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梅雨に入り、ぶ厚い雲が毎日空を覆い始めた。弦楽器の弦のように降る雨が、陰鬱な気分を奏でる日々が続く。
池袋北警察署の刑事課強行犯捜査係(通称・捜査1係)の刑事・海老名忠義は、窓の外を見ながら、それがまるで自分の心の中を鏡に映して見ているような、陰鬱な気分を嫌というほど味わっていた。
丸出為夫……警視庁本庁や池袋北署の署長の推薦でやって来た、あの男。あいつはいったい何者なんだ?
自称・名探偵。それなのに何一つまともな推理もできない、ただの無能。その優れた能力といえば、警察の真面目な捜査の邪魔をして、ただ遊ぶだけ。
前回の滝野一家事件は本当に悲惨だった。聞き込みの最中に、ただ飲み食いするだけだったり、突然屁をこいたり、子供みたいに相手の容姿をからかったり、勝手に他人の家のガラス戸にヤモリのようにへばりついたり、挙句の果てには、相手の顔を少し見ただけで、こいつが犯人だ、顔が醜いから、と出鱈目な名推理を披露して、もう少しで最悪の結果に終わっていたかもしれないのだ。
自分がシャーロック・ホームズの生まれ変わりだと信じている、ドン・キホーテみたいな奴。つまりはただの変人。年は50を過ぎているのに、人間としての最低限の常識すらない。あるいは、早くもアルツハイマーさんの仲間入りをしてしまっているのか?
だがその一方で、海老名の酒気帯び運転の件をなぜ知っているのか? 少なくとも署の外部には漏れていないはず。署内でもこのことを知っている者は、それほど多くはないはずだ。誰があいつに密告した? いや、そもそもその前に本庁や署長は、見ただけですぐに無能な変人だとわかるこの丸出を、なぜ神輿のように高く持ち上げるのか? ひょっとしたら署長も本庁の刑事たちも、海老名と同じような弱みを丸出に握られているのか? それはまだ何とも言えない。
この丸出、恐ろしく無能である一方で、別の方面では恐ろしく有能なのかも。いったいあいつは何者なのか? この疫病神め。
丸出は前回の事件で初めてやって来て以来、この池袋北署がすっかり気に入ってしまったらしく、今日もこの雨の中、署に来ている。この署での仕事といえば、基本的にはやはりただ遊ぶだけ。特に刑事たちの仕事の邪魔をするのが気に入っているらしい。
「エビちゃん、調子の方はどうですかな?」丸出は海老名に馴れ馴れしく声をかけた。
「『エビちゃん』なんて、気安く呼ぶんじゃねぇよ、向こうへ行ってろ」自分の席で書類を作成しながら、海老名はうんざりした表情で言った。
「ところで酒気帯び運転の件なんですが……」と丸出が海老名の耳元でささやく。
「何だよ、どうしたいんだ? 俺は仕事中なんだよ」
「何かおいしい料理とお酒をおごってくれませんかね?」
「俺は公務員で給料も安いんだから、そんな金ねぇよ。勘弁してくれ。そういうことは署長か立川課長にでも言ってくれないか」
そんな感じで刑事たちの仕事の邪魔をしながら、署内をうろついている。トレンチコート、ベレー帽、パイプ煙草……いつもと同じ格好で。
「少々暑いですな。この署は冷房の効きが悪いですね」
だったら、そのトレンチコートを脱げばいいじゃないか。もうそんな季節じゃないだろ。と海老名は憂鬱な気分で思った。
午後になると雨が上がり、時々陽も差すようになり出した。事件が起きたのは、そんな雨上がりの夕方5時前。
池袋5丁目にある中華料理店「珠江飯店」で、銃撃事件が発生したのだ。
中国人店長の張徳倫(52歳)が、店の外にあるちょっとしたテラス席で、食品卸売業の女性と商談していた時、2人乗りのオートバイがやって来て、店の前で止まったかと思うと、オートバイの後ろにまたがっていた人物が突然、拳銃を発射。
パーン!という轟音と共に、張徳倫が倒れる。
通行人たちが呆気にとられている間に、2人乗りのオートバイは走り去って行った。
通報を受けて、池袋北署は早速動き出し、現場一帯は黄色い規制線で封鎖。胸を撃たれた張徳倫は救急搬送された。
事件が起きた界隈は、数十年ほど前から中国大陸出身の住民が急増し、今では東京のみならず、日本有数の中華街になってしまった場所。中国語の、しかも簡体字で書かれた派手な看板があちこちで目立ち、住民も中国人の比率は非常に高い。いったいここはどこの国なのか?と思えるほどの異次元空間。ただ異次元空間とはいっても、普段はそれほど治安も悪くはなく、中国人の住民も日本の法律に従って、おとなしく生活をしている場所ではあるが。そんなある種の異次元空間が一発の銃声とともに、恐怖と緊迫感と怖いもの見たさの好奇心とが一斉に混ざりこみ、何色とも表現しがたい色で染まってしまった。
現場となった珠江飯店は、車1台が一方通行で通り抜ける程度の小さな道にあり、通行人の数もそれほど多いとはいえない場所。数少ない目撃証言によると、張徳倫を銃撃した2人乗りのバイクは北側から直進して張徳倫を銃撃した後、南へ百メートルほど行った小さな交差点で後部座席に乗っていた狙撃手がバイクから降り、池袋駅方面へ向けて横道を東側へと駆け足で逃走。バイクを運転していた方は、さらにもう百メートルほど進んで大通りへ出た後、西へ右折して要町方面へ逃走したとのこと。
バイクは緑色で、4百CCほどの普通二輪。運転していた方は黒と白のまだらのバイクスーツに黒いヘルメット、後部座席の狙撃手は赤紫色のバイクスーツに赤いヘルメット、という姿だったという。銃声のあまりの衝撃に、バイクのナンバープレートをはっきりと覚えている目撃者は皆無の状態ではあるが、署では現在、2人の行方を探している。
珠江飯店は、20年ほど前から広東省出身の張徳倫夫妻が始め、周辺に住む中国人たちの溜まり場のような感じで売り上げを伸ばしてきた。日本人にも昼時のビジネスマンを中心に好評であり、現在ではこの界隈にある中華料理店でも比較的店構えも大きく、有名でもあるとのこと。
店の前では、海老名と同じ捜査1係の大森大輔刑事が、何人かの目撃者から事情を聞いていた。
「ちょうどそこの位置にバイクが止まって、あそこに向けて撃ったんだよね?」
と大森は指で示しながら、中国人留学生の若者に質問していた。路上にはブレーキ痕と思われる跡が残されていて、チョークで細長く囲ってある。そこを指し示してから、店の前で倒れている一脚の金属製の椅子へと指を動かした。小さなテーブル1つと2つの椅子の周りは、今でも赤く血で染まっている。
「君はこの道をよく通るのかな?」大森は若者に聞いた。
「はい、僕は近くに住んでますです」と若者は、まだたどたどしさが残る覚えたての日本語で答えた。
この若者の証言によると、この店の外にある席はテーブル1つを挟んで、椅子が1つずつ、店のガラス張りの壁に対して、普段は平行に配置されているという。事件当時、バイクの2人組から見て、撃たれた張徳倫は前向きに、向かい側の女性は後ろ向きに座っていたらしい。だが張徳倫は女性との商談に夢中で、バイクが店の前に停まったことはおろか、自分に向けて拳銃が発射されたことにも気づかなかった様子。
「バイクに乗ってた人たちのことで、もう一つ聞きたいことがあるんだけど」と大森は若者に聞いた。「2人の身長……というか、背の大きさのことなんだけどさ、ま、たぶん2人とも座ってたと思うから、覚えてないかもしれないけど、2人の大きさはどんな感じだった?」
「前の人、大きかったです。後ろの人、小さかったです」
「ほう、運転してた方は背が高くて、ピストルで撃った方は背が低かった、ってこと?」
「はい、ピストルの方、低かったです」
「この刑事さんよりも背が低かったですかな?」と、大森の背後で別人の声が質問した。
大森が振り向くと、そこには丸出為夫がいた。
「丸出! てめぇ! ここは関係者以外、立ち入り禁止だぞ!」大森は丸出に怒鳴り散らした。
背が低いことで、アスファルトの路上にまで足跡が深く残りそうなほどの劣等感を抱えている大森。その大森は前回、丸出から「おチビさん」などと呼ばれて以来、海老名以上に丸出を憎んでいる。丸出に対する大森の罵倒は止まらない。
「ジジィ、てめぇ、誰がここに入っていいと言った?」
「私は本庁の推薦でやって来た警察の関係者にして、名探偵ですぞ。ここにいて悪い理由なんかありませんな、おチビさん」
「だから、その『おチビさん』と言うのをやめろよ! 今度言ったら、本当にしばいてやるぞ。おい、君!」と大森は、近くにいた制服姿の若い巡査に声をかけた。「このジジィを規制線の外へつまみ出してくれ!」
一方、海老名は珠江飯店の店内で、店の従業員や当時店にいた客などから、当時の様子などについて事情を聞いていた。真ん中に大きな円卓のある予約者専用の個室で、一人一人個別に面談する、という形で。
「すると君は当時、奥の厨房にいて、拳銃の音は聞こえたけど、誰が撃ったかは見てない、ということだね?」
と海老名は、店の若い料理人から話を聞いていた。相手は、まだ日本に来てから日が浅い中国人。日本語も覚束ないので、どうしても通訳が必要になる。
池袋北署の組織犯罪対策課(略して組対)国際犯罪捜査係の中野竜太。台湾へ留学経験のある中国語の堪能な刑事。生まれつき色黒で、台湾留学時代は東南アジア系とよく間違えられたとか。その中野が海老名と料理人との間を、日本語と中国語とを駆使して通訳している。
「そういえば最近、撃たれた張店長は奥さんである副店長と喧嘩してた、という情報もあるんだけど、そのことは知ってるかな?」
海老名が日本語でそう質問すると、中野と料理人とで中国語のやり取りが続いた後、中野が日本語で海老名に答える。
「最近、確かにちょっとした大喧嘩があったそうです。原因は知らないと言ってますが、あの夫婦が喧嘩するのは別に珍しいことではないとか。喧嘩することが多い一方で、いつも仲良くし合ってるそうです」
「なるほど、喧嘩するほど仲がいい、ということだね。他に店長が撃たれる原因に心当たりがあるかな?」
「……わからない、と言ってます」
「よし、わかった。ひょっとしたら君ん家にまた連絡がいくかもしれないから、住所と電話番号教えてくれない?」
かくして、この料理人に対する聞き込みが終わり、料理人は個室を出て行った。
「あと何人ぐらい残ってるっけ?」
と海老名が聞くと、中野は、
「あともう1人だけ残ってます」
「よし、あと1人。ちょっと連れてきて」
中野が席を立ち、個室の扉を開けた瞬間、店の中ではちょっとした騒動が起こっていた。日本語と中国語、両方の言葉で怒鳴り合う声がする。日本語で怒鳴っている声に聞き覚えが……
「私、警察の関係者ね!……ああそう、ああそう、私は名探偵アルヨ!……ラーメン、タンメン、チャーシューメン!」
海老名はまた憂鬱になって頭を抱えた。丸出の奴、店の中に入ってきやがったか……
個室の入り口から顔を出した時には、中野が日本語と中国語とで静粛にするよう、呼びかけていた。
「どうした? 何があった?」
と海老名が言うと、店の50代の中国人料理長が日本語で、
「この人、店の裏口から勝手に入って来た!」と言って、丸出を指さした。
「おっさん、勝手に店の中に入って来るんじゃねぇよ。遊びじゃないんだから」
と海老名が言うと、丸出は、
「どうもここの人たちは、あまり協力的ではありませんな。私が警察の者だと言っても、聞く耳持たないんですから」
「当たり前だろ。ラーメン、タンメン、チャーシューメンなんてバカ丸出しなこと言ってりゃ、誰だってあんたを警官なんて思わんよ。というか、あんた警察の人間じゃないんだから、さっさと出てってくれ」
「そうですか。それなら酒気帯び運転のことを……」
「わかったわかった。その代わり、おとなしくしてるんだぞ」
というわけで、丸出は海老名と中野の監視の下で、個室での関係者に対する聞き込みに加わることになった。海老名が監視していないと、今度はどんな奇行をしでかすかわからないからだ。それ以上に、みんなの前で酒気帯び運転のことを言いふらされてはたまらない。
次に個室へ入って来たのは、ウェイターと思われる20歳前後の若者。上半身は店の名前が刺繍された店専用のYシャツを着ていたが、下は私服と思われるジーンズのまま。
「ははん、わかったぞ」若者を一目見るなり、丸出はそう口にした。「君は四川省の出身だな。でも今は埼玉に一人暮らしだ。しかも服の好みがうるさい。さらには左利きでもある」
若者はキョトンとしたまま。いかにも「何言ってんの? こいつ」と言わんばかりに。中野が中国語で通訳すると、その表情はますます困惑の度合いを深めた。
「私はシャーロック・ホームズの生まれ変わりですから、優れた観察眼を持っています」と丸出は誇らしげに言った。「相手を一目見ただけで、その人の性格や住所、故郷、職業まで全部わかるんです。どうですかな? 今私が言ったことは、全部正解でしょう?」
「どうも全部ハズレみたいだぞ。彼の顔付き見ると」と海老名が横槍を入れた。「だいたい四川省出身だなんて、どんな根拠だ?」
「リンという名字は四川省に多いからですよ」と丸出は、若者の胸を見ながら言った。
若者の左胸のポケットには「林」というネームプレートが止めてある。
「あの……僕、リンじゃなくて、ハヤシというんですけど……日本人です」と、その若者は当然のことながら、流暢な日本語でおずおずと言った。
「生まれも育ちも日本? 両親も日本人?」
と海老名が質問すると、若者はうなずいた。
「四川省とは全く関係あるわけないよね?……で、住まいはどちら?」
「石神井公園の近くです」
「これは当たりですな」と丸出が喜んだ。「石神井といえば、埼玉の練馬区ですからな」
「練馬は東京だよ、おっさん」海老名があきれながら言った。「ま、確かに埼玉県に隣接してるけどな。でもハズレはハズレだ。だいたい、このハヤシ君が埼玉に住んでるという根拠は何だ?」
「埼玉は田んぼだらけの田舎ですからな。見てください、その靴、泥だらけじゃないですか」
「田んぼじゃなくたって雨に降られりゃ、どこでだって泥だらけになるわな。石神井あたりも雨が降ってたでしょ?」
「はい、僕が朝出かける時には降ってました」と若者は答えた。
「昼間は学校かどこかに通ってるの?」
「ええ、大学に通ってます」
「で、ここでの仕事は、夕方からの遅番かな?」
「そうです。ここへ来て制服に着替えてる最中に、あの大きな音が聞こえて……」
「それじゃ、上が制服で下が私服のジーパンなのも、そういう理由なんだ……ということだ、おっさん。別に服の好みがうるさいわけじゃないってさ」
海老名にそう言われて、丸出は悔しそうに歯嚙みを始めた。だが丸出もしつこく、
「でも一人暮らしは絶対正しいですぞ。エビちゃん同様に髪の毛ボサボサじゃないですか。周りで身だしなみを気にしてくれる人がいない、何よりの証拠です」
「あのさ、俺のことを『エビちゃん』なんて言うの、まずやめろ。まあ、俺の場合は当たりかもしれないが、彼の場合は違うと思うぞ。明らかにスプレーかなんかで固めて、わざとそういう髪型にしてると思うんだけどな……ところで君は一人暮らしなの?」
と海老名が聞くと、若者は、
「いえ、実家暮らしで、両親と妹がいます」
「ほら、これもハズレだ。いい加減に観念しろ、おっさん」
だが、それでも丸出は諦めなかった。
「左利きであることは絶対間違いありませんぞ。左手の指先をご覧なさい。タコができてるではありませんか。中指から小指にかけて。これは左手で箸やペンを使ってる、何よりの証拠ですぞ」
「いえ、右利きですけど……」と若者は答えた。
「嘘おっしゃい。あなたは嘘をついてる。所轄のヒラ刑事のエビちゃんの目はごまかせても、名探偵であるこの丸出為夫の目はごまかせませんぞ」
「まあまあ、そう熱くなるな、おっさん。見苦しいぞ」海老名が丸出をなだめながら言った。「おそらく彼の左手の指先にタコができてるのは、趣味でギターか何かを弾くからじゃないのかな?」
「そうです。よくわかりましたね」若者は目を見張らせて言った。「正確にはベースですけど……大学のサークルでバンドやってるんです」
「ほらな、俺の方が詳しいだろ、おっさん。ギターやベースというのは、左手で弦を押さえながら、右手で弦をかき鳴らすものだ。右利きも左利きも関係ない。弦の数はギターが6本、ベースが4本だから、右手でかき鳴らす分にはそれほど手間はないけど、左手で弦を押さえる場所はたくさんあるし、弦も硬いからね。エレキならほとんど針金みたいな奴だし。だからたくさん練習を重ねていくうちに、どうしても左手の指先が痛くなって、やがて皮がぶ厚くなってタコができる。そういうものなんだ、おっさん。まだまだ修行が足りないよ。シャーロック・ホームズの足下にも及ばないね、マルデダメオさん」
「私は酒を飲みながら車を運転しませんが……」と丸出がムキになって言った。
「はいはいはい、わかったよ。とにかくもう一言もしゃべるな。こっちは仕事してるんだから。それでハヤシ君さ……」
海老名は、やっと落ち着いて仕事に入り始めた。
翌朝9時過ぎ。池袋北署の会議室は、刑事課、組織犯罪対策課の面々が集まって、さらに警視庁本庁からの刑事も加わり、合同の捜査会議が始まった。
「まず最初に銃撃された張徳倫ですが、とりあえず一命を取り留めました」河北昇二署長が開口一番、そう告げた。「弾が急所を外れていたのが幸いでした。応急処置も迅速だったことから、出血量もそれほど多くはなかったらしいそうです。今は麻酔で眠ってるとのことですが、意識が回復するのもそれほど長い時間はかからないでしょう。殺人事件ではなくなりましたが、殺人未遂、銃刀法違反、さらには窃盗と、事は幅広いものを持っています。ましてや白昼堂々、市民に対する発砲など絶対にあってはならないことです。一刻も早く事件の解決に向けて、皆さんの一致団結をお願いします」
「次に、犯行の際に使用されたと思われるバイクだが」刑事課長代理の戸塚明警部が発言する。外の陰鬱な雨空に対抗して、天井の蛍光灯の光をはげ上がった頭に浴びながら。
「今朝早く、地下鉄・小竹向原駅近くの駐輪場に停めてあったのが発見された。盗難届が出されていた。運転してた方の被疑者は、おそらく犯行現場から要町通りへ出て、小竹向原まで進んで、バイクを乗り捨てたものと思われる。その後の足取りは不明だが、現在行方を追ってる最中だ。あそこら辺は板橋区と練馬区とが入り組んでる場所だから、盲点になりやすい。その辺の土地鑑にも詳しい者の仕業ではないだろうか? 本庁や向こうの署の協力を取り付けているところだ」
以下、バイクスーツにヘルメット姿という、2人組の特徴に関する説明が始まった。バイクを運転していた方よりも、問題は後部座席から張徳倫を狙撃した方の被疑者。その狙撃手は、現場から百メートルほど離れた交差点を東側に曲がり、まっすぐ進んだ場所にあるコンビニエンスストアに、ヘルメットをかぶったまま入店。そのまま店内のトイレに入った。約5分後、トイレから出て来たのは、黒いタンクトップにジーンズの短パン姿の女性らしき人物。身長は1メートル5~60センチと小柄。背丈もほぼ同じ。大きなスポーツバッグを持ってそのまま店を出た後、その後の足取りは不明。
「おそらく同一人物とみて間違いないだろう。何としても、この女らしき人物の行方を探さねばならん」と戸塚警部は力を込めて檄を飛ばした。戸塚にそう言われると、その後光もあって、陽当たりの悪い場所でまだ咲いていないアジサイも、一気に満開になりそうなほどである。
「1つだけ、よくわからない点があるんですが」河北署長は怪訝そうな顔で言った。「2人とも腰のベルトの部分に『クマのプーさん』のキーホールダーを身に着けていた、ということですけど、目撃者の聞き込みを担当したのは誰でしたっけ?」
「僕です」と大森が言って、手を挙げた。
「どういうことなのか、もう少し詳しく説明してくれませんか?」
「2人とも腰の右側、ちょうど被害者が目に留めやすい位置に、プーさんのキーホールダーを身に着けていたのは、2人の目撃者から証言を得ています。キーホールダーといっても、縦10センチほどの小さな縫いぐるみに金具がついたもので、しかもプーさんといえば、黄色い身体に赤い上着という、おなじみの決まった格好なんで、一目でわかった、ということです」
「そうですか……そういえばプーさんといえば、今中国では禁止されているものですよね? そんなものをシンボルに使ってる犯罪組織や政治団体について、何か心当たりがありますか?」
署長が組対課長の大久保広道に聞いてみる。坊主頭に近い髪型に、鋭い目つきの彫が深い顔立ち。長身で横幅もある、少しやせた相撲取り。というより、暴力団員と肩を並べるとその親分にしか見えないような、強面の風貌を持った男である。大久保課長は、
「今のところは、そんな組織や団体の存在など、聞いたことがありませんな。現時点で我々のつかんでる情報といえば、撃たれた張徳倫は特定の犯罪組織や政治団体に所属してるわけではない、ということだけです。もっとも偏見で言うわけではありませんが、犯罪に手を染めてない中国人などいないに等しい、と言ってもいいぐらいですよ。みんな何かしらの人脈や金脈を頼りにして、悪いことをやってるはずです。張徳倫が撃たれたのも、撃たれるだけの理由があるからじゃないですか? 何か法に触れるようなことをしてるのは、絶対に確実です」
「なるほど、張徳倫という人物について、今のところわかっていることは?」
と署長が言うと、刑事課捜査1係の藤沢周一係長が、1年中今の時期のような黴臭い顔で説明を始めた。
「張徳倫は広東省出身。地元の大学を卒業後、30年ほど前に日本へ留学しに来て、香港の貿易会社の日本法人へ就職。その後、永住権を取得してます」以下、珠江飯店設立に関する経緯の説明が続いた後、「店の副店長でもある、妻の陳麗甜は現在46歳。同じく広東省出身で、日本に留学後、20年前に張徳倫と結婚してます。子供は息子が2人。19歳の大学生と17歳の高校生。いずれも日本生まれの日本育ちですから、日本人の通う普通の学校に通ってます。もっとも妻と上の息子とは、最近あまり張徳倫とは仲が良くないそうで。そこんところはエビ、詳しい説明を頼む」
「えーっと、俺が本人や従業員から聞き込んだ情報によると……」と海老名が、二日酔いで乱れた頭のねじを無理に回しながら、話し始める。「張徳倫は最近、店を他に売却して新しい事業を始めるとか言い出して、妻と大喧嘩してます。中国の世界的な大手携帯電話会社と契約を結んで、その販売代理店みたいなことをやる、とかいう話だそうで。今まで小さな飲食店を細々とやってきて、やっと軌道に乗ってきたところなのに、いきなり畑違いな事業をやり出して成功する見込みがあるのか、ということで、まあ皿を割りまくるわ、窓ガラスを割るわの、すごい喧嘩だったそうですよ。妻の陳麗甜は夫と喧嘩を始めては、すぐに仲直りするとか。気性の激しい性格みたいです。店の料理長が日本語で直接言ってましたけど、あの女は名字の通り、チンが付いてる、だとか」
「エビ、どうでもいいことは話さんでいい。今回の事件と関係のありそうなことだけを話せ」と藤沢係長が海老名を叱責した。
「……失礼しました。どちらにしても、今回の事件と妻の陳麗甜は無関係と見ていい、と思います。他人を雇って銃撃させるぐらいなら、まず先に自分が直接殺してやる、もっとも殺す気は全くないし、夫を愛してるから、そんなこと考えたこともない、夫を撃った犯人が憎い、とも話してました」
「張徳倫は上の息子とも仲が悪い、とも言ってましたね」署長が海老名に言う。「そこのところはどうなんでしょうか?」
「あの時、上の息子は外出中だったんで、直接会って話を聞いたわけではありませんが、ま、19歳ですからね。あの時期特有の反抗期なんじゃないか、というのが関係者の一致した意見でしたが」
以降、会議は延々と続く。とりあえずの緊急課題は、張徳倫を銃撃した狙撃手の行方を探し当てるということで意見は一致し、防犯カメラの分析や、現場周辺の聞き込みを強化することに重点を置くことになった。