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姉の旅立ち  作者: ENO
第1部 京都の大学生
8/57

8  slow flicker

 窓の外には、月夜に照らされた無人の野が広がっていた。

 赤と黄色の電車は、駅から滑り出して数十秒で猛烈な速度を得、大阪に向かって線路上を疾走する。

京都市の南は、いまだ農地が多い。中でも、いま電車が走っている地域は、広大な農地が残っていて、夜になると、それこそ無人の原野に近い状態である。遠くには、巨大な物流施設や高速道路が見える。

 私はこの景色をみるたびに、虚しい思いに囚われる。なんという空虚な世界だろう。人が存在しない、闇と原野だけの世界。この世のなにからも見放されたかのような、寂しい景色だ。

 私は景色を眺めながら、回想に耽る。窓の枠にだらしなく腕を乗せ、さらにその上に頭をもたせかける。半ば眠りに落ちながら、過去を思い返す。

 叶わなかった初恋のこと、初めて付き合った男のこと、これまで付き合ってきた男たちのこと。

 うとうとしながら、指折り数えてみる。諒を入れて、五人。二十年で、五人の男と付き合った。たぶん同年齢の女の子と比較してみると、付き合った人数は多い方だと思う。一時期、私は男に飢えていた。正確にいえば、狂っていたのだ。

 高校二年生のころ、私はとんだ失恋を味わった。しかも、片思いの失恋だった。片思いの相手は一学年上の先輩で、互いに文化祭の実行委員を務めていたことがきっかけで知りあった。髪がちょっと癖毛気味で、物腰の柔らかな人。几帳面な性格でもあり、服装や髪はいつも整えられていた。他の男子高校生に較べると、そのときの彼はずいぶん大人びていた。私が彼に惹かれたのも彼のそういう雰囲気ゆえだ。同級生の垢抜けない服装や髪型に辟易としていた当時の私にとっては、彼は清潔感があり、お洒落で、きちっとした、まさに理想の男性に思えたのだ。そして私は、盲目的なまでに片思いにのめり込んでいった。実行委員会の会議を利用して、私は先輩と仲良くなっていった。なんとか私に関心を持ってもらおうと、これといった用もないのに積極的に話しかけたり、相談を持ちかけたりした。先輩の下校時間を見計らい、一緒に帰ったりもした。いまからすれば滑稽な努力だったと思う。そして、恋は実らなかった。理由は、先輩の受験だった。

 受験がある上に、彼女と会って、遊んで、彼女のことまで考える。自分の性格からすると、それってきついと思う。いま、こうして文化祭に関わってんのも正直きつい。本音をいえば、勉強に集中したい。母子家庭やし、母親にも迷惑かけられない。せやから、いま、彼女はあり得へん。

 デートを私から誘おうと考えていた、夕暮れ時の教室。会議が終わり、他の生徒が皆出ていって、二人だけで話をしていた、その時に、先輩からそういわれた。いま思えば、先輩は、私が好意を抱いているということに気づいていたのではないだろうか。なぜなら、その時の先輩の眼差しは真摯で、表情は真剣そのものだったからだ。

 やっぱりそうですよね、受験が一番大事ですよね。大事な時期に恋愛なんて、考えられないですよね。私も、そう思います。

 私は情けないほど取り繕った顔をして、そう答えることしかできなかった。

 そして、私の片思いは潰えた。そこからの狂い方は、尋常ではなかったと思う。先輩の受験が成功するまで、気長に待つなどという考えは浮かばず、ただただ恋が叶わなかった事実に打ちのめされ、私はおかしくなった。失恋して、数日後には、前から私のことを好きだといってくれた、けれど私にとってはどうでもよかった同級生と付き合った。精神的な不安定さから、失恋の痛みと寂しさから逃れたかったのだ。もちろん、やることもやった。だが、数か月で破局した。それから、二人、三人、四人と付き合った。受験だろうが構わなかった。必死に教科書と格闘しつつ、男にのめり込んだ。だが、それでも、皆短期間で関係は終わった。最初の失恋の影から逃れられなかった。四人目の彼氏との関係が終わったころには、受験がもう間近に迫っていた。それが、私にある意味での平穏を与えてくれた。男のことなど考える暇もなく、勉強せざるを得なかった。その本当の意味での受験期間で、私は失恋を冷静に、あたかも他人のように客観的に受け止めることができた。正気に立ち返ったのだ。落ち着いた状態で、なぜ先輩を好きになったのか、そしてその後の狂乱に陥ったのかを考えてみた。すると、自分でも驚くほど薄っぺらい理由で先輩を好きになっていたこと、後先を考えない浅慮さと呆れるほどの身勝手さでどうでもいい男たちに溺れていたことを理解し、愕然とした。初めて人に恋をし、振り向いてもらおうと努力をし、結果がつかなかった。今までの人生で、努力さえすれば、勉強、スポーツ、人間関係、あらゆることが上手くいくと思い込んでいた。私の中では、恋でさえ例外ではない、と思っていた。それゆえに、絶望感があまりにも大きかった。それが、その後の狂気の原因だった。振り返れば、あまりにも愚かだった。

 私は、そういう女だ。あのころの愚かしさは、苦い思い出となって私の心の奥深くでいまだ脈打っている。けれど、学んだところもある。もういまでは、失恋の衝撃も耐えられるだろうし、狂うこともないだろう。男の扱い方も、転がし方も、主導権の握り方も学んだ。私は、ただでは転ばない女だ。

 ふとした瞬間に、いまでもあの先輩の姿が浮かぶ。そのたびに、私は切なく、苦しくなる。泣き笑いのような表情を浮かべたくなる。あの先輩と、河原町や梅田にデートしにいきたかったな。ひどく苦いチョコレートを口にしたような、そんな気分だ。あの失恋自体は、いまとなってはいい思い出だ。

 諒とはどうなるのだろう。次に浮かんだ考えがそれだった。眠気で霞んだ脳内の映像に、今日四条の改札口で別れたばかりの諒の顔がふわりと紛れ込んでくる。もう一年以上も続いている。だが、この先も続くのだろうか。不安要素はあったろうか。いや、不安要素があろうがなかろうが、私は不安なのだ。別れゆく二人。凍りついた、諒と私の顔。そんな光景だけが、眠気の中で嫌にはっきりと見えている。

 電車が、ぐっと揺れた。急カーブに差しかかったのだ。電車がいつになく大きな悲鳴をあげた。スピードを出し過ぎたのかもしれない。

 それがきっかけで、私の眠気は消え去った。むくりと顔を上げる。半分寝ていた。いや、ほとんど寝ていた。額がやけにじめっとすると感じ、手を当ててみると、ちょっとだけ汗をかいていた。寝汗ではないか。

 電車はすでに宇治川を渡り、男山も過ぎ去り、私の住む街へと向かっている。駅前の高層マンションがすでに景色の中に入り込んでいる。

 あかん。変な昔話に浸りすぎや。

 私は独り言を零す。きっと諒とカフェで中高生のころの話をしたせいや。とりあえず他人のせいにしておく。

 電車のアナウンスが、車中に響き渡る。私の降りる駅名を連呼している。

 やがて、電車が駅のホームに進入する。私はバッグを片手に立ち上がり、扉が空いてすぐに電車から降りた。

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