6 チワワ (2)
その日から数日後のことだったろうか、憲法の授業を受けている時に、またあの男に出くわした。授業で静まり返った講義室に、ばんと扉が開く音が響いた。多くの学生が一斉に振り返った。今度はキンガムチェックのシャツを着たあの男が、教室に駆け込んできたのだ。やはり申し訳なさそうな顔をして、みんなの視線を避けるためか、それとも授業の邪魔にならないようにするためか、少し背をかがませながら、席に着こうとしていた。そしてどういう偶然だか、私の横の席に座ったのだ。
男のこめかみには、汗の玉が浮いていた。ここまで走ってきたらしい。鞄からノートを取り出し、団扇の代わりにそれをぱたつかせる。
私はその行為を横目で見ていた。なんとなく目立ったからだ。私の視線を感じ取った男と目があった。
男は、私に会釈した。私の顔を覚えていたからか、それとも他人から視線を向けられて反射的にそうしたのかはわからない。
それにしても、途中入室をよくする男やな。私はそう思った。
だが、前の時のような苛立ちは不思議と起こらなかった。
授業終わりに、私が席を立とうとすると、足元になにかが当たった。視線を落とすと、消しゴムが落ちていた。
隣のあの男が、しまったという顔を一瞬浮かべ、私を見た。
私は一度席に座り、消しゴムを拾って男に渡した。
「前も同じですね」
私は消しゴムを手渡す時に、そういった。
男は一瞬だけ、えっ、と戸惑うような顔をしてから、以前の出来事を思い出して声を上げる。
「あーっ、あの時の、確か民法の…」
男は片手で髪をくしゃっと触る仕草をしつつ、いった。
私は男のくるくると変わる表情が面白く、くすりと笑った。
「前も途中から授業に入ってきて、授業終わりに消しゴム落としてましたよね?」
私はそうきいた。
「あー、そうなんです。なんか、それが僕の悪い癖っちゅうかなんちゅうか…。いや、なんかたびたびすいません」
「ううん、別に全然ええんですけど」
「なんかかっこ悪いとこ見せてしまったようで…。そういや、いつも授業真面目にきいてはりますね」
男は唐突にいった。
今度は私が、えっ、という顔をする。
「いや、なんか、この前の民法の時も、じいっと前の方を見て、ノート取ってるし。今日も眠りもせんとそうやってたから、真面目なんやなって思って」
私は頭を振る。
「そんな真面目ちゃいますよ。たまに考え事してる時あるし、話まったくきいてない時もありますから」
「あれっ、そうなんや」
「うん、そこまで真面目ってわけやないですよ」
「まあ、でも、遅刻したり居眠りしたりする僕より、ずっと真面目ですよ」
そういって男は笑う。つられて私も笑った。
笑いの後には、妙な沈黙が残った。そこから次の話題がなかったのだ。
男がおもむろに立ち上がった。
「…まあ、次も似たようなシチュエーションがあるかもしれへんし、そん時はそん時でよろしく」
男はいう。シチュエーションのイントネーションが、あまりにもこてこての大阪弁を剥き出しにしていて、耳に残る。
「こちらこそ」
私は涼しげに微笑みながら、そういった。
男は先に教室を出ようとする。一歩を踏み出そうとする時になって、私に振り向く。
「あの、そういや、自分、名前は?」
男は尋ねた。そういえば、互いに名前を知らなかった。
「私? 寺田紗香。クラスは、八クラ」
クラスとは、基礎演習と名付けられた少人数授業のクラスのことだ。学生数が多いため、一から二十までクラスがある。一回生はみなこの基礎演習を必ず受講することになっていて、ここでレポートの書き方やプレゼンの方法について学ぶ。いってみれば、高校のホームルームの時間と似たようなものだ。この授業を通じて、大学での最初の人間関係を形成する。友人、勉強仲間、知り合い、恋人、どんな人間関係を作れるかは、その人次第だ。
「寺田さんか。覚えたわ。僕は、小林諒。クラスは、五クラ」
「五クラの小林君ね。こっちも覚えたわ」
「よくみんなは諒って呼んでるわ。よろしく。ほなな」
そういって、彼は歩き出した。
五クラスに知りあいはいただろうか。確かこの前仲良くなった佳奈が五クラスといっていたはずだ。
よし、次に小林君に会った時は、佳奈のことを話してみよう。
私はそんなことを考えながら、歩き出した彼の背中を見送った。
憲法の授業は、受講する人数も多い。彼の姿は、すぐに他の学生たちが形作る人の海に沈んでいき、見えなくなった。
それが、諒との出会いだった。
共通の知人がいるというのは、恋愛関係が発展する上で一つの鍵だと思う。実際、私の場合は、佳奈が諒とクラスが一緒で、そこそこに会話をする間柄だったから、佳奈を通じて私には諒の話が入ってくるし、その逆のことも起こった。そうなれば、話題は増える。そうなれば、授業でたまたま出くわした時、話は俄然盛り上がる。気づけば授業終わりに私と諒は自分たちの話題や佳奈の話題で、長々と話し込んでいた。当たり前のようにメールアドレスや電話番号を交換し、二人で神戸や大阪に遊びに行くようになった。三回目のデートの時に、諒から告白された。梅田のブリーゼブリーゼ。西梅田の高層ビルの三十三階。連れて行きたい場所があるといい、諒は私をそこに連れて行った。三十三階から見る梅田の夜景は、美しかった。闇に聳える高層ビル、空に浮かぶ月、ビルや街灯が放つ煌めき。そこからは、大阪の北側の景色を見渡せた。夜の空を、伊丹に向かって飛びゆく旅客機が見えた。告白する時、諒の顔は出会った時のように強張っていた。私は少し吹き出しそうになったが、告白されて、素直に嬉しかった。私は躊躇うことなく、いいよ、と答えた。
それが、一回生の夏の話だ。試験が終わり、夏休みに突入してすぐに告白されたのだ。
あれから、一年以上の時が経っている。