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神々との出会い

三 神々との出会い Encounter with the gods 


 「くそ!、油断した!」

 瓜生直矢と天雲武が教室の隅で取っ組み合いを始めたのは朝会が終わり一時間目が始まる直前だった。武は用意周到だった。この時とばかりに今まで出来なかった事を直矢にして見せたのだ。それは実にたわいも無い事であり周りから見れば幼稚極まりない事なのである。

 廊下に一学期の期末テスト結果が張り出してあった。勿論、全員のではなく上位者のみである。科目別と総合とで分けて掲示されていた。瓜生直矢も決して勉強が出来ない方ではなく。むしろ掲示されるメンバーの一人ではあったのだが極めて秀でている訳でもなかったので特に周りからも関心がない。時々一〇位台に入る教科もあったが総合で見ても特に注目すべきものはないと言ったところだった。

 天雲武は直矢に「得意だと自慢してた割には大した事ないじゃないか」と……。

 直矢としては成績で嫌みなど言われた事がなかったものだからカチンと来てしまった。ただし、直矢には少々負け惜しみの思いが強かった。何故なら天雲武は常に総合の上位者。この時も成績が良く、幾つかの科目ではトップだった。

 『それに比べてオレは……』


 「部活もサボって早く帰る割には大した事ないじゃないか。直矢」

 「何だと」反論は出来ない。

 すると何時もの様に自然と武の襟元を掴み押し上げる。が、相手も待ってましたと思うばかり同じく押し上げるものだから二人共つま先立ちになっていた。

 「バレリーナじゃないんだから二人共止めなさいよ」と神月侑來(ゆら)が眉間にシワを作りながら割って入るが、如何とも中学二年生ともなると二人共身体も大きくなり力も強くなっている。一年の時と勝手が違うと感じた侑來だった。

 「どうして?、最近おとなしくなったと思ってたのに」と侑來はクラスメートに見張るようにと言い残すと準備室に走って行った。クラスの野郎どもは周りではやし立てるだけで仲裁に入るなどとするつもりはない。女子はと言うとそれこそ冷ややかな目線で何やら話しているだけ。当然の事ながら二人にはそんな周りの視線なんぞは目に入らず、互いにののしりあうだけであった。

 直矢としては少し分が悪かった。それは、武の言う事もまんざら間違いではなく。直矢としては手を抜いた訳でも無かったのだが得意の歴史についてもどこかカンが外れたとでも言うべきか、正直に言えばテストのできはあまり良くなかった。それは自分がよく分っている事だったのである。手は抜かなかった。抜いたつもりはなかった。でも、あまり力を入れていない所が出たのだ。少なくとも直矢はそう思っていた。

 「大した事ないのによ。大きな事言うなよ。恥ずかしいだろ」

 「何でお前が恥ずかしいんだ」

 「恥ずかしいものは、恥ずかしいんだよ」 二人共益々相手を持ち上げようとするものだから二人共少々息苦しくなっている。それでも止めようとはしなかった。ロッカーを背にごろごろと体制を入れ替えては罵声を掛け合う。ところが二人共それ以上手を出すと言う事はしなかった。それは二人が同じ事を考えていたからだった。一年、二年と度々やり合った二人だった。期末が始まる前、進路指導が入った。そこで言われた事が生活態度についてだったのである。余りにも目も当てられない素行があると進路に影響すると脅されたのである。だから、二人は極力もめ事を控えるようにして来た。そのつもりだった。ところが今回、何処か武のカンに障ったのだろう。そして武が掛けた一言がその後に発展してしまった。直矢は全くといっていいほど無防備であった。手を出さないのはこの後の藤堂先生が来る事を二人は想定していたからだ。それは全くと言って本能に他ならない。

 「こら、お前ら!」その一言で二人はつかみ合ったまま止まる。機械が急に止まるように。ただ、二人共力を込めて相手を持ち上げていた。両手の上腕二頭筋に乳酸が溜まっていたのが力を抜くに合わせて気怠感が遅う。もう力が入らないかと思うくらいだ。

 「しばらくおとなしいと思っていたら、また始めやがったか」

 「こいつがからかうからだよ。先生」

 「本当の事だろ」

 「なに!」

 「こら、授業が始まるぞ!お前ら放課後オレの所に来い」

 「……」二人は黙っていると

 「いいな!」

 「はい!」と二人は返事した。

 「神月、お前も来い!」

 「私もですか」心外な顔をして侑來がいうと

 「立会人」

 「はーい」と渋々返事する。

 藤堂先生が教室を出ると、「何で私まで付き合わなければならないのよ」と侑來がまくし立てると直矢と武はすでに覚めていて、めいめい机にもたれかかるように座ると「この前の続きだろ。何か分ったんだよ」と武が呟くが直矢は黙っていた。それを聞いて侑來もすぐ納得したようで自分の席に静かに座った。表情はとても不満ありげな膨れた顔で……。


 「大いなる宮居のある街」と藤堂先生が言い切る。

 「大いなる宮居?」とまず武が反応した。

 「そう、この意味が分るかな」

 放課後、何時もの様に三人は社会準備室のライトテーブルを囲んで藤堂先生の問いに傾倒する。

 藤堂先生は今の言葉を準備室の片隅あったお世辞にも綺麗とは言えないホワイトボードに板書した。表面は消し切れていない文字が掠れ、所々残っており先生は黒板消しで消そうにも消える事はなく、気にせずその上から重ねて書き始めた。

 「汚いんですけど」と直矢。

 「気にするな」

 「読みづらいんですけど」と侑來が念を押す。

 「読める」と先生は言い切る。

 「一度水拭きした方がいいんじゃないの」と武が言うと、

 「良く言った、天雲、後でやっといてくれ」

 「オレがですが」言うんじゃなかったと思いつつ調子に乗ってしまった事を悔いた。それを見て直矢は「ざまーみろ」と持ったが口に出す事はなかった。言ったところで武とのいざこざを蒸し返す気も無く、先生の問いかけに集中したかったのだ。ある意味他の二人も同じだったのかも知れない。

 藤堂先生は『大いなる宮居』と書くと漢字の大と宮に赤丸を付けた。

 「大宮」

 「そう、大宮となる。つまり大宮とは大いなる宮。つまり氷之川神社がある所を指しているんだが、大宮と言う街は氷之川神社の門前町として発展した街だったと言う事になるのだろうな」と少し意味深げに言うと武が直ぐ反応した。

 「先生、でも大宮宿は中仙道でも比較的新しい方じゃないの」

 「よく知ってるな。その通りだ」

 余計な事を。なんでお前がそんな事を知っているんだ。第一初めに興味を持ったのはオレなのにと少し苦々しく思った。侑來はと言うと武の一言に関心するだけで存亡の眼差しで見ていると

 「大した事じゃないよ。小学校の時、民族博物館に行った時に知ったんだ。あそこにジオラマがあって音声で説明してくれるんだよな」

 直矢も思い出していた。そうだった。そんなのがあったような気がする。でもすっかり忘れていた。

 「大宮の方が新しいなんてちょっと意外だと思ってさ、その後浦和の民族博物館にも行ったんだよ。親に連れてってもらって」

 「どうして」と侑來が訊くと

 「だってさ、大宮には氷之川神社があれば、大宮駅も大きいし、街も開けてるだろ。今の浦和は綺麗になっているけど昔は京浜東北線しか止まらなかったと言うし、第一、新幹線が止まるのは大宮じゃない」

 「県庁があるのは浦和だよ。それにさいたま市役所も浦和だし」

 「県庁は分るけど市役所は元の浦和市役所だった所でどうして浦和なのかよく分らなかった」

 「そこには近代に入ってからの人々の働きかけがあった事が一因すると考えるけど、今は大宮に関連する所で考えればいい。武が言うように宿場町としては大宮は後発で出来た街なんだ。元々は氷之川神社の参詣町で中仙道が整備される前は浦和と上尾の間で馬継ぎする場であったと言う」

 「馬継ぎ?」

 「物資を運ぶのに当時は馬が使われていたんだがお馬さんも疲れるだろ。重い荷物を背負わされたり、荷車を引いたりと。だから、ここで馬を取り替えるのさ。荷駄輸送ともいわれる当時の物流地だったと思えばいい」

 「なるほど」

 「それと、当時は参道の一部が街道でもあったんだ」

 「参道が街道?」

 「今の一の鳥居から二の鳥居までの間を示している。それを、江戸時代になり中仙道が整備される。『氷之川さんの前を素通りしたんじゃ申し訳ねぇ』と言う事になって神社の西に新たに参道を迂回した街道を整備し直した。そして、近隣に住んでいた有力者を呼び寄せ大宮宿を造ったといわれている」

 「氷之川神社はどうして今の場所にあるの」と直矢が問うと、

 「その前に、そもそも氷之川さんはどう言う目的で祀られているかだ」

 「目的?」

 「御利益さ」

 「ああ、御利益ね。……」直矢は言葉が詰まった。他の二人からも回答がない。それを見定めると先生は話を続ける。

 「主祭神は須佐之男命、櫛名田比売そして大己貴命が祀られているが何よりも須佐之男命だろう。須佐之男命は分るか」

 「八岐大蛇を退治した神様」

 「その通り、それから」

 「……」

 三人とも考え込むが思いつかない。それを見て藤堂先生は「神様の世界も上下関係やグループがあるんだよ。その中でも須佐之男命はある意味最上位に位置する神様の一人と言えよう。もっとも詳しくはもっと上があるのだけれどそれはまた別の機会でするとして、須佐之男命がそもそもどう言う使命をもって誕生したのかによると思う」

 「誕生?使命?」

 「この辺りは古事記、日本書紀で出てくる話なのだがここでは古事記を基準として考えてみようと思う」

 「オレ苦手」直矢が言った。

 「オレは少し読みました」

 「わたしも」

 直矢はまた出し抜かれたと思った。藤堂先生はそんな直矢を気にもせず話を進める。

 「諸説あって、また、最近は様々な解釈に則った略本がでているから直矢も読んでみるといい。名前だけ出てくる神様も多いから、出来るだけ解釈が砕けた方が読みやすいと思うけど中には卑猥な表現も多々出てくるから……」

 侑來は目を伏し目がちにすると直矢と武はニタニタと笑う。「オレが読んだのその手の類いです」と武が言った。

 「伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)と言う二人の神様から話が始まる」 

 藤堂先生は三人に分かりやすく説明を始めた。

 「伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)は天上界(高天原)で多くの神様を産んだ。そして日本と言う国をお造りになるのだが途中伊邪那美が亡くなってしまう。古事記では須佐之男命は伊邪)那岐から生まれたとされ、日本書紀では伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれたされている」

 それぞれの説については後にして、ここでは須佐之男命の使命についてになるので説明は省かれた。

 須佐之男命には二人の姉兄がおり、天照(アマテラス)大神(オオミノカミ)そしてもう一人の神は月夜見尊(ツクヨミノミコト)と言う。月夜見尊はあまり文献にも出てこないのでここでは省略されがちだが、なんと言っても天照大神と須佐之男命の話は神話として語り継がれているものだ。

 天照大神が太陽神として高天原を統治する事になる。余談だが現在の天皇家のご先祖様にあたる神様だ。では須佐之男命と言うと、神は海並びに水を治める神として誕生した。初めはそれが嫌で逃げ出す。また、母に会いたいと泣き叫び乱暴も働くものだから姉の天照大神も須佐之男命が攻めてくると思い勘違いをする。誤解が解けて一時高天原に住むのだが、余りにも暴れるものだから岩戸に隠れてしまわれた。

 「天野岩戸」

 「その通り」

 反省し姉の天照大神に従い地上に降り立った。それが現在の出雲の地になるのだと記されている。須佐之男命は水を治める神様と説明した。つまり後々、水を治める神として、大宮の地においでになる。二千三百年ほど前の事だ。当時、江戸時代中期までこの地に見沼(神沼)と言う大きな沼があり度々氾濫が起こっていた。或は肥沃な土地として神聖な場所とされていたとも言われている。何故ならこの地には多くの遺跡が発見されている。それは人間にとって、とても重要な場所だったからだと推測できる。この地で氷之川神社は、見沼の氾濫を治める為、豊かな台地で健やかに暮らせますようにと言う願いをこめられて創建されたと言うのが理解しやすいだろう。つまり水を治める神様である須佐之男命が降り立った地が大宮だと言える。

 藤堂先生が説明し終わると

 「どうだ、少し想像出来るかな」三人を見た。

 直矢は考えていた。相変わらず藤堂先生の話は人を引き込む力があると感じていた。それに多美が言っていた事を思い出すと氷之川神社は見沼と密接に関係があり、ここで暮らした人々にとって氷之川神社はとても大きな存在であったと言う事になる。

 「見沼って見沼田んぼの事だろ」と武が言うと直矢が「昔は大きな沼だったそうだ。田んぼの辺りが低くなっているのはその面影だと聞いた」

 「誰に?」

 「誰でもいいだろ」少し慌てた。

 それを見ていた藤堂先生が「その見沼で出会いがあったようなんだな」と蒸し返す。

 「先生!」とかん高い声で言うも

 「まあまあ、別に冷やかすつもりはないんだよ。先生も気になってな方々学校を当たってみたんだが少なくてもさいたま市にはそのような制服はないようだ」

 「出雲って言っていたよ」

 「出雲?」と侑來が反応する。

 「どんな制服?」

 「セーラー服なんだけど深い緑色のラインが入っている制服」と言いづらそうに答えると侑來は少し考えたが「そんな色した制服見た事ないと思うけど……」と訝しげに返した。

 それを聞いて直矢はそんなに驚く事もなく受け入れる。それは多美が何処か謎めいたところが多いからであり、不思議な事が多かったから。今の直矢はそれをわざわざ詮索する気は全くなかったのだが何処かで訊かなければならないだろうと思っている。

 「とにかくだ。氷之川神社に注目した事は大宮の歴史を知る上で大きなポイントとなるだろう。それに、偶然なのか意図的なのか分らない事も多くてな」と藤堂先生は少し歯切れ悪く言う。

 「どう言う事、先生」

 先生は手にしたマグカップを口に当てると一口珈琲を口にする。その芳醇な苦みを味わうと「さっき、祭神の話をしたが」

 「須佐之男命、櫛名田比売そして大己貴命」武が答える。武は既に大枠を理解していうようだ。

 「実は氷之川神社は他にもあってな」

 「いっぱいあるでしょ」と武が言う。

 「いやいや、武蔵一宮としてだ。武が言うのは関東に氷之川神社が分霊として沢山あると言う事で現在二百社以上あると言う。だが、先生が言うのはそれとは別で武蔵一宮の氷之川神社は実は二社別にあると言う事なんだよ」

 「全部で三社あるって事?」

 「三室にある氷之川女體神社、中川ある中川神社がありそれぞれ櫛名田比売、大己貴命をお祀りしている。櫛名田比売は須佐之男命の妻であの八岐大蛇の伝説に出てくる神様だ。須佐之男命は櫛名田比売と夫婦になるに当たって歌を詠む」

 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

 藤堂先生は何時もの様になぶり書きで板書した。天然記念物並に汚い。

 「これは日本に残る最古の歌とされていて須佐之男命が読んだ歌だ。出雲には実際に石碑がある」

 「そうなんだ」と直矢は呟いた。

 「この歌にはこの地に立ち妻と平和な暮らしを何時までもしようと言う意味ともう一つ大事な意味が含まれていると考えている」

 「どう言う事ですか」と三人。

 「妻イコール国と考えると感じるんじゃないかな」

 「……」

 「国を守る。何時までも平和でありたい」

 「そうだな。国防の意味があると先生は考えているんだ」

 「国防?」

 「そう、妻籠みに 八重垣作るとは妻を守る事。強いては国を守る事。何から?」

 「……」

 「この時はまだ戦と言うよりは災害とか……、でも神話では八岐大蛇だけど」侑來が答える。

 「鋭い!、八岐大蛇」と板書し指を指した。

 「須佐之男命は櫛名田比売を守る為に、暴れる大蛇を退治するのが神話だ。八つの頭を持つ蛇。蛇もある意味神が創造したもうた神の一つと言えばどう想像できる?」

 「蛇が神?」と武が言うと

 「神がどうして暴れて、退治されなければならないのでしょうか」と侑來が訊いた。それを藤堂先生は直矢に示すと少しうつむき加減に思案し

 「蛇は何らかの自然現象」と直矢は多美を思い出していた。

 「そうだな、直矢!。実は蛇は水の神様の化身だと言われている。地方の言い伝えの中では大きな沼の主は蛇だと言われる所もあるそうな」

 蛇は神。蛇は水と板書した。汚い。

 「沼って。先生、見沼も」

 「まあまあ、今は歌の意味を紐解くのが先だ。蛇が水の神だとすると。水は人間の生活でどうあったか……」とまた先生は疑問を直矢達に振る。

 「沼もそうだけど、川でもあり、海も水だけど、そこでは嵐であり、台風であったり様々な災いも水だったりしますよね。先生」と武が少し閃きながら言うと

 「そうだ。それで」

 「須佐之男命は水の災害から守る為に水と戦った。大蛇(おろち)と戦ったのだから大蛇とは水害そのもので……、て、水害と言うとやっぱり川の氾濫と言うのが一般的だったと思うから八岐大蛇とは八本の川の氾濫を意味するもの……」思案深げに武が呟く。

 「憶測だが大蛇を川として見たら、人間にとって川の氾濫は死を意味する事もあるだろう。雨期が来て雨になれば川は牙を剥いて人間に襲いかかるのだから。歌には堅牢な八重垣を幾重にも重ね妻である国を守ると言う意味が込められていたのではないかと考えれば次に繋がると思う」

 「でも、普通は戦とか侵略を考えるでしょ?」

 「勿論ある。そう言う要素も含まれるだろう。ただし今は、そもそも創建された由来について考えているのだから戦は意識しなくてもいいと思う」

 藤堂先生は三人の興味を一点に集中させると。

 「次に」と言いかけると……、

 「氷之川神社でしょ」

 「そうだ!」

 「氷之川の由来は出雲地方にある肥の川からとったと言われている。肥沃に富んだ川を意味するものだろうから氷之川とは正に水害そのものや水の豊かなと言う意味が込められているのだろうと推察する。大宮のこの地に創建されたのはここが水の豊かな土地であり、また水害も多い土地で合った事が理由だと言えよう」

 「見沼の事ですね」侑來が訊くと先生は頷いてまたまた一口珈琲をふくんだ。

 直矢は聞いていた。見沼がどれほど大きくこの地にあったかを「でも、どうしてそれが今の場所なんですか。先生」と訊くと

 「うん、この辺りからは諸説あってな先生もあまり自信はないんだが」と少し言葉を濁すと

 「先生、今更ここまで聞いて、教えてくださいよ」

 「分った。分った。ここからは少しお伽噺になってしまうのだがな、先生も付け焼き刃な事だからハッキリとは言えないのだが……」と少しためらいを感じている。

 「早くして、先生!」

 藤堂先生も意を決し一言発した。「龍さ……!」

 「龍?」

 三人は唐突な言葉に固まってしまった。意外だった。藤堂先生の話と言えば理論的で今までも様々な解釈も科学的なはずだ。たった今の須佐之男命と八岐大蛇の話も極めて納得がいくものだった。そんな先生の言葉から唐突にも龍の話が出るとは思わなかったからだ。

 「龍って伝説の動物でしょ」と武が言う。

 「龍と氷之川神社がどう関係するのですか」と侑來が質問する。

 ただ、直矢の反応は違った。直矢は多美の事を思い出していた。多美が探しているのはこの事ではないのだろうか。真剣な表情で考え事をしている直矢を先生が気がついた。

 「直矢」

 「ああ、オレが以前先生に訊いたんだ。龍の事を……」

 「どう言う事だよ」と武が食い下がると直矢はこれまでの事を少しずつ話始めた。多美から龍の事を聞いていた事。人間が龍の事を忘れ去っている事を憂いでいる事。そして何処かにまだ龍との繋がりないか探している事を……。

 武達は黙って聞いていた。

 「おかしな事じゃないか。よそもんが詳しいなんて」と武が呟く。

 「そう言う言い方、ないんじゃない」侑來が反論する。

 「……」

 「でも、そうなんだ。大意はないのさ。でも、ここに住んでいるオレ達が知らなくて、よそから来ているのに昔の事を語るんだ。まるで見て来たかのように。それが不思議で仕方がないんだ。一つ一つ教えられているようで、でもどこかスッキリしないのさ」

 「どう言う事」

 「うん、例えば家の近所にも九〇歳過ぎるばあちゃんがいるけど知っててもたかが八〇年前の事だと思うんだ」

 「八〇年とは昔の事だぞ」と藤堂先生が口を挟むと。

 「そうだけど、先生の言い方で言えば江戸時代の事なんて実体験している人なんてこの世には居ないはずでしょ」

 「まあ、そうだが……」

 「そう言う点で聞くとさ、その江戸時代、いや、もしかしたらもっと過去の事も見て来たように言われると釈然としないんだよ」

 「確かに直矢の言うのも分るが、一概に言えないだろう」と武が言うと。

 「どう言う事だだよ」と少し心外な趣で直矢が言い返す。

 「語り部とはそう言う事じゃないかと思うんだよ」

 「語り部?」

 「語り部は実体験した人達の感じた事をより現実身が伝わるように伝承していくものじゃないかとオレは思う」

 「正確に」侑來と反応する。

 「ああ、過大に膨らましてもダメだろうし、過小して不十分であったりしてもダメだと思うんだ。同じ話を聞いても人によって解釈が違っていてはどれが本当なのか分らなくなるじゃないか」

 「それは往々にしてある事なんだ」と藤堂先生はマグカップを揺らしながら武の話に傾倒していた。

 「先生」

 「例えば同じ話を部落が違うと伝え方が異なる場合がよくあるんだ。歴史的史実においてもあり得る事で立場変えれば見方が違う。と言うのが多いんだ」

 「そーなんだ」

 「ああ、今授業でやっている鎌倉期でも南北朝、戦国そして江戸でもある話だ。江戸時代は二五〇年に渡り戦のない時代が続いた。この時代の風物として歌舞伎があり、浮世絵があり娯楽としての物語。小説だな。が沢山排出されるんだが、そんな平和な時代でも幕府の統治が厳しかったんだ」

 「そうなんですか。江戸時代って何でもありだと思ってましたけど」

 「確かにそう言う側面ある。でも、表向きはあくまでも幕府の管理下に置かれていて言論の制限があったんだ。特に幕府を批判するものに対しては敏感だ。ところがだ。庶民も黙ってやしなくて、巧みに筋書きを変えたり、登場人物の印象を変えたりするなど網の目をくぐり抜ける。ベストセラーが連発する。そう言う意味では現代とさして変りは無いのさ」

 「へえー、そうなんだ」

 「話が途中なんだが、見沼には多くの龍の伝説がある事が分ったんだ。詳細はこれから調べるが、みんなも調べてみてくれ。それと何故氷之川神社が今の地にある事が必要だったのかと言う事を」

 「必要だった事?」

 「そうだ。ここにどうしても必要だったんだと先生は見てるんだよ」

 三人は考えた。大宮のこの地にどうして氷之川神社が必要だったのか。

 水を司る氷之川神社が見沼のこの地で必要とされたのはまずなんと言っても災い。つまり、水害から守って貰いたいと言う願いがあっての事だと考えた。そして同時に豊かな水と肥沃な大地で豊かな生活が送れるようにと願うものと考えた。でも、それなら候補地として沼の周りには幾重にもあろう。ではどうしてこの地だったのか。

 三人は考えていた。考えていたのだが答えが見えなかった。藤堂先生も結局言葉を濁すだけでその後の説明がなかった。資料不足だと言った。

 ただ、直矢だけは少し思うところがあった。でも、それも確信があるわけではない。ましてや、想像の域を脱していてあり得ない事だと思っていた。でも、これでまた多美と会った時、少し話が出来ると感じている。今度は氷之川神社に行く。そこでまた何かが分るかも知れない。

 先生の所を後にすると靴を履き替え玄関を出る。体育館横の裏門から学校を出るとそこで立ち止まる。ポケットから勾玉を取り出すと校舎の隙間から差し込む光に照らした。深い緑がきらきらと煌めく。

 「多美、君は何者なんだい」と呟いた。

 勾玉は何も変わる事はなかった。何を期待する事もなく勾玉をポケットにしまうとまっすぐ正面の道を通りに向けて歩いた。

 通りに出ると左に曲がると家路につくはずだった。ちょっと目線を公園の方に向けた時だ。公園の入り口付近で小学生が走り回っているその前に彼女を見つけた。

 「多美!」

 あの時と同じで表情までは分らない。でもほほ笑んでいるような気がした。多分。直矢は慌てて通りを横断し多美の所まで走る。

 息を切らしながら駆け寄ると「多美」と一言。

 「直矢」

 やっぱり笑っていた。

 「どうしたんだい。こんな所で」

 「フラフラ歩いていたらここまで来ていたの。迷ったみたい」

 「この辺りは初めて」

 「うん」と、辺りをキョロキョロとしている。少し不安そうな表情をしている。

 「今日は……、どうするの」

 「帰らなければならないの。夜のお勤めがあるから」

 「そう」直矢は少し落胆するも時間が時間だ。「だったら近くまで送っていくよ」

 「でも、お(うち)に帰る所でしょ」

 「平気さ。帰っても一人なんだ。とうさんもかあさんもまだ仕事から戻って居ないし、いつも一人なんだ」

 「そうなの、寂しくない」

 「もう、慣れたよ。兄弟も居ないし……」直矢はしみじみと感じていた。そうなんだ。一人に慣れていたんだ。だから、友達が離れて行ってもあまり気にしなかった。気づきもしなかった。

 「どっち」

 直矢は方角を指差すと多美を促した。

 多美は駅まで行けば分るというので駅まで送る事になった。その道中、直矢はさっきまで考えていた疑問について少し多美に訊く。

 「今日、藤堂先生達と話したんだ。それでオレ達地元の人間でさえ知らない事を多美はどうして知っているんだい」

 「言ったじゃない。小父様から聞いたのよ」

 「小父さんんて、幾つ位の人?だって、いくら年取っているって言っても一〇〇歳なんてないでしょ」

 「そう?どうして」

 「多美が知っている事ってもっと昔の事でそんな昔から生きている人なんていないから」

 そうか、人間と違って神々に死はない。わたしが如何にも見て来たように話すものだから直矢は疑っているのだろう。何れ分る時があるかも知れないがここはまだその時ではない。多美は用心する事にした。そして、右手を直矢の額にかざすと直矢を引き寄せ、そして自分の額を直矢の額に軽くあてがった。

 突然の事だった。「えっ!」言葉にもならない。多美の突然の行為に直矢は固まってしまう。まだまだ多美の方が背が高く立場は逆。上から覆い被さるように多美の顔が目の前に、瞳を閉じた顔はそれはそれで美しい。それになんとも言えない良い香りがする。長い髪が被さり、直矢の頬に触れる。

 『ドキドキしている』

 一瞬の事なのだと思う。触れていた時間も一瞬だ。でもとてもゆっくりでスローな感じがした。一瞬の事が事細かくフラッシュバックする。でも離れた後、直矢はそんなに動揺していない。落ち着いて多美の目を見ていた。綺麗な緑色をしている。

 「急にどうしたんだい。驚いちゃったよ」

 「ごめん。直矢に変な心配させてしまって」と少しうつむき加減で言うと

 「そんな事ないよ。むしろ多美はオレ達に気づかせてくれたのだから」

 「気づく?」

 「そうさ、今まで無関心だった事に気づいたんだ。オレ達は。だからもっと知りたいと思ったんだよ。それに……」

 「それに?」

 「うん、それに、本当は多美が知らない事を教えたいと思って勉強するんだけど」

 「勉強!」

 「いや、結局、付け焼き刃だったんだよ。オレのはさ!」

 「……」

 「自分がしっかり調べて来た事じゃなくて前日に先生から聞いた受け売りの話だったんだよ」

 「それも立派な勉強じゃない」

 「違うんだよ。オレって今までも、どちらかと言えば周りが何でもしてくれてそれでいいと思っていたんだ」

 多美は黙って聞いている。

 「それじゃダメなんだと思ったよ。理由は分らないけど武達がどうしてオレにちょっかいを出してくるのかも最近何となく分るような気がしていたんだ」

 「武?」

 「あっ、ごめん。知らないよね。ケンカ友達。何故か馬が合わないんだ」

 「そうなの。それで」多美は直矢の話に興味を示す。

 「最近同じクラスになったんだよ。そいつと、初めずっとケンカかなと思っていたんだけどなんかそんな気分じゃないんだよ」

 「何かあったのかしら」

 「席も同じ並びなんだよ。間に神月侑來が居るんだけどさ」と煙たく言うと

 「神月侑來」

 「あっ、まただよね。侑來もお節介者なんだけど結構助けられてもいる」

 「そう。気があるのね」

 「気がある?とんでもない。何時もサッカー部の追っかけやってるような女子だぜ。ちなみにさっきの武ってヤツが、天雲武って言ってやっぱりサッカー部なんだ。どっちかっていうとそっちの方だと思うけど」

 「どうしてそう思うの」

 「悔しいけど武は全てにおいて上なんだ。運動も出来るし勉強も出来る。今日だってテストの事でケンカしたけどアイツには敵わない。いつも学年トップだもの、おまけにカッコイイときてるから女子の追っかけが多いんだ」

 多美は声を出して笑い始める。肩を揺すりながら笑い出す。終いには腹を押さえて大笑いする。思えばこんな笑い方をする多美は初めて見たかもしれない。どちらかと言うといつも静かでほほ笑んでいる印象だったから。

 「いいね。そんな笑い方するんだ。可笑しい。オレ!」

 「可笑しい。可笑しい」お腹を抱えて大笑いする多美。それを見て直矢は少しホッとした。それよりも暗がりとはいえ木々の合間から公園のナイターの光がこぼれている。こんな所を誰かに見られたらと我に返る。辺りをキョロキョロとした。直矢は少し拍子抜けする思いをしていた。多美が何に対して大笑いしたのか感ずるものはある。でも当事者としては問題なのである。

 それを察し多美は「大丈夫よ。誰にも見られていないから安心して」

 直矢はその言葉を疑う事はない。そしてゆっくりと歩き始める。

 それよりもさっきまでの不安やイライラが一切なくなっている。「あれ、何を聞きたかったんだっけ」と考えていた。

 多美は何時ものニコリとした笑みを投げかける。直矢はもうどうでもいいと思っていた。

 それよりも今の多美の行為はどう解釈すればよいのだろ、多美がオレに好意を持っているのは分っていた。でもそれはつい最近知り会った友達として……、明らかに年上だし子供扱いされていると感じる時もある。弟のような扱いなのだろうか。そもそも何処から来て何をしているかも分らない。何者なのか分らない。

 でも、嬉しかった。多美が好意を抱いてくれているだけで十分だと思っている。それとも、もしかして本当に気があるのだろうか。そんな事を考えていたらなんだか多美を意識している自分がいた。

 並んで駅に向かって歩く。すると多美は直矢に腕組みすると寄り添う。また、長い髪が頬を触れるとさっきと同じ良い香りがする。さっきほどビックリはしなかったが意識していた為か少し緊張してる。上腕には多美の柔らかい感触を感じる。それを知ってか知らないでか、気にする事もなく多美は何時ものほほ笑みを向けてくれている。女性と腕組みなどするなんて初めての事だった。多美はと言うと今日いろいろ見て来た事を矢継ぎ早に語っている。

 多美が語る事などこれっぽっちも入るはずがない。この腕組みをしながら歩いている行為自体に直矢は舞い上がっていた。それでも多美から意見を求められると、取りあえず「そうなんだ。そうだね」と生返事をするか相づちを打つ位しかできなかった。それを察した多美は

 「ちゃんと聞いてるの直矢」と腕を払われ正面に立たれる。さすがに直矢も我に返る思いで、つい「ごめん」と謝るのみだった。多美はと言うと直矢の恣意を察したらしくそれからは腕組みする事もなく横に並んで歩く。そして

 「うれしかったよ。思ってくれて……」

 「え!」

 「直矢がそうやってこの土地の事を考えてくれている事」

 「ああ、その事……」

 「今度わたしが働いている所に来て」

 「氷之川神社」

 「そう、それと大宮公園」

 「そうだね。王道のデートスポットに行かないと。でも、小父さんが居るんでしょ」

 「居るわよ」

 「怖くない」

 「うーん」

 怖くないと言えば嘘になる。何はともあれあの須佐之男命である。

 「多分、大丈夫だと思う」

 「多分って?」

 「直矢がちゃんとしていれば問題ないと言う事よ。でも怒らせたら怖いから」と意味深な事を言った。

 少し躊躇するも先の事だしあまり深く考える事もなく納得する。気がつけば駅に着いていた。

 駅前のロータリーは既に暗闇に包まれる。それでも駅や建物、そしてロータリーの照明が照らされて昼間のように明るい、その端っこの方となるとその明るさと暗闇の境となり少し薄暗くなっていた。西の空はまだ赤く染めていたが真上は既に漆黒の空と化している。

 「ここでいいよ。ありがとう」

 「……」

 駅から仕事帰りの人々が急ぎ足で帰る姿を横目に直矢はポケットからあの勾玉を取り出した。

 多美はそれを見ると少しこわばった。頬に緊張が走ったかのように感じた。

 「この石は不思議な石だ」と勾玉を高く振り上げ照明の光に照らす。

 ナトリウム灯の光に照らされる石は自然の光ほど輝きを見せていない。それでも深い緑が黒く感じる。石の表情が変わっている。

 「大事に持ってて。決して他の人に渡さないで」

 「分った」言われるまでの事ではなかった。この石が多美と出会える手段なんだと感じていた。

 「でも、人はいつか約束を破るもの……」

 「オレはそんな事しない」

 「……」少し寂しそう頷いた。

 「直矢」多美はいつの間にか正面に立っている。すると直矢に近寄る。多美はまっすぐ直矢を見詰めている。ほほ笑みを浮かべていた。直矢は目を見開きその動きを繊細に追った。そしてまた不意を突かれたように……、抱きしめられた。頬と頬を付けあい、両手が背中に廻っている。またも初めてな事で直矢はどうしたらよいか分らない。固まってしまう。多美の暖かさを感じる。

 「お願い。その石を大切にして」

 「わ、わかった」

 直矢は多美を意識していた。すごく意識している。多美の身体は柔らかい。必死に自制を効かせていた。それでも良い香りがすると次第に落ち着いて来る。落ち着くと直矢も多美の背に手を廻した。手を探るように。柔らかくてとても温かかった。

 直矢から離れると多美は足早に駅に向かった。直矢はその場で立っている。そうする事ぐらいしか出来なかった。今の抱擁感に浸っていた。多美の姿が見えなくなるまで立っている。そうしたかった。それでも何本かの列車が行き来するのを確認すると直矢もやっと我に返った。


 「ねえ、今度みんなで大宮公園に行くんだけど直矢も行かない?」侑來が言った。

 「無理!」と直矢は即答する。

 「どうしてよ。どうせ暇でしょ。武君もメンバーに入っているのよ」

 「なおさら行くわけねえじゃねえか」もうすぐ夏休みに入ろうとしていた時だった。

 「どうして急に行くんだよ」

 「この前の先生の話。それで大宮の歴史の事でみんなで調べようと言う事になったの」

 「みんなでって、これはオレの問題だろ。なんで侑來達が調べんだよ」

 「あら、わたしも調べろと先生から言われたのよ」

 「……」確かにそうだ。

 「武君と話したの。そうしたらさ、今度部活一日休み取るからその時調べに行こうって、直矢も誘うって言ったら嫌な顔したけど一応「アイツが行くと言うのなら」って言ってくれたから」

 「けぇ、何でアイツとつるまなけりゃならないんだよ。第一、大宮公園に行って、何調べるんだよ」

 「……、直矢、あれから何してたの」

 「何って……、何も」

 「やっぱり。わたし達あれから図書館行って調べたのよ」斜め横から少し細い目をして。どう見ても軽蔑していると言わんげな表情を向けると

 「……」何も言えない。

 図星だといった表情で侑來が続ける。

 「図書館にね、大宮に関する何か資料ないかと思って行ったのよ。そうしたらどお、閉館間際に武君も居て調べてたのよね」

 「え、武が……」

 「ここに来れば何かヒントがないかって。それで、幾つか資料があったから借りてきた」 侑來は一つの資料を直矢に見せた。それは地元の研究家が調べた事をまとめた小冊子で製本も簡易的なものだった。おそらくこういった所に収蔵されているだけで売り物では無い。『大宮の歴史」と言う冊子で時々改版されているらしい。シリーズ化されていてその内の一冊だと思う。

 「武君も同じもので他の借りてったわよ。それで言ってたけど民族博物館に何かあるかもって事になってね男子三、女子五で行く事になったの」

 「数あわせかよ」

 「いいじゃないのよ」

 「オレも昔行った事あるけど……、オレが知りたい事は無いと思う」

 「どうしてよ。武君も言ってたけど、だから念の為、県立博物館(歴史と民族博物館)にも行く事にしたの。行かない?」

 「行かない!」

 あっさり返すと侑來はとても不満げな表情を直矢に向けると、直矢は少しマズいと感ずるも言い直す事はなかった。

 それには根拠があった訳ではなかった。でもオレが知りたいのは多美が探しているものだったから。単なる歴史を紐解くものではないと考えていた。藤堂先生からの宿題で氷之川神社がなぜ今の地にあるのかは興味がある。でも、その答えが博物館にあるとは思えなかったのだ。根拠はないが……。ただし、ちょっとうかつだった。多美との事で浮かれていた事は認めるが武達がすでに行動していた事には反省しかない。自分も図書館に行こうと考えた。

 「これはオレの問題だ」


 答えを見いだす事も出来ず数日が過ぎた。

 「今日も暑かったんだな。これじゃ家に着くまで汗まみれだ」直矢は図書館を後にした。

 帰ったらすぐシャワーを浴びようと思った。駐輪所で自転車を出そうとしたその時、ピーンと感じる。あの時と同じだ。景色が変わった様子も無く知らぬ者も通り過ぎる。直矢は辺りを見渡したが特に変わる事もなかった。「気のせいか……」と自転車にまたがりこぎ出した。生温かい空気が顔を打つ。それでも止まっているよりはまだましか。一日中詰めていたせいか少しふらついた。それでも力なくペダルを漕いだ。

 今の感覚が気になっていた。直矢はポケットからあの勾玉を取り出す。そして暗闇の中に反射する人口の光に照らした。キラッと一瞬光ったような気がしたが信号が青になったので慌てて勾玉を仕舞い自転車を漕ぐ。道路を渡り終えるその時直矢は見つけた。

 「多美!」

 多美が居た。多美は図書館に隣接する公園にあるオブジェというかベンチに座っていた。そして直矢が見つけるのを見ると胸元で小さく手を振った。直矢はそれに導かれるようにヨロヨロと自転車を多美の方へ進める。そしてあの時と同じ様にブレーキを握り自転車を止めた。ギュウっと鈍い音が出ると自転車は止まる。またいでいたサドルから腰を降ろすと多美の目の前で立ち止まった。

 「どうしたんだい。こんな所で。また道に迷ったのかな」

 「直矢」薄暗いにもかかわらず多美の笑顔がわかる。横顔を照らす光が何処かあの美しい目を光らせていたが、さすがに緑色を意識する事はない。多美はスクーッと立ち上がる。気のせいだろうか前よりは大きさを感じない。暗闇のせいかそれもと自分の背が少し伸びたのか分からない。でもそんな感じがしたのだ。だから……。

 「道に迷った訳ではないのよ。お使いでこっちの方まで来ていたの。その帰りよ」

 「お使い。へぇ―そうなんだ。手伝いも大変なんだね」

 「慣れよ。でも暑くて。日が陰ったからしばらくここで涼んでいたの」

 「そう、で、歩き?」

 多美は指を指すと公園と歩道の境目に一台の自転車が止められているのを示した。直矢はなるほどと思い

 「そうだよね。この前は歩きだったけどここから神社まで結構あるしね。自転車だったら帰れるね」

 「直矢は?」

 「オレ、オレは図書館帰りさ。ここのところずっーとなんだ」

 「へぇー、勉強熱心なのね」

 「そうじゃないけど。でも、そうなのかな」

 「……」

 「いやさぁ、この前言ったとおりオレの言った事って受け売りだろ」

 「そんな事ないよ」

 「いや、そうなんだよ。だからさ、今度会う時は自分の考えで話したいって思ってさ、それで調べていたんだ」

 「そお、それで何か分かった」

 「いや、これと言って」

 直矢は自信なさげに下を向くと多美は足を振り上げポンと立ち上がる。軽々と。そしてスカートの埃を手で払うと「行こう」と言って自分の自転車の方に歩き始めた。それに会わせて直矢も自転車を押し、並んで歩く。首筋に汗がにじみ出ているのを感じていた。多美は暑さには平気なのか何時もの様に凜とした姿勢を崩さず歩く。暗闇の中であっても清楚さを感じる。

 「ね、話して。どんな事が分かったのか」

 直矢は暗闇に浮かぶ笑顔に嫌だとも言えず話だした。多美は自転車を手にするとスタンドを払う。そして直矢と並び押しながら二人は歩き始めた。

 直矢は話始める。それは先日武達とも話したように今までの経緯についても話した。話が行ったり来たりするものだから理解しがたいと思ったが多美は間で合いの手打ったり「それって話が変わってる」と突っ込んだりしてくれたので直矢は次第に旨く話せるようになっていった。

 多美の横顔を見るも多美は反応しない。それでもかまわず直矢は話を進める。

 「学校で話題になったんだ。大宮に住んでいるのに大宮の事を全く知らないと言う事を。だから、多美から聞いた昔の大宮の事。寿能城の事や見沼の事。そして氷之川神社があってここには多くの人々が住んでいる。でも、多くの人々は他から移り住んだ人達が殆どで、認識していない。教える人も少なくなり、そう言う人達との接点も減ってしまった。オレ達は学校で少し昔の暮らしとか習ったけど、でも沼が存在して沼と神社が関係していて、そして龍が関係しているなんてこれっぽっちも感じていなかった」

 直矢は指でCの字を作って多美に見せた。多美はそれが何を意味するものなのか初め分からず首をかしげる。直矢が一寸(ちょっと)と言う意味だと説明すると大げさに頷き納得する。

 「龍……」

 一言発すると多美はそれ以上は言わない。

 「そうなんだ。さいたま市のマスコットに龍のキャラクターがいるのは知っていた。でも、何で龍なのかは全く意識していなかった。藤堂先生が龍と言いかけて、それ以上何も教えてくれないのだけれど、何か関係しているのだろうとは感じているんだ」

 「調べているの」

 「それをやっているのは侑來、神月侑來だよ」

 「神月侑來」

 「この前話したクラスメートさ。お節介焼きなんだ。オレと武がケンカするといつも余計なちょっかいをしてくるんだ」

 如何にも面倒くさい奴だと言わんばかりに少し誇張して話す。

 「仲が良いのね。武 君って?この前の……」

 「あ、ごめん。ケンカ友達。今は同じクラスになってるけど何かというとすぐ言いがかり付けてくるんだ。それも直接じゃなくて仲間にやらせてくるところも気にくわねぇ」

 「でも、今は一緒なんでしょ」

 「……、そう。正直よくわかんないんだよ。ケンカばかりしていた頃は何でオレにちょっかいを出してくるのか分からなくて悩んでいたんだけど、こっちは分からないから余計腹が立って、意地になって、不利なのは分かっているんだ。絡まれるとつい手が出てしまう」

 「手を出しても負けちゃうんでしょ」

 「……、そう、アイツがどうしてオレに絡むのかその理由が知りたかった。だから一対五でも、何処かでこっちが勝てばその理由を聞き出せるのではないかと思ったんだ。だから意地になっちゃって……」

 「そう、でもどうして今は一緒に居るようになったのかな」

 「それなんだよ。クラスが一緒になれば益々ケンカが多くなると思ってたんだけど、開けてみれば一度二度あったけど今はそれほどでもない。第一オレが初めて疑問だと思っていた事に首を突っ込んで来やがった。そのくせオレより頭良いからドンドン先に進んじゃうし……」

 クスッと笑うと多美は「そうね、何か分かるような気がするわね。その武君が」と意味深な事を言う。

 「どうしてだよ。何が分かるんだよ」と少し不満を現わすと多美は言うのである。

 きっかけは分からないが多分以前から武は直矢の事を意識していたのだろう。それは直矢が気がつかない事でもあり武自身が何処かで目を向けて欲しいと言う気持ちがあったから。或は直矢は無意識のうちに以前武に気に障る事をしてしまった。その事を今でも抱えていて直矢にそれを気づいて欲しい。幾つか想定される。言いがかりはその合図ではないかと。

 そんな事を言われても皆目見当も付かなかった。第一オレが武に何をしたんだと言うのか。一年の時を思い出していた。直矢は武と初めの頃は仲良くしていた事を思い出す。武はU小で直矢はO小。中学で知り会った。頭の良い奴でスポーツも得意で万能。瞬く間にクラスの人気者となり武の周りには人だかりになった。直矢はそんな武とは距離を置くようになる。どうしてと言われてもこれと言って理由はない。直矢としては大勢でワーワーするのは余り得意でなかった。元々一人っ子で生存競争とは無縁で中学まで来た為か、中学に入ると急にグループの縛り付けがキツくなると直矢は少々苦手とした。そんな気持ちを悟られるのも面白くない。だから自然と距離を取るようになった。別に嫌だからではない。

 ある時思いもよらず口論になる。たわいも無いゲームの話だったと思う。直矢は小学校から続けて来たゲームを今でもやっていた。それが幼稚だと言うのである。無理矢理聞き出して幼稚だと言う。さすがにそれにはむっとし、思わず手が出てしまった。武に勝てる訳もなく、言い争いに負けて人目も憚らずクラスで泣いた記憶がある。それを聞きつけた当時の先生が一方的に武が悪いと言う事にしてしまったのだ。それからだった。武が嫌みを言い始めた。それも巧妙でクラスや先生に気づかれる事もなく陰で直矢に言いがかりを付けるようになる。初めは我慢していたが次第に堪えきれず手を出してしまう。何かあると嫌な事を言う。周りに分からないように。そしてまた手を出してしまう。すると今度は正当性を主張するのは武となり直矢はいつも悪者扱いされるようになった。初めの頃は悔しくて悔しくてすぐ泣いた。その頃は気持ちがすでに飽和していてちょっとした事で荒れた。そんな時、藤堂先生が救ってくれたのだ。藤堂先生と話していると気持ちが落ち着いた。なんて事ない話なのに、さっきまでの怒りが収まっている自分がいる。二年になり先生が担任になってくれた。ホッとした。そして武達とは別のクラスになる。自体は収まると思われた。

 ところが、武達の手口が更に巧妙且つ大胆になる。そして組織的になると頻度が更に増える事になる。二年になると直矢も場数を踏んだのか、よりふてぶてしくなり陰険さを増す。クラスのものと諍いを起こすことはなかったが、武との事に触れられると途端にすごみを増すようになってしまった。次第に友達が距離を置くようになり孤立するようになった。多美と出会ったのはそんな時期だったのである。

 多美と出会ってから状況が変化した。あの武が直矢のクラスに編入してきたのだ。途中でクラス編成を変える事は通常あり得ない事ではあったが学校が直矢と武達の事を危惧してか、動いたのだ。後に分かる事ではあるが藤堂先生の考えであって、実は武達の担任からも事前に相談を受けての事である。学校は組織的に対応する事になる。陰の主謀者である天雲武をグループから引き離す。そして残りのメンバーを他の先生達で監視する事で武との接点を制限した。無論校内での対応であって学校を出れば目が届かなくなる。それは百も承知だった。つまり表向きの対策であって武達も初めはたかをくくっていた訳だが、藤堂先生の目的は違っていた。

 感受性の強い天雲武は本来実力のある瓜生直矢の力を見抜いていてその力を発揮できないようにしたかったのである。当の本人はそんな事は全く認識しておらず。唯々天雲武の嫌がらせが嫌なだけだった。天雲武はある意味そんな直矢の潜在能力に嫉妬していたのかも知れない。

 そんな今までに見てきたように多美はあくまでも想像の話だと言って語った。それが嘘のように見抜かれているような気がした。確かに言われてみればと考えるところもあれば、いやそうじゃないと反論したいところもあるけれど第三者に客観的に言われるとそうだよ。そうなんだよ。と思わず思わざるを得ない。多美は歴史だけじゃなく人の心理まで見抜けるのかと少々背筋が寒くなったのを感じる。

 「どうして、分かるの。まるで見て来たように」

 「想像よ。想像。直矢の話し方や以前話していた事からそうじゃないかなと思っただけ。それに直矢は分かりやすいわ。すぐ反応するから」

 「分かりやすい……、オレが」

 「そうよ」

 どうにも子供扱いされているようで面白くないが、それでも嫌みを感じる事もなく結局何処か素直な気持ちになれる。

 「多美には敵わないな」と首筋に手を回した。日も陰り、さっきまでのうだるような暑さも幾分かしのぎやすくなっていた。多美ときたら全然暑さを苦にしないのか至って平然としている。夜風が吹き抜けるようになりあの緑がかった黒髪が暗闇の中でなびいている。横顔を見詰めるとまた、目が合うんじゃないかと正面を見る。車がライトを点灯させると時々対向車のライトが目に入った。

 「今度のお休み?」と多美が言った。

 「うん、勿論大丈夫」本当は侑來達に誘われていた。でもそれは断っている。なんら問題はないと認識していた。

 「……、そう、それなら今度神社を案内するわ。それと公園も」

 「神社、公園。あっ、そう。そうだね。まだ行ってなかった」

 「そう、それと小父様には話てあるの。そうしたら一度連れてきなさいって」

 「小父様」直矢は少し気持ちが引いたが

 「そう、そんなんだ。何か言ってた?」

 「別に、お友達が出来たら言うようにと言われていたから話しただけよ」

 「怖い?」

 「うーん……、場合によって?」

 「……」やっぱり怖いんだ。と直矢は感じる。でも、さっきまでの事で思い出した。氷之川神社の秘密が分かるかも知れない。直矢は納得すると「分かった」と言って約束した。


 夏休みも真っ盛りで気分はスッカリ夏休モードとなっている。朝夜の生活は比較的規則通りではあったがそれでも一週間ぶりの学校行きは少しかったるい。午前中とはいえ既に熱しきっている道を歩くのは直矢にとってげんなりするもので、出来るだけ日陰を選んで歩く始末である。

 そんな直矢でもこの一週間と言えば図書館通いの毎日でこの時間はすでに涼しい館内に入っていたのだ。だから、極めて不快な今の現状に嫌気を指していた。それも学校に着くまではあったのだが。


 「おはようございます。先生」

 「おう、来たか。まあ、そこに座れや」

 「おはよう。直矢」

 「おはよう」

 「……」チラッと目線を合わせるが武は何も言わなかった。直矢もあえて言葉を掛ける事もなく侑來の隣に座る。何時もの様に侑來を挟んで武と並んで座る。それを見て先生は無言で珈琲を四人分用意していた。さすがにこれだけ暑くなるとホットではない。市販のアイス用インスタント珈琲を四人分に分けて注ぐ。

 「神月、手伝ってくれ。お前達砂糖とミルクどうする?」

 「オレはブラックでいいです」と武が

 「わたしはミルクとガムシロ。直矢は?」

 「一緒でいい」いつも出されて居るのを飲んでいるだけだったので全く気にしていなかった。そうか、珈琲は人によって飲み方が違うのだと直矢は感じた。それにしても武はブラックだなんてカッコつけやがってと思っていたら「朝練終わったばかりでスポドリガブガブ飲んじゃったから少し甘いもの控えたくて」

 納得した。

 武は少し疲れ切っている様子だった。朝から激しい練習をして来たのだろう。どうしてそんなに何でも一生懸命になれるのだろうか。直矢は思った。楽に生きて行ければそれでいいじゃないか。何も無理して苦しいことなんてしなくてもいいのに。武の横顔をチラ見する。それを見た侑來が

 「何か分かったの直矢」

 しばらく黙っていたが「いや、別に大して進展はないよ。あれから」

 「そう。結局わたしもあれから何度か図書館に行ったけどあまりよく分からなくて」

 「しようがないさ。オレ達は部活が終わってから行くんだ。疲れているし時間も限られている」

 少し嫌みに聞こえる。それでも、

 「あれからって。来てたの」

 侑來は頷く。部活が終わってから図書館に来ていたと言う。それでもいいとこ三十分程度しか時間がない。だから、落ち着いてしっかり調べる事が出来なかったと言うのだ。それに比べて直矢には時間があったはずだ。だから武や侑來にしてみれば直矢が何か分かったのではと考えている。だから直矢の今の発言には少々落胆した。

 藤堂先生がライトテーブルのスイッチを入れる。するとぱっと明るくなる。外からの光は本を傷めると言って殆どカーテンが閉められているこの部屋。途端に明るさが増す。それも下からの光は独特で感じが違った。

 先生はライトテーブルに二種類の地図を広げる。一つは現在の見沼が載っている地図。そしてもう一つは古地図を大きくしたものだ。継ぎ接ぎだらけだ。

 現在の地図を指し示すと言った。

 「これは今の見沼の地図だ。高低差を分かりやすいように色分けした。この辺りの海抜はおおよそ十五メートル程度。そして見沼田んぼは、おおよそ八メートルぐらいだと思ってくれ。二つの地図はそもそも縮尺度が違うが大体合わせてみたからこの上にこれを乗せて見る」

 先生は同じ大きさのトレペ(トレーシング

ペーパー)を現在の地図の上に重ねた。そこには手書きで書かれた線が引かれておりこれが見沼を現わしている事を三人はすぐ理解する。先生はその線を指でなぞった。

 「十五メートルですか」と武が言うと

 「だいたいな。土呂や植竹の辺りはそんなもんだろう。これが片柳や七里の高台になるとまた変わって来るはずだ。そして、古地図は江戸初期のものと思っていいだろう。だからこの線はその当時の沼を現わしている思ってくれ」

 直矢達はそれがすぐ理解できた。三人は身を乗り出し地図を見る。こうやって見ると改めて沼の大きさが実感できた。直矢達も資料ですでに沼の形は認識していた。それを確かめるように見る。やはり、鹿の角のようと言う形容が妥当なのかお世辞でも形がよくない。極めていびつな格好をしていると感じている。とくに大きく別れる辺りはかなり複雑に入り組んでおり島になっている所もあれば岬のように飛び出ている所もある。これが上流に進むと比較的地形も穏やかになり今の上尾市まで延びていた。

 「複雑に入り組んでますね」と武が言う。

 「そうだな。この複雑な地形が特徴かもしれない。この辺りは分かりやすい。市民の森が丁度田んぼがある所でこっちから行くと段々低くなっている」

 そうだった。産業道路を越すと緩やかに坂になる。そして田んぼまで下っていった。そう感じた。

 「それと……」

 先生は続けて「これが片柳地区や中川地区の方に行くと起伏が激しくなってな。丁度大宮駅東口をまっすぐ道なりに行くとこの辺りに当たるのだが上ったり下ったりと繰り返すんだ」

 「自治体医大の辺りそうよね」と侑來が言う。

 「そうだ。天沼町まで行くとそこから一気に沼に降りる。そして、抜けると中川の台地を登るのだが、また下るんだ。丁度N大学がある所だな」

 先生は指で道をなぞると方角を示した。そしてその途中の高低を示した。そしてこの地図にはある印が記入されている。それが神社の印だ。

 「ちなみに、ここが前回話があった寿能城。ここまでが沼に飛び出していた事が分かる」

 直矢は先生が指し示した位置を見る。確かに半島のように突き出ている。城は要害だったのだろう。でもこの城も戦国の時代に落城したのだ。

 「本来時代背景からするとここは既に廃墟となっていたと思われるが、見て欲しいのが城の南に大きな入り江がある。この入り江も奥まで続いていて沼の上流域ではここだけだ。そして……」

 先生は指を城からその入り江の対岸へと移動させるとそこには

 「氷之川神社」と三人は口を揃えて言った。

 「そう、この位置に氷之川神社があるのだよ。それも入り江の中にさらに突き出たような所があって神社はそこにある」

 神社が岬のような位置にあった。岬が大宮台地の中でも高い位置と言う意味があり神社一帯を高鼻町と呼んでいる。そして、その裏には少し離れて入り江の続きが広がっていた。これが何を意味しているのか。おそらく神社はどうしてもこの場所に建てなければならなかったのだ。この場所が特別な場所。でも、直矢達が調べた資料ではその辺りの経緯(いきさつ)についてハッキリとは書かれていない。だから三人とも謎が深まるばかりだったのである。

 「どうだ。三人とも」

 「特別な場所だった事は分かります。でも、どうしてこの場所だったのかは資料には出てなかった。有るのかもしれないけどオレ達はまだ見つけてない」と武は思慮深い眼光で地図を見ながら言う。

 「確かに、この辺りの資料は乏しい。だから後は想像で考えるのさ」

 「想像?」

 「二千年以上前に創建されたんだ。もしかしたら創建当時からの事が記述されている資料が何処かにあるのかも知れないがな」

 「氷之川神社!」

 神社だったら記録が残されている可能性はある。でもそのようなものは一般には見ることはかなわないだろう。するとやっぱり今有る手がかりから探っていかなくてはならないのだろう。直矢はふっと多美との約束を思い出した。しかし、この場でそれを言う事はしなかった。

 「こっちの神社って」と侑來が示すと

 「これが多分中川神社、そしてこれが氷之川女體神社ですね」

 「そうだ。調べてあるようだな。氷之川神社と併せて三社で武蔵一宮とするのは定説でいいだろう。御祭神も分かってるな」と聞くと三人は頷いた。

 「では、氷之川女體神社だが御祭神が櫛名田比売になる。彼女は須佐之男命の御妃だ。この話は知ってるな」

 「八岐大蛇の話ですね」

 「そう、だから、夫婦でこの地に祀られる事になるのだろう。そして、この神社のある場所もまた特徴がある」と先生は氷之川女體神社を指した。神社はやはり岬のような場所に建てられていた。そして大きな入り江を控えそしてこの神社の特徴は東を向いていると言う事。神社から東を向くと広大な見沼が広がっている。おそらく沼で一番広い場所を見渡せたのだろう。

 武が間にある中川神社を指した。

 「じゃぁ、ここが」

 「簸王子社。大己貴命が祀られている。彼は須佐之男命の御子になる。ここも特徴のある場所で、やはり突き出た高台に建てられている。この辺りも見ての通り深く入り組んだ入り江があって、さっきいった大学のあたりまで延びているのが分かる。その両側にも別れて入り組んでいるだろ」

 「本当だ。でも何故」

 「この二社もこの位置でしかダメだったんだ。おそらく基準は氷之川神社ではないかと想像するけどな」

 「先生も分からないのですか」

 「分からない。みんなと同じさ」

 「なんだ」

 「何だよ。気になってたのに答えないの。先生」

 「今日のところはな。それよりこれは理解しているな」先生は三つの神社を繋ぐように指でなぞった。それは、定規を当てるとほぼ一直線になる。

 「レイライン(光の道)」直矢が呟くと武達も頷いた。

 「ならその役目も分かっているな」

 「太陽は夏至に西北西にある氷之川神社に沈み、冬至に東南東の氷之川女體神社から昇る」と武が説明した。

 稲作が始まった日本で季節を正確に知る必要性があった事からおそらくこの土地で神社は時(季節)も告げる役割があったのだろう。建てるに当たっては諸説あるが今の時代でもこうやって定規を当てると一直線上に並ぶ。どれだけ重要視されていたかが想像出来ると思う。

 藤堂先生は今回も思っている事を話さなかった。それは龍と氷之川神社との関係だ。おそらく今回の謎についても龍が関係するのではと想定している。龍に関心があるのは今の所直矢だけ、後の二人はまだそこまでは意識していないだろうと感じている。ところが意外な発言が出て来た。

 「先生が先日言うのを止めた龍の事なんですけど」

 発言したのは侑來だ。それを聞いて先生は少し躊躇する。

 「龍か」

 「はい」

 「何か分かったか」

 「三人でも話していた事です。見沼には龍神伝説があります。幾つかは昔話になっていたりと。調べてみたんですけど沼が無くなる前後の頃が多くてそれ以前、それ以降もありません。先生は龍と見沼と神社をどのように見ているのですか」

 逃げ道のない質問だった。藤堂先生は消極的ではあったが今言える範囲の事を話す事にした。

 「歴史を紐解いていくと不思議な感覚に陥るのを実感する時がある。先生もその感覚に麻痺されてしまった一人だろう。海外の神話もそうだが日本の神話も史実との境目が分からなくなる時があるんだ」

 藤堂先生は一度珈琲を口に含むと話しはじめた。よく歴史を考察していくと神話や伝説とぶつかる事がよくある。そのうち幾つかの話を重ねて見ると、どうやらこうだったのではないだろうかと言う仮説を立てる事が出来る。その場合、史実にはないがおそらく当時の暮らしや背景を想像してみれば納得がいく。ところがそこに神話や伝説が多く含まれてくると説明出来ない事態が生じる。

 例えば前回話に出て来た須佐之男命が日本で初めての歌を残し、その歌碑が残されている話をした。それとは別に現存するかどうかわ分からぬが草薙剣が神格化され歴史に登場する。剣は天照大神に献上され後に倭建命(日本武尊)が景行天皇より賜り東征に赴いたと記録されており、そこで神がかりな力を得たとされる。現在では熱田神宮のご神体となっており、剣はあの八岐大蛇のしっぽから出て来た。つまり蛇の剣である。この剣は異国からやって来た征服者のものではないかと言う説もある。剣自体は歴史上何度か紛失したが現在では熱田神宮にあるとされているいる事も興味深い。

 草薙剣の話はすでに一人歩きしているがそもそもは須佐之男命が手にしたもの。それだけのものを何故姉に献上したのだろうか。力のある強い神として知られている須佐之男命である。剣を持てば無敵だったのではないかと思うのだ。そこには伝えられなかった事実が隠されているのではないかと考える。

 そんな須佐之男命が地上に降り立ち妻を娶ると忽ち平和な神へと変わっていく。そして本来の能力である水を治める神として武蔵の台地に赴いた。その初めて降り立った地が大宮である事。そして大宮の現在の位置である事がとても興味深い事ではないだろうか。その鍵として、そもそもこの地がどのような土地で、人々はどのような暮らしをしていたのか。藤堂先生はある問題提起をした。

 「見沼の畔では多くの遺跡が発見されているのは知ってるかい」

 「はい、先生」

 「ほお、殆どが記録には残っていないものばかりだがな」

 「具体的に何々と言うのではないですけど、開発が進められている時期、多くの遺跡が出土して開発が遅れたと言う記録がありました」

 「そう、多くは一度調査が行なわれたがその後開発が進められ建造物が建てられてしまった。中には公園の一画として残されているものあるようだがな」

 「わたし達今度県立民族博物館に行くんです」

 「ああ、先生も行ったよ。入り口に竪穴式住居があってな、聞いたら本当にあの地にあったらしい。それで思ったんだ。目の前が大宮公園でそれもボート池がある。今でこそ現在の形をしているがそもそもどんな所だったのだろうか……と」

 三人は下を向き納得するかのように考える。

 「この地図を見るように神社の後背には大きな入り江がある」

 「あっ」と三人はその位置を見詰める。

 「前後するけど、そもそもこれだけ水に囲まれていると恩恵もあれば災いも多かっただろう。だから、ここさ」と先生は氷之川神社を指指した。

 「水を治める神様である須佐之男命でなければならないんだ。それに水だけではない。そもそも神の中でも強力な強さを備えているんだ。八岐大蛇を何に見立てたか」

 「川!」

 「そう、治水に長け、統治する能力がある事。つまり五穀豊穣、万民太平を願う。そして、その能力を最大限に引き出せる為に……」

 先生は言葉を切ると再び珈琲を口に含んだ。そして

 「おそらくだ。須佐之男命ひとりではその能力は半減するのだろう。博物館に行くなら是非神社にもお参りする事を進めるよ。先生は」

 「どうしてですか」

 「多くの神社がそうだが、氷之川神社は一人の神を祀っているのではない」

 「櫛名田比売と大己貴命」

 「それだけではない」

 「え?」と直矢が発すると他の二人が注目する。直矢は場が悪いと思い思わず身を整えた。それをみて藤堂先生はパソコンを取り出すと神社のサイトを開いた。

 「門客人神社、天津神社、宗像神社、六社合祀で住吉神社、神明神社、山祇神社、愛宕神社、雷神社、石上神社、そして松尾神社、御嶽神社、稲荷神社、最後に天満神社と万物のあらゆる事態に対して対応出来るスタッフが同じ境内に祀られているんだ」

 「こんなに」

 武がスクロールしてそれぞれの神とその御利益を見る。

 「人間が願うであろう殆どの事に対応出来てしまうと思わないか?」

 「……」

 「そうだ。氷之川神社は単に一つの神社と言うのではなくて神様の総合商社のようなもので、それも最強の布陣を引いている事になる」

 「でも、それだけじゃない」と直矢が呟くと

 「ほう、どうしてだ。直矢」

 「だって、それが先生のナゾナゾでしょ。謎解きしちゃってるからまだあるのかなって」

 「鋭い」と笑いながら侑來言う。

 「やっぱり、龍ですか。先生」

 藤堂先生はしばらく黙って再び珈琲を含むと

 「さっき言いそびれたが、神社が出来るまでこの地では何があったか」

 「耕作や漁をして暮らしてたんじゃないですか」

 「おそらく。水は豊かさを与えるが害も与える」

 「水害」

 「これだけの水を控えているんだ。沼地だけだではない。離れた耕作地でも水害の被害はあったのだろう。小さくて分かりづらいが高台でも何本もの川が流れている。この辺りでも川がある周辺は周りより少し低くなっているはずだ。台地でもそこが凹んだようになっていて大水がでる。今では治水が進んでいるから被害が少なくなってるけれど当時を想像してご覧」

 三人は思い思い考えて見る。

 「じいちゃんが言ってた。昔は川が氾濫して水が出たけどじいちゃん()は高台だから大丈夫だ。って」

 「直矢のおじいさんは御蔵だったな」と地図上の御蔵を指す。

 「この辺りも入り江が多く、入り組んでいて起伏が激しい。丁度見ろ。中川神社がここにある」

 中川神社の対岸に御蔵と言う地名があった。そしてすぐそこには広大な見沼田んぼ(見沼)が広がっている。

 「実際被害の記録も示されているが、それを伝説で見ると幾つか興味深いものがある」

 「伝説ですか」

 「物語、お伽噺」と武

 「ハーメルンの笛吹きを知ってるかい」

 「笛を吹いて子供達が居なくなってしまう話でしょ」

 「そう、見沼にも似たような話があって、やっぱり笛を吹くんだよ。詳しい話はここでは割愛するけど、そこで出ているのが」

 「龍」

 「そう、龍、龍神とも言い人々は敬いそして恐れた。龍が人を助けたと言う話も残っている。人々の願いを聞き届けた。ところが人々は龍神を怒らせる事を多くしてきた」

 「戦」

 「そう、戦は私欲となるのだろう。すると龍神は怒り、多くの人々を飲み込んだ。沼を渡る渡し船が突然の嵐に遭い沈む。そして死んだ。水があふれ出し村を飲み込んだ。それを人々は龍が暴れているからと思い。龍神を祀るようになる。そう、龍もまた神になる。ここで面白い事を一つ説明しよう」

 三人は注目する。

 「日本の龍はどんな姿をしている」

 「蛇に似た姿で手足があって、あと鱗もあったはず」

 「角があって長い髭があったかも」

 「手足の爪は鋭い」

 「蛇を進化したような姿では」と最後に武が言った。

 「では西洋の龍はどうだ。ドラゴンとも言う」

 「恐竜に似ている」

 「羽が生えていて、空を飛ぶ」

 「火を噴く」侑來が言った。

 「そうだな。日本の龍は中国から伝来した影響が大きい。空想の動物だが日本では多くの場面で遭遇するだろ。例えば干支だ十二支の中で空想の動物は(たつ)だけ。でも入っている。古いお寺の天井画として龍が描かれている。そして各地に多くの龍神伝説があると言う事だ」

 また珈琲を一口飲んだ。

 「龍は神の使いでもあるんだ」

 「神の使い」と直矢は言う。先生は頷いて

 「各地には八百万の神がいるのだが、龍はその神の担い手でもあるんだ。そしてその姿形は蛇と類似している。前回も言ったが……」と先生は三人に答えを促すと

 「八岐大蛇」

 「ご名答。その姿、龍の如きと言うように、大蛇は大河でもあり、そして龍でもあったとしたら」

 「蛇と龍が一緒?」

 「あくまでも例えとしてだ。ある地方には沼の主が巨大な蛇だったと言う所があるそうな。蛇は早く龍になりたかった。そしてある時、蛇は龍となりそして高天原に昇ったと言う話がある」

 「蛇の進化形が龍」

 「断言は出来ない。なんせ空想の動物なんだから。そこで興味深いのが池の主は蛇なだと言う事」

 「池……、水?」

 「そう、蛇は水の神様でもあるのだよ」

 「蛇が水の神様だったら龍はどうなるの」

 「龍には水の神の力がある。そしてより神に近い存在と言うよりは神そのものなのだろう龍神と言うぐらいなのだから。ところで見沼の話では蛇は出てこなかったかい」

 「あっ、白蛇」と武が言うと皆も同調して頷いた。

 「見沼の弁天の話で蛇が出て来ている。白蛇は龍の化身」

 「龍は見沼の神そのもの」と侑來が呟く。

 「その龍を治める為に須佐之男命が見沼にやって来た。人々は国土経営、民福安昌を願た。龍は災いではない。龍には素晴らしい力が備わっている。その力を存分に使うために須佐之男命がスタッフを揃えて出雲からやって来たと考えたらどう思う?」

 「龍の力。するとあそこ(氷之川神社)には龍と何らかの関係があると言うのですか先生」と武は質問すると

 「それが答えだよ。どのような関係があるのかは人間には分からない。我々には。だからこの話をするのを躊躇した。みんなを惑わすのではと思ったんだ」

 先生は残りの珈琲を一気に飲み干した。それを見て三人も珈琲を啜る。少しトーンを落として三人ともしみじみと珈琲を飲んだ。

 藤堂先生は最後に氷之川神社のサイトを開いて見せる。それは境内の案内図だ。イラストで描かれた境内は今までの話を踏まえて見るとなるほど水に囲まれた神社だと言う事がよく分かった。右手の方からひょうたん池、白鳥の池、そして正面に神池。神池には神橋が掛かっている。初詣の時よく渡る橋だと直矢は思った。神池がさらに西側も回り込むようにある事からまるで水に浮かんでるような感じがした。そして先ほど先生から説明があった多くの神様スタッフが配置されている。なるほど最強の布陣と言えるかも知れない。

 先生は神社の西にある、ある一点を示した。三人はそれに注目する。そこには

 『蛇の池』

 三人は息をのんだ。

 「先生、蛇だ。ここにも蛇が居た」と直矢は今までの話が合致したのかまるで何かの疑問が解けたかのような変な納得を感じている。先生は凄いと思った。

 「神社にも蛇が関係していたなんて……」と侑來は少し怖さを感じている。

 「資料によるとこの辺りは水が豊富な土地だそうで湧き水が湧いていたんだそうな。沼があって湧き水があって、豊かな台地だったんだと思う。それはまるで命の源であるかのように。神社がある場所は……。大宮公園のボート池も湧き水が湧いているらしい。そして、ここに水が湧いているのだよ。行って見るといい」藤堂先生は蛇の池を指差した。

 そして「今でもコンコンと水が湧いているのがよく分かるはずだ。蛇の池と言うここは神社には拝殿があってその奥に本殿があるように、ここは神聖な場所で昔は一般の人は入れなかったのだろうと思う。神社や寺ではよくある事だ。そもそも境内でも入れない所があるくらいで、その蛇の池は拝殿と並んで居るとは興味深いと思わないかい。元々氷之川神社の敷地は広大なものだった。大宮公園もそうだった。人間は立ち入る事が出来なかった。今では憩いの場所となってはいるがな。こここそ特別な場所だと先生は思う」

 先生の説明を否定するところなどなかった。三人ともその説明に納得するばかりである意味圧倒されていた。自分達もこの一週間調べて来たつもりだった。先生も仕事を抱えての事だっただろうから自分達と条件は一緒のはずだ。いや、直矢においてはかなり集中していた。でも結果として自分たちの未熟さを感じた。

 先生は取りあえず今日はここまでと言う事で広げた資料を片付ける。地図が最後までライトテーブルの上にあったので侑來がそれを片付けようと地図を取った時だった。

 直矢は先生が書いた地図の印のうち氷之川神社の近くにあるある記号を見つける。鳥居と寺のマークが並んで記載されていた。それが不思議に感じたからである。

 「先生、この印は」

 藤堂先生は背を向けて片付けをしていたのを振り返り直矢は示している地点を覗く。

 「ああ、それか。今までの話には関係ない事だ。わたしがちょっと興味があって場所を特定しておきたかっただけだ」

 「何という所ですか」

 「……、黒山院」と先生は地図上のその印を指した。

 「今回の事と関係があるのですか」

 「いや、今はない。無いはずだ」

 「でも、なんでこの地図に書いたのですか」

 「今のところ関係無いが、このまま進めていくと関係があるかも知れないと思ってな」

 「公園の駐車場入り口のところだよね。そう言えばなんか神社かお寺のようなものがあったような気がしたけど」

 すると藤堂先生はまた少し地図を指し示しながら説明する。

 「さっき話した寿能城の南に位置する。入り江と仮に言っているが城の対岸に山があって黒山と言う。この黒山に黒山院と言うお寺があるのだが……」

 先生はまた話すのを躊躇する。三人はそこまで話したのだからと言って先生に説明を求めた。すると

 「安達ヶ原の鬼婆伝説だよ」

 「……」

 しばらく沈黙があって。すると侑來が口を開いた。

 「鬼婆って、あの怖い話の鬼婆ですか」

 「そうだ」

 「なんで、大宮に鬼婆なんだよ。聞いた事ないよ」と武が言うと

 「あまり公にされてないんだよ。安達と言うとこの字を書く」

 先生は例の汚いホワイトボードに板書した。気がつかなかったが、前回の板書がまだ残っている。スッカリ乾ききっていて水拭きしなければ消えないだろう。でも、三人はそんな事を突っ込む程余裕がない。先生の一挙手一投足に注目している。

 『安達ヶ原』

 「この字を見て何を思う」

 「……、地名ですか」

 「何処か分からない」

 「福島だ。今の福島県の二本松と言う所に安達太良山と言う所があって、この辺りの事を示していると言う事が通説になっている。ところが、鬼婆伝説は他にもあって、その一つが大宮の鬼婆伝説だ」

 「……」三人からは何も言葉はなかった。今まで氷之川神社と龍について話し合って来た。そこにいきなり全く関係のない鬼婆の話が出て来たのである。予備知識がなかったのである。ただし、武だけが

 「そう言えば、図書館に黒塚の鬼婆と言う資料があった。気にもしなかったけど」

 「調べている人がいるのだな」と先生はしみじみと言うと話を続ける。

 「大宮にはこの黒山院と東熒寺にしか鬼婆の記録が残されていないのだが先生はここがかなり有力な場所ではないかと考えるんだ」 「どうしてですか」

 「昭和初期に鬼婆伝説の所在地が何処かとと言う事で大宮と二本松で論争になったんだ。ところが当時の大宮の学識者が鬼婆伝説はイメージがよくないと言う事で手を下げたのさ」

 「イメージがよくない」

 「鬼婆の話は知ってるだろ。ある貴族の乳母が主人の子を助ける為に人の生き肝を取りに旅に出かけた。乳母は安達ヶ原で待ち伏せし幾度も人を襲うとしたが出来なかった。その内安達ヶ原に住み着くとその機会を待った。ある時一人の娘が一夜を泊めてくれと尋ねて来た。女はその夜ついにその娘に一太刀浴びせ殺してしまった。娘が死に際に「一目お母さんに会いたい」と言って息を引き取る時お守りを女に見せた。そして亡くなった。女はそのお守りを手にすると血の気が引く。何故ならそのお守りは女が自分の子供に与えたお守りだったから……」

 悲壮な顔をしている。侑來は両手で顔を覆っていた。武と直矢は腕組みをして下を向いたままだ。

 「それからどうなったのですか」

 「話か。女はその後通りすがりの旅人を次々と襲うようになる。ある日一人の僧侶が一晩の宿を頼んだ。女は奥を覗かぬようにと言って出かける。僧侶が奥を覗くとそこには大量の人骨と血なまぐさい匂いがした。「これがあの鬼婆か」と言って僧侶は逃げ出す。気がついた鬼婆が追いかけて来た。僧侶は菩薩を取り出しお経を唱えると菩薩が光り弓となり鬼婆を射貫くと鬼婆は死んだ。その地が黒塚として今になる。ちなみに僧侶の名は祐慶(阿闍梨祐慶東光坊)と言う」

 「怖い話」

 「うん、だから大宮はあえて引いたのだが古い記録では実は大宮がそもそも伝説の地だと言われている」

 「えっ、どうしてですか」

 「現在は安達ヶ原と言う字を使っているが安達とは足立、足とは葦を意味する。今でも伊奈の住所には北足立郡」

 「あっ、足立って東京の足立区と同じ」と武言うと

 「語源は同じだろう。ところがもう一度この地図を見て欲しい」

 藤堂先生は古地図をもう一度広げ直した。そして見沼の周りに多くの地名が記されている。少々読みづらいがそこに『足立郡』と書かれている。先生の説明では見沼の北を当時足立郡と言っていた。足立とは葦が多く立つ所と言うところから来ていると言う。つまり足立ヶ原を示しているところから大宮が伝説の発祥の地とするのが正しいと言われている。それに歌舞伎の『黒塚』を演舞する時、演者は大宮の黒塚にお参りする。

 藤堂先生は一通り説明すると地図をしまい始めた。

 「でも、先生。なんで鬼婆伝説を調べてるんですか」と直矢が聞いた。

 「いや、ちょっとした興味からだ。今回の件とは接点がないから関係ないが……」

 「どうしたんですか」

 「いや、やっぱり気になるんだよ」

 「気になる?」

 「そう、この黒山院も、もしかしたら何か特別な意味があるのではないかと思ってな……」

 「特別な意味?」

 「そう、足立ヶ原は沼の北だ。でも塚があるのはここだ。氷之川神社のほぼ東に位置する。以前はここにお寺があったようだが現在は大栄橋の近くに移っている。それは、街道が整備された事と関係があるだろうとは何となく考えられるのだが、氷之川神社の近くなんだよ。それが気になってな」

 「なるほど。そう言われてみれば確かに近いですよね」

 「でも、見沼と龍とは関係ないように思えるけど」と侑來は言う。

 「確かにそうなんだ」

 先生は締め切った窓を開けると外を眺める。狭い空間に四人で居たためだろう。空気の入れ換えをする為だった。暑い空気が部屋に立ち込める。侑來が廊下側の戸を開けたものだから急に空気が移動する。瞬く間に湿気に満ちた空気が充満した。

 「今日のところは以上だ。また、近いうちにやろう。それまで三人ともそれぞれ調べてみてくれ」

 「はい」

 「それと、直矢」

 「はい」

 「おまえ,部活どうするんだ」

 「……」

 無言の直矢を見て

 「そうか。行っていいぞ」

 一時間などあっという間だった。武達はまだ午前中の練習があると言うので部活に向かう。侑來が行きがけ言った。

 「直矢、今度みんなで調べに行くけど……」

 侑來も期待はしていない。それでも直矢に声をかけたのだ。

 「いや、オレは行かない」

 「そう。これからどうするの」

 「一度帰ってから考えるさ」

 「気楽ね」

 侑來は武の後を追うように急いで行ってしまう。直矢は取り残されたような気がした。直矢が知りたかった事が中心ではなかったが今日も色々と勉強になった。自分で調べていてもどうも感じがつかめないでいたが今日、先生の話を聞いて少しヒントになる事があった。そして、多美が言っていた事と重ね合わせる。直矢はやはり氷之川神社に行かなければと考えた。他の二社も気がかりではあったがやはり氷之川神社にまず行って見る必要がある。多美がそこで何をしているのか。今日見せられた地図をイメージして多美と同じ様に自分も過去の見沼を想像してみようと思った。もう、癖になりかけている。ポケットに忍ばせている勾玉を取り出す。それをじっと見詰めた。


四話へつづく


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