第四話 追いかける
三時過ぎになると、瑠衣が盛んに携帯電話をいじり始めた。
「ねえ、今日飲みに行ってもいい?」上目遣いで見てきた。「昨日会った萌美ちゃんの誕生日パーティーをするみたいなの」
安西は考え込むように、視線を窓に向けた。
隣で緊張して答えを待っているのがわかる。
「ああ、行ってきなよ。どうせ酒を飲むんだろ。帰るのが大変だったら町へ泊まっていけばいい。
「ありがとう」瑠衣はほっと息を吐いた。
退屈な田舎暮らしの上に、将来見知らぬガキの世話をしなくちゃならないとなれば、瑠衣も嫌気がさしてきたのではないだろうか。
もしかしたら、このまま戻ってこなくなるかもしれないが、しょうがない。それよりもいいチャンスだ。
今夜、あのガキにすべてを吐かせる。二、三発ぶん殴ってやれば、全部喋るだろう。そうしてあいつを育てた奴に会って、かたを付ける。
場合によっては、更に死体を埋めなくちゃならない。
瑠衣は早々に元同僚の女のマンションに泊めてもらうよう算段をした。
これで今夜彼女が帰ってくることはない。じっくりあのガキを痛めつけてやれる。
五時過ぎになると、瑠衣は小旅行に出かけるかのように、ポロへスーツケースとハンガーにかかったままの服を詰め込み始めた。
「友達のおうちで着替えてから行くの」
言い訳するように、ソファへ寝そべっている安西に声を掛けて通り過ぎていった。瑠衣が出て行ったのは六時近くになってからだ。
「ねえ、ご飯食べたい」
横で葉子が呟いた。図々しいガキだと思いながら無視して、テレビを見続けていた。
午後七時、瑠衣たちのパーティーが始まる時間だ。そろそろ俺もパーティーを始める時間だと思い、思わず笑みがこぼれる。
ガキの保護者は俺から強請って金をむしり取ろうとしているのか。それとも警察に通報して、このガキに遺産を継がせようとするのか。
いずれにしろ、この問題を解決しないと俺は終わりだ。熱いものが体の芯を貫き、頭がクラクラしてくる。
「どうしたの?」
近づくと、不穏な気配を察知したのか葉子から表情が消え、妙に大人びた顔に見えてきた。
「お前、誰に育てられたんだ」
「自分で育ったんだ」
「バカ言ってんじゃねえよ」
一歩踏み出し、右手で頰を張ろうとした。
だが、手は空を切った。
バカな。
近距離だし、一切躊躇はしなかった。避けられるはずがない。
しかし葉子は安西の手が届かない場所にいて、ニタニタ人を馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
「ふざけんじゃねえ」
安西は間合いを詰め、今度は右足で蹴ろうとした。
しかし、またも葉子はひらりと躱してしまう。
葉子は走り出し、リビングを出て行った。
「待てよ、このクソガキ」
安西は葉子を追いかけ、薄暗い廊下に出た。
やばい、見失った。廊下には人影がない。
ギシギシと床鳴りする廊下を進みながら、ふすまを開けて部屋を見て回るが、葉子の姿はなかった。
外へ逃げられたらおしまいだ。
安西は焦りながらリビングへ戻り、玄関を見た。
三和土には葉子の小さな運動靴が残されているし、引き戸は鍵がかかったままだ。
ほっとしたが、窓から裸足で逃げ出したかもしれない。
窓を確認しようと振り返ると、目が合った。
葉子がニタニタべとつくような笑みを浮かべ、廊下の右手にある納戸から顔を覗かせて安西を見ていた。
「このガキが」
突進するように向かっていくが、ぶつかる寸前で、ひょいと顔を引っ込め、引き戸を閉めた。
安西は落ち着けと言い聞かせながら、納戸の前に立った。
この納戸は入り口が一つしかなく、他は大人が手を上げてようやく届く高さに、小さな明かり窓があるだけだ。
葉子はここから出られない。
引き戸を開けた。中は真っ暗で何も見えない。
右手で壁を探りながら、照明を付けた。
「えっ」と思わず声を上げた。
六畳ほどある部屋の中央の床板が、蓋のように開いており、ぽっかりと空洞になっていた。
こんなものがあるなんて、全く知らなかった。
部屋に入って空洞をそっとのぞき込むと、葉子の笑った顔だけが、暗闇の中で浮き上がっていた。
声を掛けようとすると、水面を泳いでいた魚が反転して底に潜っていくように、すっと闇へ消えた。