龍神の願い
二 龍神の願い Wishes of the dragon
多美はこの数日間見沼を見て回った。見沼に戻って来た多美はスサノオウ様(須佐之男命)に仕え、こうやって時間の許す限り沼のあった所を見て廻った。こちらに来てまだ姫様(櫛名田比売)や簸王子様(大己貴命:大国主神)とはお会いしていない。会わす顔がなかった。スサノオウ様はなにも言わなかったが初めから分っていたのだろうか。出雲に居る時から今回の事をあまりいいようには言ってくだされなかった事を思い出していた。
多美は思い出していた。
『龍よ。そなたはそれを見てどうしたい?』スサノオウ様が訊いた。
「――……」龍(多美)は答えられなかった。
今の見沼は人が多いのに驚かされる。それに風習や文化も様変わりしており多美を戸惑わせた。多くの人間が他の土地から移り住んだものらしい。言葉は通じるが慣れ親しんだこの地のものとは違うのではないか。それでも気がついた事がある。人間が笑顔で幸せそうに見えるのだ。今の世の中は戦がないらしい。それに多くの人間が対等に接している姿を見ると人間が住むにはよいのかもしれないと感じた。人間は自分達の暮らしを営んでいる。もう少し見て廻る必要があるかもしれない。それに、多美がこの地に舞い降りた日。一人の若者が居たのを思い出していた。本来我々の存在は人間には気づかれぬもののはずがあの若者は確かにわたしに気づいていた。それがどう言う意味をなしているか……、もしかしたら近いうちに会えるかも知れない。多美はそう感じていた。それまではもう少し一人で見て廻ろう。少なくても自分の足跡がある所は見ておこうと思った。
スサノオウ様や姫様の言葉を思い出しながら多美は見沼の景観を見ていた。姫様から問われた事がある。「人間はすでに龍の事やその繋がりについて忘れ去ってしまっているのではないか……」と。それとも、そもそもこの地から昔を知る者は居なくなってしまったのでは……。ここまで人間が龍について語っている姿を見た事がない。多美は見沼田んぼの周辺を見て廻っていた。そして田んぼの至る所を見て廻っているとあるものを発見する。それは市が設置した名所旧跡についての案内だった。古くなっていて所々掠れているものもあり大宮市と書かれているものだ。それを見ると余計にガッカリくるのだ。何時しか多美は案内を探して、そしてそこに自分の痕跡を探すようになっていた。大宮の地より下流の三室(浦和)では龍に関する記述が多い。それは言い伝えとして龍が、古くから龍神とし、人間と深く関わって来た事を物語っている証である。しかし、仁恕を感じ得ないものが多く。多美は悄悄としていた。
多美は何処かに龍の事を忘れないで大切にしてくれている者が居ないのだろうかと願っていた。気持ちが一途になってくると案内板を見ながら涙が溢れ落ちている。自分ではそんなつもりはないのに……「あれ?可笑しいな」、何故か涙があふれ出る。多美は自分が何故ポロポロと泣いているのかがよく分らない。必死に泣き止もうとするほど涙が止まらない。そのうち多美の涙の一部は結晶となり勾玉になった。深く艶のある緑色。勾玉はほんのりと輝いていた。多美はそれを取ると両手で握りしめ胸元に合わせ恥じらいもなくオイオイと泣いたのである。堰を切ったように多美は泣いた。泣いて泣いて泣き崩れた。
そんな時だった。フッとあの若者の顔が浮かんだのだ。それまで気にもしていなかったのに……、あの時多美が振り返り目が合った若者の表情を思い出した。目を大きく見開き驚いた表情。彼はどうしてわたしを見る事が出来たのだろう。何故…と思った。多美は彼に会ってみたいと思った。
瓜生直矢は学校を早退すると急いで大宮第二公園に向かった。産業道路を越えるとそこは寿能町だ。盆栽町の町並みとは趣が異なるが、こちらも比較的大きな家が建ち並ぶ閑静な住宅街である。公園に向かっていると一画に料亭の看板を見つける。『東亭』と表記されている。直矢には縁がないところだったが以前、東北本線(宇都宮線)の線路沿いにも大きな料亭があった事を思い出した。近所に住む大正生まれのおばあちゃんに聞いた話を思い出す。大宮公園界隈には明治期から料亭が点在していたと言う。中には著名な者、森鴎外や夏目漱石そして正岡子規など名前を聞いた事を思い出した。太宰治の『人間失格』は大宮で書かれたと言っていた。その頃の大宮公園は東京の行楽地として遠足や花見見物なので賑わったと聞いている。そして戦後は一山当てた人達が密かに密会を開く場としてもてはやされた。お妾さんをこの界隈に住まわせ、料亭で会っていたのだとそのおばあちゃんから聞いたのを思い出す。これも定かではないが……。今では数がめっきり少なくなり、まだ残っていたんだと思った。
程なく目的地に到着する。予想はしていた。そこにはあの子の姿はなかった。直矢は水門の上まで来るとそこで停まり芝川を見回した。川の対岸も探したが彼女の姿はなかった。
肩の力を落とし「やっぱりダメか。そんな都合良く居るはずがないよなぁ」と呟く。それでもと思い、公園の中を探す。小一時間ほど探しただろうか。直矢はソロソロ学校に戻らなければと時計を確認した。「やっぱりダメか」諦めが付かなかったが直矢は側を流れる見沼代用水の川縁の道を学校に向かって戻る事にした。フラフラと自転車をこぎながら。
一体何処に居るんだ。君は……。言葉に出なかった。
公園からの帰り道、寿能町に入る。静寂な世界が広がり所々生活の音が聞こえ微かに通りを走る車の走行音が聞こえる。幾つかの路地を曲がりながら自転車をゆっくりこいでいると住宅街にぽつんとある公園の前を通りかけた。
『寿能公園』 その時だった。
多美は公園にある石碑の前に立っている。石碑には寿能城址と刻まれ、当時の城主の名が刻まれていた。多美はジーッとそれを下から見上げるように見ていた。
「これは墓……か」と呟く。
人間の足跡は残されている。龍の記憶は何処へ行ったのか。人間とはかくも都合の良いものだと多美は思った。公園は住宅街の中にひっそりとあった。多美には見えていた。ここに砦が築かれ、ここに多くの人間がいた事を。そして人間は自分たちの私利私欲の為に多くの命を奪い。そして奪われた。悲しみだけしか残されていない。でも、そんな自分たちの過去も人間は忘れ去ったのかと感じていた。
直矢は自転車で公園の横を通り過ぎる時、公園の中を「チラッ」と見た。遊具がある所から離れた所に大きな木々がそびえている所がある。松の木だろうか。傾斜地にあるそこに更に盛った所があり小山のような場所が見えた。そしてその高い所に更に石組みされている所があって、それが石碑だと直矢は理解した。その石碑の前に居たのだ。
「あの子だ!」
直矢はブレーキを握りしめると、『ギィーッ』と鳴る。同時に自転車が急停止した。石碑に向かって一直線。彼女の真後ろに停まった。土手の上で見たあの時より近い。後ろ姿をハッキリと確認する。
「間違いない」直矢は思った。その時だった。直矢のブレーキの音に反応したのか、それとも初めから気づいていたのか。いや、多美は気づいていなかった。何時もなら周りに注意を払っている。そして自分の気配は消しているからだ。ところがこの時は無防備で居た為か、背後に人間が来るなどとは思ってもいなかった。それは同じ事を先日もしてしまった訳で不用心だとも思った。そう、この地に降り立ったあの時、嬉しさと懐かしさで気配を消すのを忘れたあの時と……。
気分は全く逆ではあったが多美はクシナダビメ様やスサノオウ様から言われた事を思い出しながら、そしてあの時と同じ気配を感じると……。
「この気配は……」
多美は後ろを「スーッ」と振り向いた。
直矢はすでに自転車から降りて立っている。そして、自転車を押しながら公園内に入り、そしてまっすぐ多美の方に歩いていた。直矢は公園に入る時、一瞬目に見えぬ何かを感じる。身体の中を突き抜けたとでも言うのか、何かを感じたのは確かだ。でもそれを説明する事が出来ない。直矢は気にはなったが、なるがままよ。と思っていた。不思議な事だ。見ず知らずの子なのに緊張感がない。自分はこういう事が苦手な筈なのに。今まで気になって仕様がなかったのだからワクワクしていた。期待感でいっぱいだった。このチャンスを逃したらもう会えないかもしれない。断られたり嫌がられるなど微塵も感じない。直矢は堂々としたものでゆっくりと多美に向かって自転車を押して歩いた。そんな自分に実は驚いている。思わずにやついてしまった。
多美は直矢に気がつくとすぐ結界を張ったが直矢はすでにその結界内に入っている。この男はあの時の若者……、多美は直矢の堂々とした歩きに、自分と対峙する直矢に迷いがない事を感じる。多美は少しホッとするものを感じるも、今、人間が自分の前に居る事と、そしてその若者がまるで以前会った事があったかのように迷いがなく寄ってくるのを見て
「この若者は……」
多美は直矢のその不思議な魅力に興味を持った。
ゆっくりと直矢が近寄る。多美は直矢に向かって立つ。そして、まっすぐ直矢を正視する。直矢もまた多美の顔を見る。あれ程見たくて、見たくて仕方がなかった顔。直矢はすでに多美の姿に見入っている。間違いがなかった。多美の姿は直矢が想像する以上のものだった。でも直矢は気がついたのだ。多美が学校で見る女子と違うところを……。
「あの、こんにちは」と声をかけた。
少し間があった。
「こんにちわ」
ほほ笑みながら挨拶を返してくれた。直矢は急に安堵する。やっぱり緊張していたから……。声も素敵だ。想像以上だ。と思った。そして今までの思いが堰を切ったかのようにあふれ出る。
「あの、すみません。この前土手の上に居ましたよね」ぶっきらぼうに話しかける。
何も言わず多美はコクリと頷いた。
「ああ、やっぱり。珍しいなと思って」
「珍しい?」
「だって、あの時間、制服姿であんな所に立っているなんておかしいって思って」
「貴方もそうでしょ」と少し猜疑的に聞き返すと
「オレは学校を飛び出して来たから……、むしゃくしゃして飛び出したはいいけれど、行くところがなくて……、池の土手で寝そべっていたら、君を見つけたんだ」
「そう」
「それで、珍しいな。と思ってさ」
多美の反応がイマイチなので直矢はやっぱりダメなのかなと思う。
「どうして私を見たの」
「どうしてって……」
後ろ姿がいい女だったからなんて言えない。返答に困る直矢は
「どこか遠くを見ているのかなと思って」
「遠いところ?」
「そう。遠い所。何処かこころはこの場所には居なかったような感じがしたから……」
多美はその言葉に返す言葉もなかった。直矢が言っているように確かにあの時の自分は身体を地に置いて、こころは遙か先の見沼に居たのだ。
「その通りだわ。どうして分るの」
「どうしてと言われても、何となく。何となくそう感じたんだよ。それで、気になって見ていたら」
「見ていたら?」
「いや、見ていたら君が気がついたのか振り返っただろ」
また、コクリと頷いた。
「まずい。と思っちゃって……、別にまずくはないのだろうけど目線を反らしたんだ」
「そうだったわね」と少し、直矢のその言い訳がましい話し方に多美は少し面白くなっていた。
「目を反らしたのは一瞬だった。すぐ顔を上げてみると。君はもうそこには居なかったんだ」
「わたしも見られたからその場から立ち去ったからでしょ」
「そうなんだ。そうなんだけど、どうしたらあの場から一瞬で消える事が出来るのだろうか」
「出来るでしょ」
「無理だよ。だって、周りには何もないし走るにしても、その姿が見えているはずなのに、その姿も見えなかった。オレはもしかしたら土手から落ちたんじゃないかと思ったんだ。だから、思わず君がいた場所まで走っていた。そして、辺りを探したけど君は何処にも居なかった。どうやったらあんな事ができるんだい?」
そうか、まさか姿を消して飛び去ったからだと言っても納得しまい。なるほど龍だからできた事とであって人間からすればそう見えるのだろう。これからは気をつけなければと多美は思った。
それでも「消えたの」と少しからかい半分で言う。多美の表情は和やかだ。それに比べて直矢はと言うと多美の説明に納得がいかない真剣な眼差しで多美を見ている。
「消える?」直矢はそんな事が出来るものかと納得がいかないものも多美の言う事が何処か許せてしまう。そして、多美の姿を見て直矢は一層思いが強くなるのが分る。
身長は直矢より大きい。でもそんな事は関係ない。成長期に入った自分ならすぐ追い抜くだろう。顔は思った通りの均整が取れている。体型は太からず細からず。決してガリガリではないがスラリとしている。そして男はどうしても意識してしまう。胸も小さくなく、大きくなく、とバランスがよいと思う。それでもどちらかと言うと大きい方か……、直矢は今まで女子をそんな風に見る事はなかった。立ち姿に何処かリンとしたものを感じるのは自分だけか、ところが明らかに他の人とは違う特徴があるのだ。顔かたちは明らかに自分達と同じ人種だ。制服が緑色のラインを所々に施したセーラー服。そこから伸びている手足は色白で透き通るようだ。顔も同じである。今時の女子高生なんて化粧がざらなのに彼女には化粧をしている様には感じない。もしかしたら分らないようにしているのかもしれない。
それよりも明らかに異なるところがあった。まずは黒髪ではない。光によってわかるのだが、ほんのりと緑が入っている。外の日差しの下、明るい所で見ると分るのだ。たぶん、暗い所では艶のある黒髪になるのだろう。それが肩の下までまっすぐ伸び、そろえられている。そして、一番の特徴が
『瞳が緑色である事……』
多美は直矢を見詰めた。
「君は外国の人?」と直矢が唐突に訊く。
多美は首を横にふった。
「そうだよね。どう見ても日本人だ。だとしたら、その瞳はコンタクト?」
「コンタクト?」
「え、違うの。コンタクトって色のついたレンズを目に付けるのが流行でしょ。よく女子高生が付けてるって聞くけど」
「自よ」
「へぇー、そんなんだ。するとやっぱり珍しいんだね」
「おかしい?」
「いや、おかしくないよ。オレが見慣れてないせいでしょ。そうなんだ、日本人でも茶色とか薄い色の目をしている人がいるって聞いた事あるけど緑もあるんだね」
「そうよ。数は少ないけど。やっぱり変?」
「いや、そうじゃないよ。そうじゃなくて……、綺麗だと思って……」と少し照れながら言った。
「ありがとう」と言うとクスッ笑う。少し視線を下げた仕草が可愛いと思った。直矢は少しホットした。
頭を上下に小刻みに頷くと、直矢は多美の言葉に納得する。それにしても神秘的なのだ。瞳が青だったり髪の毛が金色や緋色の人間はマンガやアニメではおなじみだ。直矢は外国人の友達など勿論いないから自分と同じ人種以外の人間など知らない。だから、多美を見ると、とても同じ日本人には見えないし、外国人として見ても緑色の目や髪の色を持つ者など知らなかった。それにどこか身体全体がほのかに光り輝いているように見えるのは気のせいなのだろうか。高校生なら年もそんなに違わないはずなのに、どこか落ち着いている。もっと上の大人の女性を感じた。
「オレ、瓜生直矢。君は」
「多美」
「多美ちゃん?。多美ちゃんは何処から来たの」
幼さが残る少年にちゃん付けかと思うもどこか親しみを感じた。多美はそれこそ初対面なのに懐にでも入られたかのような直矢の言いように思わず笑うしかなかった。
「西から」
「西とは随分おおざっぱだなぁ」
「出雲よ。見沼には、いえ、さいたまには手伝いで来ているの」と慌てて直矢に合わせるように答える。
「へぇ―、手伝い。学校休んで」
「そうよ」
「大変だね。で、何処で手伝ってるの」
「スサノ……、いえ、伯父様のところ」と言うと多美は氷之川神社の方を指差した。
「この先にあるの?なにやさん」
「神社」
「神社?、て言う事は巫女さんでもやってるの」
「そう、そのようなものよ」
「巫女さんか」と直矢は少し卑猥な事を考えていたが、彼女は多分お守りやおみくじを販売しているのだろうと思った。
「直矢は」
「オレ?オレはU中の二年生、家は土呂だよ」
「土呂、そう土呂なの、林と畑が多いところね。静かで良い所だったわ」
多美は思い出していた。土呂村や砂村、そして大和田村の辺りではあまり人間と接することはなかった。でも、氷之川の水辺より上流のこの一体は水が静かでいつも静寂に包まれている。土呂の語源は瀞場から由来されていた。多美はこの地が好きだった。
「何時の時代?今では家が建ち並んで畑なんてないよ」と直矢が言い返す。
多美は直矢のその一言で、さっきまでの思いを思い出す。すると急に悲しくなった。
「寂しいわね」と少し暗い表情を見せた。
「多美は大宮の事知らないの」
「昔の大宮は知っている」
「昔って何時?おかしいでしょ。多美とはそんなに年は違わない」
「年?そう、近いかもしれないし、近くないかもしれないわ」
多美のなんとも煮詰まらない答えに直矢は戸惑うも少なくても多美は自分の事を警戒していないと思った直矢は多美は大宮の事があまり知らないのだなと感じる。
「だったら、オレが大宮を案内してあげるよ」
本当は直矢もあまり大宮の事を知らなかった。直矢は出たとこ勝負だと思った。そんな直矢の気持ちを知ってか知らないでか多美は直矢の申し出に断る理由がない。多美自身も直矢の事が知りたかったから。本来結界を張っているから龍と人間が出会う事などないはずが、直矢はいとも簡単に自分の目の前に現れた。多美はその事がどうしてなのかが分らない。それを知りたいと思った。
「案内して、大宮を」多美は直矢に手を差し出す。直矢は躊躇せずその手をとる。そして、これからの事を話し合った。
平日は学校がある。多美も普段は手伝いをしているとの事だった。週末に落ち合う約束を二人はする。大宮の街を散策する事になったので
多美に連絡先を訊くと答えられないと言われた。それでは待ち合わせが出来ないと言うと。
「大丈夫。直矢が会いたいと思えばそこに居るから」
「え?」
多美は直矢の手を取るとその掌にあの勾玉を添えた。そしてコクリと頷くと直矢の瞳を見詰めながらほほ笑んだ。
「この勾玉がわたし達を会わせてくれるから、直矢が会いたいと念じれば勾玉がわたし達を会わせてくれるはず……」
多美は何を言っているのだろうと直矢は思う。魔法じゃないんだからと思った。でも、緑色した多美の目力を感じると偽りではないのかもと思った。直矢は多美から渡された勾玉を見入る。深い緑色をした勾玉は何処か吸い込まれそうな透明感を感じる。「綺麗な石だ」石など全く興味はなかったのにその勾玉には不思議な魅力を感じる。
「オレが会いたいと思えばいいの?」
多美はほほ笑みながら頷く。それを見た直矢も頷いた。
「今度の土曜日に土呂駅で待ち合わせをしようよ」
「土呂駅?」
「土呂駅、知らない?」
「大丈夫、たぶん。必ず行くわ」
「そう、良かった」
直矢は多美の笑顔を見たら何処かホットした。もし断られたらどうしよう。そうしたらもうチャンスがないかもしれない。必死なのが自分でも分る。自分はなんでこんなに必死なんだろうか。今日初めて話したのに。自分で自分の気持ちに説明出来ない。自分がこんなにまで女性に対して執着している。今まで何処か冷めたような自分が、何かに急に吸い込まれるれたかのように多美に執着している。血流が激しく流れ、バクバクしている。そして、それが次第に治っていく感覚。でも、それも不思議と心地よいものだと直矢は感じていた。
そんな安堵感を浮かべた表情を見て多美は笑う。多美もまた、見沼に戻り気持ちが荒んでいた。見るものが自分が思い浮かべていた世界とはかけ離れている。人間は自分達の楽園でも造ったかのように好きなようにしている。我ら八百万の神と人間は古来密接な関係にあった。人間は神を敬い、信仰した。神はそんな人間に寄り添い時に厳しく接し、また優しく接して来た。そんな関係が今の見沼でどれほど継承されているのだろうか、何よりも龍の存在は軽視され、忘れ去られようとしているではないか。そんな矢先に直矢と出会った。多美が感じたのは直矢はまっすぐだ。この若者は自分の気持ちに正直な人間だ。多美は何故直矢と出会う事になったのかを考えていた。答えは出せていなかったが、直矢を知る事で何か分るかもしれない。
多美は感じていた。この子はまっすぐな若者だと。その思いに裏表はない……と。その思いに一途さを感じる。そんな強い思いを持っていたから結界を破れたのではないか。でも、そんな事はどうでも良くなっていた。見沼に戻って嬉しい事が一つもなかった。彼と話しているとホッとする。これまで自分が随分と心が沈んでいたのがよく分る。それがどうだろう。たった今、直矢とあったばかりなのに心が晴れ晴れとしているではないか。自分のそんな気持ちの変化にも多美は驚いていた。だからもっと直矢の事が知りたいと思った。さっきまでの人間がどうのこうのと言う思いなど何処かに飛んでいってしまっていた。こんな今の自分を説明が出来ない。でもとても心地良く。先の事を思い浮かべていた。
「今度の土曜日に会いましょ。こっちに来てから楽しい事が一つもなかったから……。悲しくなる一方でわたし、どうしたらよいか迷っていたの。そんな時歩いていたらここにたどり着いていて……」多美は石碑を見上げ石碑を見詰めた。
「お墓だね」
「そう、お墓。ここは昔、城だった。多くの人間がここに居たの」
「案内板にそう書いてあるね。灼けちゃって読みづらいけど。多美ちゃんはお城に興味があるの?」この辺りは住宅街でそもそも人はいっぱい住んでいると思ったが……。
多美は首を横に振ると「そうではないけど、ここにも人間の営みと神への崇拝があった。けれど今はそれも分らない」と寂しく語る。
「多美ちゃんは歴史が好きなんだね」
「歴史」
「そう、歴史さ。オレはこの大宮で生まれたけどここにそんな事があったなんて全然知らなかったよ。ここもこうやって多美ちゃんを探し歩いていたらたまたまあったぐらいでさぁ。学校に藤堂先生と言う人が居るんだけどこの先生が歴史の先生で、オレなんか初め全く興味がなかったけどこの先生の授業を聞いているとなんだか歴史って面白いんだなって思ったよ」
この子もわたしを探していた。
「そうね、歴史と言う見方があるのならそうなのかもしれないわね」
「面白い事言うね。先生も言ってたよ。今勉強している事も何れどう変わるか分らないと。だから面白いんだとね」
「直矢は大宮で生まれたのに大宮の事知らないと言ったわね」
「昔の事は特にね。今の街の事も実はさぁ、あまり良くは知らないんだけどさ」と少し照れくさく言う。直矢は思った。多美なら自分が大宮の事を余り知らなくても笑わないだろうと。
「だからなのね」
「え?」
「ううん」とそれ以上は言わなかったが多美は思った。直矢が特別なのではない。ここに住む人間がみなこうなのだと。だから龍の事も忘れさられているのではと
「直矢は龍の事知っている?」
「龍?あの空想の動物?」
「そう、見沼の龍」
「見沼の龍?」
直矢にはちんぷんかんぷんだった。見沼と龍がどう関係しているのだろう。それでも考えているうちに思い出した事があった。
「そう言えば、市の広報誌に龍のイラストが描いてあったよなぁ」
「広報誌?」
「そうだよ。ヌウという龍がさいたま市のマスコットキャラクターなんだよ」
「マスコットキャラクター?」
「ぬいぐるみだったり絵だったり。知らない」
「知らない。それが龍なの」
「そうなんだ。初めなんで龍なんだろうと思ってたよ。多美ちゃんが言うようなところから龍なのかな」
「……」
「学校に戻ったら、先生に聞いてみるよ」
「分かったら教えて」
「任せてくれ。これでも勉強は得意なんだ」
「そう」
多美は笑った。さっきまでの憂鬱さが嘘のようだ。直矢のまっすぐな明るさと思いが気持ちを楽にさせてくれた。不思議な若者だ。
「あっ、ごめん。もう学校に戻らないとまた先生に怒られちまう」
「うん、それじゃ」
「それじゃ」
多美の目を見ると神秘的だ。自分が何処か異国にいるかのような思いになる。名前が多美。直矢にとっては大きな収穫だ。直矢は自転車にまたがると満面の笑みを多美に向け大きく手を振りかざすと走り出す。
多美はそんな直矢の姿を見送る。直矢が公園の敷地から出る時、また何か身体を突き抜けるような気を感じた。するとさっきまでの静寂から解き放される。日常の音があふれ出た。思わずその感覚に驚き直矢は自転車を止める。さっきまでは鳥の鳴き声すら聞こえなかった。シーンと静まり返っていた。それが一瞬で解き放たれた感があった。そして直矢が振り向き公園を見ると
「いない!」
そこにはすでに多美はいなかった。あの時と同じ……。
「多美……、ちゃん」
しばらく直矢は立ち尽くしていた。
「寿能城?」
思いも寄らぬ直矢からの質問に藤堂先生は目を見開く。直矢は片手に珈琲カップを持ちながら藤堂先生を見上げている。藤堂先生のその表情は訝しげに変わり疑いに満ちあふれていた。
「寿能城址だろ」と猜疑的に返すと。
「そうです。先生。公園にそんな石碑があって、お墓みたいで誰かの名前が彫ってあった。名前を忘れたけど……」と直矢はそんな藤堂先生の反応を気にもせず答えた。
藤堂先生は少し困った表情をした。歴史を教えている身とは言え、大宮の地元史にそんなに明るい方ではなかったからだ。
「先生は地方出身だからな。悪いけど直矢、よく知らないんだ。でも、急にどうしてだ」と素直に答えると
「そうなんだ、先生。先生なら知ってるだろうと思ってさ」
「言ったろ。専攻しているとは言え、先生だって知らない事はあるさ。それよりも直矢が歴史に興味を持つなんてな。それも地元の歴史について……」と藤堂先生は直矢の食いつきに少し嬉しさを感じた。
「興味を持った訳じゃないけど……、ただ、その石碑の前で話したんだ。でも、どうも噛み合わないというか」と直矢は藤堂先生が理解出来ない事を言うので
「噛み合わないって何だよ」と藤堂先生は自分のマグカップをグルグルと回しながらじれったそうに訊き返した。
「大宮で生まれたのに大宮の事、知らないって言われたものだから……」
藤堂先生は珈琲を一口飲むと二、三度納得するように頷くと
「なるほど。確かにそう言う事ならそうかもしれない」
直矢はその反応を見据えていた。
「先生もここに来て大分経つが、歴史を専攻していると言っても、基本はみんなに教える事が前提で興味の対象は教科書の世界だ」藤堂先生は日本史の教科書を片手で拾い上げ直矢に見せた。そして、周りを指し示すと、
「でも、ここに有るように、これらの資料は教科書で習うものより遙かに専門性が高いもので史実が記載されたもの」
両手を大きく広げ周りを示した。「ただし、これらは先生の興味の対象として集めたコレクションであって、その興味の対象もこの教科書から紐付けされたものが多い。要するに広く浅くだ」
マグカップを持った手で教科書の手を示した先生は言う。「つまり、王道とする歴史が今日までの対象で地方史が得意と言う訳ではないんだ。地元の歴史を知る事はいいことだぞ瓜生。本来、語り部で伝承されるものが殆どだから、いろいろな解釈や言い伝えが有るだろう。だからそれらを踏まえて自分なりの歴史を組み立ててみるのさ」
「語り部?組み立て?」
「そう、親やお祖父ちゃん、お祖母ちゃんから語り継がれるものが殆どだからさ、資料がないものも沢山ある」
「オレの父さん母さん、大宮の生まれじゃないもん」
「だろ!、だから今は近所のお爺ちゃんお婆ちゃんから教えて貰う事もないから知らない者が多くなってしまったんだよ」
近所のお年寄りも地元の人ではない方が殆どだと直矢は考えていた。時には古くから住んでいる人から地元の古い話を聞いた事もあったがそれだけ聞いてもたいして触手が動く事もなかった。でも、確かに自分が地元の事を知らないと言う事はそう言う機会がなかった事に違いない。多美は地元じゃないのに寿能城の事を知っている。そして少し悲しい表情をしていたのを思い出す。直矢は思った。自分がもっと知っていれば多美に教えてあげる事が出来たかもしれない。
「先生、龍の事知ってる?」
「龍って、あの伝説の生き物だろ。干支の」
「大宮と龍の関係」
「ああ、龍の伝説な。見沼の龍の事だろ」
直矢は前のめりになる。
「よくは知らない」
直矢は期待を裏切られ、肩を落とす。
「なんだ知らないのかよ。それでも歴史の先生かよ」
「聞き捨てならない発言だな。直矢。偶々知らないだけだ」と少し憤慨する。
「知らないとは言ったが、見沼の龍と言う伝説があるんだそうな」
「そうそう、それ」と再び興味を示すと
「慌てるな。先生も広報誌とかでしか知らないんだ。どうして龍がさいたま市のマスコットになっているか知っているか」
「知らない」
「市の会報誌、見てないか。あれに少し説明が書いてあるんだ」
「知らない。見た事もない」
「……、まぁいい。見沼とは見沼田んぼの事だ。昔は田んぼが沼だったんだよ」
「何千年、何万年も前の事でしょ」
「いやいや、以外と近いぞ。今の年代からすると」
「えっ?」
「江戸時代、八代将軍吉宗の時に開拓されたんだ。だから三百年くらい前の事さ」
「へぇ」
「最近だろ」
「三百年前」
「歴史で三百年なんて最近の事になるだろうなぁ。少なくても江戸時代の初期、戦国時代には見沼は存在したと言う事さ」
「そうなんだ。知らなかった。寿能城っていつ頃」
「それは調べてみないと分らない。ネットで直ぐ調べられるだろうけど」
「分った、先生、自分でも調べてみるけど」
「先生も少し調べてやる。折角興味をもったんだからな」
藤堂先生は考えていた。瓜生直矢が今までと違った表情を見せている。きっかけは話に出て来た女生徒にあるのだろう。直矢が夢中になるその子に興味はあったが、何より目つきが真剣で今までの覇気を感じられない表情からすると悪い事ではない。むしろ年相応で当然直矢にもあっておかしくない感情である。自分が恋愛について語るのは余りにも憚るだろうけどしばらくこのやる気に付き合ってみようと思っていた。それに、予想通り天雲武も同じ様に変化が見られる。今までの仲間と距離を置く事で状況が変わってきていた。これにはショウ達を見張っている先生方の協力もあってか天雲武自身がこれから自分の事を変えていかなければならない。但し頭のキレる子である事には変りはないので注視する必要があった。
「最近、武からのちょっかいはないか」
「あるよ」
想定外だった。「何だ。どうした」
「別に。先生が言うように相手しないようにしているけど。いちいちうるさいんだよ。アイツ!」
「おまえ、本当に心当たりないのか」
「ない!」
藤堂先生は以前にも瓜生直矢に聞いた事があった。こんなにちょっかいを出してくるのは何か理由があるはずで、それは天雲武にもそれとなく確認した事なだが、武もまた話そうとはしなかった。いずれにせよ原因は一年の時にあったはずだ。その時は担任ではなかったから今は憶測でしかない。当時の担任に聞いても心当たりはないと言う。担任も堪えたらしく、聞いてもあまりよい話は聞けないのだ。
「直矢が気がついていないだけで原因があるはずなんだよ。何でもいいから思い出して欲しいんだなぁ」
「そんな事言われても思いつかないものは思いつかないよ」
今までと違って直矢は一年前の事を思い出していた。それでも心当たりがどうしてもない。藤堂先生はその姿を見て直矢の変化を確信する。思惑とは違っていたが直矢には元々ぐれる要素はなかった。それなのに天雲武との仲がこじれ、争い毎が絶えなくなるとクラスでも浮いた存在となってしまったが、直矢がクラスの他の生徒と何か問題を起こすと言う事はない。ある意味反抗期であり多感になってきたところに天雲達が立ちはだかっただけなのである。
マグカップを何時もようにクルクル回すと一口飲んだ。
「神月侑來とはどうだ」
「侑来?どうして」
「わざわざお前達の間に座って貰ったんだ」と少々憤慨した表情で藤堂先生が言うと
「別に。うるさいだけ」
「それだけか。お前は神月に助けられてるだろう」
「余計なお節介だ」
「そんなふうに言うなよ。先生が頼んで間に座って貰ったんだから」
「先生が?どうして」
「どうしてって、お前ら、隣同士にしてたらケンカが絶えないだろ」
「そもそもなんで同じ並びなんだかわからねえ」
「楽しいだろう」
「どうして、訳がわかんねえ」
「何だかんだ言ってお前らは互いに意識し合ってるからだよ」
「神月と?ありえねえ」
「そうか、そう言う見方もあるな。先生はお前と天雲の事を言ったんだよ」と少しからかい半分で藤堂先生は言う。それに対して直矢は何も反論しなかった。オレと武が意識し合う。確かに武はうざったい存在だ。アイツが事ある毎にちょっかい出してくる事が分らなかった。最も先生から問いかけられたから考えるようになっただけの事であってそれまではそんな事すら考える事などなかった。
アイツが何を考えているのか気になった。それと今日の出来事が大きい。多美と出会えた事は直矢にとって収穫だ。だから、先生から何を言われようと、教室で武が嫌みを言ってこようが、侑來が小うるさく言ってこようが気にならなかった。藤堂先生が侑來について聞いてきたのが以外だ。アイツの事を意識した事はない。少なくても今までは、先生から問いかけられたから気にはなったが……。それに多美と会って、多美と話して直矢は女性を意識した。多美に会った後だから侑來の事を今考える余地は直矢にはない。そんな事はとんでもない事だ。多美に対して。直矢は自分に言い聞かせるように思った。
とりあえず今度多美と会えるのが待ち遠しい。それまで少し大宮の昔を勉強する必要がある。直矢考えた。
直矢は気にくわなかった。ぶすーっと膨れた面構えをして何時もの様に先生が入れてくれた珈琲をスプーンでクルクルとかき混ぜながらカップの中の濃い珈琲の色とライトテーブルの明るい白とのコントラスト差がどうにもなじまなく目がチカチカするのだ。それよりも気に入らないのは隣に座っている二人の存在だ。
直矢は先日の件で先生から呼び出され、放課後準備室に来ていた。先生が『寿能城史』について少し分ったから教えてくれるとの事だった。丁度明日、多美と会う予定でもある。直矢としては付け焼き刃ではあるが少しでも蘊蓄のたしにでもなればと言う思いがあったのだが……。
「先生、何でこいつらがここに居るんだ」
「こいつらとは何だ」
「何よ!」
「ふん、いいじゃないか。他に居ても。不満か」
「不満だろう。よりによってこいつらじゃないか」
「どいつらだよ。大体なんでそんな事に興味を持ったんだよ」
「そうよ。人一倍無関心だったのに」
「人一倍無関心とはなんだ!」
「そうじゃない」と神月侑來が直矢を茶化すように言い放つ。その言葉に直矢は言い返せない。それよりもどうして天雲武がここに居るんだ。こいつとは小競り合いの時以外に接近した事はない。ところが山積みの本で圧迫感があるこの部屋でこいつと一緒だと妙に距離が近い。直矢はその状況に戸惑っていた。
「まあまあ、いいじゃないか。他にも興味をしめしてくれる者がいてくれたんだから。それが普段相性が悪い相手だったとしても……」
先生の言葉に意味深かげのものを感じた。確かに先日の授業で『寿能城』を口走ってしまったのは自分だった。直矢は先日の授業の事を思い出した。侑來からはあの後必要に理由を問われたが直矢は答えなかった。と言うよりも答えられなかった。理由が多美と出会ったからだとは言えない。特に侑來に対してはそう思った。
藤堂先生は数枚のプリントをライトテーブルの上に『ぽーん』と置くと三人はそれをそれぞれ取る。誰に言われるまでもなくそれがそうする合図だと三人は理解した。
藤堂先生はその行動を見るやいなや説明し始めた。
これは実際に先生が寿能城址に行って控えたものだと説明があった後プリントの一説を読み始める。
「寿能城は潮田出羽守資忠の居城だった所で岩槻白鶴城主、太田資正の第四子だ。母方の潮田家を継いで永禄三年(一五六〇年」ここ大宮に築城した。大宮、浦和、木崎寺(これは今の中央区、与野の辺りだろうと補足があった)を治めた領主だ。そして、その城なんだが次にあるように城地は東西約八七二メートル、南北四三六メートルと大きい。今の寿能町一帯がほぼ城跡だと思っていい。それとここの特徴が面白くてな、東側と南北は見沼に面していて、東側は出丸で沼に突き出ていた。丁度公園の辺りだな。それと西側はさっきも言ったように寿能町一帯からなんとK中や大宮公園の一部に及んでいたらしい」
「そんなに大きかったですか」
「そのようだ。先生もこの碑文を読んで少し驚いたよ。それでだ。時代は丁度戦国末期でこれから勉強するところなんだが豊臣秀吉が天下統一する最後の大戦を分るか」
「朝鮮出兵」と瓜生直矢が言うと「違うそれは統一後で多分北条攻めでは」と天雲武が言うと
「その通り」
武は特に直矢を威嚇するような言い方をしなかった。極々何時もの授業での態度に変りはない。直矢も努めて武を意識しないようにしている。と言うよりも先生の説明に集中していた。それは武も同じだった。
「先生、潮田出羽守資忠はどちらに付いていたのですか」と侑來が質問すると
「言い質問だ。潮田氏は岩槻の太田氏の家来だ。この時の太田氏は北条氏に付いていたんだ」
「それじゃ城は」と侑來が呟くと
「そう、資忠は息子と小田原城に入る。そしてそこで討ち死にしたんだ」
「城は?」と直矢が言うと
「家臣の北沢宮内等が守備したが豊臣勢によって天正一八年(一五九〇年六月)に落城した」
「……」
藤堂先生は三人の反応を見て続けた。
「墓石は五〇年後の子孫が記したもので直矢が見たものだ。城跡はしばらくそのままだったらしいが領民の多くが整備された中山道やこの後出てくる見沼の開拓によって新しい土地に移り住んだ。ほら、みんなが住んでいる土呂や本郷がそうなんだが見沼田んぼを見据えた新しい部落が形成されていったんだ。そして城は大正に入って県の史跡に登録されたんだが、太平洋戦争中、なんとここに高射砲陣地とするために城跡の高台が削られたらしい。その後住宅地として整備が進んで公園の所に一部を残すに至っているとの事だ」藤堂先生は読み終えた余韻に浸りながら顔を上げた。
三人は説明に言葉もなかったがそのうち直矢が「オレが見たのはお墓だった」
侑來が「大宮も戦争があったのね」
「オレも地元生まれだけど何も知らなかった」と武が言う。
「本当だ。小学校の時大宮の民族博物館に行ったけど、全く気にしなかった」と直矢が返すと
「全くだ。ただ、昔の暮らしを見に行っただけだと思っていたよ」
「出雲では神話や風習が暮らしに溶け込んでいていろんな祭事があったけど、大宮にはないの」
「神明社のお祭りや、本郷でもお祭りとかはあるけど、オレ行った事ない」と武が言う。
「オレも」と直矢も言った。
「先生も正直、直矢に言われるまでは大宮の歴史には興味がなかった。先生も地方の出身でな。そうすると侑來じゃないけど生まれた土地の風習には馴染みがあるのだが、ここに移り住んでこの土地の風習には接する機会がなかった。周りも見ても同じなのさ」
「同じ」
「そう、みな、移り住んできた人達ばかりだからさ」
「あっ、そうか」
「これは現在の事だから少し歴史とは異なるが社会学的事象として見ると想像がつくだろう」
「社会学的事象?」
「さいたまで暮らす多くの人が地方からの流入者でその働き先の多くが東京だと言う事。これは戦後加速化されて今日まで来ている。実際現在の日本で人口が減少している自治体が多い中、東京に隣接する首都圏だけは人口が増えているんだ。さいたまもその内の一自治体になる」
「確かに人が増えたような気がする」
「侑來のうちは少々異なるが、誰もが仕事を求めて東京に来てるんだ」
「でも、土地の人も居るでしょ」
「居る。地主の多くはこの地で農業をしていた。ところが今の時代は土地を維持する事は何かとお金が掛かるようになってしまった。今の日本の税システムは次の世代に残そうと思っても残せない仕組みになっているんだよ」
「残せない」と直矢が聞くと
「相続する時に税金が掛かるのさ。知らないのか」と武が言うと
「知らない」と答えた。
「何も知らないんだな。お前は」
「何だと!」
「まあまあ、二人共、武の言っている事は事実だ。だが、それだけじゃないと先生は思うんだ」
「どう言う事?」
「人の増え方が加速的であった為だと思う。本来引っ越すとその土地の慣わしを理解するところから始まるだろ」
「慣わし?」
「郷に入れば郷に従う」
「朱に交わる」
「うーん、微妙にニュアンスは違うがまあいいか。その通りで、越してくればその土地の隣組などに加わり、その土地の文化も継承するのだが今では隣組の機能までなくなってしまった」
「回覧板は来るぞ」
「それは今になっては土地の者との繋がり方の唯一の方法かもしれん。今では町内会費も払わない。管理費、組合費も払わない。その土地に来たとしてもその土地の習わしには参加しない。対して土地の者はよそ者には教えない。そんな風潮があるからではと思っている」
「……」
「この土地にも素晴らしい文化や歴史が残っている。寿能城については人間の強欲に関するものでしかないかも知れないが、大宮と言う土地がなぜ重要視されたかと言うところをひもといていくともう少し分って来るかもしれないな」
直矢は感じていた。多美が神社で働いていると言っていた。「氷之川神社。そうだ大宮には氷之川神社がある」
「いいところに目を付けた。氷之川神社は重要なポイントだろう。では何故大宮に氷之川神社があるのだろうか」
「どうして」と武が訊くと
「それはこれからの宿題だ」
「宿題!」
「そう、先生はわざわざ城跡まで行って調べたんだぞ、お前達も少しは調べてみろ」
「わたし達もですか」と侑來が訊くと
「当然だ。天雲も神月、それに瓜生」
「来るんじゃなかったぜ」
「わたしも」
二人は少々落胆していたが、当の直矢はと言うと明日多美と会うにはまずまずの話だと思っていた。それに多美は氷之川神社で働いていると言っていた。今まで神社など全く興味もなくいたが、これでまた多美と話せる口実が作れる。そう思った。
三話へつづく