるのは、そっちの方だろうが。あいつを褒める奴なんて、みんな踏みつぶされてしまえばいいんだ、このチビ!」
「やめんか、2人とも!」係長まで怒鳴り出した。
「大森、続きは剣道で勝負だ。今の俺なら、おまえみたいに豆粒のようなチビにでも、楽勝で勝てるぞ」
「ああいいですよ、エビさん。あんたみたいな酔っ払いなんか、思いっきりボコボコにしてやりますから、覚悟しておいてくださいね」
「よし、いいだろう……というわけでフジさん、ちょっと大森と席外します」
署内の道場では、署員たちがいつものように柔道、剣道の稽古に励んでいた。その熱気だけで1年中暑苦しく、ましてや今のような蒸し暑い梅雨の時期は、壁に飛び散った署員たちの汗が床に滴り落ちそうなほど。
お互い剣道着姿になった海老名と大森は、早速剣道の試合を始めた。
だが5段の資格を持つ大森は、初段でしかない海老名の敵ではなかった。その小さな身体で縦横無尽に海老名の周りを飛び跳ねては、思わぬ所から襲いかかってくる。
面! 胴! 小手!
大森の言葉通り、海老名は思いっきりボコボコにされ、降参した。
試合後、お互いに面を取り外して、2人は道場の片隅に座り込み、他の署員たちの稽古ぶりを眺めている。
「いやぁ、負けた負けた、おまえ強いな」と海老名は、疲れて紙のように平べったくなりながら言った。
「当然ですよ。稽古には日々励んでますから」と大森は勝ち誇ったように言った。
「どうだ、少しは気分が晴れたか?」
「うーん、どうなんですかね……弱い者いじめは僕の好みじゃないんで」
「何だと? 俺はそんなに弱いのか、このチビ」
「もう1本、勝負しますか?」と言って大森は、床に置いた竹刀を持ち上げようとした。
「ああ、もういいもういい、悪かった。もうチビなんて言わないよ……と言いたいとこなんだけどさ、俺がおまえを怒らせたのも、実はわざとなんだよ。おまえ、丸出に何か弱みを握られただろ? あの病院で。例えば、おまえの身長は161センチということになってるけど、本当は158センチしかないとか……」
「なぜエビさんまで、そのことを知ってるんですか?」大森は恐怖に震えながら言った。「ま、まさかエビさんが丸出に……」
「チクったってか? 俺がそんな、仲間を売るようなことをするわけがないだろ。おまえの本当の身長のことは、少なくとも戸塚さんやフジさんだって知ってるよ。俺の知る限りだけどな」
警視庁の警察官になるには、男子は身長160センチメートル以上必要、ということになっている。従って大森の実際の身長は、それに2センチ足りない。だが学生時代にはすでに剣道4段の資格を取得して、全国大会で何度も優秀な成績を修めていること、一流大学の法学部で成績も優秀、また父親が本庁の要職に就いていたこともあって、10年以上前、大森はある種の「特別枠」で警察官に採用された。あまり公にできない特別枠ではあるが。
「丸出為夫、あいつはいったい何者なんだか、さっぱりわからん」と海老名は吐き捨てるように言った。「とんでもないバカである一方で、人の弱みを握って揺すぶるだけの情報収集能力も持ってる。俺の酒気帯び運転に関することまで知ってるからな。おまえには公然の秘密かもしれないけど」
「署の誰かから聞いた、ということもあるんでしょうか?」大森は相変わらず、おびえたまま聞いた。
「かもしれない。でもそれにしては、仕入れた情報を巧みに利用する手段も持ち合わせてる。ある意味で非凡な才能だよ。只者じゃない。俺もおまえも、それで見事にやられてしまったわけだ」
「どうすればいいんでしょう、僕たち……」
「ま、とりあえずはノラリクラリと相手するしかないのかもな。おまえみたく、嫌な奴の奴隷になって相手を褒める、なんてやり方は俺の趣味に合わないし。でも丸出め、いつかは、その化けの皮をはがしてやる」