僕は君に気づいてしまった!
一 僕は君に気づいてしまった!
I 've noticed you
ひょうたん池を見下ろす土手に来ていた。必死に逃げて来たせいか汗が薄ら滲んでいるのが気持ち悪い。学校であった事を思い浮かべながらひょうたん池も見ず、草むらに寝転びプカプカと漂う雲をただ漠然と眺めて居るだけで、学校を飛び出したはいいが(本当は良くないのだが……)ただ、何も考えず呆然としていると、さっきまでの怒りが次第に収まっているのを自覚する瓜生《うりゅう》直矢だった。
全く天雲武ときたら頭にくるヤツだ。だいたい五対一とはずるいじゃないか。何時もちょっかいを出してくるのは武のヤツだ。いや、正確に言うと武の取り巻き達でショウやジュン達だ。あいつときたら彼らに加勢すると言って言いがかりを付けてくる。本当はあいつが裏で指図しているに違いない。なのに悪いのは何時もオレになる……。
思い出すとまた、沸々と苛立ちが立ち込める。分ってはいるがどうしたらいいのか妙案も浮かばず、瓜生直矢はただ空を見ていた。
U中の二年生になる直矢は学校の友達とはあまりうまくいっていなかった。とりわけ天雲武とその仲間達とは毎日のように小競り合いをしてはいつも直矢が負けていた。直矢の方から仕掛けると言う事はなかったが何かと天雲武達がちょっかいを出してくるので直矢としては『なめられちゃいけねぇ』と何時も相手になってしまうのだ。多勢に無勢で数からして勝ち目がないのは明らかで、クラスのみんなも相手にする事はないのにと直矢を冷ややかに見ている。そして、いつも見て見ぬ振りをしていた。
直矢も別に助けが欲しいとは少しも思っていなかったが『薄情な奴らめ』と思っていた。そして、負けが明らかなのが分っているのに天雲武達とケンカになるのだ。
「生意気なんだよ!お前は、いつも負けるくせに」
「うるせぇ!気にくわねんだよ。だいたい何時も五対一とは卑怯じゃねぇか。一対一で出来ねぇのか」
「何だと、いつでも相手になってやる。だが、今じゃないんだよ」
「上等だ!」
天雲武は仲間のショウやジュン達に合図すると一斉に直矢を取り囲み掴みかかった。もみ合いになる中、五人の手や顔を幾重にも重なるように見える。視界に入らない所から蹴りや手が出ていて、背中や横腹に痛みが走る。手は二、三人の相手とつかみ合いになり、もみ合いになっている為、思うように動かせない。そのうち一人が直矢の首に手を回しヘッドロックしてくるともう直矢にはどうする事もできずやられる一方になるのだ。
「きたねぇぞ!」頭を締め付けられ声が思うように出せない中、ありったけの声で怒鳴る。
「うるせぇ!、やっちまえ」と誰かが言った。こうなると後はやられる一方となる。床に這いつくばり武達からの蹴りに防御するのが精一杯だ。頭を蹴られないようにと貝のように丸くなる。武達の蹴りも見えなくなっていた。
廊下でそんな事をしているとさすがに誰かが職員室に通報したらしく数名の先生達が「こらぁ!やめろお前達」と駆けつけてきた。五人はそれを察知するとすぐ「来たぞ。逃げろ」と言って走り去るのだった。それでも毎度毎度の事なので面が割れているものだから五人はその後すぐ捕まり、別室にしょっ引かれ説教を喰らう。ところがその中に天雲武が居るものだから先生達はいつも言いようにあしらわれてしまうのだ。
瓜生直矢はと言うと何時も彼らが立ち去った後、床に転がっていて、それを見つけた先生に起こされる。大抵その時の先生は担任の藤堂先生と決まっている。
「また証拠にもなくやられてるのか、お前は」と少々あきれ顔に床の埃を拭き取ったような制服の埃を払いながら藤堂先生が起こしてくれる。「大きなお世話ですよ。先生」と吐き捨てるも、それでもけじめはけじめとして瓜生直矢も藤堂先生の社会準備室に連れていかれ、そこで小言を聞く羽目になるのである。藤堂先生の社会準備室は多目的室の隣にあって本来は予備室なのだが余りにも本や資料が多いため使わせて貰っている暗黙の部屋だ。準備室に連れ込まれると、
「お前ら顔を合わすたんびにケンカばっかりしやがって、懲りないなぁ」と呆れたもの言いで始まる。
「あいつらが先に手を出して来たんだよ!先生」と何時もの様にふて腐れて答えた。
「あっちもおんなじ事言ってるよ」とヤレヤレと言った感じでイスに座るようにと先生は手で合図した。直矢はいつもの事なので何も考えず近くにあるイスを引っ張り、腰掛ける。脇腹に少し痛みがあった。準備室には藤堂先生の私物が山積みになっていて。学校の物も溢れていたがどこから何処までが学校のもので、何処からが私物なのかが分らないありさまだ。瓜生直矢は全く興味がなかったがどうやら歴史書の類いが置かれてあって平積みされた書籍の山の中には頁が開かれたままのものもあり、遠目で見ても埃が積もっているのが分った。それを見ると直矢はいつも「相変わらずきたねぇな」と思うのだが言葉に出す事はなかった。いつか「汚いなぁ」といって埃を払おうとしたらえらく怒られた時があった。「その文献は貴重なんだ。触るな」と、ケンカで怒られるよりも怖かった事があったのでそれ以来言う事はない。
窓際に机があって、そこも本で埋め尽くされていたがパソコンと文献を広げるスペースが辛うじて必要分だけ確保されている。机の脇には小さなテーブルがあってその上にはコーヒーメーカーやカップ類、そして珈琲豆や砂糖などがあって、藤堂先生はそこで珈琲を入れながら直矢に話した。
直矢の目の前には大きなライトテーブルがある。それを取り囲む様に数脚の形の違うイスが置かれている。藤堂先生が言うには古い地図を見る時や系図を見る時に役に立つと言っていた。そう言えば以前準備室に入った時藤堂先生がこのテーブルの上に何やら古そうな地図を広げていた時があったのを思い出した。そのテーブルの上に藤堂先生は直矢に入れた珈琲を置く。そして自分は自分のマグカップに珈琲を注ぎその香りを確かめながら珈琲を啜るのだった。それを見て直矢も「頂きます」といって一緒に飲むのである。珈琲と言うものを頻繁に飲むようになったのはここに来るようになってだろうか?。初めは全く旨いと思わなかったこの飲み物が今では当たり前に飲めている。おまけに香りまで嗅ぐ有様だ。それだけこの部屋に来ていると言う事なのだろう。すると藤堂先生はゆっくりと話を始めた。
「先生達もいろいろ考えてだなぁ、対策を出した」と訝しげに言った。
「対策?」
片手にカップを持ちながら机に寄りかかり、上から直矢を見下ろすように「そう。今度、天雲武をうちのクラスに編入させる事にした」
その時、直矢は藤堂先生はあまり乗る気ではないように感じたが、先生が続けて「向こうの担任も手を焼いていてな。本当はあいつらにも非があるのは分ってるんだが、どうも言いくるめられてしまってな、あっちの先生もなんなんだが……。それで五人全員をと言う訳にはいかないから取りあえず中心核の天雲武だけをうちのクラスで引き取る事にしたんだ」
「冗談じゃないぜ、先生。あんな奴と一緒に居られるかよ。第一それこそ毎日あいつとケンカになるじゃないか」
直矢は藤堂先生からその話を聞くと沸々と血が逆流するような感じがした。そもそも一年の時、あいつらと同じクラスになったのがきっかけでケンカするようになったのだ。それでも一年は我慢した。二年に上がった時、直矢だけは他のクラスになる。これであいつらと顔を合わす事も無くなるだろうと思った。ところが二年になるとあいつは五人で結託しはじめ、授業意外のところでちょっかいを出すようになったのである。一学期も半ばを過ぎ二年生にも慣れてきたところだった。今度は休み時間や昼休み、はたまた放課後にとトラブルを起こすようになる。直矢も授業がある時は落ち着いていて集中していたが彼らとトラブルになるとその後は情緒が不安定になる事が見られるようになっていて、授業中ふて寝をしたり、授業をサボると言う事が増え始めていた。気がつくとクラスの友達からも敬遠され、浮いた状態になっていた。
藤堂先生は厳しいと言った類いのものではなく初め何処か頼りないような感じがしていた。ところが意外にも生徒からは受けがよくてクラスの感じは良かった。特に専攻の日本史に関しては一目置くところがあって、みんな先生の授業が好きだった。そう言う直矢も今まで歴史等と言うものは興味もなく年号を覚えるのが面倒くさいと思っていたのだが藤堂先生の授業を聞いているとあまり年号を意識する事もなくむしろその時代背景をイメージする事が出来るようになっている事に気づく。時系列をイメージ出来ると次第にそれに伴い時間軸を意識するようになっている。するといつの間にか年号も覚えていた。先生は言う。
「誰も過去を見た者はいないのだから、どんな風に感じても、想像しても間違いじゃないのさ。ただし、史実というのがあるのだからそれは踏まえなければならない。それに時代と伴に解釈や見解も変わっていて、それは今でも歴史が研究されている証拠だ。そして新しい解釈がまた生み出される。だから歴史は面白いのさ」
先生のそう言った説明には説得力があった。先生は年齢から言うと中年の域にさしかかっていて、髪はいつもボサボサで白いものが目立つ。身なりも今時と言うよりは古風でスラックスにシャツ、そしてベストやジャケットを着るといったもので、女子からするとおじさんぽいと証するものが当てはまる。でもまだ独身で本人は婚期を逃したと言っていた。
先生は直矢が事ある毎に問題を起こすと公然では厳しく接するのだが準備室に連れてくると怒る事もなく話し相手になってくれる。いつの間にか諭されていて直矢も落ち着きを取り戻していた。
ここでこうやっている時間は嫌いではない。本当は怒られているにもかかわらず。
それでも今日の一言には直矢も納得がいかない。「先生、オレ達が一緒になったら益々厄介になるんじゃないですか」
先生は珈琲を味わいながら一口含むと「どうかな?」クルクルとマグカップを回しながら先生は意味深げな一言を呟いた。
「瓜生の言っている事が正しければ先生は少し状況が変わってくると考えているんだよ」
「……」直矢は先生の言っている意味が理解出来ない。それでも先生は続けて言うのだ。
「天雲が陰で操っているならジュン達から天雲を引き離せばいい。天雲が指図しているのならな……」
「そんなの休み時間にいくらでも会うことが出来るじゃないですか」
「可能性はある。が、距離が問題なんだよ」
「距離?」
「そう、距離さ」と藤堂先生はまた意味深げに語る。直矢は先生に嘘を言っていないつもりだ。天雲武が直接自分にちょっかいを出してくる事はなく、大抵その取り巻きが何かしら仕掛けてくるのは常なのである。そして直矢はそれに乗ってしまうのだ。そうすると、そこから天雲武が出て来て、まるで打ち合わせしたかのように袋だたきにされてしまうのである。直矢はその事を思い浮かべていたがそれでもあいつと同じクラスになるのはとても認められる事ではない。すると沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。
「納得いかねぇ」と言うと直矢は珈琲を一気に飲み干すと立ち上がり「オレは認めないからな」と吐き捨てると準備室から出ようとした。その時藤堂先生が「ちょっとまて瓜生」と制止するも到底承服する事も出来ず直矢は準備室から飛び出した。そして廊下を駆け、教室には向かわず一目散に玄関に向かった。下足箱でスニーカーに履き替えるとそのまま校舎から飛びす。
自宅に戻ればすぐ先生が来るかも知れない。そう思った直矢は家とは反対方向に走った。そして駅を横目に踏切の方に走り、そして線路を渡った。
必死に逃げるといつの間にか大宮第二公園に来ていた。さすがにここまで来れば追って来ないだろうと思った瓜生直矢は公園内にある遊水池の畔に開けた土手があるのを思い出した。そこまでフラフラと歩くと土手にころげ滑るように降りる。そして斜面に寝転んだ。日差しがあるが風が心地良かった。透き通った青空を見詰めながらゆっくりと息を整える。まだ息は上がっている。
そのうち息がゆっくりと整ってくると血圧が下がっていくのを感じる。風が不規則に通り抜けて行く。風の音が消えると雲雀の鳴き声が聞こえた。すると無意識に目で追っていた。
初夏を迎えようとしていた池には数人の太公望が糸を垂れている。朝ニュースで「今日は夏至だ」と言っていたのを思い出していた。釣り人はおそらく鮒を釣っているのだろう。でも、釣れている形跡がない。日差しがあったが適度な風が吹いていてじっとしていれば心地良い。瓜生直矢はここでしばらく休む事にした。
天雲武が同じクラスに来るなど認められなかった。第一なんであいつはオレに絡んでくるのか分らない。いつも考えていた直矢は、その理由が分らず苛立ちを感じていた。先生にいつも聞かれる事だったから。
武とは中学になって同じクラスになった。あいつは隣のU小からオレはO小からU中に進学した。初めは愛想がいいヤツだと思っていたのが何時の日からか態度が変わっていった。妙につっけんとんになったなと思っていたら何かと嫌みを言うようになる。それに歯向かうとケンカになった。気がつくとあいつは仲間を作っていた。それはショウ達だった。次第にエスカレートし、終いには毎日のように顔を合わせると取っ組み合いになる。当時の先生はまだまだ新米の先生で直矢達を治める事が出来なくなっていた。そんな時クラスも学年も違う藤堂先生が直矢達の前に現れ一瞬で治めてしまったのだ。
二年になると藤堂先生が担任になり、天雲武達は他のクラスになる。瓜生直矢はクラスでは落ち着きを取り戻していた。やっと落ち着いて学校に居られると思った。実際クラスではなんの問題もなくクラスメートとも楽しく接していた。ところが、休み時間や昼休みになると天雲武達がやって来るようになる。そして、教室の外で絡むようになっていたのである。
そんな時でも藤堂先生は直矢の見方だった。そんな経緯があってか直矢は藤堂先生を信頼していた。
空を見ながら考えていたが答えは見つからなかった。それに天雲武が来たらどうなるのだろうか。直矢はこれからの事を想像していた。
そんな時だった。彼女を見つけたのは……。
何かを感じた訳でもない。寝っ転がりながら理由もなく直矢はふっと水門がある土手を見た。そこに一人の少女が立っている。直矢は上半身をゆっくりと起こすと少女を見た。直矢の所からは池の対岸になるため離れている。直矢は目をこらすとそこに制服姿の少女が立っていではないか。それを不思議に思ったのだ。
この時間帯にこんな所に居るなんて、何処の子だろうか。自分もふさわしくないのは承知の事だ。だから同じ様に平日の昼前にこんな所に居る彼女が気になった。それに気になったのはそれだけではない。
彼女はそれまでクラスの女子など全く気にもしていなかった直矢の好奇心を揺さぶった。その立ち姿が魅力的で、どんな顔をしているのだろう。と、その素顔を見てみたいと興味をそそった。横顔が見えた時はドキドキする。それは今まで気付く事もなかった感情で単に女性だからと言うものだけではなく、何処か謎めいたその立ち姿に魅了された。
こっちを向いてくれたら……、でも目が合ったらどうしよう……。池の対岸から直矢はそんな事を思いながらその少女に見入っいた。
彼女は川下の方を見ていたが、一点だけを見ているのではなく、時々横顔が見えると言う事は視線を至る所に変えているのだろう。もしかしたらこっちを向くかも知れない。そんな期待感をいつの間にか持っている事を認識していた。そしてそんな期待に応えるかのように彼女の上体が動いた。
―彼女がこっちを向いた!―
慌てて直矢は彼女が自分の視線に気づいたのではと思ったので、直矢は思わず視線を反らしたが、その時、一瞬彼女の顔が見えた気がした。でも離れていた事でもあり、ハッキリとは分らない。でも彼女は笑っていたような気がしたのだ。まるで直矢が視線を送っていたのを初めから分っているかのように……。
それも直矢を夢中にさせる。興味を抱かせる理由の一つになった。直矢はそれでも視線をまた土手の方へと向けると、そこに彼女の姿はない。時間はそんなに立っていないのに……。水門の位置からすると上流か下流かに歩いていればまだ近くに居るはずなのに。ところが彼女は姿を消した。
何処に行ったのだろうか。目を背けた一瞬に居なくなる事などあり得ない事だ。直矢はスクッと立ち上がると辺りを見回した。そして一つの事を想像した。もしかしたら土手から落ちたのでは……。直矢は慌てた。思わず今居る所から彼女が立っていたところまで駆け寄った。
彼女の居た所で直矢は辺りを見渡したが彼女は居ない。息が整うのと合わせて慌てた感情が落ち着いていく。同時に何処か失望感のようなものを感じていた。直矢は考えた。彼女は誰なのだろう。直矢は考えた。彼女は初めから自分が見ていた事に気づいていたのだろうか。直矢は考えた。あのほほ笑みには『初めっから気づいていた』そんな感じがした。なんでここに立って居たのだろうか。彼女が立って居た所から彼女が見ていただろう景色を見る。
何処に消えたのだろうか。失望感が走る。同時に彼女は多分、美人に違いないと意味もなく思う。美人にも人によって定義があるだろうけど、自分の感性は人並みだと思っている。
直矢はもう一度彼女に会ってみたいと思った。でも、彼女を探す当てもない。手がかりとなる制服もどこの学校なのかも分らない。何処から来て何処に消えたのかも、分らない。探しようがなかった。
瓜生直矢は彼女が見ていたその景色を見ながら思いを膨らませていた。
直矢は学校が嫌いなわけではない。勉強は得意不得意とあったが小さい頃から慣れ親しんできたからか余り抵抗がない。だからといって特別出来る方でもなく科目によってバラツキがある。それは自覚していた。興味がでると急にのめり込む。そんな性格をしている。嫌いなものも徹底している。でも、授業の時は不思議と集中出来た。不得意な科目でも何となく理解出来ると満足する。でもそれ以上は求めない。
そんな性格なものだから何処に行くと言う当てもないまま昼を過ぎた頃、直矢はのこのこと学校に戻った。五時間目の終わりを見計らって教室に戻る。「どこに行ってたんだよ」と声をかけられるも、直矢が視線を合わすとそれ以上は聞いてこなかった。唯一、一人を別にして……。威嚇しているのではない。どうも誤解されているようだと直矢は思ったが。直矢が気づかないが表情がこわばっているのかも知れない。給食を食べそこねた為か、お腹が空いて力がでないし、やる気も削がれていた。六時間目が始まるろうとしたその時、国語の先生と一緒に藤堂先生が教室に入って来た。
誰かが先生に連絡したのだろう。心当たりがある。先生は教室に入るなり「瓜生、ちょっと来い!」とトーンの低い声が響いた。
直矢としては想定していたのでさして驚く事もなかった。先生は駆けてきたのか少々息が上がっているようだったがさすがに日に二回目ともなると若干語尾が強く感じる。それでも直矢は臆する事もなく「はい、先生」とイスから立ち教室の後ろの戸から出た。
再び社会科準備室に戻ると
「人の話を最後まで聞かないで飛び出しやがって……」あきれ顔で呟くと「期の途中で移動させると言うのは本来出来ない事なんだが、事が深刻化していると先生は考えたんだ。それに、向こうの担任はまだ経験が浅いから、先生の方で提案した」
一方的に話し始める。
「先生が?」と尋ねると藤堂先生はゆっくり頷く。「その代り、天雲だけを引き受ける。ジュン達は他の先生達でお前にちょっかい出さないようにしてくれと言ったんだ。要するに交換条件をだしたんだ」
「……」
「お前さんとしては納得がいかないだろうが、先生はあくまでも瓜生の言っている事を信じているから考えた事。まぁ、しばらくはいざこざもあるだろうけどそれも考えてある」
「どんな事ですか?」
「それは言えない。言ったらまた揉めるからな」と笑いながら藤堂先生は言った。
直矢としては納得いかないところもあったが、さすがに午前の時よりは落ち着いて聞く事が出来た。先生が考えていると言う手が気にはなるが、先生が自分をはめるような事はしないだろうと考えていた。それよりも、さっきの土手で見かけた彼女が気になっていた直矢は先生の話も半分で、時々彼女の事を考えていた。そして思わず、
「この辺で緑色をした制服の学校ってありますか?」
「緑色?高校か!」
「多分……」
少し先生は考えたが思い当たる所もなく「知らんな。何でだ?」
「いや、公園で制服姿の女子を見かけたものだから……」と少し言いずらそうにしていると「美人だったか」と唐突に聞いて来るので思わず返す事も出来ずにしどろもどろになると先生は少し勘ぐるように
「瓜生もそんな年になったと言う事だな」
「違いますよ。学校を飛び出して公園に居たら、見かけたから。オレだって目立つのに珍しいなっと思って……」
藤堂先生はまぁいいと言った様子で「お前あんな所まで行ってたのか」
「だって、家に帰ればすぐ捕まるだろうし、ステラ(ステラモール)に行ったら補導されるかも知れない。金持ってなかったからJRにも乗れないから裏をかかなきゃっと思って」
「大宮公園か」
「第二公園です」
「あっちまで行ってたのか。それじゃ見つからない訳だ」と益々疲れが増したかのように言った。
先生の言う事を信じるしかなかった。天雲と同じクラスになる事に憂鬱感があったが考えて見ればあいつが一人になったらどうなるのだろうか、それでもちょっかいを出してくるのか興味はある。直矢は考えた。
朝、学校に着く。上履きに履き替えたが教室に進む足取りが重かった。教室の入り口が見えると少し緊張する。それでも平静を装いそのまま教室に入った。すると、目の前に白いものが急に現れ頭に当たる。それが紙を丸めたものだとすぐ分ったのだが意表をつかれ避ける事が出来なかった。
『やられた!』
「よお、相変わらず鈍いな。直矢」
天雲武がニヤニヤしながらこっちを見ている。いきなり先制攻撃とは予測していなかった。足元に転がった紙の玉を見た直矢は何故かその挑発に乗る気分ではない。首を上げ直矢は武を睨む。「やる気か}と天雲武が席で身構えるが直矢はそのまま自分の席に向かう。
「どうした、直矢。何時もの様に突っかかってこないのか」とニヤニヤしている。
「お前の相手する暇なんかないんだよ」
「何だと」
天雲武は何時もと少し様子が違う直矢に戸惑うも直矢がそのまま自分の席に着いてしまったのでそれ以上は何も手出しを出す事が出来なかった。直矢としては何時もの様に相手になってもよかったのだが藤堂先生に事前に釘を刺されていたのだ。
『いいか、瓜生。天雲がちょっかいを出しても相手にするなよ。思うつぼなんだから。お前が手を出さなければ相手も手を出せないんだからな』
直矢は黙って聞いていたが正直その時はとても承服する事は出来ないと思っていた。それでも先生は言うのである。
『一度手を出してしまえばあいつの思うつぼになってしまうから……。そうするとその後もちょっかいを出してくるだろう。初めに相手にしなければ相手も手を出しにくくなる。分ったな』
直矢は「分った」と渋々約束していたのだ。
直矢は何時もより遅く教室に入ったので、すぐ始業のベルがなる。そして藤堂先生がすばやく教室に入ってきた。打ち合わせ通りだ。
朝会が終わると藤堂先生は教室を出て行った。一時限目は国語の時間で先生が来るまでの間少しクラスの中がざわつく。天雲を知る者は武の所に行き話をしている。特に女子が多かった。直矢が窓際に居たとすると武は廊下側に居た。でも何故か同じ列なので横を向くと武が見える。「なんで同じ列なんだよ」とむくれていると「こら、なにそんなにむくれてるのよ」と神月侑來が声をかけて来た。
「何だよ。関係ないだろ」
「大ありよ。あんた達が暴れればみんなに迷惑が掛かるんだからね」
「そんなのあいつ次第だって言ってるだろ」と面倒くさそうに返すと
「直矢にだって問題あるんだか言ってるのよ」とからかうように言うものだからつい直矢も返し言葉で対抗してしまう、考えてみれば今まで一度も目の前に立っている神月侑來に口で勝った事がない。神月侑來は事ある毎に直矢にお節介をやいていた。もしかしたら今回の事も神月侑來が先生に連絡したのかも知れない。それで事が大きくならないで済んでいたのかも知れなかったが直矢としては大きなお世話で、何かと小言を言って来るものだから少々面倒くさいと思っていた。でもその反面、クラスのみんなが距離を置くのに神月侑來だけはそれがない。むしろ非常に近くに感じる時もあり直矢には兄姉は居なかったが、もし居たとしたらこんなのだろうかと思う時もあった。「なんでオレなんかに」と感じる事があったがそれを聞く事もない。でも、いつも神月侑來を煙たがっている訳ではなかった。それに、正直今まで神月侑來を女性として意識する事はなかった筈なのに、今日は神月侑來に昨日の彼女を重ねて見てしまった。直矢は思わず我に返ると少し恥ずかしそうに下を向く。それに神月侑來が気づいてか「どうしたの」と聞くので何でもないと答えるのが精一杯だった。
授業が始まると直矢は少し今の続きを考えていた。神月侑來は中学一年の時、越してきた。クラスが違っていたが直矢と武達がケンカをしていると何故か神月侑來が止めに来る。そして、先生に連絡するのも神月侑來だ。そして直矢達が先生に説教を喰らう時にも侑來が居る事が多く。直矢達のお目付役になっていた。なんでそんなお節介をやくのだろうと直矢は思う反面、侑來のおかげで命拾いした事も度々だ。
何でも島根から越して来たと聞いている。しゃべり方のイントネーションが変だと思う時があるが今では殆ど気にならなくなっていた。方言がよく出て伝わらない事があると自虐ネタにする。今ではすっかりみんなに溶け込んでいて昔から居たような気がしてならない。侑來は直矢と武の間に座っている。これがどう言う意味をしているかと言うと武が直矢に直矢が武に何かしようとしても侑來が居る。侑來の目が絶えず光っている事になるのだ。だから、初日とはいえ、至って授業が平穏に進んだ。武も静かに授業を受けている。それに、休み時間になるとクラスの女の子達が天雲武に詰め寄るものだから直矢にちょっかいが出せないでいたのである。考えて見れば、天雲武は女子に人気があった。容姿も端正で、直矢も負けていないと思ったが、武の方はすでに百六十センチ以上あって女子達と並ぶと背が大きくなっていた。それには負けた。今は……、それに中間テストが終わった後の編入でもあったので武が勉強が出来る事も知れ渡っている。これも負けていた。アイツは学年でもトップクラスで弁も立つ。だから先生としてはその言葉に言いくるめられるケースが多かった。ただし、藤堂先生を抜かしてではあった事が救いだと感じている。それにスポーツも万能だ。集団競技では常に中心で武と組むと勝てると言うジンクスまである。それに比べて直矢はスポーツは苦手。勉強は中の上位。見た目は悪いとは思わないがまだまだ背が低い。これは成長期に入っているからすぐ追いつくか。直矢は改めて自分と天雲武を比べて自分が不利である事を認識する。
『藤堂め!』
勝手にふて腐れ、教室の窓から中庭を眺めていた。それよりも今まで侑來を意識した事がなかったのに少し気になる存在になっている。改めて見るとまんざらでもないのだ。いや、可愛いのだ。何時もキツいヤツだと思っていたのだが違う側面が見えたような気がした。背丈はやっぱり直矢と同じか大きい位で体格は細く。それは昨日の彼女と比べてなのだがどちらかと言えば華奢だ。でも、元気があってバネがある。かと思うと目立つ存在でもなく、それでもいつの間にか溶け込んでいるような不思議な存在だ。顔立ちは比較出来ないが(昨日の彼女と)何処か同じ感じがした。最も比較する相手の顔さえよく分らないでいたのだから、ただそう感じただけなのかも知れない。侑來が休み時間、他の女子と楽しそうに話しているのを見てそんな事を考えていた。とはいえ、昨日の事がやっぱり蘇る。
直矢はあの子を思いだしていた。どうしたら会えるのだろうか。そんな事をボーッと考えながら一日を過ごしてしまった。気がついてみると武には朝絡まれてから何もなかった。武は武で今日はクラスの子にチヤホヤされて上機嫌でいたようだ。至って平和な一日を過ごしたのだなぁと終わってみて気がつく。だけど反面、実に入らない一日を過ごした事になる。直矢はあの土手の上に立っていた彼女の事を考えていた。
二話へつづく