第三話 体操
リビングへ戻ってソファへ座ると、瑠衣が安西の向かい側に座った。
「あの女の子、どうするの?」
「とりあえず、明日知り合いに聞いてみるよ。俺も葉子に子供がいたなんて、初耳だからな」
「ねえ、本当に葉子さんの居所はわからないの?」
「わからないって言ってるだろ。何度も蒸し返すんじゃねえって」
「だって、今日もネギをもらったおばさんから、葉子さんはどうしているんだって、しつこく聞かれたのよ」
瑠衣は目を泳がせながら、何か言いよどんだように、口を開きかけて閉じた。
「なんだよ」
「他にもおばさんたちが近くにいて、これ見よがしにあたしに聞こえるような声で、葉子さんは山に埋められているんじゃないかって話してたの」
「田舎のババアなんて、みんなやることないから詮索好きなんだ。あることないこと言いやがって。いいか、これから近所の奴らとは一切話すな」
思わず声を荒らげた。
無意識に頰を手でこすると、表面にねっとりと脂汗が滲んでいた。
資産家の女が結婚して、間もなく消息を絶ったら怪しいと噂になるのは想定内だ。
いなくなって、半年もたたないうちに若い女を連れ込んだのなら尚更だ。
しかし、どんなに噂が立とうと、部外者が立ち入られる話ではない。
葉子に親族はいないし、親しい友人もいない。
おかしいと訴え出る権利があるのは、夫である安西だけだ。
あと一年すれば、庭に埋めた死体も白骨化しているだろう。
そいつを掘り起こして、バラバラに砕いて川にでも流してしまえばいい。
それまではここにいて、猿やイノシシに掘り起こされないよう管理していなければ。
七年すれば葉子も死亡扱いになって、晴れて自由の身だ。
絶対ばれやしない……はずだ。
*
安西はさっき突然現れた葉子の子供と名乗る女の子のことを思う。
彼女が本当に葉子の子供だとしても、どんな理由であれ、戸籍謄本に載っていないのだから相続には関係がない。
しかし、あいつかあいつの保護者が葉子の死を知っているならやっかいだ。
調べなければならないと思う。
不安であれこれ考え続けていたら、その日の夜は眠れなくなってしまった。
*
カーテンの隙間から薄明が漏れてきた頃、ようやく眠気がさしてきた。
気がついたとき、時計はすでに十時近くを指していた。
寝不足で重い体を引きずりながらリビングへ行くと、瑠衣と葉子がいた。
「ウデウデアシアシハラムネアタマ」
二人で拍子を取りながら、繰り返し歌っていた。
どういう意味なんだよと思いながら、ぼんやり葉子を見ていると、唐突に意味を悟った。
頭をひっぱたかれるような衝撃を受けた。
葉子はリズム体操のように、拍子に合わせて体を動かしていた。左右交互に自分の腕にタッチする。次に左右の太もも、腹、胸と続き、最後に両手で頭に触れた。
「腕腕足足腹胸頭」
全身に痺れるような感覚を抱きながらリビングを横切り、キッチンへ入った。震える手でコップを取り、蛇口から水を汲んで一気に飲み干した。
あの体操を教えたのは、あいつを育てていた奴なのか。
倒れてしまいそうな体を流しの縁を掴んで支えていると、瑠衣が横に来て、そっとささやいた。
「ねえ、食べ物がなくなっているのよ」
安西は上の空で視線を棚に向けた。「パンならあるだろ」
「あれはさっきコンビニへ行って買ってきたの。朝見たら、棚に置いてあったパンがなかったのよ。それに」
瑠衣がTシャツの裾を引っ張って冷蔵庫へ連れていく。
「これを見て」
冷凍室を開けた。中は氷しか入っていない。買ったばかりのように、白い底が見えていた。
「どうした。何にも買ってなかったのか」
「違うの」瑠衣が睨み付ける。「いつも冷凍室に入りきれないぐらい詰め込んでたわ。それに、昨日チャーハンを作ったのを見てたでしょ。あのとき半分だけしか使ってないの。残りは戻してるわ」
「だったら、食いもんはどこへいったんだ」
「それを聞いてるのよ」
瑠衣はチラリと葉子を見た。彼女は一人で例のリズム体操をしていた。
「あの子が全部食ったってのか」
瑠衣は首を振る。「いくらあの子が大食いだからだって、一晩で全部食べられるわけないわ。パッケージだってないのよ」
「誰かが持ち出したのか」
「そうとしか考えられないわ」
瑠衣が不安そうにまぶたを震わせた。
昼は三人分の寿司をデリバリーした。安西がお茶だけ飲んで「いらないや」と言うと、すぐに葉子が目を輝かせて「あたしに頂戴」と言った。
安西が頷くと、葉子は手を伸ばして安西の寿司をひったくるようにとった。
醤油も付けずに一貫ずつ口へ放り込み、全部平らげた。
安西と瑠衣は顔を見合わせた。
葉子はそんな二人の様子も気にならないのか、満足そうにお茶を飲み干し、ふうっと息を吐いた。
家の外へ出て、ぶらぶらと庭を歩く。
庭といっても一切手入れはしていないので、雑草が生え放題だった。
小ぶりな木も生えているし、塀で仕切られていなければ、外の森とほとんど変わらない。
安西は庭の中央に立ち、足の指に力を入れて、土の感触を確かめる。
大丈夫、掘り起こされてなんかいない。葉子はこの下で今も腐り続けているはずだ。
しかし、あのガキの歌は何なんだ。あいつに歌を教えた奴は、俺に、全部知っているぞと警告したいのだろうか。だとしたら、どうやって知ったのか。