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 海老名は再び張徳倫の妻・陳麗甜と、その息子たちの聞き込みに当たることになった。

 陳麗甜は夫のそばにいたいということで、昨日の聞き込みが終わるとすぐに夫の張徳倫が搬送された病院へ向かって、一晩を過ごしたという。張徳倫は一命を取り止めたとはいえ、まだ麻酔で眠っていて面会謝絶。病室前のベンチに座っていた陳麗甜は、心労のせいか、40代なのに60を過ぎた老婆にも見えた。

 「旦那さんは、まだ意識を取り戻しませんか?」と海老名は小声で聞いた。

 「意識が戻るまで、あと数日はかかるそうです」と陳麗甜は答えた。20年以上も日本にいるせいか、発音にややたどたどしさが残るものの、ほぼ完璧な日本語である。

 「今ちょっと色々とお話をしても大丈夫ですかね? まず昨日伺った質問をもう一度繰り返します。旦那さんが銃で撃たれるようなことで、何か心当たりがありますか?」

 陳麗甜は、軽く首を振った。

 「旦那さんを撃ったバイクの2人組は、2人ともクマのプーさんのキーホールダーを身に着けてました」

 と海老名が言うと、陳麗甜の表情に反応があった。

 「何か心当たりがあるんですね?」

 「はい……でも、まさかうちの息子がやったとは思えないけど……」

 「息子さんがどうかしたんですか?」

 「大樹(だいき)……上の大学生の息子ですけど、最近ちょっとクマのプーさんにはまってましてね。縫いぐるみとかグッズとか色々集めて、それを見てニヤニヤ笑ったりして喜んでるんですよ。それで主人がひどく怒りましてね。刑事さんはご存じか知りませんが、今クマのプーさんは中国で弾圧されてるんです」

 「存じてます。今の国家主席に似てるから、とか何とかくだらない理由で、プーさんに関することが全てネット上で禁止されてるとか」

 「そうです。だから主人もそれを理由にひどく怒って、プーさんのグッズとか全て捨てろ、俺たち中国人がこうして生きてられるのも、中国政府に逆らわないからなんだぞ、とか言って……」

 「ここは日本ですよ。なぜ日本在住の中国人が、中国政府なんか恐れなきゃいけないんです?」

 「どうも日本には、中国のスパイがたくさんいるらしいんですよ。日本政府も弱腰で、スパイを取り締まる気はないみたいだし、主人が言うには、同じ中国人でも誰が中国政府と通じてるかわかりゃしない、ということでここ最近、特に1カ月ほど前から妙に神経質になってました」

 「1カ月ほど前といったら、向こうの携帯電話会社と契約して新しい事業を始める、とか何とか言い出したあたりですよね」

 「そうです。あの会社には中国政府の役人たちもたくさんいるから、少しでも疑いを持たれるようなことは避けたい、ということで……本当に馬鹿な人ですよ。私は今でも、新しい事業を始めることには反対ですけどね。早く目を覚ましてくれればいいんですけど……もちろん意識そのものもですけど、そんな見果てぬ夢からも」

 「ところで大樹君、あれから自宅に戻ってきました?」

 「さあ……私、あれからずっとここにいたんで、家には戻ってないんですよ。電話してみたら、昨夜は友達の家に泊まるとか言って、戻って来なかったらしいですけど」

 「最近、大樹君が何か政治がらみの集まりに参加してた、とか聞いてませんか? 特にクマのプーさんに関する集まりとか……」

 「私は何も聞いてません。そんな集まりが本当にあるとすれば、関わりを持ってないといいんですけど……」


 海老名が病院のエレベーターを降りて、1階の受付があるロビーに出ると、そこで大森と国際犯罪捜査係の中野に出くわした。前日休んで出勤していなかった珠江飯店の従業員たちへの聞き込みを、2人は担当していたはずだが……

 「よ、大森、中野君。こんなとこで何してんだ?」海老名が、小さめだが明るい声で言った。「この病院に精神科はないぞ。悩みがあるんなら、直接俺に相談してくれ。何にでも相談に乗るぜ」

 「エビさんこそ、この病院にはアル中患者専用の病棟なんかないはずですよ」

 「きついこと言うね、大森。俺は別に飲まなきゃ手が震える、ってほどの病人じゃないよ。撃たれた張徳倫のかみさんがこの病院に住みついちまったから、ちょっと話を聞いてきただけだ」

 「で、どうでした?」

 「張徳倫はまだ眠ってる。逆に今度はかみさんの方が、その隣でベッドを並べそうな気配だったよ……ところでお前ら、ここへ何しに来たんだ?」

 「あの店の副料理長が胃潰瘍で入院してたの、ご存じですか?」

 「ああ、そうだったっけ。この病院?」

 「というわけです……ん?」

 大森の目付きが突然、手術用のメスのように鋭くなった。今からこの病院全体を切り刻んで解剖してやる、と言わんばかりに。海老名にもその理由がすぐにわかった。ロビーの片隅に怪しい人影を見つけたのだ。

 ベレー帽にパイプ煙草……しかもトレンチコートの上から白衣を着込んでいた。白衣の方が小さいため、少し腕組みをしただけで背中から破れてしまいそう……

 医者にでも成り済ましたつもりでいる丸出為夫に、3人はゆっくりと近づいた。丸出はそれに気づいて3人から遠ざかろうとしたが、海老名に呼び止められてしまう。

 「丸出為夫様、今から精神病棟へご案内いたしますので、その場を動かずに、お留まりください」

 「私はシャーロック・ホームズの生まれ変わりですぞ」丸出は悔しそうに言った。「シャーロック・ホームズは変装の名人でもあるのに、よくも私の正体を見破りましたな」

 「コートの上から白衣を着込んでるバカな医者なんか、いるわけないだろ。そのベレー帽とパイプもそうだ。少しは少ない脳味噌をもっと絞って考えろ」

 「そうですよ、丸出さん、それに知ってますか?」と今度は中野までが、丸出の奇行に突っ込みを入れ始めた。「病院では敷地内全体が禁煙なんですよ。そのパイプ煙草をくわえるのも、よくないですね」

 「私は煙草はやりません。このパイプはおもちゃです」と丸出は弁解した。

 「確かにそうみたいだな。このパイプから、いつも煙が出てないし」と海老名が言った。「でもいくらシャーロック・ホームズを気取ってるからって、そのおもちゃをいつも口にくわえることもないだろ」

 「いや、このパイプの吸い口をいつも口にくわえてないと、落ち着かないもんで……」

 「そりゃまた別の意味での病気だな。『パイプの吸い口をくわえたがる依存症』なんて、これで論文でも書いたら、俺も医者に転職できるかも」

 「丸出、そもそもこんな所で何してるんだ?」と大森が敵意をむき出しにして聞いた。

 「私は私なりに、独自の捜査を行なってるところです、おチビさん」

 「だからその『おチビさん』って言うのやめろって、何度言ったらわかるんだ?」もはや丸出に対する大森の敵意はむき出しになったどころか、2つに割って種までほじくり出そうとするかの勢いである。「もう頭にきた。丸出、今日こそおまえをしばいてやる。ちょっと表へ出ろ!」

 そう言って大森は、丸出のコートの袖を強く引っ張りながら、病院の正面玄関に向かった。

 「大森、暴力だけはやめとけよ」海老名が軽く声をかけた。「入口ん(とこ)で待ってるから、すぐ戻って来い」

 約10分後、丸出は相変わらずコートの上から白衣を着込んだ奇妙奇天烈な格好で、海老名と中野が待っている病院の正面玄関前に戻って来た。おもちゃのパイプを悠々と口にくわえたまま、堂々と勝ち誇ったような様子で。その後から少し遅れて、大森も付いて来る。大森は暗い表情でガックリと肩を落とし、ただでさえ低い背丈がさらに10センチほど縮まってしまったようにも見えた。

 「どうした大森、おっさんをしばくつもりが、逆にしばかれたか」

 と海老名が心配そうに言うと、丸出は朗らかな声で、

 「いやあ、このおチビさんと実に有意義な議論をしてきましたぞ」

 「大森さん、いったい何があったんですか?」と中野も心配そうに言った。

 「エビさん、中野さん、悪いんですけど僕、早退してもいいですか?」と大森は、今にもつぶれて消えそうな声で言った。「何だか気分がすぐれなくて……」

 「構わんよ。でも気分が悪いんなら、ここ病院だし、ここで診てもらったら?」

 と海老名が大森に言う。

 「い、いや、病院は大丈夫です。何だかちょっと、心にポッカリと穴が開いたみたいで……一晩眠れば治ると思います」

 「わかった。副料理長のことは俺と中野君とでもできるから、心配はいらんよ。ま、とにかくお大事に」

 

 その日の夕方6時過ぎからの捜査会議までに、事件はいくつかの重要な進展を見せ始めていた。まずは張徳倫を銃撃したバイクの2人組の件。

 後部座席に乗っていた狙撃手のものと思われる、バイクスーツとヘルメットが発見された。場所は池袋駅構内のコインロッカー。街角や駅の構内、店舗などの防犯カメラを(しらみ)つぶしに調べていった結果、狙撃手と同一人物と思われる女性らしき人物が、その時に持っていた白いスポーツバッグを、ロッカーに入れる映像が撮影されていたのだ。早速ロッカーからバッグを開けてみると、目撃者の証言通り、赤紫色のバイクスーツと赤いヘルメットが入っていた。拳銃とクマのプーさんのキーホールダーはなかったものの、これで例の人物が張徳倫を狙撃した被疑者と同一であることが確認され、引き続き行方を追っている。

 「でもこの女……たぶん女で間違いないと思いますが、かなりのプロだと思います」防犯カメラの分析を続けていた、刑事課捜査1係の女性刑事・新田清美(にったきよみ)が、疲れに満ちた表情で言った。「あのロッカーへたどり着くまでに、わざと遠回りをしたり、店を出たり入ったりを繰り返したりして、我々の目を撹乱しようとしてたのは、間違いありませんから」

 例の狙撃手は、ロッカーを開けてスポーツバッグを入れる前に、あえて入れておいた茶色い布製の大きなショルダーバッグを取り出し、スポーツバッグの中からいくつかの小さな荷物(おそらく拳銃とプーさんのキーホールダーと思われる)をショルダーバッグに移し替えた後、スポーツバッグをロッカーに入れて、ショルダーバッグを肩にその場を立ち去った。その後は、また駅の構内やデパートの中をあちこち歩き回った後、✕武百貨店5階の女子トイレに入り、以降、その後の足取りは不明。おそらくトイレの中で服を着替えて、ポニーテールだった髪型も変え、ショルダーバッグの種類も変えて、立ち去ったものと思われる。

 「とりあえずその後、トイレから出て来た何人かに目星をつけて、追跡を続けてますが、まだもう少し時間がかかりそうです」

 「新田ちゃん、あまり無理するなよ。また今夜も徹夜する気か?」戸塚警部が心配そうに言った。

 一方、バイクを運転していた方の人物も、その足取りがかなりはっきりしてきた。その運転手は小竹向原駅前の駐輪場でバイクを乗り捨てた後、ヘルメットを外して片手に持ち、バイクスーツを着たまま駅に入り、池袋駅方面に向かう地下鉄に乗ったとのこと。例の狙撃手に比べれば警戒心も薄く、面が割れるのもこちらの方が早いと思われる。身長は約180センチの長身、短髪で比較的まだ若い男。

 次に組織犯罪対策課の報告。組対課の調べによると、クマのプーさんに関連のある組織の存在が明るみに出てきた、という。

 組織の名前は明らかではないが、そのリーダーは「羅賓(らひん)」というハンドルネームを持っており、主にSNSで在日中国人の仲間を募り、ひそかに集会を行なっているらしい。今までに大阪、神戸、横浜、新宿、そして池袋でも集会を開催した、との情報もある。その集会の内容は実に他愛のないもので、現在の国家主席や首相など、中国政府の指導者たちを色々と茶化して笑おうという、ほとんど遊びに近いものだとか。

 「明らかに反中国、というより中国の民主化という意図を持ってるのは、明白です」と国際犯罪捜査係長が報告した。「ただ、あまり政治色を強く表に出してるわけではなく、ましてや暴力的なテロ行為にうって出る、という情報は今のところありません」

 「リーダーの羅賓という人物の正体は、わかってるんですか?」と河北署長が聞いた。

 「今のところは不明です。この池袋に住んでるという情報もあるようですが、現在確認中です。ただ一つだけわかってるのは、この羅賓のSNSですが、5月12日を最後にここ1カ月ほど更新されてません。これに関しては、明らかに組織の構成員と思われる者たちの間でも、『羅賓は何やってんだ?』みたいな戸惑いのつぶやきも散見されます」

 「なるほど、それで組織全体で制御が利かなくなり出して、一部が暴徒化。その可能性もありますね。とりあえずは羅賓の正体を突き止めることも必要でしょう。ところで羅賓というのは本名ではないと思われますが、どういう意味を持ってるのか、おわかりになりますか?」

 「クマのプーさんに出てくるキャラクターの名前らしいです。中国語では『ロビン』と発音しますが」

 「ロビン……クリストファー・ロビン?」海老名が声を上げた。「作者のA・A・ミルンの実の息子です。プークマの中では、プーに次ぐ主役的存在ですけど」

 「主役的存在ですか。どういう役回りでしたっけ?」署長が聞いた。

 「ま、プーの一番の友達ってところですかね。プーを始めとする、他のキャラクターたちのボスみたいなところがあるんですよ。作中に出てくる唯一の人間ってことで。プーにしろ、他のキャラクターにしろ、元々はクリストファー・ロビンが実際に持ってた縫いぐるみなんです。それを利用して父親が童話を書いて、大成功ってことでして」

 「ほう、ある意味でプーよりも格上と解釈できますね。プーは✕✕✕国家主席と似てるから、その中国の国家主席よりも格上なんだ、ということかもしれません。深読みかもしれませんが……とにかくこの羅賓という人物についても、今回の事件と深い関係があるかもしれないので、引き続き新たな情報の入手をお願いします」


 その夜、海老名は自宅に戻ると、何十年かぶりに一冊の本を読み返してみた。

 それは英語の原文で書かれたクマのプーさん(Winnie-the-Pooh)の続編、「The House at Pooh Corner(プー横町にたった家)」。学生時代に英語の勉強がてらに買って読んだ、イギリス直輸入のペーパーバック。(ほこり)だらけ。しみだらけ。所々角も欠けていて、表紙の色もだいぶ薄くなっている。風が吹けばすぐ粉々になって飛んでいきそうなほど傷んではいるが、中身はまだ十分に読めた。もうだいぶ英語も忘れてしまったけれど、子供向けの童話なので、一部を除けば中学で習う程度の英語でも十分読める。

 酒を飲みながらの懐かしいプークマ。

 その傍らでは飼い猫の「うり坊」が、テレビのつまらないバラエティ番組を見ている。数年前に動物保護施設から譲り受けて以来、イノシシの赤ん坊のような毛皮の模様は、成猫(おとな)になった今でも変わっていない。

 どうもこの猫は、人間の言葉がわかるらしいのだ。海老名はよくこの猫に話しかける。その日に起きた事件のこと、その事件の推理、その他諸々の悩み事。うり坊も海老名の話を聞く。時には海老名の顔をじっと見つめながら。時にはそっぽを向いて毛繕いに励みながらも、聞き耳だけはピンとそば立てて。本当に話を聞いているのかどうか不安になって海老名が話を中断すると、続けてくれ、と言わんばかりにこちらを振り返ったりする。

 海老名はThe House at Pooh Cornerの第9話を読んでいる。難解な言葉を振り回して、知識人を気取っているフクロウ。そのフクロウが住んでいる木が倒れ、別の場所に引っ越すという話。その話の中で、プーはとても意義深いことを言っている。プーはちょっとした詩人で、事あるごとに詩を作っては口ずさむ。このことは意外と知られていない。某大手アニメ会社のせいで、すっかり原作が歪められてしまったせいでもあろう。ここでプーはこんなことを言っている。

 「詩や歌というのは、自分で捕まえるものではない。逆に自分の方が捕まらなくちゃ。だから自分の方から捕まるような場所へと移動することが必要なんだ」

 刑事事件の推理もある意味で似たようなものだな、と海老名は思った。犯人を捕まえるのは極力急がなくてはいけないが、あまり焦り過ぎてもいけない、ということなのだろう。

 「……と俺は思ったんだけど、これでいいのかな?」

 と海老名が聞くと、うり坊はニャーと鳴いた。


 翌朝の捜査会議。牛が歩くようにゆっくりとではあるが、捜査は確実に進んでいた。

 まずは、撃たれた張徳倫が目を覚ました。意識もはっきりしているという。ただし容体の急変に備えて、当分の間は面会謝絶とのこと。

 次にバイクの2人組の行方。運転していた方の足取りが、ほぼ正確にわかってきた。バイクスーツを着たまま地下鉄に乗った後、池袋駅で降りて、そのまま着替えもせず、徒歩で真っすぐ池袋5丁目方面へ向かった、という。

 「今日中には身柄を確保できるものと思われます」と言う戸塚警部の頭の輝き方も、少しばかりワット数が上がっていた。

 一方の狙撃した方の行方は、昼間でもまだ深い暗闇の中。

 「でも間違いなく、あの女……」そう言う新田の表情は死人のように青ざめ、まるで幽霊のよう。もうすぐ足が消えて宙に浮き始めるのも、時間の問題だった。「わざと遠回りを繰り返していて、手口がよく似てます。私の妄想の中の王子様も、あの女で間違いない、と言ってますし」

 「新田ちゃん、もう帰って休め。現実と妄想の区別がつかなくなってるじゃないか」

 と戸塚が言うと、海老名が、

 「新田さんが現実と妄想の区別がつかないのは、いつものことですよ。ボーイズ・ラブ漫画の読み過ぎです。むしろ妄想を完全に断ち切った時の方が、逆にやばいんじゃないかと思うんですけど」

 「とにかく、あともう少しです。私に続けさせてください」新田が弱々しい声で、そう訴えた。「これは執念です。そうしないと妄想の王子様に振られてしまいます」

 さらに本庁の公安部外事課によると、新たな情報が入手された。

 1989年の北京で起きた天安門事件で、当時共産党政府に対して民主化の要求を訴えていた学生運動の幹部たちのうち、何人かが合法・非合法いずれかの形で日本に流れてきた。そのうち、当時大学生だった劉学友(りゅうがくゆう)王国栄(おうこくえい)は、事件後の足取りは不明だが、現在2人ともこの池袋に住んでいるらしい。ただし、具体的に池袋のどこに住んでいるのか、その年齢、職業などの詳細は不明。少なくとも麻布(あざぶ)の中国大使館が2人の存在を確認し、監視しているとのこと。名前からして2人とも男性。また正式な入国記録や永住権、労働ビザの取得なども今のところ確認されていない。

 「天安門事件の時に学生運動をしていた幹部……30年も前のことですからね」と河北署長が言った。「日本に入国してきたのがその数年後なら、偽名で永住権や日本国籍を取得している可能性もあるということですか。あの当時20歳(はたち)前後……いや、幹部なら間違いなく20歳を過ぎているとすれば、今は50代。そういえば撃たれた張徳倫は52歳でしたっけ?」

 「そうですが、張徳倫が劉学友か王国栄である可能性はないと思います」と戸塚が言った。「民主化運動の幹部が、民主化運動のテロリストに襲われるのも、変な話ですから」

 「いや、そうとも限りませんよ」組対課長の大久保が、野太い声で言った。「中国人は変わり身が早いですからね。金銭的な利益が絡めば、平気で仲間も裏切ります。現に今、中国は経済的に豊かになって、国内はおろか、海外での民主化運動もほとんど力を失ってしまいましたから。だから金にまつわる仲間割れという線で考えれば……」

 「張徳倫が劉学友か王国栄のどちらか、ということも考えられないこともないのか」戸塚が納得して言った。「つまりは内ゲバということかもしれん。早いとこ張徳倫を事情聴取してみたいもんだな。たたけば必ず埃が出てくるだろう」

 「それからあとは、例の羅賓ですね」と署長が言う。「何者なのか、まだわかってませんが、その羅賓も劉学友か王国栄である可能性がありますから。とりあえずまずは池袋一帯で、50代の中国人男性を片っ端から調べてみましょうか。ところで珠江飯店の従業員の中に、50代の男性がいましたかね?」

 「確か料理長が50代だったよな、エビ」と藤沢係長が海老名に聞いた。

 「55歳だったと記憶してますが……でもあのおっさんは、まずありえないでしょう。料理のこと以外では、下ネタギャグにしか興味のない、ただの低能なスケベオヤジですから。学生運動の幹部なら、話にもっと知性があるはずです」

 「他に思い当たる人物は?」署長が海老名に聞く。

 「あとは……あの店の従業員には、いないはずですよ」

 とは言ったものの、会議終了後に海老名は突然気づいた。1人だけ思い当たる人物がいる。ただ、その人物はあの店の従業員ではないし、会ったこともないが……


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