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姉の旅立ち  作者: ENO
第1部 京都の大学生
9/57

9  口笛男 (1)

 時刻は八時三分。まだ駅前のショッピングモールは開いている。なにか買いものでもしていこう、そう思い、私はショッピングモールへ入っていく。

 お金に余裕がない状態でショッピングモールをうろつく場合、私はたいてい本屋に入る。本屋なら、好きに本を立ち読みでき、それなりの時間も潰せる。気に入った本があれば、財布に余裕がなくても一冊くらいは購入できるだろう。そんな理由で、私はモールの三階にある本屋に向かう。それから、あともう一つ理由はある。

 姉が、その本屋でアルバイトをしているのだ。家に籠りがちで、社会に縁遠い姉が唯一社会参加している場所が、このショッピングモールの本屋だった。

 お客さんだけでなく、バイトの同僚たちにまでおどおどきょどきょどしてんねやろなあ。

 私はそんな残酷な想像をする。そして、その想像通りに姉が振る舞っているのかを見たくて、本屋に向かうのだ。趣味が悪いのは百も承知だった。

 エスカレーターを使って、苦もなく三階へ上がった。視界の右には、もう書店が見えている。ショッピングモールにありがちな、中規模書店である。幅広いジャンルの本をそろえているが、丸善やジュンク堂ほどの品ぞろえはない。書店に入るなり、周囲に見渡し、姉の姿を探す。だが、姉はいなかった。もしかしたら死角にいるのかもしれないし、バックヤードに引っ込んだのかもしれない。

 文庫本コーナーをうろつきながら、半ば本を探し、半ば姉を探す。大学二回生の秋。進路もそろそろ気になってくる。文庫本コーナーから就活本や公務員試験本のコーナーに自然と足が移っていた。

「どうなってんねん、この店は」

 突然のことだった。怒声が、店内に響き渡った。その声の大きさと、声に滲んだ強い怒りのおかげで、店内は一気に凍りつく。誰もが手を止め、足を止め、声の上がった方向を見た。

 私のいる位置からは、声の上がった場所が見えない。背の高い本棚に邪魔されている。私はその場から少し動いて、なにが起こっているのか確かめようとする。

 男性向け雑誌のコーナーで、男が女に詰め寄っている。

 女。化粧っ気のないその顔は、暗く、強張っていた。まるで脅威から身を守るかのように、肩を萎ませ、顔はやや俯かせている。長い黒髪を、うしろで一つに束ねていた。ひどく地味な色をしたリボンで髪を束ねている。

 私の、姉だった。

 私は、二人の姿を見た瞬間にぎくりとする。これはまずい。本能がそういっている。姉に対してというより、男の方に対してだ。

 あのおっさんは、やばいで。

 私は思わず呟いた。姉が、危険だ。

 姉と向きあっていたのは、四十代くらいのサラリーマンだった。白髪がかなり混じった七三分けの髪型で、眼鏡をかけている。目が大きく、頬がこけているせいか、蟷螂のような印象を受ける。男の目は血走り、ぎらぎらと怒りに燃えていた。その肩は時折呼吸にあわせて上下に動く。男の顔は、やや赤みを帯びていた。どうやら酒が入っているらしい。そのためか、男の放つ空気には、尋常ならざるものがあった。怒気や殺気だけでなく、なにをしでかすかわからない凶暴さを、男は漂わせている。傍観している人間にまで、それがぴりぴりと伝わってくる。

 あかん。なんとかせな。

 そう思っても、体が動かなかった。この凍りついた場の空気に、私も呑まれていた。誰も二人の間に割り込もうとしない。姉の同僚たちも、他の客も、私と同じように凍ったようになっている。

「おい、答えろや。どないなっとんや、この店は?」

 男は叫ぶ。

 姉は男を直視することができず、顔を俯かせ、弱々しく声を発する。

「…すんません」

「すんませんやあらへんやろ。俺はどないなっとんねんてきいてるんや」

 男が声をあげながら、一歩進み出た。

 姉の体がびくりと震えた。

「…すんません、あの、本の表紙が破れていたのは、たぶんいろんな方が立ち読みをされてそうなったんやと思います」

「ほいで、在庫はあったんかい?」

「…それが、ただいま在庫は切らしておりまして、他のがない状態なんです」

「せやったら意味ないやろ。この本屋は、客に表紙の破れた汚い本を売りつけるっちゅうんか?」

「いえ、決してそんなつもりは」

「そんなつもりありありやろうが。見え透いた嘘つくなや」

 男は大音声で怒鳴った。

 姉は、惨めな表情でそれを受け入れるしかなかった。八の字になった眉。いまにも泣き出しそうな顔。

「…すんません」

 姉はそういって、頭を下げた。

 男の手には、とある単行本が握られていた。その表紙の左斜め上から真ん中の部分にかけて、なにがあったのか破れがあった。男はそのことに対して、姉に苦情をいいつけているらしい。

 見ていられない。酒に任せて、女に絡んでいるだけではないか。私はそう思った。たかが一冊の本だ。綺麗な状態のものを買いたければ、他の書店にいけばいいだけだ。なぜ、ああも怒鳴り立てる必要があるのか、私にはわからない。

「なにがすんませんやねん。お前は敬語も知らんのか。すんませんやなくて、申し訳ありませんやろが。この店にして、この店員か。なんちゅう店やねん、ここは」

 男は吐き捨てるようにいった。

 今度は言葉遣いかい。

 私は、臍を噛むような思いになる。姉は確かに言葉を知らない。人に謝る時、申し訳ありませんよりもすんませんという言葉が先に出る。品のある言葉遣いではない。だが、決して姉に悪意があるわけではないのだ。

「…も、申し訳ありません」

 たどたどしく姉はいう。まるで初めて言葉を発した幼子のようだ。

 その様が、男の怒りをさらに燃え上がらせる。男の表情がさらに凶暴になった。

「くそっ。店も店員も話にならんわ。ええ加減にせえよ。こっちは客やぞ」

 男は吠え立てる。姉が幼子なら、男は犬のよう。

「おい、きいてんのか? 客に対してなんちゅうサービスをしてんねん」

 胸倉を掴むような勢いで、男が迫る。

 はよ誰か助けてや。店の正社員とかはなにしてんねん。

 だんだん私も焦り、苛立ってきた。動かない店の責任者、姉の同僚たち、他の客、そして私自身に対して、怒りを覚える。なぜ、私は動かない、動けない。

 姉は哀れにも怯えるだけ。もはや声も出ない。

 あかん、もういかなあかん。

 私が意を決し、二人に介入しようとした瞬間、男が先に動いた。

「この、馬鹿野郎が」

 男は、片手に持っていた単行本を床に叩きつけた。鈍い音もしなければ、鋭い音もしなかった。ただただ痛々しい、ばさっという音が店内に響くだけ。それだけで、店は死んだように静かになる。

「もうこんな店で本なんか買うかボケ。ええ加減にせえよ」

 それを捨て台詞にして、男は店から出ていった。やはり、足が少しふらついている。

 姉は、身体を硬直させていた。ここまで人に怒鳴られることを経験していなかったためか、人形のように身動き一つしない。本来なら、怒りや悲しみを堪え、ぐっと頭を下げて客を見送るべきなのだろう。だが、姉は衝撃のあまり立ち尽くすことしかできなかった。姉の目には涙が溜まっていた。決壊寸前の堤防のように、必死に涙を堪えている。

 それがわかった瞬間、私の中でなにかがぷつんと切れる音がした。直後に、猛烈な怒りがせり上がってきた。

 動かなかった足が、動いた。もう恐れもなにもなかった。ただ、行動するのみだ。


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