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神の使い

四 神の使い Messenger of God 


 本殿の前で多美はここでしばらく待つようにと言って本殿へと消え去った。さっきまで参詣で賑やかだった境内が気づくと辺りには直矢一人しかいない。お祭りなのか社殿は華やかな装飾が施され中では古の頃纏っていただろう装いに扮した人々が蠢いている様が興味をそそる。それこそ別世界に迷い込んだのではと思うほどだ。参道を先行していたカップル達の姿もいない。お参りも終えて公園にでも行ったのだろうか。こっちは多美に教わり、正しく参詣しているのだ。その分、時間がかかっても当然の事だと思った。

 藤堂先生の話からするとここは神秘的な場所である事に違いない。ふっと気がついた事がある。それはいつの間にか静寂の世界になっている事だった。神社にも働いている人は居るだろう。ところが今は自分しか居ないのだ。能舞台の周りをグルグルと回る。社殿に居る人達が気になったが辺りに人が居ない事も気に掛かる。玉砂利を踏み鳴らす音だけが響いていた。時間だけが過ぎていく。多美が行ってからどのくらい経っただろうか、フッと桜門の外から声がするのに気がついた。恐る恐る門の方へ歩いて行くと何やら歓声が聞こえるではないか。離れている為か何を話しているのかは分からない。ただ、歓声と言えば喜んでいるのだろう。それも複数の声が聞こえる。少し気になった。直矢は思わず門から出ようとしたその時だった。

 「ほお、賑やかな声が聞こえるではないか」

 突然、低い男の声が背後よりかけられた。それは気配などと言うものは一切無く。直矢は無防備に等しいものだ。これだけ静寂な場所なのだから何処かで近づいてくるものを感じるのではないかと思うのだが、そんな考えを全て否定されるような感覚だ。直矢は思わず振り返る。直矢の表情は(まなこ)を見開き、背筋が冷やっとする。「心臓に良くない!」

 そんな直矢の慌て方を気にする事もなく、男は摂社のある先を見ている。先ほどの声がした方角を見ていた。その眼光は鋭く、ここから見えているが如く表情が険しい。直矢には視線の先など全く見えていない。それが次第にその険しさから柔和な表情に変わると「また一つ願いが叶ったようだな」と安堵したようで目線を下に向けた。

 「瓜生直矢……君だったね」

 名前を言われた。直矢は忽ち硬直してしまった。今度は急に心臓がバクバクし始める。一瞬で舞い上がったような感じになりシドロモドロになってしまった。

 「は、はい」声がうわずった。

 「ははは、驚かせてしまったかね」

 思わず見上げた。背が高い。ガッチリと言うのではないが細すぎもしない。均整のとれた体躯が迫力を見せる。それでもグレーのストライプが入ったスーツに同色系の靴。髪は少々銀が入っているような黒髪で男なのにストレートで長い。でもそれがとても似合っていると言うべきなのか、まず見かける事はないだろう。随分大人である事に違いない。でも老いた感じには見えない。いくつ位なのだろうか。直矢には分からない。

 それにしても意表を突かれたのだ。境内は玉砂利が敷き詰められているので気配を感じても良さそうなものを全くと言っていいほど分からなかった。

 「いつも、タケ、いや今は多美だったね。多美から話を聞いているよ。多美と仲良くしてくれてありがとう」

 直矢が小さ過ぎるのではない。それでも二階から見下ろされているような感じがした。

 「わたしが多美の小父だ」

 「は、初めまして、瓜生直矢です」

 喉に何か詰まってでもいるのだろうか。それにあまりかしこまっての挨拶に慣れていない。やっぱりシドロモドロになりながら声をひねり出す。

 「今日は神社に勉強しに来ました。よろしくお願いします」と小さく会釈する。

 「ほお、神社をかね。嬉しい事だ。また、どうして神社を……」口元が少し笑ったような気がした。すこしホッとする。

 「多美、いや多美さんと出会ったのがきっかけです。オレ、いや自分は大宮の事をまるっきり分かってないって、それで多美さんが大宮で何かを探しているようだから自分も一緒に探す事が出来ればと思っていろいろと調べていたら、気がついたんです。昔から神社が大宮の中心にある事が。でも、そもそも氷之川神社がどうしてここに建てられたのかが全く分からなくて、今、学校でも何人か興味を持っている者がいるんですけど、そいつらも博物館とか行って調べているようなんです。今日は多美さんがここで働いていると聞いていたから直接神社の方に聞けたらと思って来ました」

 スサノオウは後ろを振り返り多美を見る。 「多美」

 「はい。小父様」

 小父の背後から多美が現れた。

 「多美さん」

 「直矢、多美でいいわよ」多美は直矢に言うと直矢は「あっ、そう、そうだね。ありがとう」と言って少し落ち着いた。

 「小父様よ」

 小父を様付けとはどう言う関係なのだろうか。少し考えたが何時もの様に深く考える事もなく納得する。

 多美はさっきまで着ていた学生服から采女(うねめ)装束に着替えていた。その姿に目を見張る。いつもの姿も好きだが装束に身を包んだ姿も綺麗だ。

 ―オレは何度となくこの光景を想像していたのではないのか―

 「これが仕事の時の姿よ」スサノオウがいる為だろうか、多美は何処かかしこまった素振りをしている。直矢もそれを見て他人行儀になってしまう。大人が居る為か、照れと言うものを感じてしまう。また緊張が増してきたようだ。

 「芯が強そうだね、君は。良い目をしている。なっ、多美よ」と多美に目線を向ける。

 多美はと言うと両手を前で合わせ伏し目がちに「はい、小父様」と答えた。

 少し怖さがなくなったのか、それともこっちの緊張を察してか、多美に対しても二階から見下ろすように視線を向け、努めて優しく問いかける。

 「君が言っている事はよく分かったよ。突然目の前に現れた(ひと)が何かを探している。聞いてみるとそれは君が生まれ育ったこの大宮の事だった。ところが君はその女の問いに答えて上げる事が出来ないでいる。だから、答えようと調べた。そして行き着くところ神社にたどり着いた訳だな。神社に来れば何か分かるのではないか。と、こう思うのだね」

 「あ、はい。まあ、そう言う事なんだと思います」見透かされたような気がした。それでも嫌な思いは感じられない。

 「学校で、同じ様に地元の歴史に興味を持った者がいるんです。彼らと先生とで話していると自分が今までどれだけ無関心だった事を思い知らされました。調べた事を多美に話すと多美は更に新しい疑問を投げかける。僕が今日来たのもそんな多美と理解を深めたかったから」

 多美は何も語らない。するとスサノオウが

 「どう思うかね。多美」

 少し間を空けてから多美は落ち着いた口調で話し始める。

 「わたしが何を探しているのか。直矢は気になるのね。でも、直矢には理解出来ない事。それでもわたしの為に色々と調べてくれた事は嬉しいわ」

 「多美は何を探しているの」直矢は思いきって聞いてみる。しかし多美はその問いに対しては答えない。

 しばらく沈黙が続いた。

 するとスサノオウが静かに語り始める。

 年月を重ねる毎に、この地も移り変わってきた。人間は己らの私利私欲から幸せ、他人への慈悲、慈愛。或は国の(まつりごと)まであらゆる願いを神へ願った。成就する者もあれば叶わぬ者も多くいただろう。それでも人間は願わずにはいられないようだ。今でも多くの参詣を貰う。神はそれらの願い事に寄り添うものではない。遠からず近からず、絶えず見守っているものと考えるべきではないか。叶うか叶わぬかはその人間の働きによるべきもの。

 ところが、人間とはそんなに強い者ではないらしい。弱さがにじみ出ると不安になる。不安を取り除く為に働き不安を取り除こうと試みるが、それでも払拭出来ない時があるのだろう。そんな時に神と言う存在に依存するのだ。神といっても様々な神が居る。得意不得意もあるだろう。ここには多くの願いが集まるのだ。

 多くの願いに当たらなければならない。幸いここでは神々が助け合い、事に当たっている。先ほどの歓声も願いが叶った事によるもの。神だって叶えば嬉しいものだ。

 「では、どうして氷之川神社がここに建てられたのかと言うと……」

 「はい」直矢は息を飲んだ。

 「それは、もう少し自分で調べるといい」

 

 ―とんだ肩すかしだ―

 

 「いや、でもいろいろ調べた結果、分からなくて、それで来たんです。どうか教えてください」

 スサノオウはしばらく直矢の顔を見詰める。スサノオウの表情はとても自然体で怒っているでもなく、笑っているでもない。直矢はその表情に計り知れないものを感じていた。

 「ならば問おう。どうして人間は神を必要とするのか」

 「神を必要とする?」

 「さよう。これまで人間は己が欲するように好きにして来た。御沼(見沼)も既になく、今ではその御沼さえも人間は思うようにと変えている。ここには多くの生き物が生息していたのだ。それを人間は己が為に造り変えてしまったではないか」

 「……」

 「神と人間はもっと近いものだった。敬い、奉りそして奉仕していた。対して神は願いを聞き入れた。ところが昨今はどうだ。都合の良い時だけ神を頼る。頼るだけで何もしなくなってしまった。そのような事で神が願いを聞き届けるとでも思っているのだろうか」

 直矢は下に目線を落とし、しばらく考え込むとゆっくりと目線を上げた。

 「オレには分かりません。分からないけど感じた事がある」

 「ほう、どのような事だね」

 「それは……、それは今、こうやって調べて来たから分かった事だけど、オレは大宮で生まれ、大宮で育った。オレの父さんも大宮で育ったけどじいちゃん達は大宮の人じゃない。だから、大宮の事を知らないんだと。父さん達は知らないけれどそれでも氷之川神社にはお参りに来る。ここがどのような理由で建てられたのかも知らずに、どのように接しなければならないかも知らずに……、だからオレに教えようがないんだと……」

 しばらく見詰めているとスサノオウが言った。

 「御沼が無くなった頃から神社の周りに多くの人間が集まるようになった。それまでも信仰厚く人間は寄せてはいたのだが、人間の政がこの武蔵野の台地に移ると急激に増え、大宮にも他国より人間が多く集まるようになった。人間は知らぬだろう。さらに遡ると、ここにはまた異なる文化を持つ者たちがいた事を。されど今はその事はよい。ここで問う事は沼が消滅する時の人間の約束の事だ」

 「約束」

 「そう、約束」

 スサノオウは目線を上げまた、門の外へと移した。

 「あの者の願いは聞き届けられたか」

 笑みが浮かんだ。それを見て直矢は目線を足元に向ける。想定外だった。もっと簡単に答えが得られるかと思っていたのに更に分からなくなりそうだった。この小父さんと言う人は一体何者なのだろうかそれに今問いかけられた事で自分が答えた事は咄嗟の事で考えてもいなかった事。でも、喋りながら感じた事は間違いじゃない。でも、『約束』とは何の事だろうか。それが多美が探している事と関係があるのだろうか。直矢は分からなくなってしまった。

 「それで良いのだよ。直矢 君」

 また、思っていた事を見透かされた。

 「えっ、良いって?」

 「君の混乱している事が間違いじゃないと言う事だよ」

 「……」

 「多美が探している事と関係があるのかどうかは多美に聞くといい。但し話してくれるかどうかは分からぬが、それに話したところそれを信じる事が出来るかどうかも分からぬがな」

 「どう言う事ですか」思わず多美を見た。多美は直矢を見詰めていた。少々こわばった表情にも見えた。時が経過し直矢も状況が少し見えている。多美の采女装束は少し違う。遠くからは分からぬが、繊細な線で縁取りされているところがある。袴は同じ朱色でも深みが違う。縁取りされた線はやはり緑色、濃い萌葱色(もえぎいろ)だ。上半身の装束には見慣れぬ模様がある。それに二人とも少し周りより明るく見える。そう、初めて多美に会った時感じたあの光っているように見えた感覚だ。あの時は一瞬の事だったのに今は継続して見えている。直矢は思わず瞬きし目を疑ったくらいだ。

 「その模様は何だろう。それに二人共光っている」思わず目線を上げスサノオウを見上げた。

 スサノオウは動ずる事もなく視線を外にやっている。

 「八雲。その文様は八雲と言う」

 八雲、何処かで聞いた事がある。でも、今は思い出せない。それに光り輝いている姿は説明ができない。すると、背筋に冷たいものを感じると今の状況が普通では無い事に感じた。

 「一体、誰なんだ。あなた達は……」


 気がつくと神橋の上に立っていた。しばらく状況が掴めず直矢は動く事が出来なかった。混乱すると言うものではなくむしろ穏やかな状況ではあった。無とでも言うべきなのか、そう、思考が無なのだ。まるで何かにリセットされたかのように。それが次第に思考が活動し始める。まるで再起動されたかのような気分と言うべきなのか、直矢は今の状況と今まで何をしていたのかを考えていた。そうだ。ここは神橋の上だ。さっきまで中に居たと思っていたのに。オレは何をしていたのか。そうだ、誰かと話をしていたのだ。誰と話していたのか。そもそもどうしてここに居るのか。ここは見た事がある。だが、直ぐには思い出せない。いや、まて。そうだ、氷之川神社の境内だ。どうしてこんな所にいるのだろうか。いやいや、そうではない。今日は初めから示し合わせてここに来たのだろう。「誰と?」、そうだ、多美と約束したのだ。多美と今日は氷之川神社に来たのだ。「何の為に?」、何の為に来たのだろうか。直矢は橋の上からユラユラと揺れる神池の水面を見下ろす。思考が次第に覚醒して来たようだ。顔を上げると水面に浮かぶ宗像神社のお社が見えた。「そうだ。この先にあれがある」、直矢は自然とその方向へと歩き出す。池の西側にあるはずだ。

 歩きながら考えていた。多美と小父さんと言う人と会っていたはずだ。どうしてここにいるのだろう。何の話をしていたのか思い出せない。でも小父さんと言う人は覚えている。とても背の高い人だ。何処か怖さを感じた。でも話を聞いている限りでは怖くない。でも、迫力を感じた。何の話をしていたのだろう。思い出す事が出来ない。でも、多美がいて三人で話していたのだ。間違いない。ではどうして今、神橋の上に立っていたのだろうか。それが分からなかった。

 玉砂利を踏みしめ、池の畔をゆっくりと歩く。水面に浮かぶ宗像神社の前を通り過ぎる時だった。

 「通り過ぎる時も一揖しなさい」突然言葉を掛けられた。思わず声の方を振り向く。はっとさせられた。

 「多美!」

 多美は和やかに横に立っていた。そして、その緑色の目で合図すると静かに一礼した。直矢も「そうだ」と思い。すぐ倣う。ふぅと目線をお社の方に向けると三人の女性が居るのが見えた。古い装束に身を包んでいる。そんなに距離が無いはずなのに随分先に居るように感じる。遠目で顔形は分からぬが三人の女性が何やら忙しく話していたのだ。多美が一礼し直矢も続けて一礼すると三人は直矢達に気づく。そして軽く会釈してくれたのだ。三人は直前まで忙しく何やら話してたのだが、直矢達に気づくとその動作を瞬時に止め、そしてこちらを向いて笑顔を向けてくれた。

 直矢達が神社の前を過ぎるとまた三人は話始めた。でも、何を話しているのかは直矢には分からなかった。そして、多美を見たのだった。

 「何を話してたのだろう。よく聞き取れなかった」

 「また、三人の意見が割れてるのでしょう。何時もの事よ」

 「そう、……」それ以上聞けなかった。気にはなっていたのだがどうも聞きづらかった。それに、まだ、状況がよく把握できていなかったのである。それよりも、ここに来るまで気になっていたいたのだ。その場所がこの先にある。直矢の思考はそっちに向かっていた。

 直矢はここに来るのは初めてだった。そして、神池の丁度西に辺るここに立つと橋の上では感じられなかった池の動きを感じる事が出来る。それは池に流れ込む小さな小川があるのだ。川と言うよりも水路に近い。沼は水深が深く緑と化していたので水が綺麗なのか分からなかったが水路を流れる水は透き通り清らかである。暑い盛りなのか大きな鯉がこの小さな水路に押し寄せている。人間が近くに居ても気にしないようだ。慣れているのだろう。みな川上の方を頭を向けてその流れに合わせて身を動かしている。おそらく水温が池より低いのだろう。それに水も綺麗だ。だから鯉が押し寄せているのだ。それだけこの水路には何かあるのかも知れない。そう思わずにはいられなかった。

 多美を見た。そして、直矢は目的の一つについて話し出した。

 「ここに来たかったんだ」

 「……」

 「藤堂先生に聞いて知ったんだ。神社の横に池があると。その池の名前は『(じゃ)の池』と言うらしい。先生は見沼を考える時、龍神伝説を理解する必要があると言っていたんだ。実際はハッキリと言っていないんだけどオレはそう感じたんだ。そしてこの先にあるのは蛇の池だ。龍と蛇がどうして関係があるのかオレもいろいろ考えたんだ」

 多美は黙って聞いている。二人は小さな橋を渡り案内にそって細い径を先へと歩いた。水の流れる音が清らかに聞こえる。

 「藤堂先生は言っていた。蛇と龍は関係性があると。蛇が進化して龍になると言う考え方もあるのだろうけど、オレはそれについてはよく分からない。分からないけど見沼の龍にとってここは大切な所じゃないかと思ったんだ」

 「大切な所……」多美が反応した。

 「そう、見沼の龍神伝説の多くはここから東南の方、浦和や緑区そして見沼区の方で多く語られている。大宮のこの辺りでも少なからずあるのだろうけど、数が少ないんだ。オレが調べたんじゃないけど龍神を祀る所があると聞いている。沼の畔で暮らす人々に与えた事象を神格化したのが龍神伝説ではないかと考えたんだ」

 「龍が沼と言う事?」

 「同じかどうかは分からないけど、そうした方がお願いしやすかったんじゃないかな」

 「お願いしやすい?」

 「日本は自然も神として崇める信仰があるけれど、沼だったり水だったりとすると余りにも身近すぎやしないかと、雨が多く降れば洪水になり沼が氾濫する。すると田畑が水につかり被害が出る。時には人も飲み込み大きな災害となったのだろう。でも、反面肥沃な土地となり人々を潤す。そこには多くの人々が集い生活する。そして人々はその恩恵を感謝し、また災いに当たらぬようにと願い奉る。その対象として龍神であり、そして氷之川神社をお祀りするようになったのではないか……と」

 直矢は話を止めると少し考え出す。歩きながら。そして水路にそった小径は緩やかな傾斜を昇ると所々から水が湧き出す所が見えた。

 「それから?」

 多美に促されると「それから、そう、問題は神社と龍神の関係ではないかと考えたんだ。最も先生にはまだ話していない事なんだけど、みんなはどうして氷之川神社が大宮にあるのか、その訳を探している。その関連性として見沼の龍神伝説があると考えているんだけれど、オレはちょっと違うんだ」

 「どこが違うの」

 「単純さ。自分がこの土地の事を何も知らなかったと言う事を。だから、知りたいと思ったんだ」

 直矢は多美を見詰めた。その眼差しは真剣そのもの。多美は感じていた。直矢は次第に分かりかけている事を、そして、今のこの現状までも、と。

 「直矢、ここが蛇の池よ」

 多美は手招きをした。目の前に澄んだ水をたたえる池がある。ふんだんに湧き出す水。湧き出すさえずりを耳にしながら目を向けると畔に小さな祠がある。さい銭が布施られているのを見つけると幾人かのお参りの後だと想像した。直矢は感じていた。隣には神社の塀がある。本殿の屋根がすぐそこにある。池を囲む森の隙間からは住宅街が垣間見る事ができた。でも、ここは何処かの森の中に居るような気がした。そしてその森の中にコンコンと水をわき湧き出す泉があるのだ。ここが本当に神社の一画なのだろうか。ここが大宮の町中なのだろうか。とても神秘的に感じた。

 「ここが蛇の池。なんか特別な場所に感じる」

 「特別。そう、ここは特別な場所。何故氷之川神社がここにあるのか知りたいと言ってたわね」

 「ああ、言った」直矢は大きく頷いた。

 「ここがあるからよ。この蛇の池があるから神社はここに建てられた。ここしかなかった」多美は少しうつむき加減になり、そう言った。

 「龍と神社は一対のもの。神社がなくてもダメ。龍がいなくてもダメ。双方があって初めて意味をなすもの」

 「意味?」

 「そう、意味。龍は土地の神。この土地にあって人間と長い間、関係があった。それはつかず離れずの関係であって、近い存在では無かったのかも知れない。でも、龍はいつも人間を見ていた。見守ってもいた。でも……」

 「でも?」

 「でも、人間が龍の思いを裏切る事をしている。そもそも龍の方が先にこの地に住んでいた。人間はこの地に住むようになると今度は人間同士で争い毎を初めてしまう。月日が経つと、今度は沼を必要としなくなる。聞けばここから南に有る都で生活する多くの人間の為に田畑にするのだと言い出した。龍は悲しんだが人間は聞き入れなかった。龍は一つの願いを人間に残した。それは何時までも見沼の面影を残して欲しい。と、そしてこの地を立ち去った。」

 多美の目から涙が流れている。緑色の瞳が涙に濡れ、一層光って見えた。今の直矢にどうすることもできなかった。多美が言う事が痛いほど理解出来る。都合の良いように人々は考えていたんだ。この土地は元々龍達の土地。そして人間と龍は良い関係だった。

 この地には失い掛けているものが沢山ある。直矢はそう思った。


 気がつくと直矢と多美は境内を出ていた。

 直矢は初め状況が掴めず戸惑っていた。「さっきまで神社に居たと思っていたのにどうして」それに多美と何か話していたような気がしたのだが思い出す事が出来ない。

 「どうしたの、直矢」

 「いや、何か話していたと思ったんだけど思い出せないんだ。それにさっきのかっこ……!、制服に戻ったんだね」

 「そうよ。歩こうと言ったから急いで着替えたのよ」

 「いや、さっきの装束さ。綺麗だなって思って……」

 「ありがとう」と嬉しそうにほほ笑んだ。

 「それに、なんか模様があったんだ」

 「八雲!」

 「八雲?、そう、八雲!」

 「そうよ。氷之川神社の紋様よ」

 直矢はそれ以上訊く事が出来なかった。根掘り葉掘り訊くのは少々しつこいと思ったからだ。そう言えば境内で大きなあの紋様があった事を思い出す。「そうか、八雲って言うんだ」と思った。

 「境内を一通り見たら、大宮公園に行こうって」と多美が言っていたのを思いだした。

 「そうだった!、でも、肝心な事を訊き逃したような気がするんだよ。何だったかな」

 「小父様と会ったのよ。覚えてる」

 少し考えた。そうだった。小父さんと会ったんだ。でも顔がよく思い出せない。緊張してよく見なかったのだろう。多美との関係を深く詮索するような事はなかったが何処か無言のプレッシャーを感じた。あの人には隠し事は効かないかも知れないと直感する。それでも周りが見えてくると少し思い出した事があった。

 多美の悲しんだ姿

 多美は泣いていたのだ。直矢はその事を思い出すと思わず多美を見る。多美は黙って直矢を見詰めている。何処かもの悲しげな表情をしている。直矢は思い出した。

 「多美は人々が好き勝手に見沼を開発してしまった事を悲しむの」

 多美は首を横に振った。

 「じゃあ、忘れてしまったから」

 首を振った。

 「それじゃ、どうして?」

 しばらく黙っていた。ゆっくり歩き始めると直矢もそれに沿って歩く。二人は静かに池の畔を歩き始めた。

 「初めは寂しかったわ。でも……」

 「でも?」

 コクリと頷くと「直矢と出会って考えが変わったのよ。久しぶりに来た大宮が多くの人間で賑わっていて、とても驚いた。地元の人間もいれば他所から来た者も居る。むしろ多い。この土地にもいろいろと言い伝えがあって昔の人間はそれを伝承してきたの。ところが今の人間はどうもその事を知らないらしい。古い考えかも知れないけど、ここにはここの文化があった。全てが良い事ばかりとは限らないけれど。悲しい出来事も沢山あったのは事実、その事をどうも人間は忘れてしまったらしい。そう思っていたの。ところが、何も知らなかった直矢達が過去を知ろうとしている姿を見ているとまだ望みがあるのかも……、と思った」

 「オレ達?、って」

 「ほら」

 多美はボート池の対岸。池に向かって数人の男女が歩いて坂を下るのが見えた。池を挟んで直矢と多美は南側に居る。向こうからはこちらはよく見えないのだろうと思った。対して北側を歩くグループは日の光にも強く照らされている為か、その人物が誰なのかがハッキリと分かった。

 「武。それに侑來も!どうしてここに」

 直矢は思い出した。二人が博物館に行くと言っていた事を。自分も誘われたが断ったのだ。グループには他に二組の男女がいて合計で六人のようだ。楽しく談笑しながら坂を下っている。彼らはこっちに気づいてはいない。

 「むこうからだとこっちは暗くて見えないのね」

 「多美は何時からあいつらの事を知ってたんだ」

 「あら、直矢が教えてくれたんじゃない」とぼけた言いようで言い換えされると何も言えない。「オレ言った事あったっけ?」ブツブツと思い出していたが思い出せないのだ。

 「どうする?」と多美。

 「いい」少しすねた表情で言い返した。

 「最も、あちらからは見えないでしょうね今は……」

 直矢にはその言葉の意味がよく分からない。でも何時ものように深くは考えなかった。

 多美と直矢の周りには結界が貼られている。直矢が見ている光景と武達が見ている光景とは異なるところがあった。先日多美と会った時と同じ様に。最も今はスサノオウの力が効いている。その為、二人は武達と同じ空間に居ても交わる事はないのだ。つまり、彼らからは二人は見えない。

 多美と直矢は武達から遠ざかるように歩く。そして、池から離れる。武達に気づかれる事はない。そして公園の奥の方へと消えていった。

 (多美は気づいていなかった。)


 侑來はマネージャー友達を二人誘い六人で博物館に来ていた。武と侑來の目的は明らかだったが二人だけではどうも気まずい。そこで部活の仲間を誘ったのである。要するにグループデートと言うものだ。だから誘った友達はノリノリだった。武と侑來も本来ならば同じ思いでいたのだろうが、二人の興味は他にあったので他の四人ほど浮かれる気持ちではなかった。

 侑來が立ち止まる。日差しが強い下り坂の途中。

 「どうした?」武が言った。

 他の四人は気づかず先を歩いている。暑いから早く木陰に入りたいのだろう。それに話に夢中になっていてこちらの二人には気づいていない。

 「あそこ」侑來は池の反対側を指指した。

 「何処?」武は指差す先を見据える。

 「直矢じゃない。あれ」

 「何処?」武には見えない。ここからだと池の反対側は光のコントラストのせいで暗くて良く見えないのだ。ただ、幾人かの人が居るのは分かる。でもその内どれが直矢なのかが分からなかった。

 「えっ……」侑來が少し意外だと感じる。

 「女の人と一緒に歩いている。あっ、見えなくなっちゃった。でも……」

 「オレには見えなかったぞ。何処にいたんだ」

 「あの坂を登って行ったの」

 「追いかけるか。本当だったらぶったたいてやるのに。オレ達の誘い、蹴っといてよ」

 「あら、直矢が武君と行くはずがないじゃない」

 確かに今までの事を考えると言い返せないところもある。

 「だけど、これはアイツが調べてる事だろ」

 「わたし達が勝手に首突っ込んでるだけよ」

 「……」

 「それより……」

 「何?」

 「あの女の人、わたし達が見ているの気がついていた」

 「どう言う事?」

 「わたし目が良いんだ。田舎育ちだから、周りが見えなくても見えちゃう事がある。だから武君が見えないのは分かるんだけど、あの女……」

 武は侑來が言っている事が理解できない。

 「背を向けていたのに、見えなくなる時こっちを見たわ。明らかにこっちに気づいていた」

 「……、よく分からないけど」

 「目が合ったのよ。遠目で見ても綺麗な人だった。なんか日本人離れしてるっていうか……」

 「直矢がどうしてそんな美人と居るんだよ」

 「分からないわよ。でも、何回か話に出て来た(ひと)じゃないかしら。多分、今回の事に関係があるのかも」

 「そんなに綺麗な女なのか」

 「そこじゃないでしょ!」

 二人は前の四人に追いつく為に歩き始める。これから公園を抜けて図書館の隣にある市立博物館に向かう予定だ。勿論途中、神社にお参りする予定である。

 「あの女ただの人じゃない」侑來の表情が険しい。

 「どうかしたのか?」

 武が尋ねたが侑來はそれ以上答えなかった。


 サッカー場まで来ると直矢は産業道路の方を見る。それは無意識な行動なのだが何処か誘導されてかのようにも感じる行動だった。多美はさっきから少し違和感を感じている。そして今また直矢の行動に疑いを持った。結界からは既に外れていい範囲のはずだ。ここは公園と言っても人間の世界だ。ところがまだ結界の力が効いている。多美は思わず神社の方を見た。

 「スサノオウ様……」

 「どうした?多美」

 「うんん、何でもない。ちょっと気になって」

 「そう、それよりも、あそこに行って見よう」直矢は産業道路の方を指差した。通りの反対側がこんもりと木々に覆われた一画が見えている。高台と言うよりも山のようになっていてコンクリートの急な階段が見えている。木が鬱蒼としていて良く見えないが厄除、方位除と書いてあるのだろうか。ここから読めると言う事はかなり大きい字で書かれてある。そして少し離れた所にも

 『黒山大黒天』

 直矢は何かを発見したようにニコニコしながら多美の手を取り歩こうとした。それを多美は手を取られるも歩こうとしない。思わず直矢から手を離した。

 「どうしたの?多美」不思議そうに直矢。

 「ダメ!直矢こそどうしたの?」

 「どう、て、何が?」

 「さっきまで手を取る事もなかった。それに、ここに来て急に……」

 「おかしい事ないさ。あっ、ごめん。無意識にしちゃった」と自分の手を見る。ところがまた、離した手を取ろうとする。多美は思わず手を引いた。

 「どうしたんだい。とにかく行こうよ。前から気になってたんだ。あそこ」直矢は多美の手を無理矢理取ると『黒山大黒天』と書いてある方へ歩き始める。多美にはそれを嫌だと言う事も出来ず手を取られたまま歩く。直矢は人が変わった。前を進む直矢の横顔を睨んでいた。

 「先生が言ってたんだよ。ここが鬼婆伝説の場所だって。氷之川神社や龍、見沼の事とは直接関係ないと言ってたけど、どんなところかなと思ってさぁ」と手を引きながら通りを渡る。そして急な階段の前で止まった。

 「何か怖い気しない。ワクワクする」とニヤついた顔で多美を見詰める。直矢は正気なのだろうか。明らかにさっきの眼差しは何かに取り付かれているような気配を感じた。でも、こうやって話す直矢は何時もの直矢に変りはない。気のせいだったのだろうか。多美は直矢を疑っていた。

 二人は一度顔を合わせるも直矢は多美の手を取り目の前の階段を登り始める。嫌だと言う間もなく直矢に並び二人は登った。不思議なものだ。どうしてここだけ高くなってるのだろうか。道路を見下ろすその先にはサッカー場がドンと構えている。ところが少し目線を横に向けると家々が正面に見える。直矢はその光景を見て藤堂先生と話した事を思い出した。

 「段差地なんだ。ここは」

 「……」多美は直矢の横顔を見詰める。

 「道路があるから分からなかったけど、道路作るのに地面を削っている。ほら、道路は南から緩やかに下っているだろ。それに道路の反対側の住宅地が高台になっていて、そこから公園へと急に下っているのはここが昔、沼と台地との境目だったからだ。道路がなければここと向こうは地続きだったはず。でも、こっちの方が少し高いと言う事はこの辺りがこんもりと山になっていたんだ」

 「直矢」

 「うん」と多美を見詰める。何か分かったと言ったキラキラと輝いている眼差しを多美に向けていた。

 「何処でその事を」

 「藤堂先生の所で古い地図を見たんだ。目の前のサッカー場や野球場の辺りは昔は沼だったんだ。正確には入り江への入り口辺りでここから公園の方へと大きな淵があったんだ。神社もその先だ。ここら辺りとさっきのボート池、それに神社の神池は昔、繋がっていた。そうか、昔は神社に水上からも行くことが出来たんだ。この大きな淵は大昔は陸と海との境でもあったはずで、博物館の庭に古代の住居跡が復元されている。古くから人間が生活していた事が分かっている。先生に聞いたんだ。神社が創建されたのが今から二三〇〇年以上前、その頃は既に海水ではなくて沼だったと思うけどこの辺りは沼の畔にある台地だった。草原だったのか林だったのかは分からないけど。あっちよりこの場所は更に高くなっていると言う事はここが山だったんじゃないかと思うんだ」直矢は振り返り先を見る。

 高く木々に覆われたこの一画は神社とは異なるがまた独特の趣を感じる。鳥居があるので直矢は一礼して通る。するとすぐ境内に入る事ができた。お堂がある。と言う事はここは神社ではなくお寺と言う事になるのだろう。でもどうして鳥居があるのだろうか、直矢は分からなかった。お堂に向けて進むとそこに大きな灯籠があり

 『武州足立ヶ原 黒山』

 ここがあの鬼婆伝説の場所なんだと直矢は考えていた。それにしても不思議な場所だ。鳥居があり、お参りの仕方も神社に近い。直矢はさっき氷之川神社で習ったように参詣する。

 「多美、ここは神社かな」

 「ここは神社ではないわ、直矢」その言葉が少しこわばったものを感じた直矢は

 「どうしたの、多美、さっきからちょっと変じゃない」

 「……」

 多美は感じていた。ここも結界に包まれている。それも、今までと同じ力によってだ。それが何を意味を意味するのかは多美には分かっていた。多美は思い出していた。スサノオウ様が結界を張られた時、東南の方角へも放たれていた。それはこの先のクシナダビメ様とオオナムチ様への合図。

 「あっ」

 「どうした、多美」

 多美は直矢の言葉が入らない程動揺していた。「わたしに分からぬように結界を広げたから……」多美は振り返る事が出来なかった。振り返ればそこにスサノウが居るのではと思ったからだ。戦慄が走る。しかし、それよりも。

 多美は背後の恐怖と共に目の前の脅威に集中する。すると、気配を感じた。

 直矢は多美の様子が変だと思ったが、直矢もここの雰囲気に少し戸惑っていた。神社で経験した静けさに覆われている。道路に隣接しているのに静かだからだ。それに暑さも感じない。あの不思議な空間と同じだと感じていた。そして直矢も気配を感じたのだ。すると、お堂の端から一人の女性が現れたのだ。

 「お前は」と多美が一言。ところが多美はそれ以上は何も言わなくなる。直矢はやっぱり多美は変だと思ったが多美に声をかけようとしたその時

 「何かご用ですか」

 優しい女の声がした。

 その言葉に直矢振り返り声の主を見る。さっきの多美同様に巫女装束に似た身なりの年上の女性が立っている。年上とは言っても老婆ではない。三〇代から四〇代位だろうか、直矢にはそう見える。線の細い人だと思う。衣装をまとっているせいか体型が分からないがそれでもスラリとした容姿。色白で綺麗な人だと思った。

 「こんにちは、すみません。ちょっとお邪魔させて頂きました」と直矢は軽くお辞儀した。

 「そうですか。珍しい方がいらっしゃったと思いましてね」一瞬眼光が鋭くなったような気がした。

 「僕達珍しいですか。ここは余り人が来ないのでしょうか」

 「そんな事はありませんよ。多くの方に参拝して頂いております。でも、このような形でいらっしゃるなんて何年ぶりでしょう」

 「何処が違うのですか」

 その女はニコリとほほ笑むと直矢の前へと近づいた。そして直矢をじっくり眺めると

 「なるほど、貴方を選んだのですね。それより面白い物をお持ちのようです。わたしに見せていただけませんか」

 近くで見ると益々綺麗な人だと思った。でも、何処か怖さを感じる。妖艶な美しさを感じる。「ゴクリ」と唾を飲み込むと直矢は

 「何も持っていませんけど、大したものは」

 鞄のの中は貴重品や筆記用具が入っている程度だ。何を言われているのか分からない。

 「ダメよ。直矢」と多美は一言発するがそれ以上言わなかった。いや、言えなかったのだ。多美は強い力によって身動きが出来ないでいた。今の声も渾身の力を振り絞って発したものだ。直矢からは物静かな表情にしか写らない多美は、今誰かの力によって封じ込められている。直矢にはそれが分からない。

 女は多美に視線を向けると『にやり』とする。直ぐに直矢に向けると

 「そのポケットにある物」と指で示した。

 「これは……」

 ポケットに手を突っ込む。そして中の物を握りしめるとゆっくりと手を出した。胸元で手を開くと多美から貰ったあの勾玉が光っていた。

 勾玉は深い緑色を輝かせている。

 「美しい。とても綺麗な石ね」とほほ笑むと「その石はとても強い力を持っている。あなたその石どこで手に入れたの」また視線を多美に移した。

 「これは貰ったんです。ここに居る多美に」

 「多美。多美と言うのね。どうかしら、その石を頂く事は出来ないかしら。そうすれば貴方の願いを一つ叶えて差し上げるわ」

 「これは、ダメです。僕の大事な宝物ですから」直矢は勾玉を見詰めた。勾玉は変わらぬ輝きを放っている。

 「それよりも、ここはあの鬼婆伝説の場所なんですか」

 少し考え、間を置くと「そうよ。何が聞きたい?」その言葉に先ほどまでの恐怖感は消えていて一人の優しそうな女性に感じる。直矢も少し落ち着いていた。

 「いえ、今、大宮の事を調べているんです。学校の先生が大宮に鬼婆伝説があると言ってたので気になっていたんです。だから前から来てみたかった」

 「そう、その話。諸説あってね。わたしから話せる事はないけど、もう知っている人も少なくなってしまった。ここは過去に取り残されてしまった場所……」少し寂しそうな表情をした。それでも直矢は食い下がる。

 「何かご存じじゃありませんか。どうして人々から忘れ去られてしまったのでしょうか」

 「それは……、それは余りにも悲しい出来事であり、惨い事をしてしまったから……、でも真実は、みんな知らない」遠くの方を見詰めているようだ。

 「真実とはどういう事でしょうか」

 「そんな事知ってどうするの」女は直矢を睨み言った。

 その迫力に直矢は少し気持ちが引けてしまった。もうこの辺りで帰った方がいい。それに多美の様子が変だ。さっきから言葉少なく反応も少ない。

 「すみません。余計な事を聞いてしまいました。僕達はお暇します」

 「あら、もう帰ってしまうの」

 「はい、ちょっと多美の様子もおかしいので」

 「大丈夫よ。ねっ」女は多美を見て冷淡にほほ笑んだ。すると多美は押さえ込まれていた力から解き放たれる。

 力から解き放たれた多美は「直矢に変な事を教えるな」鋭い睨みで多美が返す。

 「どうしたの、多美」と直矢が不思議そうにその表情を窺う。

 多美は直矢の表情を察してか「いや、何でもない。もう行こう、直矢」

 直矢の手を引いて帰ろうとした。

 「あなたはまたここに来るでしょう。わたしに願いを聞いてもらう為に。その時、その勾玉を頂きましょう」

 直矢と多美は女のその言葉に耳を傾けず急いで来た階段を降りる。するとまた行き交う車の雑踏と容赦ない暑さが降りかかってきた。


 あれから数日が過ぎていた。直矢は久しぶりに学校に向かった。藤堂先生に会うためだ。本当は直ぐにでも話したかったのだが先生の都合が付かず今日になった。

 武も侑來も部活だろう。もしかしたら会うかも知れないが今日は先生と二人で話したかった。体育館脇から入ると真っ直ぐ校舎に向かう。今日もサッカー部、野球部、そしてテニス部が盛んに練習をしていた。体育館からも練習している音が漏れていた直矢は横目で見ながら足早に歩く。声をかけられないかと少しホッとする。構内に入るとそのまま先生の所に向かった。数人の生徒とすれ違う。直矢とすれ違ってもみな気にすることもない。準備室の前に着くと深呼吸をする。そしてノックをすると中に入った。

 「失礼します。先生」

 書籍の群がる地帯に潜入した気分になった。古書の匂いが鼻をつく。ここに変化はないと思ったその時だった。

 「よう、遅いじゃねえか。直矢」

 「おはよう。直矢」

 一瞬戸惑った。「なんでお前達が居るんだよ」と予定にしていない武と侑來が既にくつろいでいる姿を見ると「先生!どうしてこいつらが居るんだよ」

 「おいおい、いきなりむかつく事、言ってくれるじゃねえか」

 「なんだと!どうしてここにお前が居るんだよ」

 「何だよ。知らないのか」武はニヤニヤしながらあごで先生の方を示した・

 「先生!」

 「おう、元気そうじゃないか直矢。随分日に焼けて健康そうだな。どうだ、夏休みは」

 「どうって、忙しくしてましたよ。それで今日来たんじゃないですか。オレは先生と二人で話したと思って来たのに……」

 「オイオイ、寂しいじゃないか。直矢。いいのかそんな事言って」

 直矢は武の含みの有る言いように少し警戒する。

 「そうよ、そうよ。こっちも直矢に合わせて上げてるんだからね」

 「まあまあ、お前達顔を合わすとすぐ言い争うな!直矢、お前が悪い!」

 「どう、どうしてですか?」

 「先生が呼んだんだよ。二人を、こいつら部活抜けてきたんだぞ、感謝しろ!」

 「そうだぞ。感謝しろよ」

 「そうよ。今忙しいんだから。それでどうなのよ」

 直矢は自分の分が悪いと思った。ここは致し方がないと考え自分の主張を折る事にした。本当は二人にも聞いて貰いたい事でもあったのだが、まずは藤堂先生と話してからの方がいいかなと思っていただけで、ある意味二度手間にならないで済むと考えればいいのだと納得する。

 「分かったよ。オレが悪かった。それで先生、電話で話した事ですが」

 「おう、本題か。どうした!」

 「図書館で調べただけでは分からなくて、実際に氷之川神社に行ってみて、少し分かった事なんです。」

 素早く武が身を乗り出し反応する。武はそれ以上直矢をからかう事をしなかった。

 直矢は多美の顔がよぎった。

 「友達の小父さんという人と会ったんですけど、その人が神社の人らしい。それでその人が言ってた事なんです」

 「ほう、宮司さんか」

 「それがよく分からないんです。スーツを着ていたからそんな感じには見えなかった、とにかく大きな人で、ちょっと怖くて緊張しちゃった。だからあまりよく覚えていない」

 本当だ。良く覚えていないのだ。あれ、どんな人だっけと思うほど覚えていないのである。そのくせ聞かされた事は覚えていた。直矢はその事を先生達に話したのである。

 「人間は何故、神を必要としたのか」

 すると「人間は何故、神を必要としたか?」と武が反応した。侑來も表情がこわばったような気がした。

 「中々興味深い問いかけだね。それで直矢はなんて答えたんだ」

 「それが、よく分からなくて、答えられなかった。だけど答えられないならそれでいいと言ってくれたような気がする」

 「人々が神に求めるものは様々だと思う。だが、広い意味においては救いを求めるものの対象として存在するのではないかな」

 「救い?」侑來が反応した。

 「そう、前にも話た通り。氷之川神社の主祭神は須佐之男命だ。彼は水を司る神として降臨されたが必ずしも水だけとは限らない」

 「水を治める神様だから出雲より来て頂いたのですよね」侑來が言う。

 「水に関する事と言えば治水が上げられるだろう。治水と言えば国造りの礎ともいえる事業で川を治めると言えば治水に関して長けていたと言う事になるだろう。つまり土木に関して秀でていたと言う事になりやしないか」

 「八岐大蛇を川に見立てた事ですよね」

 「そう、荒れた八つの川を治水する力があった。つまり、土木事業のスペシャリストと言う事になる。そして、これも諸説あるが大蛇の身体からあの伝説の剣を得た」

 「草薙剣(くさなぎのつるぎ)ですね」

 「別名、天叢雲(あまのむらくも)剣とも言われる剣を得るのだが、八つの首を持つ大蛇を川に例えるとしたら、川から剣を得られたと言う事になるだろう」

 三人は黙って先生の言葉に集中している。

 「剣は何で出来ている?」

 「鉄」

 「そう、鉄。鋼だな。この場合は、この頃の事を想像してみてくれ。鉄は貴重で高価なものだったはず、恐らくそれまでは石器や木製の道具を使っていたと考えると、鉄の存在はとても重要な事だったのではないかと思わないか」

 「あっ、わたし達が博物館に行った時、稲荷山古墳の出土鉄剣の話がありました。現物は無かったけど」

 「そうだな。行田市に古墳群があるが、この辺りも太古には巨大な国が存在していたと言ってよいだろう。権力者はその象徴として鉄剣を所有していたのだと思う。鉄を持つと言う事がどれだけの力となっていたか想像がつくかい?」

 三人は黙って頷くばかりだった。藤堂先生は話を続ける。

 「踏鞴製鉄(たたらせいてつ)。出雲は製鉄の産地の一つで主に砂鉄を原料に鉄造りがなされたと言われている」

 「川から砂鉄を取る」

 「実際、砂鉄が取れる川がある。斐伊川。古事記では肥河」

 「氷之川!」侑來が言う。

 「つまり、大蛇の身体が川とするならば、川から砂鉄を取り出し製鉄したと解釈する事が出来ないだろうか。ならば須佐之男命は治水だけでなく製錬技術も持っていたと言う事になるだろう。鉄は剣だけではなくあらゆる道具を生む。鎌や鍬など農具もそうだ。そう言った新しい技術を兼ね備えていた存在だったと考えれば」

 「当時としては最先端の技術や知識を持っていたんですね」

 「仮説だ。あくまでも。想像の域でしかない。だが、だから想像してみてくれ。そんなスーパーマンが西に居ると聞き伝われば人々はどうするだろうか」

 「お願いして来て貰う」

 「そうか。見沼は肥沃な大地をもたらすが合わせて災害も多かった。この地を安住の地にしたいと考えたならば遠くともこの地に来てもらいたいと尋ねるだろう」

 「実際二三〇〇年前に来てこの地に治水や新しい農耕技術をもたらした。とするならばその者は」

 「英雄」

 「神様」

 「この時代の国とはどの位の規模を指すか分かるかい。国の統治について国内に諸説あると言う事はそれぞれを指す国が点在していたのではないかと考えられるのだよ。国外からでもいい。実際、神は大陸からやって来た渡来人ではないかと言う説もある。だが、ここでは国内で考えた時の場合で、幾つかの国があれば争い毎も起きるだろう」

 「戦」

 「製錬技術も様々で、須佐之男命も剣で大蛇に立ち向かい、そしてその剣が大蛇の胴体に刺さった時折れた。これは既に製錬技術があったと言う事で、更に折れたところから草薙剣が出たと言う事は須佐之男命の持っていた剣より優れた剣。つまり、より高度な製錬技術で作られた剣だと考えると須佐之男命が何らかで新しい精錬技術を得た言う事になるまいか」

 「なるほど!神とは高度な文明を持っていた者、大陸からの渡来人だとするれば筋が通りますね」

 「憶測だ。この場でのな。どうだ、直矢」

 「いえ、人々がどうして神を必要としていたかと言う答えとしては分かるような気がします」

 「随分、慎重だな」

 「だって、憶測でしょ。先生の。だとしたら他にも考えられる事があるんじゃないかなと思って……」

 直矢は考えていた。先日の出来事やあの小父の言う事はどう説明したら良いのか分からなかった。彼らの言い様はまるで神が人間に問いかけているような言いようだった。それがまた説明出来ないほど現実身があったから。今は素直に渡来人説を受け入れる事が出来ないでいる。直矢は混乱していた。

 「直矢は不服みたいじゃない」

 「いや、そうじゃない。ただ、神社であった事を思い出すと必ずしも先生が言うようではないと思っただけだよ」

 「直矢はどう思ってるのよ」

 「今、解き明そうとしている事は氷之川神社が何故大宮にあるかと言う事だろ。それに、見沼の龍神との関係についても」

 「ああ、それで何か分かった事があるのかよ」

 「むしろ逆だよ。先生が言うような事がその小父さんが言っていた何故人間が神を求めたのかの理由の一つかも知れないけど、それなら今の場所じゃなくてもいい訳だし、大宮の他に二〇〇以上の分社がある訳だから、そのうちの何処かでも良かった事になると思うんだよ。やっぱり、大宮じゃなければならない理由があったんだと思うんだ」

 「確かに、直矢の言う通りだ。何も渡来人説を肯定するつもりはないんだよ。ただ、歴史を扱っているとだな、何処か矛盾してしまうところがある」

 「……」

 「それは、初めは疑いから始まって見ていたのが、史実や新しい発見が出てくるとどうも事実が見え隠れしてくる。須佐之男命がはたしてどのような神か、或は人物か。歌碑が残されている。草薙剣が存在する。と具体的な事柄があると言う事は伝説や言い伝えの陰に事実が存在するはずだ思ってしまうのだよ」

 「歌は別の人物が詠んだのではないでしょうか」

 「剣もはたして本当に伝説の通りの剣なのか」

 「神話の系譜を見ると怪しいところがあるだろう。古事記では伊弉諾尊から生まれたされる。一人親から天照大御神、月夜見尊そして須佐之男命、三貴子みはしらのうずのみこが生まれた。天照大御神は知っての通り神の中でも最高位に位置する神でこの日の本と言う国をお守りする神であり女神、今の皇族の祖先とされている。月夜見尊は夜を司る神、そして須佐之男命は水、海を治める神として誕生した。諸説あると前提して考えても一人の神から誕生したと言う事も首をかしげる要因だ。後々この三神が最も上位の存在となるのだが、その中でも須佐之男命の存在は特異でその描写から様々な人物像が窺い知る事が出来る。ある時は母を想う駄々っ子、ある時は乱暴で他の神から恐れられ、姉の天照大御神が高天原より地上界へ追放する。そして地上に降り立つった須佐之男命は妻となる櫛名田比売と出会いあの八岐大蛇を退治する。随分な変わり様だと思わないかい」

 「同じ人物とは思えない?」

 「そう、人ではないから、これも憶測でしかないけれどそれぞれが別の人物であったかも知れないんだ。詰り、須佐之男命と言う総称だと考えれば複数の神(人物)が居たのではないかと考える事ができる」

 「須佐之男命が何人もいた……」

 「伝説を紐解くと幾つか遭遇する事がある。例えば、後々現れる倭建命(日本武尊)と言う神がいる」

 「知ってる」

 「第十二代景行天皇の皇子で荒ぶる神の一人とされたところは何処か須佐之男命と重なるところがあるのも興味深い。実際、景行天皇は倭建命を恐れ、初め西征(熊襲征討)させ、後に東征させる。そしてその最中、亡くなった。東征に向かう時、倭比売命(やまとひめのみこと)と言う姫から伊勢神宮にあった草薙剣を授かった。そして、東の蛮族を征討する為に旅立ったと言われている。熊襲征討の時はだまし討ちしたりするなどと、とてもフェアではないやり方をしているのだけれど、東征の時は力で戦っていく。そして、負傷するのだけれど、その傷を癒やす為、所々に立ち寄った記録が残されているんだ。この大宮にもそんな言い伝えがあって、足を負傷した倭建命が氷之川神社の参道近くで休んでいると夢に一人の老人が現れたと言う。そして、氷之川神社にお参りするように告げたそうだ。倭建命はそのお告げ通りに神社へお参りすると、すると負傷して歩けなかった足が癒えて立てるようになったそうだ」

 「お参りしたら、傷が治ったのですか」

 「うん、これも想像の世界でしかないが、この時、倭建命は当然あの剣を持っていた事になるよな」

 「剣の最初の持ち主は須佐之男命!」

 「その剣を持って氷之川神社に来ているんだ。なんか興味深くないかい。ましてや神社は神聖な場所。それも今謎解きしている事が関係していると考えると倭建命は単に傷を癒やしに参詣したのではないと言う事になりやしないか」

 「氷之川神社に寄る必要があったと……」

 「そもそも国造りを最初に始めた神様だ、須佐之男命は。後に大国主命がそれを引き継ぎ国を統治する事になる。そして何代か後に倭建命が現れた」

 「大国主命って?」直矢が訊くと

 「出雲大社の御祭神。縁結びの神様と言われて今人気のある神様よ」と侑來が答える。

 「大国主命は後々の名でこの神様は幾つかの名前を持っている。有名な神話には因幡の白兎がある。ここでは説明を省くがな、その時は大己貴命と名乗っていた。氷之川神社の主祭神には須佐之男命の他に櫛名田比売とこの大己貴命がいる。大己貴命は須佐之男命の娘(須勢理毘売命)を妻にしているので二人は親子になるんだ」

 「それって先生、この前言っていた三つの氷之川神社の話の事」

 「そう、大宮の氷之川神社の他に緑区にある氷之川女體神社、そして見沼区中川にある中川神社(中氷之川神社)。この中川神社の御祭神が大己貴命なんだ。その為、この神社を簸王子社とも言う。そして三社で武蔵一宮とする説があるのさ」

 「何か複雑な関係があるような気がするな」

 「倭建命も重要視していたんだね。きっと」と直矢が呟いた。

 藤堂先生は立ち上がり、ホワイトボードの前に立つと徐に板書し始めた。なぶり書きの汚い字で

 『足立』或は『葦立』と書くと

 「ちなみに、倭建命が氷之川神社に参詣すると忽ち傷が癒えて立てるようになったと言う。そこから、足が立つ。足立の語源とも言われている」

 ペンを持った手で示した。

 「これも諸説ある。葦が多く生え立つところから葦立、そこから足立と変化したとも言われ、安達ヶ原もここから来ていると言う。つまり神社の近くにある鬼婆伝説もここが安達ヶ原だったから来ているのではないか。だから大宮が本当は有力視されていたんだ。それと……、もう一つある」

 藤堂先生は少し口ごもるように続けた。

 「直矢言うように、神社が大宮のこの地でなければならないという証があるんだ」

 「それは何ですか」

 「うん、レイラインの話は以前してあったね」

 三人は頷いた。

 藤堂先生は徐に前回使用した地図をまたライトテーブルに置くと電気を入れる。下からライトが照らされ四人の顔を浮き上がらせる。先生は気にせず地図の示し説明を続ける。

 「この三社の延長戦に夏至と冬至がある。そして冬至の時、この北西へと目を向けるとそこにこれがあるんだ」

 藤堂先生が示したのは地図に手書きで付け足した紙がありそれを広げると

 『浅間山』

 「浅間山がある。それと若干ズレてはいるのだけれど」

 さらに他の紙を広げると

 「筑波山と富士山の直線上に神社がある事知られているんだ。何れも調べた人が居るんだな。他にもあるけど切りが無い。ただし、方位は昔の人にとってはとても重要な意味をなしていたんだ。この場では方位に関しては説明を省くけど実は東京と言えば方位を良く考えている都だと思っていい。そして、その担い手として氷之川神社も大いに役割を果たしていると言っても良いんじゃないかな」

 「どう言う事ですか。先生」と侑來が言った。

 「氷之川神社は関東だけでも二〇〇社以上の分社があるのはもう認識しているな」

 「はい」

 「関東には他には久伊豆神社や香取神社、そして鷲宮神社などが有るけどそれぞれのテリトリーが明確になっている。氷之川神社は主に大宮台地から武蔵野台地に掛かる。関東の南西、主に荒川流域から南にかけて分布する。一部奥多摩や秩父などにも有るけれど今は例外としよう。そして台地から低い水域にかけて分布していて、やはり水に関わる事を意味してるのだと思うのだよ。これも調べた人が居て分かった事なのだが、氷之川の氷は字の如く氷を意味しているのだけれどその語源は簸川ひかわであり肥河から来ているのは教えたね」

 三人は頷いた。「出雲地方の川からですね」

 「では問題は川のほうだ」

 「川ですか・川は川ですよね。流れる」と武が答えると藤堂先生はホワイトボードに『川』と書く。そしてその隣に『河川』と書く。

 「うん、今ではこの意味で使われている川だけど、実は当時の川は泉であり沼を示していたと言う」

 「それじゃ、氷之川神社って見沼の神社って事」

 「そう言う事になるよな」藤堂先生はペンを置くと自分のマグカップに手をやり、一口啜った。

 「方位から見ても今の場所がベスト。沼の畔である点でもベスト。それに……」と武が言いかけると

 「それに?」と侑來が問うた。それに対して武は確信を得たように言った。

 「先日、神社に行った時、先生に教えられた蛇の池を見に行きました。本殿の脇で泉が湧いていた。何処か神秘的なものを感じた。川の意味が泉も指していると言うのならこれ程の場所はないと言う事になる。そうですよね。先生」

 武は先生を見た。それに対して

 「直矢はどう思う」

 今までの話を聞いて直矢は考えていた。少なくても理論的に考察しても氷之川神社が今の場所にある事はとても意味深いものだと思う。しかし、先日神社で見た光景は直矢には少し違った印象を与えていた。

 「オレも、行って感じた事がある。氷之川神社は単純に大宮の今の地にある事を意味しているのではないようなきがするんだよ」

 「それはどう言う事だよ」と武が興味深く訊く。

 「いや、確証がある訳ではないからあまり大きい事は言えないけど、神様だからさ、別にここに居るだけが能じゃないと思わない?。つまり、分社が二〇〇社以上あって、その本社が大宮である事は分かりきっているけど別に神様なんだからどこに居ようが同じ神様じゃないかなと思ったんだよ。分社でも様々な御利益あると聞いているし、それは土地土地によってご利益が発祥したんじゃないかなと思うんだよね。でもさ、やっぱり本社は特別な理由があって、やっぱり見沼との関係性は切っても切れない関係なのだと思う。オレも蛇の池を見たよ。神秘的なものを感じた。大体住宅街のど真ん中に神社があって近くに川も無いのに湧き水がコンコンと湧いているんだ。不思議な場所だと思った。何か見えない力を感じたよ。それと、何か祭りみたいな事をやっていて神社の人達がいっぱい居たんだ。それぞれのお社の前で忙しそうにしているんだ。そうそう、小父さんと言う人が言ってたよ。『また成就したようだ』と、何の事だかは分からなかったけど、今思い出した」

 「お祭り?そんなのやってたかな」武は侑來を見た。侑來も首を斜めにしそうだったろうかと思い出していた。恐らく時間が違っていたのだろう。直矢が行った時より二人が行ったのは後だったのだと思う。

 侑來は少しうつむき加減になって考えて居たが何も言わなかった。

 「直矢が見た事は興味深いな。『成就した』なんてまるで神様が言っているようだ」

 そんな事はあり得ないと思った。でも、思い返すと不思議だ。確かに先生が言うように今思い起こすとまるであの場に居た人達はまるで神様のような思える。「そんな事はあり得ない」思わず心の中で言い返した。

 「まだ、決定的な話にはたどり着いてないが、大分神社の事が分かってきたんじゃないか。後は町との関係や、沼との関係。そして龍との関係を少しずつ明らかにしていけば何かしらの答えを導く事が出来ると思う」

 「先生、そりゃ無いですよ。ここまでやって来て」

 「そうですよ。なんか中途半端なような気がする」

 「まあまあ、武と侑來が思うのもよく分かる。が、だ。いきなり全てを解き明してしまったら面白くないだろ。だいたい、ここまでやって来た事もある日全てをひっくり返してしまうような事が出てくるかもしれないじゃないか。お前達がどうしてもと言うのなら続けるのも良かろう。先生としてはこの辺りで一度結論を出したいと思っているんだ」

 「結論?ですか」

 「そうだ」

 「まだ、オレ達何にも分かっちゃいない……」

 「そう、ふて腐れるな。やらないと言うのではない。先生もこう見えても方々当たってな、地元の研究家に教えて貰ったりとか、実際に見て廻ったりしていたんだ。面白い事が分かったよ。龍神伝説が見沼田んぼの周辺で多く語り継がれているけど龍はどうやら女らしい?」

 「女?どうして」

 「うん、白蛇に扮した龍の化身が若い女性になったり老婆になったりと言う話がある。タケと言う具体的な名前まであったようだな」

 「タケ」直矢はその名前に心当たりがあった。そうだ!、小父さんが多美に言いかけた名前だった。何度か聞いた記憶がある。直矢少し動揺する。それを侑來が気がついた。

 「どうしたの直矢」

 「いや、何でも無い」

 言えなかった。言ったら何か崩れるかも知れないと感じた。直矢は漏らすまいと必死だった。

 「どうした。直矢」

 「いや、何でもありません。それよりも先生、ここで打ち切りと言う事ですか」

 「そうではない。武達は部活が忙しいだろうから、集まるのはまた二学期に入って、そうだな、秋季大会が終わった後でもいいじゃないか」

 「そうしてもらえると助かります。オレ達これから追い込み入るから」

 「そうね」

 「まあ、無理せずだな。直矢はどうなんだ。良い事ありそうか」

 先生は何を勘ぐっているのだろうか。

 「何もありませんよ」と少しまごつくと

 「ボート池に居たよね。直矢」

 「え?」

 「見たんだ。二人で歩いて居る所を、遠くてよく分からなかったけど」

 「ああ、そうなんだ」あの時だと直矢が思った。しかし、侑來達はこっちに気がついて無かったと思っていた。多美もそう言ってたと思う。

 「綺麗な人よね」

 「見たの!」

 「感よ!。でも、多分綺麗な人。でも、なんか違うのよね」侑來は言いかけたが止める。

 「何が違う?」

 「ううん、やっぱりよく見えなかったかも」

 「美人か。直矢」と藤堂先生が突っ込んでくる。端で武が睨んでいた。

 「ただの友達ですよ。向こうの方が年上だし」

 「何処で知り会ったんだよ」と武が少し憤慨して言うと

 「言ったろ!寿能公園で会ったって、それから色々と教えて貰ってるんだよ」

 「手取り足取りか」

 「バカ!」侑來の平手が武を襲った。

 「そんなんじゃないよ。それに、その人の紹介で神社に行ったんだ。それに……」直矢は話すのを躊躇した。

 「それに?それからどうしたの」

 「いや、何でも無い。何でも無いんだよ。でも、その人と今度、沼の痕跡を見に行く事になってる」

 「デートか」

 「そんなんじゃないよ」一寸照れくさかった。こんな事は初めてだった。自分が女性と出かけるなんてつい最近まで考えられない事だったはずだ。それが、この数ヶ月、多美と出歩く事が増えている。茶化されて初めて自覚した。

 「まあいい、だがあまり深入りしないようにな。お前達はまだ中学生なんだから。節度有る行動をしろよ」

 節度有る行動とはどんな事だ。直矢は思っていたが言葉に発する事はしなかった。自分が少し違った階段を上がったような気がする。部活に夢中になる武達とは別に直矢は自分が少し大人びていると感じた。

 先生がお開きにしようとしたその時、直矢は急に思いだしたかのように先生に訊く。

 「その時、黒山大黒院にも行きましたよ。先生」

 先生は所作の行動を止めると直矢を見た。

 「そうか、行ったのか」

 「はい、あそこは何なんですかね」

 「何が?」

 「神社なのか寺院なのかよく分からない。それに、ちょっと不気味でもあった」

 「神仏融合な。昔は神社とお寺を一緒にする動きがあったんだ。実際、今でも寺院の中に神社があったりと痕跡を残す寺院もあるが、多くは明治期の廃仏毀釈で潰されたんだ。恐らく残すための苦肉の策だったんだろうな。何か分かったか」

 「ちょっと怖くて直ぐ出て来ちゃいました。何か怖い女の人が居て、綺麗な人だったけど……」

 「そんな人居たかなぁ。先生も行った事はあるけど」

 「そうなんですか。願いを叶えてやると言ってこれを……」

 直矢はポケットに手を入れると勾玉を掴む。ところが思いとどまりそれ以上は喋らない

 「……」先生は一瞬直矢の心理を読み解いた。が、しかしそれ以上は追求しなかった。


 準備室を出ると武は先にグランドへと走って行った。直矢と侑來は二人並んで廊下を歩く。直矢の下足箱まで侑來が見送る形だ。二人でこうやって歩くのは初めてかも知れない。夏休みともあって廊下を歩いている者も少ない。すれ違っても指して気にするような事もなかった。

 「ねえ、あの人どんな人?」

 「どんなって、何が」

 「とぼけないでよ。一緒に歩いていた女の人」

 「どうって……」

 「わたし、変な力があって、旨く説明出来ないけど直矢と居た人、普通の人と違うと感じたの」

 「違うって、何が?。多美は普通だよ。ただ……」

 違うと言えば違っていた。日本人なのに目が緑色をしている。透き通るような肌をしているのに暑さにも強い。氷之川神社で働いて居てオレなんかよりよっぼど大宮の事を知っている。小父さんと言う人は神社で働いて居る人らしい。それに、不思議な体験をしてきた。でも、オレの事を真っ直ぐ見てくれる。オレの事を心配していくれる。よき相談者であり……、魅力的な人だ。

 直矢は侑來に言い返さなかった。

 「夏休み。その多美さんと言う人と一緒なんでしょ」

 「……」

 「気をつけてね。変な人ではないと思うけど……、でも」

 「でも?」直矢は侑來の言いかけた言葉が気になった。

 「ううん、何でもない。あんまり浮かれているとフラれるぞって事よ。じゃあね」

 下足箱の所まで来ると侑來はそのまま走っていた。直矢はその場に取り残され、そしてゆっくりと靴を履き替えると校舎を出た。忽ち熱気と暑さが襲いかかる。気がつくとスッカリ日も高くなり今日も熱中症が多発するだろう。直矢は日陰を探しながら家路についた。


 『氷之川女體神社』

 ここが目的地だ。

 二人は黙って顔を見合わせると、お社に向かって歩き出した。お社の周りに大木が幾つも立ち並ぶ。森の中の神社。ここは社叢(しゃそう)に守られた神社なのである。氷之川神社にもご神木ともなる巨木が幾重にも立ち並んでいたが、距離感が違うと感じた。ここでは近いのである。それだけより親密な感じがするのだ。

 二人は無言のまま本殿の前に立つと詣でた。

 「随分、長くお願いしてたわね」と多美がほほ笑み声をかけて来た。我に返るように振り向き「挨拶してたのさ。神様に」

 「挨拶」

 「オレはここは初めてだろ。だから、自己紹介してたのさ」

 二人は参拝を済ませると境内の中を歩き始めた。

 「へえ、ここは公園でもあるんだね。向こうからも神社に入る事が出来るんだ。家の近所の神社と同じかも、そう言う意味では氷之川神社とは少し赴きが違うよね」

 「そうね、むしろ『身近な』と言う意味ではここの方が合ってるかも。大宮の氷之川さんも良いけどここも好き。それにここには……」

 多美は歩きながら目線を本殿の東に在る祠を見詰めた。直矢も多美が見詰めている先がすぐ分かる。二人は並んでその祠の前に立ち止まった。

 祠の左右に案内板が建てられている。そこには

 『龍神社』と標記されている。

 「龍神社。『見沼の龍神』のお社だね」直矢はまた一つ発見をした。それがどう答えに繋がるかは分からない。でもここに来る事が出来た思った。

 「そうよ。ここにいらっしゃるクシナダビメ様にお仕えし見沼を守っていた龍の社よ」多美は懐かしさを感じていた。あれから月日が経ち今ではここにひっそりと佇むだけ。人間はすでに龍の存在を忘れてしまったのだ。ここに来るのを躊躇していた。この現実はすでに分かっていた事なのだ。だからここに来る事はそれを受け入れる事。一人では辛かった。直矢が居ればまだ何とかなるのでは。そう思っていた。でも、やっぱりそれを受け入れる事は辛い事には変りはない。目頭が熱くなるのを感じる。ああ、もう止める事が出来ない。涙が溢れ画像が歪む。そして涙が筋となって流れ落ちる。頬を伝い、顎へと流れ左右から伝わる涙の流れが一つとなり、そしてしたたり落ちた。喉仏に込み上げるものを感じる。多美はじっと堪えた。一声上げればもう止まらないだろう。直矢が居るじゃないか、泣き出すのを必死に堪える。掌をぐっと握りしめる。次第に肩がワナワナと小刻みに揺れ出した。

 (ああ、もうダメだ!)と思った。その時だった。

 「どうした。多美!」

 直矢が多美の異変を察知した。多美の両肩を掴むと直矢は多美を自分の方へ向けそして多美の顔を見た。多美は見られまいと下を向く。緑色をまとった黒髪で顔が見えない。肩が小刻みに揺れ、そして声がついに出てしまった。しくしくと泣く多美。それでもまだ堪えていた。下を向くものだから涙が鼻筋を伝う。そして鼻頭からボタリ、ポタリと涙が垂れ落ちた。多美がなんで急に泣き出したのかは分からない。でも、神社に入る時から様子が違っていた。だから、流し目でチラチラと多美の様子を見ていた。だから、龍神社の前で多美がみるみる様子が変わってくるのがよく分かった。直矢は多美を察した。すると多美を抱き寄せ、そして、抱きしめた。それは直矢にとっても意外な事。無意識の事だった。

 多美は直矢の行動にビックっとする。でも、今は感情を抑える事が出来ない。二人は互いの背に手を回し抱き合い。多美は直矢にすがるように泣く。大きな声が出る。もう止まらない。押し殺していた感情が一気に出る。直矢にしがみつくように泣きじゃくる。声が通らない様に直矢の肩に顔を埋める。そして、思いっきり泣き始めた。

 直矢は戸惑うも、自分がしっかりしなければと思った。多美を抱きしめる力が入る。小刻みに震える多美の息づかいを沈めようとしっかり抱きしめた。耳元で多美の泣きじゃくる声が聞こえる。「オレがしっかりしなければ」と思った。高揚し体温が上がっているのがよく分かった。すると不思議と直矢は戸惑いが薄れ落ち着いて居る自分が居る事に気が付く。

 「どうしたの」優しく声をかけた。

 多美はまだ泣いている。でも次第に泣き方が小さくなり、息づかいもゆっくりしてきた。そんな多美の変化を直矢は肌身で感じていた。

 「気が済むまでいいんだよ。泣いてて。誰もいないし大丈夫だよ」

 コクリと頷くのを身体越しで感じる。二人はそのまましばらく抱き合ったまま立っていた。多美と密着するのは初めてではない。あの時は凄く焦ったのを思い出す。多美がどうして急に泣き出したか初めは分からなかったが、龍神社を見て少し分かったような気がした。

 「多美は見沼の龍が忘れ去られてしまったと思って泣いたの?」

 コクリと頷いた。「この地で龍は必要ないのだと分かったの……、だから」また、強くしがみつくと肩を振るわせる。

 「そうでもないかも」

 「え?」

 肩を振るわせる多美をなだめると、次第に多美は落ち着きを取り戻す。それを見計らって直矢は多美から一歩引くと両手で両肩を掴んだ。多美の身体をゆっくりとお社へと向ける。多美を龍神社を改めて見た。

 「ほら、見なよ。あそこ」

 直矢は祠の足元を示した。そこには御神酒やお供え、それにさい銭が置かれている。龍神社の前には賽銭箱がない。鈴があるだけだ。恐らく皆何処にも置くところがないものだから、お社の入口に置いたのだろう。数は多くないが少なくても龍神を崇める者が居るのだ。

 「龍神を詣でるものが居る」

 「本殿をお参りしていからついでにする者が殆どだと思うけど、でも、ここに願掛けしに来ている人も居るんじゃないかな」

 多美はふっと我に帰ったような気がした。そうなのだろうか。まだ、わたしの事を忘れない人間が居ると言う事なのか、久しくここは留守にしてきた。それはある意味意図的だった。人間に沼を追われ、行き場のない自分を姫様が救ってくれた。姫様がわたしを側に置いてくれたおかげでわたしが居なくてもこの社は機能してくれてたのだ。姫様は何も言わない。それはわたしに配慮してくれてたのでは。

 多美は視線を本殿の方に向ける。

 「姫様……」


 神社を後にすると直矢は神橋の先に見える木々に囲まれた一筋の細い径(御幸道)を見つける。石段を降りると自然に神橋を渡りその入口に立った。石碑があり『氷之川女體神社磐船祭祭祀遺跡』と記してある。直矢は多美の方を見た。

 「この先は、磐船祭りの祭神跡。その昔は御船祭りと言って沼があった頃はここから船で沖に出たの。沼の一番深い場所に四本の竹を立て、龍をお祭りしたその名残よ」

 そうなんだ。この氷之川女體神社の場所も意図的に定められたもの、神社はここに建てられなければならなかったのだ。それは氷之川神社がある場所も同じ事。直矢は多美と並んでその遺跡跡の小径を歩きながら考えていた。木々が鬱蒼としており遺跡の外を見渡す事が出来ないがここが沼だった頃を想像していた。その時だった。チョロチョロと水が流れる音がしているに気がつく。さっき聞いた音だ。(やっぱり水が何処かで流れているんだ)と感じた直矢は

 「水の音がする」と、辺りを見渡した。

 「この遺跡の周りは水で囲まれているのよ」

 直矢は目をこらす。木立の隙間を覗く。すると確かに水面(みなも)が見える。よく見えないが間違いない。

 「本当だ。どうして」

 「分からない!、直矢。ここが池だった頃を想定して作られているからよ。イメージして見て」

 「イメージ?」

 なるほど、元々は水上で行なわれた祭事である。それを陸上で行えるように進化したのだろう。人間がまだ龍を崇拝している証だと直矢は考えた。奥まで来るとそこは円形をした広場となり周りを木々が覆う。そして更に周りを水面に囲まれここはそれこそ外界から隔てられた隠れ家のような佇まいを醸し出している。そして特徴的なのが四角形の四隅をイメージするように木が四本植えられ、石碑とそれを照らす街灯が立っていた。四つの木の内のりに竹がそれぞれ一本ずつ刺してある。上部に藁縄がくくり付けられおり、四角形を表現していた。どうもお祭りがあったらしい。ここはまさしく祭壇である。二人は中央に立つと辺りを見渡す。そして祭壇跡を見ていた。

 「さっきさ、ビックリしちゃったよ。急に泣き出すものだから。理由は訊かないけど、もし見沼の龍が忘れ去られてしまったと思うなら、少し違うと思うよ。確かにオレ達は地元の歴史を学ぶ機会が無かったかも知れないけど、少なくてもオレ達の他にもこうやって気にするかける人が居る事が分かったのだから。大切にしたいと思っている人々が居ると言う事が分かったんだ」

 「……」多美はただ直矢を見詰めて直矢の言う事を耳にしている。

 「調べて分かった事だけど、龍にまつわる話が多いのもこの辺りなんだ。龍が好んで活動していた場所なんだと思っていたけどちょっと違うのだなと今思ったよ。結局、江戸時代に開発が盛んに行なわれたのがこの地で要するに人間が人間の都合のいいように開発を押しすすめた所だろ。ここは。だとしたら元々住んでいたものからしたら大迷惑な訳だよ。それが龍ならオレでも暴れると思う。」

 それを聞いて多美は笑った。

 「だとしたら、大宮。氷之川神社はどうなんだろう。あの辺りでは龍神伝承はあまりない。でも蛇の池や大宮公園のボート池の辺りはこことよく似ている。いや、さらに奥深いと言うのか規模が違うと思う」

 直矢は自らの論説の先が見えなくなり止まった。

 「神聖な所だから」多美がボツリと言う。

 「神聖な所だから……、そうか、ここに龍神社が在るのも龍を敬い奉る事で災いを無くしたいと言う人間の願いからだ。人間がそのためにお社を建てた。本来、龍が望んだものではない」

 見沼の龍は沼で人々と寄り添って暮らしたかったのだ。ところが人間は自分達の欲望のままに開発を進めた。確かに、江戸に幕府が開きその後二百五十年におよび繁栄する。つまり戦がなかった訳だが、その代わりに都に人間が集中した。単純に食料を確保しなければならない。その目的の一つとして見沼が開拓された。そして田畑とかした。人間は人間の力でこの土地を得る。食料を確保したのだ。

 「龍はどんな気持ちだったのだろう」

 多美は直矢の一言に小さく反応する。過去を思い出していた。自由に振る舞う事が出来た頃は楽しかった。人間も河岸段丘にそって集落を造り生活していた。狩猟から稲作へと以降すると人間は田畑を造り作物を作り定住する。ところが、今度は自然の猛威が人間の生活を襲う。家や田畑が水に飲み込まれ、多くの人間が犠牲となったのだろう。必然的だったのだ、人間にとっては。

 その時。

 カサカサと梢が揺れる音がする。キーンと微かな耳鳴りのような音を感じた。身体を何かを突き抜けたような感じ。一瞬、気のせいかと思わせる繊細な感覚。直矢はそれがこれまで感じた事のあった、あの不思議な体験と同じである事を感じた。直矢は多美を見る。多美に変りはない。辺りをキョロキョロと見渡す程度、でも多美も感じているのだ。そして、恐らく多美はそれがなんであるか分かっているのだろう。直矢はこれを待っていたのだ。ここに着いてから……。

 (来た!)ここに着いてからずっーと待っていた。多美とここに来ればまたあの不思議な感覚になれると思っていた。これからまた不思議な事が起こる。直矢は待ち望んでいた。多美もそれは十分認識している。ここに着いてから結界が張られていない事にすぐ気づいていた。境内に入ってもそれは変わらない。理由は姫様がここに居ないと言う事に他ならない。ある意味、これ以上直矢には影響があり過ぎる。直矢は知り過ぎている。その方がよいと思っていた。それに、留守であって少しホッとしていた自分がいる。多美としては境内を既に出ていたので少々気を緩めていたところがあったのだ。そう言う意味おいてはうかつだった。あの方が居るのだ。

 「姫様……」空を見上げ呟いた。

 すると、二人が来た径の方から気配を感じる。直矢も辺りを見渡しており、そして来た径を見た時だった。すーっと足音もなく女性が現れた。涼しげな淡い檸檬色のワンピースに縁の大きな麦わら帽子を被っている。半袖からしなやかに延びる手、そしてすらりとした足は多美よりも透き通るような色白で、と言うよりも今気がついた事だが、あれ程色白と思っていた多美も直矢とこの暑い最中出歩いたせいか、少し色づいていたのだ。気がつかなかった。それでも、学校の女子達に比べれば遙かに色白なのだが、目の前の女性はそんな多美を凌ぐ白さだと直矢は思った。年齢は多美よりは上なのだろうけれど、お姉さん。そう、多美のお姉さんと言っても可笑しくない。ただし、多美とは顔形は似ていない。面長の多美と比べると何処かふくよかな感じがするが決して太っていると言うものではない。多美とはタイプが違っているだけなのだ。綺麗な人だ。直矢は最近女性の容姿に敏感になっていた。

 帽子の陰で少し顔がハッキリしなかったが女性が近づくにつれてそれも解消される。この人もまた多美と関係する人。直感で感じた。

 「姫さ……、いえ、小母様」多美は直矢に分からない程度の会釈する。クシナダビメ(櫛名田比売)はそれを感じ取ると合わせるようにほほ笑み頷く。

 「ここに居たのですね。多美」

 直矢はやはりと思う。も、惑いが隠せずその場に立ち尽くす。それでも、直ぐ我に返り多美が小母と呼んだその人に向かって「こんにちわ」と軽く会釈しながら挨拶をした。今までの自分ではあり得ない事。これも最近自覚し始めた事なのだろう。

 「あら、こんにちわ、多美。この方はもしかして」

 「はい、小母様。直矢です。瓜生直矢君です」

 「そうそう、聞いてますよ。主人から。貴方ね。最近多美とお友達になってくれた()は」

 「あっ、いえ、友達になってくれたのは多美のほうで、オレはそんな……」

 返す言葉がなかった。そうか、この人はあの小父さんの奥さんなんだ。優しそうな人だ。直矢はそう感じると少し安堵する。

 「戻ってみたら、今帰ったと聞いたから、もしかしたらここかと思ったのね、追いかけて来たのよ。会えて良かったわ、多美。久しぶりね」

 クシナダビメ(櫛名田比売)が言わんとしている事がなんであるか多美は分かっていた。

 「申し訳ありません。小母様。なかなか赴く事が出来なくて」

 「よいよい、訳は分かっていますよ。それに、直ぐ近くまでにいつも来ている事は知っていましたからね」

 「小母様(姫様!)」

 クシナダビメ(櫛名田比売)はそれ以上は言わなかった。それよりもこうやって二人で来た事を歓迎してくれたのだ。

 「それよりも、直矢君は今見沼の事を調べてるのよね」

 「あっ、いえ、調べていると言える程の事ではないですけど、多美の影響をうけて……」

 「そう、それで何か分かったの」

 「それが、謎が深まるばかりで」と直矢は多美を見た。多美も気づき見詰める。その光景を見たクシナダビメは、

 「そう、でも二人が仲良くなれた事が何よりね。ねっ、多美」

 「はっ、はい、小母様」多美は思わず下を見てしまった。その仕草を見て直矢は幼さを感じる。多美の一面を見た気がする。さっきは大人びた辛辣な表情で泣いていた。今は健気な一面を見た。多美は不思議な女子(ひと)だと思った。そして多美の事が益々可愛いと思った。

 「多美はどう。見沼に来てあなたの思いは叶いましたか」

 「はい、いいえ……、小母様(姫様)……、わたしは……」多美は目を伏せ一点を見詰めるだけでいた。それを察してかクシナダが語り始めた。

 「あなたがここに来るのにためらいがあるのは分かっていましたよ。今の見沼はあなたが知っている見沼ではなくなってしまった。ここにはあなたが人間と関わった過去がある」

 直矢は小母さんが何を言っているのか理解出来ないでいた。

 「わたしは憂いでいたのよ」

 姫様……

 「でもね、あなたが留守にしていた間もあなたを慕う者達は絶えなかったのですよ。いつぞやからはここの祭祀も復活しました。あれはその名残です」

 クシナダは藁縄と竹で作られた祭りの後を示した。

 「でも、少しホッとしました。あなたに以前の笑顔が戻っている。それはその子のおかげですね」

 「小母様……」

 「直矢君」

 「はい」

 「この子は不思議な子でしょ」

 「はい、いいえ……」言葉に詰まった。

 その戸惑いを見てほほ笑むと

 「どうか、この子がこの地に居る間は仲良くして上げて下さいね」

 「そ、それは勿論ですが?多美は居なくなっちゃうのですか」と多美を見た。

 多美は何も言わず、じーっと直矢の顔を見ている。

 「この子は今長いお休みを取っている所なのよ。お休みが過ぎれば帰らなければならないわね」クシナダビメは多美を見た。

 「何処へですか」

 「出雲」答えたのは多美だった。

 「もう会えなくなっちゃうの」

 「……」

 その二人を見て察してかクシナダビメは一つの(すべ)を二人に分からぬように施した。それは、スサノオウも施した同じ術。直矢は今は動揺が隠せないがここを立ち去る時には忘れているだろう。勿論、龍である多美には効かない。多美には辛いだろうが直矢には深入りさせない方が良い。それはスサノオウとも話し合った事。

 「直矢君、安心していいのよ。離ればなれになってもお互いに気持ちがあればどうにかなるものなのだから」

 「どうにか……」

 「そうよ。それよりも貴方が取り組んでいる事はとても大切な事なの。今の見沼周辺は様変わりしてしまった。それは、単に自然やしきたりが無くなると言うだけのものではなくて人間と人間との繋がりや人間と神様との繋がりが途絶えてしまうかも知れないと言う危機感のようなものなの。多くの人間がここに住むようになったけど彼らがここに住む必要性は何だと思う?」

 「必要性?」

 「そう、必要性。都では人間が住むには手狭になってしまった。ところが人間は生活の糧を得るためには都に行って得なければならない。本来は都に住み都で働くのがよいものを住む所が得られなくなってしまった。そこで住むところを郊外に求める様になる。生活が便利になって今まで見向きもされなかった見沼周辺も人間が住むようになった。その大半が他所からの移住による者。土地の人間は自分たちの土地を売り彼らに転売するようになった。その結果が今の見沼の様」

 それは十分直矢にも理解出来る話だ。

 「昔ながらの景観は一部を除いて神社やお寺の周辺だけになりつつある。それに、その神社に関わる所においても人間の要求はつきないようでここでもそうだけど男躰社(氷之川神社)では参道の並木に対して苦情を申し出る者も少なくないと主人が嘆いていたわ」

 「参道の木ですか。あんなに立派な木ばかりなのに」と直矢見上げて神社の木々を見渡した。

 「呆れたものでね、枝が掛かるからと切れと言う。参道の木を何と心得ているのかしらね」

 少々嘆きとも思える話だ。

 「さすがに度が過ぎる時は主人も我慢が出来ないみたいだけど」

 「どうしたのですか」

 「そうね、それは本人に訊いてみるのが良いんじゃない。まあ、会えればだけどね」

 小母さんが言う事は藤堂先生達とも話していた事だ。自分がそうだけど、大宮の歴史や風習を知らずに暮らしてきた。改めて調べてみたら自分が全く知らなかった事を痛感した。だからこうやって謎解きをしているのだ。多美と出会ったからだ。けれど、今の直矢にはもう一つの思いが大きくなっている。それは……

 多美の事が好きだ。

と言う思い。

 気持ちを押し殺し、直矢は小母に今までの事を話した。そして同じ様に尋ねる。しかしその答えは予想している範囲のものでしかなかった。

 「そうね、よく調べているわね。直矢君。でもその質問は野暮よ」

 「野暮?」

 「君はさっき謎解きをしていると言った。ならばその答えは自分で見つけるべき」

 「それは」確かにそうなのだが

 「その答えを早々に分かってしまうともう興味が薄れてしまうかも」

 少し落胆した表情からクシナダビメは続ける。

 「そうね。一つ言える事」

 「言える事?」

 頷くと「答えは身近にあるものよ」


五話へつづく


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