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姉の旅立ち  作者: ENO
第1部 京都の大学生
7/57

7  BABY CALL ME NOW

 四限の授業が終わった。終業のベルが鳴り響く。高窓から射し込む陽の色が、少し切ない色に変わっていた。

 私はバッグを持ち、講義室を出た。いつにもまして今日の有価証券法の講義は面白くなかった。白地手形の話だけで九十分を使ってしまったことには、唖然とした。たかが未完成の手形の話で、そんなに語ることがあるだろうか。

 人波に紛れ、階段を下りながら、携帯を取り出す。画面には、どんなメッセージも浮かんでいない。諒からの連絡はない。

 夕日に照らされた窓の外の景色を見た。眩しくて、ひどく切ない。美しいと思うよりもまず胸が締め付けられるような気持ちが先にやってきた。

 昨日の晩、諒には四限後にお互いの予定が空いていれば会おうと伝えていた。もしかすると、サークルかなにかの予定が入ったのかもしれない。

 これからどうしようか、私はそんなことを考える。学部棟の一階まで下りた。このままサークルに向かおうか。

 どん、と肩に手が置かれた。

 私はとっさに振り向いた。

「ういっす」

 諒が、にこにこと笑顔を浮かべながら立っていた。相変わらず、人懐っこい笑顔だ。

「ちょっと、びっくりするやん」

 私はほんの少し眉を顰め、諒に向かっていう。

「ごめんて、ちょっとおどかしてみたかってん」

 諒は無邪気に答えた。

「ほんなら、私も諒をおどかしたるからな」

「おっ、いうねえ。俺はいつでもかかってこいやで」

「えらい楽しそうやん。本気でびっくりさせるし、覚悟しときや」

「おう、待ってるわ」

 そういいながら、私たちはけらけらと笑う。何気なく始まるこのどうでもいい会話が、私は好きだ。漫才でいう前振りのような会話で、決して意味があるわけでもない。だが、話しているだけで、くすくすと好きな男と笑いあえる。充たされた気持ちになる。

「…ほいで、これからどうしよか?」

 諒がきいてきた。

 私たちは歩きながら、とりあえず学校の東門の方へ向かう。

「ごめん、なんも考えてへん」

「おいおい、なんやねん。なんか行きたいとことかないの?」

「うーん、せやな。そしたら、三条でお茶したいかも」

「遠くない? 西院でよくない?」

「西院は諒の帰りが便利やからやろ。決めた。私は、三条で美味しいコーヒーが飲みたい」

「えーっ、四条にしいひん?」

「四条も帰りが便利やからやろ。はい、却下」

 私は冷徹に諒の戯言を切り捨てる。諒は通学に阪急線を使っている。だから、デートもたいてい四条に行きたがる。本音をいえば、定期でお金がかからない西院でお茶やご飯を済ませたいと思っているはずだ。だが、西院といえば、どちらかというと学生の飲み屋街だ。お洒落な店は多くない。それなら、四条や三条に出る方がよっぽどいい。

 私の頭の中で、さっそくデートプランが構築されていく。御幸町通のお菓子屋さんでお菓子とコーヒーを頂き、三条通をぶらぶらしてから、鴨川の河川敷に下りる。鴨川を眺めながら、二人で語り合う。プランを組み立ててみて、ひどくベタただと気づく。そしてなにより非効率だ。大学からのバスは、だいたい河原町三条に行き着く。つまり私のプランだと、一度河原町三条でバスを降りてから、御幸町通にいって、再び三条通に戻ってくることになる。それなら、御幸町通を下って四条通に出て、そのまま別れた方が諒のためにもいい。私はすぐに考えを改めた。

「とりあえず河原町三条まで出てみよ。そんでぶらぶらしながら四条に下ってこ」

 私は諒に向かっていう。

 帰りが楽になったので、諒は顔を綻ばせる。

「了解。ほな、とりあえず近くのバス停までいこか」

「うん」

 私たちはバス停に向かって歩いていく。大学の図書館の前を通り、校門を通り抜けた。校門を抜けた先には細い街路が続いていて、学生向けの飲食店や雑貨屋が軒を連ねている。バス停は、その街路が二つ目の大通りとぶつかったところにある。

 私たち二人がバス停に着いたころ、ちょうど河原町三条行のバスがやってきた。乗客はみな私たちの大学の学生ばかりだ。バスに乗り込み、揺られること三十五分。バスは御池通をひたすら東に走り、三条通りとぶつかったところで右折し、河原町三条に近づいた。

 私たちがバスを降りるころには、夕闇の色が濃くなっていた。三条通のネオンが輝き出す寸前である。この時間帯では、主に学生と外国人が河原町三条の交差点を行きかう。もう少しあとの時間帯になれば、サラリーマンの姿も加わるはずだ。京都は伝統の街といわれるが、実態はそうではない。むしろ学生と外国人のための街だ。三条や四条、寺町に京極、それぞれの通りにどれほどの学生と外国人観光客が溢れていることか。

 私と諒はくだらない会話を続けながら、御幸町通に向かう。三条通のアーケードを抜け、ちょっとばかし歩くと、都を南北に走る御幸町通にぶつかる。御幸町通には、おいしいカフェやお菓子屋さん、お洒落な服屋がたくさんあって、私は高校生のころからよく遊びにきていた。寺町や京極は中高生や観光客でいつも騒がしい。だが、その隣の通りである御幸町通や麩屋町通は閑静で、人も多くはなく、私は好きだった。

 御幸町通を四条方向に下り、錦市場がある錦小路通を越えて少し歩くと、私がよく訪れるカフェが見えてくる。諒の腕を引っ張り、あそこにいこ、と誘いかける。諒は、うんええよ、と答える。

 カフェに入り、席に着くと、私はミルクティーを、諒はカフェオレを頼んだ。この店には、前に一度二人できたことがある。ここは料理やお菓子よりもお茶が美味しい店だ。だから私たちは余計な注文はしない。

 飲み物を待つ間、ふと諒が、高校のころはよく寺町や京極にいってたけどなあ、と呟く。立ち並ぶ服屋を見て回り、ゲーセンや映画館をよく利用していたという。でも、大学入ってからは、あそこの通りのガキ臭さが鼻について、あんまり行かんようになったなあ。感慨深げに諒はいう。

 私もそうやったわ。頷きながら、私は彼の言葉にそう返す。そういえば、私も中学生のころによく寺町通をぶらぶらしてたな、と思い出す。あのころは、あの通りの華やかさに惹かれていたのだ。だが、諒のいう通り、成長するにつれて、あの通りが醸し出す紛い物感、たとえばいかにも中高生向きの衣類ばかりを売る店、立ち並ぶ飲食チェーン店、胡散臭い土産物屋、つまりは、ここはお子様を鹵獲しようと努めている通りであって、本当の京都らしさなど存在しない通りなのだと思え、いつしか避けるようになった。

 カフェオレと紅茶が出されてからも、私たちはそんな話で盛り上がっていた。昔話と京都の通りの話がごちゃ混ぜになった話。私は高校生のころに出会った、豆乳ドーナツが今でも好きだと語った。錦市場の、ちょうど錦小路と高倉通がぶつかったところにある豆腐屋が売っている代物だ。見た目は普通のドーナツで、一口目もドーナツらしい味がする。ところが、二口三口と噛んで味わうと、口中にふわりとした豆乳のまろやかさを感ずることができる。この甘さとまろやかさの絡み具合がたまらないのだ。しかも量が多い割に値段も安かった。なので、高校の同級生たちとその豆乳ドーナツをたくさん買い込み、それが冷めないうちに近くのコーヒーチェーン店に駆け込んで、店員にばれぬようこっそりとドーナツを食べながら、コーヒーを飲み、談笑したものだ。高校時代の良き思い出だ。

 諒は私の話を聞いたあとで、じゃあ、その豆腐屋いってみいひん、ときく。私は、今日はええわ、という。昼間もお菓子を食べたので、正直お腹は空いていなかった。家に帰ってからも夕飯があることを考えると、これ以上お菓子を食べるのは気が引けた。

 お互いのカップが空になったタイミングで、私たちはカフェを出た。暗くなって、街灯が灯る御幸町通を下ってゆく。やがて四条通に出た。

「駅まで送っていくわ」

 諒がいった。

「別にええよ。むしろ私が見送るで」

 諒は阪急線で家まで帰る。阪急の駅は、この四条通の地下にある。通りのあちこちに、地下駅への階段が設置されている。私の駅は四条大橋を渡った先にあるから、距離的には諒の方が駅に近い。

「遠慮せんでええって。送るわ」

 そういって、諒は半ば強引に私を見送ろうとする。見送るのは男の義務、諒はそう考えているのだろう。気は悪くしないが、うれしいともいえない。

 四条河原町を越え、四条大橋を渡る。視界の前方右手には歌舞伎座が控え、左側には、夜の闇を流れる鴨川の景色。川沿いの建物からの灯りを受け、夜であってもいまだそのゆったりとした川の流れを眺めることができる。河川敷には多くのカップルが奇妙なことに等間隔で座り、なにごとかを語りあっている。

 四条大橋はいつものごとく、人で溢れていた。疲れた顔をする人、楽しそうな顔をする人、渡人の表情はさまざまである。概して、橋を西に渡る人の顔は、楽しそうだ。きっとこれから河原町や木屋町で楽しい宴席でもあるのだろう。

 私は涼しげな顔で、橋からの景色を、そして過ぎゆく人を眺めた。

 この橋を、どれだけの男と一緒に渡ったやろか。

 頭では、そんなことを考えていた。この橋を渡るたびに、そんな考えがなんとはなしに浮かぶ。前の彼氏とも渡った気がする。その前の彼氏とも渡った。京阪神の人間で、この橋を渡らない人は稀だろう。いろんな男と、この橋を渡った。

 けれど、本当に好きな男とは、渡れへんかったなあ。


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