表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉の旅立ち  作者: ENO
最終部 Everybody’s gotta learn sometimes
55/57

55 Everybody’s gotta learn sometimes (3)

 ドラム缶から立ち上る煙が、風向きが変わったせいで、ちょうど私たちの前に流れてくる。思わず目を閉じ、手で煙を払いのけようとした。煙のせいで目がちくちくとした。数秒するとまた風向きが変わり、煙は別の方向へ流れる。

 ぱちぱちと燃え盛る音がきこえた。

 姉は仁王立ちをして、ドラム缶の中を覗き込んでいる。

「ねえ、お姉ちゃん」

 私は姉の背中に語りかける。

「あの映画のいわんとするところってなんやったん?」

「あれを観て、紗香はどう思ったんよ?」

「私がどう思ったって…。なんていうんやろ、どんな過去であれ、それは大事な過去っていいたかったんやろか? それから…」

「それから?」

「過去があるから、なにか新しいものが始まる。そういう風に感じたんやけど、私は」

 姉の問いに、私は率直に感じたことをいった。

「…まあ、紗香のいうとおりやろな。それが、あの映画の訴えたいことなんやろな」

 映画のラストシーン。恋人たちは、自分たちの苦い過去を認識し、それでもなお新しくやり直そうとする。過去を忘却するのでなく、認識することで、二人はまた始まった。

「先輩があの映画を観ようって薦めたのは、やっぱり理由があったんやろ?」

 姉に尋ねた。姉はこくりと頷いた。

「過去があるから、始まるものがある。あの子はそういいたかったんや。私としては、そんなに気にせんでもって思ってたけどね」

「二人はいつからお互いのことがわかってたん?」

「それはどういう意味?」

「つまり、いつの時点でいじめ、いじめられた関係やったって知ったん?」

「さあ、いつやろか。あの子がバイトで入ってきたころから、二人ともなんとなくはわかってたと思う。けど、いい出すのが怖くて、互いに黙ったままでいてた」

 姉が私に振り返り、苦笑いを見せた。

「せやけど、段々辛くなってきたんよね。過去なんてなかったように振る舞ってたけど、仲良くなるうちにそういう振りをするのが心苦しくなった。嘘をついてるとか、そういうわけやないけど、なんか演技をしているような、本当の自分を見せてないような、そんな気分になって」

 姉の言葉をきいて、私は諒のことを思い出した。本当の自分を見せていない、そういえば、諒もそんなことをいっていた。上辺だけの関係で私は満足できていた。だが、それを苦痛に捉える人もいる。姉や先輩や諒がそうであるように。

「石を投げつけられた川辺で、思い切って彼が切り出してくれた。いまやからいうけど、あのとき、私、あの子と揉めに揉めたんよ」

「えっ?」

「あの子から過去のことをいわれて、それはもうわかってたはずやのに、やっぱり抱え込んでた気持ちを吐き出さずにはいられへんくてさ。怒りとか、悲しみとか、もしかすると憎しみとか、そういうものも隠さず全部伝えた。そしたら、あの子も戸惑ってさ、なんかお互いいろいろいいあってた」

 また姉が苦笑する。

 意外だと私は思った。感情を剥き出しにする姉など、想像もつかなかった。感情をぐっと心の奥底に隠す人なのだという思い込みが私にはあったからだ。

「意外に思った? でも、自分でも不思議。家族以外の誰かに隠さず感情を伝えることができたのって、もしかすると初めてやったかもね。でも、あの子も逃げずに、真正面から私と向き合ってくれた。そう考えると、あの辛い過去も、意味がないわけやなかったんやね」

 そういう姉の顔は、清々しく見えた。もうなにも心に隠すものがなく、ありのままの自分を彼に曝け出したからだろうか。

 自分を曝け出す。そんなことが諒との関係であっただろうか。いや、諒だけでなく、これまでつきあった男との間でも、そんな関係になれていただろうか。その答えはきっと否だろう。本音をぶちまけあい、過去を認識しあった姉と先輩の関係性が、私には眩しい。目を細めながらも、朝陽を仰ぐときに似た感覚がする。

「二人で昔のことを話しあって決めたんや。もう過去に縛られてるだけやない。お互いの過去も認めて、それでもつきあっていこうと決めたんや」

 姉は誰に向かっていうでもなく、そういった。

 敵わへん。私には、まだできへん。

 姉に対して、素直にそう思った。私はといえば、心を曝け出すことができないくせして、体だけは他人にあっけらかんと曝け出していた。心の内を明かさなければ、上辺だけの、痛みのない関係でいられた。私は逃げを決め込んでいたのだ。だが、それで本当によかったのだろうか。少なくとも、諒はそれをよしとしなかった。

 姉から目を離し、考え込んだ。さまざまな思いが去来するが、思考の末に出た結論は一つだけ。それは、諒にひどいことをしたという罪悪感だった。どれだけ彼に冷たくあたっただろうか。どれだけ辛辣な言葉を投げかけたろう。いまのいまになって、胸が痛んだ。だが、どうやって彼にこの痛みを伝えよう。いまさらどんな顔をして、彼に会えばいいのか、会話をすればいいのか。

 答えは風に吹かれ、私の手元にはない。どうすればいいのか私はなにも思いつかず、ただ腑抜けたように立ったままでいる。そばにいる姉も、燃え盛る火も、なにも目につかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ