第二話 子供
「どうかしたの」
背後から声が聞こえてきて振り返ると、瑠衣が車から降りようとしていた。
彼女はまだ酔いが抜けていないのか、ふらふらとおぼつかない足取りで近づいてきた。
「あら」
安西の影になっていたのか、彼の横に来て、初めて女の子に気づいたらしく、目を丸くして彼女を見下ろした。
「あたしね、葉子の子供。ここはあたしのおうち」
「ふうん」
瑠衣はわずかに笑みを浮かべた後、安西に視線を向ける。頰は笑ったままだが、眉間へわずかに皺を寄せていた。「どういうこと?」
「俺だってわからないよ」
安西はしゃがんで女の子に目線を合わせて話しかけた。「いったいどうやってここへ来たんだい」
「歩いてきた」
「歩いてって言っても、町からここへ来るまでは、道は暗いしずっと坂道だし、相当な距離があるんだよ。
おじさんたちは、ゴミ出しだって車を使っているくらいなんだから」
「でも、歩いてきたの」
「じゃあ、どこから来たの」
瑠衣も安西の隣にしゃがんで女の子を見た。
「あっち」女の子が指差した先には山しかない。
山を越えてもまた山だ。
「お父さんとお母さんはどこにいるの」
「お父さんとかお母さんはいないよ」
「保護者みたいな人は」
「いないよ」
安西と瑠衣は顔を見合わせた。どうしようかと思う。
無意識のうちに左腕をかじっていると、たちまち痒みがひどくなってきた。
いつの間にか蚊に刺されたらしい。
このまま外で話を聞いているわけにはいかない。
かと言って、こんな遅い時間に小さな女の子を外へ追い出すわけにもいかなかった。
「とりあえず、家に入ろう」
瑠衣に女の子と一緒に玄関へ回って入るように言う。
安西は再びメルセデスへ乗り込み、シャッターを開けて中に入った。
リビングへ行くと、女の子がソファに座っていた。
緊張した様子はなく、むしろ、寝転ぶように頰まで背もたれに押しつけて、リラックスした雰囲気を漂わせていた。
瑠衣がリンゴジュースを注いだコップをトレイに載せて入ってきた。
「はいどうぞ」
リンゴジュースが差し出されると、女の子は「ありがと」と言って一気に飲み干した。安西と瑠衣は女の子に向かい合って座った。
「最初に、君の名前を教えてもらえるかな」
「葉子」
「葉子って……さっき君は葉子の子供って言っただろ。葉子はお母さんの名前じゃないのかい」
「でもあたしは葉子なの」
「なに……」
安西は子供が嫌いだった。赤ん坊を見て和んだことはないし、コンビニで騒いでいる子供と居合わせると、思わず怒鳴りたくなってくる。
こういう訳のわからない話をされると、瞬間的に怒りがマックスに達するが、瑠衣がいたので、かろうじて口に出さずに済んだ。大きく息を吐き、怒りを静める。
「じゃあ、葉子ちゃんでいいじゃない。
もしかしたら、何かあって記憶が飛んじゃってるかもしれないわ」
外にいたときはいぶかしげな顔をしていた瑠衣だが、今は女の子に優しげな視線を向けている。
「わかったよ」正直、葉子なんて言葉を聞くたびに虫唾が走るのだが、仕方ない。
「警察か児相に電話した方がいいかな」
「ちょっと待て。もし本当に葉子の子供だったら、俺が保護しなくちゃならないんだ。
後で役所の出る問題じゃないなんてわかったら、いい恥さらしだ。
ある程度事情がわかってから考えることにしよう」
「うん、わかったわ」
安西は表面上落ち着いていたが、内心では瑠衣が言い訳に納得してくれてほっとしていた。
役所に通報して、余計なことまで探られたら、たまったものじゃない。
女の子は安西と瑠衣のやりとりをニコニコほほ笑みながら見ていた。
見知らぬ大人二人が自分の処遇について話し合っているというのに、不安なそぶりは一切見せなかった。
「葉子ちゃん、お腹すいてない?」
「うん、ペコペコ」
「じゃあお姉ちゃんがチャーハン作ってあげるね」
瑠衣が立ち上がり、キッチンへ向かった。葉子と二人だけで向かい合ったが、喋り出せば言葉を荒らげてしまいそうで、押し黙っていた。だんだんと気まずくなり、トイレへ行くふりをしてキッチンを覗いた。
自炊はしていないが、冷凍庫に大量の冷凍食品はストックしていた。瑠衣はその中のチャーハンをフライパンに開けて、コンロで温めていた。
ふだんならこんな作業だけでもブツブツ文句を言っているのに、今はなんだか楽しげだ。
「あたしは昔、保母さんをやってたの」瑠衣が安西の非難めいた視線に気づいたのか、言い訳をし始める。
「給料がバカみたいに安くて辞めちゃったけど。だけど元々子供を世話するのは好きなのよ」
こんな奴と結婚したら、子供を最低三人欲しいとか言い出しそうだな。やっぱりとっとと追い出した方がいいと思う。
「ちょっと作りすぎじゃないのか」
フライパンから皿へ移されたチャーハンは大盛りだった。
大人が空腹で食べても少々きついくらいだ。ましてや十時過ぎに小さな女の子が食べられる量ではない。
コンロの周辺にはご飯粒が飛び散っているし、やはりこいつは料理が下手なんだと思う。
「食べきれなかったら捨てればいいじゃない」
瑠衣はフンと鼻を鳴らして、チャーハンとスプーンをリビングへ持って行く。
その金を出してるのは俺だぞとでかい声を出しそうになるが、こちらを見ている葉子と視線が合って口をつぐんだ。
「さあ召し上がれ」
「いただきーまーす」
葉子は差し出されたチャーハンを躊躇なく食べ始める。
苦しそうになったら無理しなくて食べなくてもいいぞと言おうかと思ったが、予想に反してあっという間に全部食べきってしまった。
「あらあら、よく食べるのね」
これには瑠衣も目を丸くした。
ここへ来るまでに、何も食べていなかったのだろうか。
葉子はスプーンを置いて唐突に目を閉じると、体をゆっくり揺らし始めながら船を漕ぎ始めたかと思うと、ソファへ倒れこんだ。
「寝ちゃったよ」
瑠衣はまるで、自分の子供のような愛おしそうな目をして葉子をのぞき込んでいた。
同意を促すように安西を見たが、反射的に目を逸らす。家族みたいな雰囲気を作るんじゃねえよと思う。
「ねえ、このままじゃあこの子風邪引いちゃうよ。どっかに寝かせないと」
「そうだな、ちょっと布団を探してくる」
何しろだだ広い家だ。寝る場所ならいくらでもあるが、問題は布団がどこにあるかだ。
安西はここに住み始めて半年だが、使う部屋は限られていたので、すべての押し入れを確認していなかった。
西側の外れにある部屋で、ようやくかび臭い臭いの布団を見つけて広げた。
「起こすのはかわいそうだから、抱きかかえて部屋まで運んでいってよ」
母性が出てきたのか、瑠衣が急に命令口調になってくる。蹴り倒して起きろと怒鳴ってやりたかったが、そんなことをしたら瑠衣が児相に通報しかねない。
仕方なく、葉子を抱きかかえた。
似ている。いや、そっくりだ。
葉子から発散される酸っぱいような体臭は、三ヶ月前に抱きしめた葉子と同じ臭いだ。
やはり、この子は葉子の子供なんだろうか。
安西は心臓が激しく鼓動しているのを感じながら、女の子を布団のある部屋へ移した。