2話・突然の死闘
出来るだけ身体を動かさず、首だけを向ける。
身長は子供程度。
肌は緑色でボロ布を服のように纏っている。
手には血の付いた刃物。
間違いない……さっき人を襲っていたゴブリンだ。
よく見ると窓硝子が割れている。
まさか、強引に部屋へ入って来たのか!?
屋内待機は全く安全じゃない。
寧ろ、逃げる場所が少なくて危ないまであるぞ。
いや……物音に気付けて無かった時点で、俺の落ち度か。
「グゲゲゲ……!」
ギラリとゴブリンの瞳が光る。
口元を三日月のように歪めていた。
その表情は捕食者のそれ。
蛙を前に舌を出す、蛇の姿。
恐怖で体が震える。
当たり前だが、人は刃物で刺されたら死ぬ。
先程目の前で披露されたばかりだ。
嫌だ、死にたくない……!
弱い心を無理矢理に奮い立たせる。
動け、俺の四肢。
このままジッとしていても助からないのは明白だ。
なら、足掻け。
死ぬ一秒前まで生存を諦めるな。
「……く、おおおおおっ!」
「グゲッ!?」
洗面所にあった小物類を無造作に投げつける。
俺の咄嗟の抵抗に、ゴブリンも虚を突かれたようだ。
その隙に台所へ走り出す。
持ち出したのは、勿論包丁。
ナイフなどの格好良く、都合の良い物は無い。
この包丁で戦うしかないのだ。
「だあああああああああっ!」
先手必勝。
叫びながらゴブリンに突撃する。
勢いだけはある一撃。
当然、緊張が走る。
刃物で他者を傷付ける行為なんて始めてだ。
上手く力が入らない。
「ゲゲッ!」
ゴブリンは俺の一撃を飛ぶようにして躱した。
俺は居間に突っ込んで転ぶ。
元々運動は不得意な方だ。
そう簡単に攻撃が決まるとは、最初から思っていない。
「くっそお!」
「グゲゲ!」
起き上がる––––前に、包丁で背後を薙ぎ払う。
ガキンと刃物同士がぶつかる。
言うまでもなく、ゴブリンの刃物だ。
ゴブリンは既に刃物を振り下ろしていた。
ゾクリと悪寒が走る。
今は偶々、相殺できた。
もし僅かでもズレていたら、俺は刺され死んでいただろう。
当たり前の事実が恐ろしい。
今になって、実感が湧いてくる。
自分は今、殺し合いをしているのだ、と。
「……意味分かんねえよ」
ほんの数十分前、俺はいつも通りに眠っていた。
それがどうして殺し合いなんぞしている?
日常が壊れるにしたって、もう少し緩やかでいいだろう。
急転直下のジェットコースターは苦手だ。
モンスターもそう。
人を襲うのは、捕食の為なのか。
話し合いで解決出来たりなんて……
「グゲゲエエエエエエッ!」
まあ、無理だよね。
ゴブリンは雄叫びを上げながら飛びかかってくる。
凄いジャンプ力だ。
俺の身長を軽々と超えている。
だけど、そのジャンプ力が仇になった。
「グゲッ!?」
ガツンと天井に頭をぶつけるゴブリン。
そう、ここは屋内だ。
外の世界とは違い、上空にも制限がある。
もしかしたは、知能はそこまで高くないのかも。
とにかく今が好機、チャンスだ!
頭を抑え蹲るゴブリンに、狙いを定める。
一撃、たった一撃でいいのだ。
心臓か、首か、頭か。
急所を突き刺せばそれで終わり。
人型の生物を殺すのに戸惑いはある。
だが、罪悪感を抱く必要は無い。
殺さなければ、俺が殺される。
そして俺はまだ死にたくない。
なら、答えは一つだけ。
自分が生き残る為に、他者を蹴落とす。
人間という種族の得意分野だ。
弱肉強食……俺は別に強くないけど、勝って生き残った方が強者になれるのなら、俺は殺す、誰でも殺す。
自らの命がかかっているのなら……!
「うおわああああああああっ!」
両手で包丁を握る。
高く持ち上げ、勢いよく振り下ろす。
数秒後、嫌な感触が包丁から伝わってきた。
包丁の刃先はゴブリンの頭部にめり込む、沈む。
ずりゅりと刃が半分以上、入り込む。
緑色の血液が、ゴブリンの頭から流れる。
言うまでもない。
ゴブリンは断末魔すらあげずに、死んだ。
奇しくも、先程自ら人間を殺した方法と同じように。
「……」
初めて、殺意を持って生物を殺した。
本当はこんな事、したくないのに。
死の恐怖は消え去った。
代わりに、他の感情が覆い尽くす。
罪悪感……では無いのだろう。
そんな責任を持てる程、俺の器は大きくない。
勝利の喜びでもない。
何だろう、これは。
言葉で上手く説明出来ない、嫌悪感。
黒く粘ついたタールのようなモノ。
べっとりとこべりついて、剥がれない。
超えてはいけない一線を、超えた。
命を殺めるというのは、そういう事なんだろうか。
ダメだ、いつまでも落ち込んでいられない。
今、世界中でモンスターが溢れんばかりに出現している。
このゴブリンだって無数にいるのだろう。
きっとこの先、もっと沢山の命を奪う……その時、一々感傷に耽っていては、身が持たない。
それに、こうしてる時間も勿体無い。
屋内居ても危険なのは理解出来た。
ならどうやって身を守るのか。
これには幾つか選択肢がある。
一つ、このまま屋内に待機する案。
二つ、外に出てもっと籠城に向いてそうな所を探す。
三つ、外に出て自ら救援部隊に助けを求める。
四つ、外に出て自分の力で生き残る。
最初の一つ、二つは籠城だ。
政府の言う通り待機して、救助を待つ。
ただ、どの道一つ目の案は却下だ。
籠城するには何もかも足りていない。
食料は殆ど無いし、ついさっき窓硝子を割られたばかり。
そうなると二つ目が現実的。
こういう時に役に立ちそうなのは……学校か。
学校なら門もあるし、壁もある。
近隣の人達も集まって来るだろうから、人手も多い。
何より沢山の人が居るから心細くない!
三つ目は、自ら救援部隊に助けを求める案。
ただこれは避けたい。
救援部隊、恐らく自衛隊だが、彼らは果たしてあのモンスター達を退ける事が出来るのだろうか。
確証は今のところ、無い。
自衛隊の基地はあるが、自宅からかなり離れている。
最悪のパターンだが……基地がモンスターに襲われ、既に壊滅状態でした、なんて事もあり得る訳で。
だから助けを待つのも却下だ。
如何に日本の自衛隊が優秀でも、日本全国の国民を即座に救出する事は時間的、人員的に不可能である。
助けを待っても、その助けがいつ来るか分からない。
優先順位もあるだろう。
この辺りの地域に、いつ助けが来てくれるのか……
四つ目は最後の手段だ。
助けを待つ事も出来ず、協力出来る人達とも出会えず……外を彷徨うような事態に陥った場合。
死亡確率が最も高いと言えよう。
ゴブリンを倒せたのは、ただの偶然。
もう一度やれと言われても難しい。
人一人の力なんて、たかが知れている。
それに俺はただの大学生。
こんな時に役立ちそうな技能や知識を持っていない、至って平凡な何処にでもいる学生だ。
得意な事と言えば、ゲームくらいか。
「あれ……?」
そこでふと気づく。
俺はゴブリンを殺した。
なのに、その死体がいつの間にか消えている。
床にはゴブリンを刺した包丁だけが転がっていた。
ど、どういう事だ?
室内を隈なく探す。
実はゴブリンが生きていて、こっそり逃げ出した……いや、俺は確実に脳を突き刺した。
証拠に包丁には緑色の血が付着している。
もう一度目を凝らす。
すると、ある物を見つける。
ゴブリンの死体があった場所に、紫色の小石が落ちていた。
子供じゃあるまいし、小石を部屋に持ち込んだ記憶は無い。
じゃあ、いつからこの部屋に……?
訝しげに小石を見る。
気づいたら手が伸びていた。
紫色の小石を拾い、間近で観察する。
所々濁っている、半透明の石だ。
宝石のようにも見えるが、その割に輝いていない。
原石と言われれば、そうとも見える。
これと言って特徴の無い小石だ。
こんな物、いつ何処で。
そう思いながら小石を机に置こうとした瞬間。
僅かな間、小石が紫色に光る。
そして––––
「な……なんだ、これ!?」
俺の視界に、まるでゲームのメニュー画面、ステータス画面のような文字列が映し出されていた。