それぞれの事情
五 それぞれの事情
Each circumstance
二学期が始まった。直矢のクラスは特に目立った変化も無い。さすがに初めは浮ついたところもあったのだが藤堂先生がうまくみんなを取り繕う。授業はすぐ落ち着きを持った。天雲武はと言うと日に焼けた肌にさらに磨きを掛けたようでその眼も変わらずギラギラとしている。ただし、直矢に対しては眼中に無く、今は専ら秋季大会に向けての練習に夢中なようである。それでも相変わらず二、三の嫌みを言われたけれどそれ以上は特に無かった。それにしても、変わらず神月侑來が絶妙な間で取りなしてくれるので大事には至らなかった。また助けられたと直矢は思った。侑來も部活が忙しく真っ黒になっている。みなギラギラした目で授業を受けているのに気づいた。直矢はそんなみんなの顔を見るとなんか滑稽だなと一人で思い出し笑ってしまうのだ。
「おーい、瓜生、何がそんなに可笑しいんだ」藤堂先生が背後から声をかけて来た。
「ああ、先生。別に大した事じゃありませんよ。何かみんな真っ黒な顔をして目だけ光っているような気がしたから」
「目が?そりゃ、それだけ充実しているからって事だろう。直矢はどうなんだ。そう言うお前も真っ黒な顔してるじゃないか。随分出歩いたようだな」
下校の時間、廊下を歩いていたら藤堂先生に声をかけられた。先生から見る直矢も他の生徒と変わらずこの夏休みをスレる事も無く楽しんだうちの一人だ。藤堂先生としては一安心な事である。ただし、他の生徒と違うのは直矢が何に夢中になりこの夏休みを過ごしたのかは先生と一部の人間にしか理解出来ない事。藤堂先生はちょっと見なかったうちに随分たくましくなったものだと感じていた。それに二学期早々驚いた事がある。あれ程遅れ気味だった勉強をスッカリ取り戻しているではないか。何があったのかは想像はしていた。それは、それとなく神月侑來や天雲武から直矢が図書館に籠もっている事を聞かされていたからではあったが、これ程までとは思っていなかったからである。
「随分、勉強していたようだな、直矢。驚いたよ」
「別に、先生。時間があったからやっただけだよ。それに、見沼をあっちこっち調べていたから、また、疑問になっちゃうんだよなぁ。それで図書館に行くんだけど、ずっと調べるのも飽きちゃうから、それに……」
「それに?」
「いや……」直矢は多美との事を言うのを躊躇った。と言うのは、まだ自分なりの説明が付かない状態では先生に話してもまた答えの無い終わり方をし兼ねない。だからもう少し自分の考えがまとまってからだと思った、それに、多美への感情が日に日に強くなっている自分がいる。この思いをぶつけて良いものか分からなかった。第一そんな事を先生に話しても仕様が無い事だろう。先生はしがない独身なのだから。この人に彼女の事を話しても無駄だろう。そんな事を咄嗟に感じた。
「先生、見沼で見て来た事を一度聞いて貰いたいんだけど」
「見沼?、ああ、かまわんよ。ただし、あれから先生の方はこれと言って進展はないぞ。それにお前が求めている答えとはどうも違うようだからな」
(そうかもしれない)
「そうだね、先生。オレもそう感じる時がある。でも、何処かで違った考えをぶつけなければどうも先が見えないんだよ」
「ああ、鎌わんさ。それなら、秋季大会が終わった頃にでもやるか」
「えっ、そんな先!」
「忙しいんだ先生は。それに、あいつらが居た方が良いだろ」
「いやいや、なんで、関係ないじゃないですか」
「そうか、そうでもないだろ」
「……」
「天雲もな、今一番気合いが入ってるからな。神月もマネージャーとして世話するのに集中してるし。でも、あいつら顔を合わせるとお前の事を聞いてくるんだぞ」
「なんで?」
「そりゃ、先生にも分からんよ。お前がどれだけ見沼の事調べているのか気になるのだろうよ。あいつらにはそんな余裕ないからな」
「どうせ、県大会は無理なんだろ」
「こら、人が一生懸命やっているのにそんな事言うな。瓜生に何が分かる」
「だって……」
「だってもない。いいか、武はアイツ、この大会でサッカーを止める気で居るんだぞ」
「え?」どう言う事だと思った。
「あいつ、大会が終わったら勉強に集中するそうだ。最も籍はそのままだが三年の大会に出ないと言っている。受験勉強に集中するそうだ。あいつは塾には行けないと言っているから早くから受験対策したいらしい」
「どう言う事?」
「まあ、ここだけの話だ。武の親は経済的な余裕が無いから公立しか行けないらしい。いい大学に行くにしても近くで国公立しかダメだそうだ。アイツはその選択肢の中で最高を目指すと言っている」
藤堂先生はそれがどう言う意味を持っているのかを直矢に考えを促した。直矢には理解出来なかった。知らなかった。図書館で会った時もあいつは少しビックリしていた。その時はオレが図書館に居るものだから、落ちこぼれのオレが居たからビックリしたのだと思っていた。
「T大を目指すそうだ。だから、高校もそれを狙える高校に行くと言っている」
「U高?」
「多分な」
「知らなかったよ、先生。あいつがそんな事を考えて居るなんて、でも、なんでそんな事を考えて居るヤツがオレなんかにちょっかい出して来るんだろうか」
「うーん、一つはひがみ?もあるだろうな」 「ひがみ、オレに?なんで」
「お前は鈍いな。お前さんは武達に比べると恵まれている方なんだぞ」
「恵まれてる?分かんない」
「かぁー、少しは大人になれ、もっと周りを見るんだよ直矢。いいか、よく聞け。お前さんは両親が居て暮らしも比較的不自由無く生活しているだろ、好き嫌いも言えてどちらかと言うと自分のしたいようにしてきた」
(何も言えない。)
「それに比べて武達は満足に遊ぶ事も出来ず、唯一サッカーだけはやらして貰っているんだ。アイツは成績優秀でスポーツも長けてるイメージが強いけど、塾に行っている訳でもなく全部独学だ。常にトップを狙えるように放課後、一人で勉強しているんだ。ただな、最近学校で勉強していると邪魔が入るらしい」
「それで図書館に……」
先生は黙って頷いた。あの時驚いたのはオレが勉強しに来ているから驚いたのではなかったのだ。アイツはそもそも図書館で勉強をしていたのだ。オレなんかよりもずっーと前から。そこにオレが居たから驚いただけなのだ。
直矢は少し武の見方が変わったような気がした。
「アイツらって?」
「分からないか。侑來だよ」
「え?侑來。アイツも?」
「そうだ。侑來も訳ありでな。お父さんが転勤族で小さい頃から転々として来たと言う。中学に上がって東京に来たんだ。大宮でやっと落ち着く事ができるようになったと聞いている。でもお父さんは単身だそうだ。お母さんも働いているから家の事は侑來がやらなければならない。下に弟妹が居るから面倒を見るのは侑來の仕事だそうだ。それに比べたらお前は……」冷ややかな眼差しで直矢を見る。
直矢は下を向いて何も言えなくなった。
直矢は図書館に行くため校舎を出ると校庭では野球部、サッカー部がすでにウォーミングアップを始めていた。それを横目に足早に進んだ。その時だった。
「直矢、今日も図書館か」天雲武だ。
何も答えずジロッと睨む。相変わらず黒い顔には敵対した気配は感じられなかった。
「オイオイ、睨むなよ。それよりどうなんだ例の件は」
直矢は首を横に振るだけだった。どうしてこいつが話しかけて来るのか。それでも藤堂先生から聞いた話が思い出される。だから敵対するつもりは無い。無いけど、何時もの調子になればまた何を言い出すかは分からないではないか。だから、無言で返したのである。
「先生から聞いてるぞ。オレも後もう少しで切りが付くからそうしたら聞かせてくれ。それじゃあな」と右手を軽く挙げると武は輪の中へと戻っていた。「一寸まて……」と言いそびれてしまったが、輪に溶け込んだ武を見届けるとヤレヤレと首を振り、図書館に向かった。先生からあんな事を聞かされたものだから、どうも何時もの様な調子になれない。気がつくとあれ程いがみ合っていたのが今では静かなもんで、それこそクラスの皆も二人が啀み合っていたなんて事を忘れている程だった。
ふっと直矢は黒山院で会った、あの女の人を思い出した。ポケットの石を握りしめると、あの人はこの石を一目見るなりくれと言って来た。この石に不思議な、いや、それよりも初めて会ったにも関わらず、ポケットにこの石がある事を見抜いた。
「この石にはどんな力があるのだろう」と呟く。いや、あり得ない。石に力などとは……、でも、こうやって石を掲げると多美と会えるのも事実ではないか。多美はこの石と繋がっている。
プラザノースとの連絡路へと進む。そして歩道橋を渡り、図書館へと向かう。
「直矢!」
辺りを見回す。建物の柱の陰に多美を見つけた。
(やはり!)
「多美!」視線を見開くように多美に向けた。(この石、やっぱり……)不思議だと思っていた直後だけにその衝撃が大きい。少々背筋に冷たいものを感じるも(悟られてはいけない。)と直感的に思う。直ぐ表情を戻すと
「急にビックリするじゃないか。今日はどうしたの」(悟られてはいけない)
「ふっ、ふっ、ふっ、ビックリしている」と一寸茶目っ気を帯びた表情をしながら多美が寄って来た。
「今日は?、また、お使い」
「そう」
「自転車は?」
「今日は乗ってきていないの」
「歩き?もうすぐ十月になると言ってもまだ暑いでしょ」
「十月?そうね。でも、真夏に比べれば過ごしやすくなったわ」
「それはそうだけど」多美は勘が鋭い。下手に表情に出せば見破られてしまう。自分が感じていた事が今、目の前で起きた事で直矢は動揺していた。と、同時に説明が付かないのだが一つ分かった事がある。石と多美が何らかの力によって繋がっている。この石に何か細工がされているのか。もしかしたら中に発信器が入っていて、オレが触ると反応する。いや、だったら何時もポケットに入れて居るのだからスイッチが入りっぱなしになるはずだ。そんな事ぐらい中学生の自分でも分かる事だ。理解出来ない。とにかく見透かされる事を避けなければならない。直矢は出来るだけ考え過ぎないように意識していた。
それでも、勘が鋭い多美だ。「どうしたの、直矢。何時もと変よ」と勘ぐる。
「いや、どうしてってさ」
「何か、何時ものように直感が利かない。直矢が何を考えて居るのかが見えない」と少し困惑した表情を見せる。
しめた。こちらの思った通りだ。すると
「オレ、これから図書館なんだけど」と方向を指差した。すると、それを見て多美も理解したようで「そう。わたしもこれから仕事があるから」と言うと表情が少し寂しそうに見えた。それを見てか、直矢は言い訳するのではないけれど「ごめん。平日は出来るだけ勉強したいんだ。オレも多美と会いたいと思ってたけど、夏休みの時みたく出来なくなってしまったから」
「勉強。大変ね……」
「多美だって学生だろ」
「わたしは……、仕事が勉強だから。それに」
「それに」
「うんん、そうよね。学生は勉強しないとね。それじゃ」
帰ろうとする多美を直矢は反射的に手を取り止めた。多美はその行動に少しビックリし、緑色の目を見開いた。が、直ぐ暗い表情に戻る。それを見て直矢は無意識に言葉がでた。
「オレも会いたい。毎日でも多美と会いたい。でも、オレには分からなくなってきた。多美は一体……」と言いかけた。
「気にしないで、直矢。それよりもお休みの時にまた会いましょう」と立ち去ろうとした時、
「それよりも、一緒に図書館に行かないか!オレは勉強しなければならないから横に座って居るだけだけど、暇なら本でも読んでいればいいから」と直矢は多美の手を握る力が入る。それを感じたのか一度その握られた手を見詰めると、多美はコクリと頷いた。直矢は嬉しかった。どうも強引に引き留めてしまったカンがあって少々後ろめたいが、多美に会いたかった事に変りはない。直矢は多美の手を取り図書館へと向かった。
図書館では何時もの窓際の席に座ると多美もその横に座る。直矢はそれから勉強に集中する。
時間を忘れて集中していた。
多美が上目遣いで直矢を見上げ、袖を引っ張っていた。
(ツンツンと――――)
一時、全くと言って良いほど多美の存在を忘れていた。さっきとは違った戦慄を感じる。 (あっ、多美を忘れていた!)
不満げな表情をしている多美。直矢はゆっくりと席に座り直す。目を合わせる事を極力避ける。犬猫と同じ思い。チラッと目を合わせると多美の不満そうな顔がそこにある。
「何、読んでたの」精一杯だった。
すると多美が察するようにゆっくりと言う。
「何って、さっきから直矢の横に居たのよ。すっかり忘れて居たでしょ。今日の直矢は変ね。心が読めなかったり、わたしの存在を忘れて居たりと」と腕組をする。何処かの国では腕を組むとは敵対の意志を示したものと聞いた事がある。今の多美は正に直矢に不満を現わしているのだ。直矢はたじろぐもどうこの場をとりつつくれば良いものかを考える。すると不思議な事に、焦りが引いてくると今度は言い訳がましい事を考え始める。女と居たら何時もこんな事に悩まされるのだろうか。
その時、直矢は多美が読んでいた本に目が行った。
「多美、その本」
多美はほったらかしにされていた事に不満があったのではないが、今日の直矢は何時もと違う事に戸惑っていた。別にからかっている訳でもないのだが直矢が動揺しているのが面白いだけで、別に待つのが苦ではない。ただ、人間が記録したこれらの記述に少し思いを感じていた。記録は正しい側面があると思えば異なる部分もある。それでもここには龍に関する記述が少なからずあるのだ。直矢のように興味を示してくれた者は見るだろう。でも、ここにある記録の殆どが既に完了したもので、新しい記述については記録されていなかった。これだけのものがここに眠っているのだ。それはこれまで見て来た見沼と何ら代わりがないではないか。
「直矢はここの本を見て調べていたのね」
「ああ、そうなんだ。その本は一寸難しくて読んでいないけど、もっと薄っぺらくて個人の見解とか書いてある本があるんだよ。純粋な記録より、誰かの解説が入っている方が読み解きやすい。最もその場合その記述者の考え方がそのままインプットされてしまう弊害があるけれど、似たような文献があるんだよ。視点が異なる見解が幾つかあると面白い。するとそこから自分なりの解釈が見えてくるんだ。オレは藤堂先生みたいに研究者じゃないからそんなに詳しくなくてもいい。触りが分かればそこから自分なりの解釈をしていくのさ」
「それじゃ、間違った解釈をしてしまうのではない?」
「うーん、そうだね。多美とこんな話するとは思っていなかったけど、そもそも何が正しいのか分かったもんじゃない」
「……?}
「昔と今と比べると解釈が異なる事があるんだって、藤堂先生が言ってたよ。歴史なんて日々解読されているからいつ解釈が変っても不思議じゃないって、オレも同じだと思っているんだ。ここに書いてある事は記録からすると今は正しい。でも、オレが今まで多美と見て来た見沼の事と比べると、どうも今の歴史の認識と違うのではと思うところがあるんだ。オレは歴史学者でも何でも無いからそれこそ間違っている事は重々認識しているけれど、正しいと言っている事も何を持って正しいと言えるのか分からないと思うんだよ」
「そうね、直矢の言う事は正しいと思う。実際、これらの記録は人間の視点で書かれたもの、神が記録したものではないから。第一、言い伝えも見沼の開拓も人間の正当性を記しているものばかりじゃない。あの時反対した人間も確かに居たのだから。彼らの声があってもおかしくないと思う」
直矢の言う事に多美は少し元気をもらったような気がした。
「お友達はどうしてるの?」多美が訊いた。
「友達?ああ、あいつらか。どうもしやしないよ。あいつらはただ興味本位で首突っ込んでいるだけだから」
「あら、直矢も同じ事じゃなくて」
「そんな事ないさ。オレは……、オレはただ……」
「ただ?」
直矢は多美に指摘された事に反論が出来なかった。自分だって興味本位でやっているだけなのだから。
「あいつらは今忙しいって、中々調べる事出来ないみたいだよ。オレは部活サボってるから出来るようなものだけど」
「あら、それは良くないわね。部活やらなくていいの」
「あんな部活。部活動じゃないよ」
「でも、自分で選んだんでしょ」
「楽そうかなって思って、第一、今何人が活動しているかも分からないし、それにオレは嫌われているから」と下を向いた。
それを見て多美は直矢の揺れている気持ちが少し理解できるような気がした。この子はまじめで興味を示せば一生懸命になれる子、周りから誤解されてはいるけど、本当は何かに夢中になりたい。学校の友達はどんどん先に進んで行くのに自分は取り残されてしまったと思っている。
「直矢」多美は図書館の入口の方を指差すと「あれ」と言った。
視線を向けると、武と侑來が入ってくる。キョロキョロとしているかと思うとこちらに視線を向けた。
「武と侑來、どうして図書館に……」直矢は多美と居る所を二人に見られたと思うと恥ずかしかった。二人がこっちに向かってくる。なんて説明したらいいのだろう。「逃げろ!」とも思った。でも、そんな行動さえも出来なかった。こちらを見つけると二人は申し合わせたように笑うのが見える。何やら話ながらこちらに来た。
「よう、直矢。やっぱりここだったのか」
「ああ、なんで来たんだよ。部活だろ」
「なんでって失礼な言い方ね。部活を少し切り上げて来たのよ。直矢にばっかりやらせてるから、わたし達も少しやらなきゃって思ったから」
「……そうなんだ」
侑來はそれよりも直矢の横に居る多美に視線を向けている。多美はコクリと挨拶すると侑來も挨拶を返す。多美は静かにほほ笑んでいる。武も軽く会釈をするも、周りを気にしていた。館内で話をしていると他の人に迷惑になるだろうと武達に促され、直矢と多美は外に出る。外と言ってもホール内である事には変りは無いのだがベンチが空いていたのでそこに三人、直矢が真ん中で左右に侑來と多美が座る。そして武は立ったままで話しになった。
武と侑來にとっては千載一遇の機会と言って良いだろう。直矢の話題の端々に出てくるあの女性に会う事が出来たのであるから。二人は直矢と多美に訊きたい事が沢山ある。対して何を言われるか戦々恐々とする直矢。多美はと言うと至って落ち着いており堂々としたものである。侑來達から見ても明らかに年上の女性である事は明白で、いきなり馴れ馴れしいのもマズかろう。ここは直矢を問い詰めるしか無いと思っていた。ところが、侑來も武も多美に釘付けになる。緑の目をした可憐な表情をしている多美を見たら、そんな事はすっかり忘れてしまった。二人にとっての興味の対象は多美なのであるから。
「綺麗な目。緑色をしている」と侑來が呟く。
武は一言も話さず侑來が興味を示す方へ視線を向ける。鈍感な直矢でさえ二人の興味が多美である事は直ぐ分かった。侑來が呟いた言葉に直矢が直ぐ反応する。
「そうなんだ。オレもさ、初めビックリしちゃって、珍しいよな」と直矢。
「東洋人には少ないけどな、居る事は居るらしい」と武も(綺麗な女子だ!)と見入る。
「わたし、神月侑來です」
「オレ、天雲武!」
多美は二人の顔を交互に見ると「侑來さんに武さん。こんにちわ、多美です」と三人は挨拶を交わした。直矢はと言うと何でこうなるのと言いたげに三人のやり取り見ていたのだが、何処か取り残されている感じがした。
「直矢のお友達?」と多美は直矢に聞き返す。
「クラスメート」と言い返した。
「同じ事じゃない」すぐさま反論する侑來。
「友達じゃあないけどな」と武が付け足した。
「お友達じゃないの?」と直矢を見ると直矢は床を見て不満げな表情をし、「友達なんかじゃないよ。それよりも調べに来たんだろ」と直矢が語気の強い言い回しをすると二人はヤレヤレと言った感じで顔を見合わした。二人は直矢が図書館に行くのを見かけると、宿題の事があったので追いかけて来たのだと言う。だから、調べに来た事は間違いではないのだが目的は直矢と謎の女性、多美に会いたかった事だった。直矢は二人がそんな事を考えて居る等とはつゆ知らず無防備であった。
「多美さん、高校生?」
「そうよ」
「何処の高校」
多美はしばらく考えると「出雲女子校」
「女子校なんだ。初めて知った」直矢が反応する。そう言えば多美が何高だか全く気にしていなかった。と、直矢は反省する。
「わたしも出雲から転校して来たんです。出雲女子校ですか、その制服可愛いですよね。それにもうすぐ冬服になるともっと可愛い」
「そうね。わたしは言われるがままに進学したから気にしなかったけど。それよりも冬服……ね」と多美は思慮深く反応した。
「どうして直矢みたいなヤツといっしょなんですか?」と武が唐突に質問する。
すると多美は「付き合ってる?」と少し目を見開くとすぐ直矢を見た。直矢はと言うとその言葉に動ずる事は無かったが、ふて腐れた表情でやっぱり多美を見詰める。それを見て何を感じたのか多美は可笑しくてたまらず「くっ、くっ、くっ……」とお腹を抱えて笑い始めた。
侑來と武は少々拍子抜けするも、はぐらかされているのではと疑念を持つ。二人は分かりやすく、多美からすると、二人にはありありと表情に出て居るので、益々可笑しくてならない。多美は笑いが止まんなくなってしまった。
多美が笑っている間三人は次第に拍子抜けしていく。何が可笑しいのか分からない。等の直矢にしても多美が好きである事には間違いないが、自分と多美とでは不釣り合いだ。それに多美には謎が多い。直矢は多美が自分の事をどう思っているのか知りたいと思っている。と言うか、侑來達が言うから初めて意識するようになった。
(多美はオレの事をどう思っているのだろう……)
三人が屈託もなく話しているのを見ていると次第に表情が真剣になっていった。
「ハーフじゃないの!」
「ハーフ?、ハーフって何?」
「外国人との混血の事ですよ。見かけはわたし達と同じに見えるけど目が綺麗、それに……」
「それに?何?」
「髪の毛の色も何処か色が入っている」
侑來の忌憚のない問いかけに多美は少し口ごもるも、改めて指摘された髪をその細く引き締まった手で撫でる。毛先を目で追うとなるほどと感じた。
侑來と武は矢継ぎ早に質問しまくる。多美はそれに対して丁寧に答えていた。その光景を直矢はただ見ているだけしか出来なかった。質問は今課題としている氷之川神社の事にまで及んだ。
「ねえねえ、多美さん。多美さんは氷之川神社で勤めているのでしょ」
「そうよ。小父の身の回りのお世話をしているの」とほほ笑む。それに気を良くしたのか侑來はあれこれと多美と話に夢中になる。男どもはと言うとそんな光景を見てただ黙って頷くだけだ。話題が氷之川神社がどうして現在の場所にあるのかと言う内容になると多美は少し物思いに浸る仕草をする。いや、直矢にはそう見えただけなのだが、多美は寂しそうにする訳でも無くただ、何かを思い浮かべているように感じた。ただ、明確な答えと言うものは無かった。二人がどう感じたのかは知るよしも無い。直矢だけが感じた事なのかも知れない。
四人は図書館を後にすると、直矢と多美は土呂駅に向かった。武と侑來は方向が同じなので一緒に帰る事にした。
「どう、思う。あの人」武が侑來に訊いた。
「どうって」といきなり訊かれたので戸惑う。
「いやー、綺麗な人だよな。多美さん」
「そうね」
「どうしたんだよ。侑來」
「別に」
「やっぱり、お前」
侑來は武が何を言わんとするのかを察すると、それを遮るように「何、勘違いしているのよ。わたしが考えていたのはそんな事じゃないんだから」
「じゃあ、どう言う事だよ」
「それは……」
「あれは、直矢の方がゾッコンだな。オレだったらそうなる」
「そう」突き放すように答える。
それに気にする事無く「だってそうだろ。美人である事もそうだけどなんか不思議な感じがするんだよな。こう、神秘的と言うのか……」
「どう言う事」
侑來は武に詰め寄る。
「どうって、よく説明出来ないんだけどさー、何か一緒に居る時、フワフワしていて何か光に包まれていたような感じがしたんだよ。そんな事はあり得ない事なんだけど、確かに感じたんだよ」
多美が言っている事に偽りがある事を侑來は分かっていた。出雲女子校など存在しない事を。それは侑來が島根に住んでいたから分かった事だった。でも、侑來は武にもさっきの場でもそれを口にする事が出来なかった。
それから幾日が過ぎた。
「ほー、中川神社に行くって!お前達も大したものだな、飽きずにまだ調べているなんて。先生は関心したぞ」
珈琲も何時ものドリップに戻り、準備室の中は珈琲の香りで満ちあふれている。やっぱり珈琲は香りを楽しむものだ。等といっぱしの事を考えるようになるとはオレも分かる男になったものだと満足する。
「中川神社は既に分かっているように中氷之川神社と言われるように大宮の氷之川神社、緑区の氷之川女體神社と並び三番目の氷之川神社と言われている。ここに示すのは武蔵一宮である氷之川神社の事だ」ホワイトボードになぶり書きで三社を書く。ライトテーブルには例の見沼を現わした古地図が広げられている。四人はその中の中川神社の印を見た。
「御祭神は大己貴命で後の大国主命だ。分かるな」
「出雲大社の御祭神。国造りをした神様の一人」と武が答える。藤堂先生は頷くと更に
「多くの姫と結婚するのだが最初の奥さんが須佐之男命の娘でスセリビメ(須勢理毘売命)だ。つまり須佐之男命と櫛名田比売の義理の息子になる訳だな。別名が簸王子社とも呼ばれている」
「簸王子社とはどう言う意味ですか。先生?」
「簸とはひる。穀物のクズを取り除く、篩いにかけるて選別すると言う意味になるのだそうだ。音読みではハと読むのにここではヒオウジと読む。経緯は分からないがもしかしたら氷之川と言う読み方の韻を踏んでいるのかもしれない。オオナムチノミコト(大己貴命)は大国主命としての名の方が有名だがここではあえてオオナムチノミコトとしよう。それは大国主命とされるのは後の天照大神に国を返し出雲大社の主祭神となってからだと考えているからだ。そして、オオナムチノミコトは須佐之男命の娘、スセリビメに求婚するのだが須佐之男命から様々な試練を与えられる事になる。オオナムチノミコトはスセリビメの助けを得、その試練を乗り越え、そして晴れて結婚する事が出来たんだ」
「あっ、古事記で読みました」
「わたしも」
「……」直矢だけは知らなかった。また、やられたと思った。先生は気にする事もなく話を続ける。先生はホワイトボードに簸王子社と少し丁寧に書いた。書き終わるとペンをゆっくり置くと地図を見た。
「その神話の話が一つポイントになると先生は考える」
「どう言う事ですか」
「分からないか!須佐之男命の正室は櫛名田比売だ、二人の間に生れたのがスセリビメ。櫛名田比売は早くになくなってしまう為、須佐之男命はたいそうスセリビメを可愛がったとされている。大してオオナムチノミコトはと言うと多くの妻を持ったとされる伊達男でもあった。あの因幡の白兎の話もしかりだろ」
三人は黙って頷いた。
「ところがそのオオナムチノミコトの最初の姫がスエリビメでオオナムチノミコトは須佐之男命の試練を受けているんだ。これがどう言う事か想像できないか」藤堂先生は三人の顔を見渡す。
「つまりだ。あの八岐大蛇をも退治し三貴神の一人でもある須佐之男命の娘に手を出すんだぞ。誰もが手を出さなかった娘に手を出したと言う事になるだろ」
「確かに、言われてみれば。あの天照大神が伯母になるんですね」
「そうだ。誰も成し遂げなかった事をやった。そお言った篩いに掛かり見事勝ち残ったと言う意味になるだろ」
「そうか、試練と言う篩いに残った優れた神だから簸王子。それで簸王子社と呼ばれているんですね。先生」
「まあ、そう言う事だ。これも説でしかないけどな。でも、的を射てるだろ」
「確かに。すると中川神社の位置づけってどうなるの、先生。特別なものを感じるのだけれど」と直矢が言う。
「大宮の氷之川神社と緑区の氷之川女體神社の繋がりは明らかだが中川神社が気になるんだよ」先生はマグカップを取ると珈琲を一口含んだ。
「確かに真ん中に位置しているんだよなこの神社。普通で考えるとここが本当は中心にならなければならないですよね」と武が言うと
「そこが今回のテーマだろ、氷之川神社がどうして今の場所にあるかが。でも、今ここでは中川神社を考察する必要があると感じるんだ」
「確かに」
「それとだ。今一度振り返って見ようと思うのだが氷之川の文字が意味する所なんだが」
「氷は冷たい。であり出雲の斐伊川から由来していると聞きましたが」
「そうだ。それとは別に川の本来の意味は泉が湧出る所。そこか清き水が出る所であり、清き泉が湧出る所を意味する。以前、話した通り水、治水に長けている神様の集団だと話したよな」
「はい」
「ところがだ。中川神社の由来の一つとして凍った水を溶かす。緩むと言う意味が含まれている。不思議だと思わないかい」
三人は頷くばかりである。そして
「真逆の火を扱う神、神社の祭事に鎮火祭というのがある。毎年十二月行なわれるそうだ。十二月と言えば氷之川神社でも大湯祭(十日市)が行なわれる。重複するようにだ。これもそれぞれの神社(神)の役割を分担して行なうと言う意味が隠されているのだと先生は考えている。そして、その鎮火祭では火を扱うのだけどそこから何か思いつかないか」
「火ですか」誰も思いつかない。
「草薙剣さ」
「製鉄」
「そうだ。鉄を作るには火が必要だ。火は高度な文明であり技術に不可欠なもののはず。ところが神社にはまだ隠された謎があるような気がするんだよ。今度お前達は神社に行くと言うのなら是非解読して貰いたいな」と先生は一通り説明したのか何時もの椅子に腰掛ける。そして珈琲を口にした。
藤堂先生のレクチャーが一通り終わると三人は身支度を始めた。先生は何を思ったのか別の話を始めた。
「先日の中間テストな。お前達よくがんばったよ。天雲は相変わらずトップを死守したのは変わりないが神月も、そして瓜生、よくやったよ」
「そうですか。オレは勉強遅れていたから少しは挽回したくてやっただけですけど」
「全科目とはいかないが、項目によってはベストテンに入ってるぞ」
「そうですか」とあまりピーンとは来なかった。それに口実を作り図書館に行くと言う事が習慣になったようであまり苦にならない。それよりも外に出る事が楽しい夏休みだった。
三人は鳥居の前に立っている。そして、その傍らに多美も立っていた。四人は鳥居を見上げていた。
「氷之川神社」侑來が呟く。
鳥居に掲げられた文字を読んだ。
「ここが氷之川神社の一つである事だと言う事だね」と直矢が言うと
「そうよ。三体ある神社のうちの一つ。男体社と女体社の間にあるから中氷之川神社ともいわれている神社」と多美が言った。
「わたし達も調べて来たの。別名簸王子社とも言われる。簸王子とは選ばれしと言う意味が含まれていると先生が言っていたわ」
「ああ、誰も成し遂げようと思わなかった試練に打ち勝ったもの、篩いに掛けられ残った神だったな」と武が付け足す。
「……」
ゆっくり歩いて本殿へと進む。右側に何やら四角い仕切られたエリアがあった。その前に碑が建っており『鎮火祭』の祭場である事がわかる。
「これが鎮火祭をやる所か」
じっとその場を見つめていたのは武だ。
「さっ、お参りしましょ」と多美に促され三人は本殿の前に立つ。武と侑來は互いに何をお願いしたのかと問うがお互いに何を願ったのかは言わない。直矢は何を願ったのかと問い質されるも、直矢も言う事はなかった。その代わり、いつも神社に来ると興味をそそられる事がある。本殿の奥には何があるのだろう。社によっては明確なご神体がある。でも、氷之川神社もここも何がご神体なのかは分からなかった。
サッ、サッ、サッと箒で掃く音が聞こえた。するとさっきの鎮火祭場の脇を掃き掃除している者を見つけた。白い装束をまとったその姿は一目でこの神社の神職の方である事がわかる。でも、どこに居たのだろうか。さっきまで人気はなかったように思っていたが、何処かに居たのだろうか。そう言えば本殿には灯りが点されていた。すると本殿の中に居たのだろうか。いや、お参りする時も気配はなかった。それに、さっきから気がついていた。直矢は氷之川神社でも感じたあの感じを敏感に感じていた。他の二人は知るよしもない。ただ、禰宜なのか神主かは分からないその者を見てすこし緊張が走っている。それでも直矢は落ち着いていた。
多美は少し怖い表情をしている。多美は鳥居を潜る時から警戒していた。初めは気配を感じなかったので留守なのではと思ったが先日の姫様の事もある。こちらが油断していると急に現れるからだ。今回も同じ事になるまいかと考えて居た。本殿に近づいていくうちに次第に結界の力を感じていた。そして現れたオオナムチノミコト(大己貴命)を見ると一層緊張が走る。
「やはり!」
多美は大己貴命様を苦手としていた。好きとか嫌いだと言うものではない。須佐之男命様や櫛名田比売様との様に接する事が出来なかっただけなのである。理由は自分でもよく分からない。それは随分昔からそうなのだ。大己貴命は後の大国主命である。女性に人気があり温和な性格をしているとよく聞くが多美はそうは感じていなかった。何処か須佐之男命様とは違った威厳と厳しさ、そして恐怖を感じるのである。そうは言っても龍に対しても特別厳しいものではない。怖い目にあった事もない。でも何かを感じるのである。だから、見沼に降り立ってもここに赴くのに時間が掛かってしまった。多美としては直矢達と来る事で少しは和らぐのではと思ったのである。だから、侑來達の前にも姿を現わした。これは初めから多美が考えた事だった。
「これはこれは、賑やかだと思ったら参拝の方々ではないか。ようこそ」
直矢達はその神職に近づくと「こんにちわ」と挨拶をした。神職は「はい、こんにちわ。今日は皆さんでおこしかな」
「はい。初めて来ました」と侑來が言う。
「さようか、今日は珍しいお客さんが来たようだな」と神職は多美を見る。多美はすかさず一礼すると「遅れまして、ご無礼をお許し下さい」と返す。背中に緊張が走る。それを察してか神職は表情を緩めると柔和になり
「よいよい、そなたがかしこまるのは昨日今日の事ではないからの、それに今日はお客さんもおいでだ。それにしても随分と時がかかったかのタケ、いや、今は多美であったな」
「はい、申し訳ありません」再度一礼する。
「細かい事はヌキとしよう。今日は何ようかの皆さんは」と神職は直矢達を見回した。
「わたし達は今大宮の歴史について勉強しています。その中で氷之川神社について調べて来たのですが、調べてみると氷之川神社が三社ある事が分かりました。そこでこれまで大宮の氷之川神社、浦和の氷之川女體神社と見て来て、今日こちらの中川神社、中氷之川神社に来ました。この神社は不思議な事があって、そもそもこの位置は氷之川神社と氷之川女體神社の一直線上の中間にあります二点を結ぶのは分かりますがこの神社がその直線上にあるなんて、どう言う意味があるのかが知りたく来ました」と説明し始めた。
「図書館で調べたんです。元々は三体社も大宮の氷之川神社にあったと言う事が。それとは別に女体社と簸王子社がお社を構えた。その意味が知りたいんです」と武が付け加える。
「ほお、随分と熱心な事だな。それで、何故ここが一直線上の中間にあるかと言う事を知りたいと思ったのかね」
「何故?何故って、それは……、不思議な事だと思ったからです」
「ふむ、それは分かった。だが、どうして興味を持ったのかね。そもそも君たちはこの土地の事など興味がなかったのじゃないのかね」と侑來の顔をのぞき込むように突っ込んできた。
侑來は一瞬たじろぐも、気を取り戻し説明する。
侑來と武は互いにそれぞれの思いを熱弁した。直矢はそれを聞いていた。言葉も出なかった。多美もじっと聞いていた。気のせいかもしれないが悲しい表情をしていると直矢は感じた。
小父と言う男はそんな四人を見ている。さっきまでは怖さと厳しさを感じていたが今は優しさに満ちあふれているように見えた。柔和な表情をしている。その顔をチラッと見ると少しホッとする。直矢は思わず表情に出てしまった。でも、この人は誰なのだろうか。普通で考えれば神主さんだろう。他の二人に比べて直矢は何回かこんな場面に遭遇している。恐る恐る聞いてみた。
「突然すみません。今二人が説明したようにオレ達、いや僕達は今自分たちの住んでいる大宮について調べているU中の二年生です。貴方は中川神社の神主さんですか」
柔和な顔が一瞬鋭く感じた。が、直ぐに柔和な顔に戻ると
「わたしが神主!そう見えなくもないか。そうか、そうだろう。そうだろう。なぁ、多美よ」
三人は多美がこの目の前の人と知り合いなのだ。と言葉に合わせて多美に目を向ける。多美は動じず節目だった顔を上げると真っ直ぐその人を見つめるとゆっくり会釈する。そして「この方はここを守られている方よ。わたしの小父の一人……」
「小父さん?知り合いなんだね」と武が答えると
「ええ、そうよ」と武を見た。
直矢には少し違和感が感じられていた。先日の氷之川神社で会った小父さんとは感じがまるで違ってる。何より多美が何処か警戒しているように感じられるのだ。でも、今はこの場ではその事を言う事が出来ない。深い理由は無いが武達が居る。彼らが興味を示すと何かとややこしくなる。そう感じるからだ。
「そなた達の思いはよく分かった。この土地の成り立ちに興味を持つ事は良い事だ。感心感心。だがの、その答えはもう少し自分たちで調べるのが良かろうて。その方が良い導きを得られると思うぞ」
「どうしてですか、僕達は答えを求めて今日、ここまでやって来たのです。僕は少しでも早く答えが知りたい。いけませんか」と直矢が食い下がる。
「そなたらの行いは義父より聞いておる。中々良い事を行なっていると思うておるのだぞ。だがの、わたしの口からその事について語る事は無いと言う事だ」
「どうしてですか」
「まだ、早い!」
「えっ?どう言う事?」
「今は分からぬかの。焦らぬでも良い。直ぐ分かるだろうよ。もう、答えは出ているようなものだからの。のう、多美よ」
「はい。おっしゃる通りでございます」一礼する。
「でもよ!。折角ここまで来たのに答えが得られないんなんて、何の為に来たのか分からないだろう」と武が不満をあらわにする。それでも、直矢には分かっていた。「ここでも答えを得られない」とそして話題を変えた。
「すみません。どうして鎮火祭があるのですか。氷之川神社は水を司る神様のはず。でも鎮火祭は火が関係する行事の筈では」
小父はゆっくりと視線を直矢に向けると語った。
「ほおー、どうしてだと思うかね。由来については既に調べておるだろう」
「はい、祭りの由来については調べました。この辺り一体が氷に閉ざされた時、火を用いて氷を溶かしたと言う伝説があったと説明されていました。それを祭事としたと書かれていた。でも……」
「でも?どうかしたかね。そう言う事でよいのでは」
「何か引っかかったんです。違和感を感じる」
「直矢!」
咄嗟に多美が直矢に声をかけたがそれを小父が静止した。
「良いではないか。さあ、言ってみなさい」
その光景に戸惑うも促される。
「いや、その、旨く説明が出来ない……」
「うん、そこまで言っておいて話せぬか」と少し凄みをかけると直矢は観念して話す事にした。
「ははい、それは氷之川神社が三社あって。いや、武蔵一宮と称する神社が実は大宮の氷之川神社の他に三室の氷之川女體神社、そしてここ、中川神社である事がとても重要な意味をなしていると言う事が分かりました。三社は実は大宮の氷之川神社の境内でも祭られています」
以前、藤堂先生に教えて貰った事で図書館でもその資料があって確認していた。
直矢は小父と言うその人を見た。
小父は多美を見ると言った。
「何も水だけとは限らぬではないかな」
「えっ?」
「君の言う事はよく分かった。言う通り神社が創建された理由は正に水との関わり方よ。それは人間の暮らしに水が不可欠であったから。それまでの狩猟を主とした定住しない暮らしからこの地に定住し大地を耕しそして田畑を作り安定した暮らしを求めたからこそ。この地は豊富な水に恵まれ、そして肥沃な土に恵まれていた。そこに人間が集まるようになると大地が切り開かれ田畑が増えた。田畑が増えれば水が必要になる。水を誘導するために治水が進む。ところがそこに大雨が降ると治水した所にまでも水が押し寄せてくる事になる。水を制御するために水門を作る。水門を作る道具や耕作具を鉄で作る様になる。製鉄は人間の暮らしを飛躍的に向上させると共に殺し合いの道具にもなった。その技術も何処から伝えられたのか。人間が神を祭ると共にそれらの技術も伝えられた事になるまいか。鉄は火を用いる。水を治める為には火も必要であったとは思わぬか」
「それは、分かります。神話の世界でも製鉄技術が無ければつじつまが合わない事があります。鋼の強度を上げる。より切れる刀の製法。それは農具にも応用された。それは分かるのですが、何か引っかかる……」
直矢はそれ以上旨く説明出来なかった。武は直矢の説明に同じ思いだった。侑來はいつの間にかなんとも言えない空間に居るような気がしている。それはあの目に見えない何かを感じるあの感覚そのものだ。空間自体が現実ではないようなあの感覚。そして自分たちと明らかに違う存在を感じさせる何か。目の前で話して居る小父と呼ばれる人、そして、多美からも同じ様な気配を感じるのだ。
ふっと我に返る感覚を覚える。何か夢から覚めたような感覚。そして目の前の光景に違和感を感じた。
「あなた達、何者!」
その瞬間 無になった。
四人は大宮公園まで戻っていた。何をどうたどったのかよくは分からなかった。唯一、多美だけが状況把握していた。三人は我に返る。さっきは一度気を取り戻した侑來も状況が分からないままだ。三人は気づいたら公園に居たのだ。ただし、直矢は違っていた。既に何度となく同じ体験をしていた為か二人よりは冷静だった。
「オレ達どうしたんだろう」と武が頭を振る仕草をする。それをまねて直矢も頭を振った。侑來は状況を整理しようと考えている。それでもどうしてなのかよく分からない。今日は中川神社に行って神社の方から色々と訊く事が出来た。何を訊いたのだろう?
「何を訊いたんだっけ」
「神社の由来だろ。鎮火祭についてや氷之川神社との関係」
「何が分かったんだっけ?」と直矢が聞き返すと
「それは、今言った事じゃないか」
「そうだけど、肝心な事を訊いたような気がするんだけど」
「そうだよな。あれ?何だっけ」
「疲れたのよ。二人共。侑來さんは?」と多美が訊くと
「わたしは……、わたしはよく分からなくて、何か感じた事があってそれでどうなったんだろう」整理が付かない。
「みんな疲れたでしょ。お疲れ様。今日は早く帰って休んだ方がいいわ」
「そうだね」
「そうね。そうしましょ。多美さんは」
「私は大丈夫。でも、もう帰るわ。直矢」
多美は直矢を見る。直矢はと言うと二人よりももう少し冷静になっていた。今までもこのような記憶の混乱をした事を覚えている。その中で一度記憶から消えていた事でも時間と共に思い出す事も幾つかあった。氷之川神社であった小父さんと言う人もそうだった。氷之川女體神社で会った伯母さんと言う人の時もそうだった。そして今日また……、必ず思いさせる事があるはずだ。
武と侑來は先に帰る。直矢が「先に帰っててくれ」と言ったからだ。二人はそうする事にした。何だかとても疲れたと実感していたからだ。二人が先に帰ると直矢と多美の二人だけになった。
「直矢」
直矢はしばらく黙ってボート池を見つめていた。夕暮れが近づいた為か水面が黒く見える。空は青空と夕焼けのグラデーションが綺麗だ。
「疲れた。直矢」多美が再び声を掛かる。
「少しね」
自転車をおいて近くのベンチに二人は並んで座る。
「今日みたいなさあ、変な事が続いているんだよ。不思議なんだ」
「……」
「誰かと話してたと思ったら急に記憶が消えちゃって、一瞬どうなったのか分からなくなるんだ。でも、今日はあいつらも居る事だし、それにオレは初めてじゃないからそんなに動揺しなかった。旨く言えないけど、時間が経つと思い出す事があるんだよ。でも、どうしても思い出せない事もある。それは今まで話して来た中でも特に重要な事に触れた事柄であって、それが何だったのか分からなかったんだ」
「直矢、今は?」
「それがさあ、何となくだけど思い出したんだよ。氷之川神社であった事、氷之川女體神社であった事。そして、今日中川神社であった事。全部じゃないと思う。でも、あの二人よりは覚えているよ。今日会った小父さんはちょっと違う。オレや武、侑來そして藤堂先生と違う」直矢は多美を見つめた。
直矢は何もかも受け入れられるような気がした。
多美は思った。やはり、何度となく結界の中に入った事で直矢は順応し始めているのだ。わたしが人間ではない事も気づき始めているのではないか。それにしてはどうだろう。直矢の今の心境は。全てを理解したかのように見える。そして、わたしを受け入れようとしている。
「優しい子」多美は直矢の肩に頭を寄せた。直矢は優しく多美の肩を寄せた。
直矢と多美はしばらくボート池の水面を眺めていた。あれ程熱い夏は何処へ行ったのか。鈴虫が所々で歌声を披露する。そよぐ風が心地良い。すっかり秋になっていた。さすがに多美も夏服から冬服へと替わった。そう言えば今気づいた事がある。多美の制服は冬服になっても緑のアクセントは変らなかった。あの時は古風だと思った制服姿は直矢にとってゃ見慣れてしまったものだった。だから冬服の姿にもそんなに驚く事はなかった。でも、変らずあの時の多美を思い出す。初めて会った時のあの姿を……。
随分と時が経ったのではないかと実感する。本当は数ヶ月の事でしかないのに……。でも、ずっと以前からこんなふうにして来たような気がするのだ。本当は今が以前とは全く違う事だと言うのに。今までの自分は何だったのか。友達もいない。武達からは嫌がらせを受ける毎日。そう言えば、いつの間にかアイツと行動を一緒にしている事に今気が付く。「どうして?」理由が分からなかった。
勉強も遅れていたので授業も面白いと思わなかった。でも、勉強する事に不思議と抵抗はなかった。だからこの夏に挽回できたのかも知れない。そんな勉強でもやっぱりアイツを意識してしまう。何処かでアイツに勝ちたい。そう言う気持ちがあるからか。普段は意識する事はなかった。それは今は夢中になれる事があるのだから。そう、大宮の事。見沼の事。氷之川神社の事。そして多美!多美!君は一体何者なんだい。どうしてオレの前に現れたのだろう。君が居ない生活は今では考えられない。オレはすっかり君の虜になってしまったようだ。オレはこれからどうしたらよいのだろう。君に気持ちを伝えた方が良いのだろうか?それともこのままが良いのだろうか。多美は言っていた。しばらく大宮に居ると。しばらくとはどのくらいの事なのか。何時までなのか。もしかしたらもうすぐ居なくなってしまうのか。そんなの嫌だ。オレは何時までも多美と一緒に居たい。
水面を見ながらそんな事を考えて居る。多美は黙って横に座って居る。何か話すと言う訳でもない。ただ、黙って二人は水面を眺めていた。
その内多美がぽつりと言う。「うちに来ない。これから」
「えっ!」
「うちと言っても小父様から借りている家よ。今は誰も住んでいないの。だから今わたしが使わして貰っているの」直矢を見つめた。
「あっ、えっ、でも良いのかな、黙って行ってたりして」
「大丈夫よ」とほほ笑んだ。
直矢は多美に誘われるように後をついていく。公園脇の道を線路の方に向かって自転車を漕いだ。T武線の踏切を渡ると線路沿いの径を進む。そして路地に入ると止まった。大きな屋敷の前に止まる。和洋折衷の様式をした立派な家だ。敷地内には何本もの大きな赤松の木がそびえている。時代を感じさせる佇まいは盆栽町の特徴でもあって、直矢は見入っていた。
敷地内に入ると更に驚いた。手入れの行き届いた庭が見事だ。父さんが好きで直矢の家も庭が綺麗だった。でも規模が違う。道から奥まった場所に思えたが南側は遮るものもなく明るい。いや、既に夕闇が迫ってはいたが開けていて明るいと感じた。隣接する家屋で日陰は暗さを増す。明暗のコントラストがはっきりしていると感じた。多美に進められるように促され玄関に向かう。
「さあ、入って。誰もいないから」
「あ、はい。えっ一人で住んでるの」
「小父達は別に住まいがあるのよ。ここは空き屋。わたしみたいなのが時々来るでしょ。その時の宿泊施設みたいなものよ。だから今は一人で居るの。さあ入って」
直矢はまるで何かに誘導されるように入る。すると戸が音も無く閉まった。
六話につづく