52 橙 (4)
そのときの姉は優しい顔をしていた。微笑んでいるわけでもないのに、姉の表情には優しさが滲む。目つきや口元の柔らかさ、肌に散るそばかすが、人にそう思わせるのかもしれない。いまの私の顔とは対照的だった。私は眉を顰め、睨むように姉を見ている。眼差しは祈るような、あるいは恨むような、それほど切実なものであっても、その表情はきっと険しく、どちらかというと醜いはずだった。
こうして姉と自分の表情について考えた瞬間、私は気づいてしまった。突然に想念が頭の中からどっと流れ出て、ついには思考を支配した。自分はなんと醜いのだろうか。それが流れ出た想念だった。感情をぶつけるだけぶつけて、当り散らして、叫び声を上げている自分。自分の中の自分が、その醜さに悲鳴を上げる。
こうして胸ぐらを掴んで、声を上げて、なんになるというのだろう。私がなにをどういっても、当り散らしているだけに過ぎないのだ。
私のひどい顔を見ても、姉は優しい顔を崩さない。それどころか、なにか愛しいものでも見るような目をする。姉の手が私の髪に触れ、頬に触れる。
「だめなお姉ちゃんやなあ、私。妹に大変な思いさせて、こんな顔させるなんて…。でもなあ、なんかよかったわ。紗香の本音がきけたの、随分久しぶりやから」
姉は自嘲混じりにそういい、微笑んだ。
姉の笑みを見て、私は先輩の言葉を思い出した。彼は姉の心根の美しさに惹かれたといった。私はいま、先輩のいったことがようやくわかった気がした。憎しみや恨みをぶつけられた相手に、なぜこの人は気遣いや優しさを見せることができるのだろう。怒りや憎しみをぶつけ返すということをなぜしようとしないのだろう。それは私では決してありえない心の持ち方だ。
昔から、それこそずっと昔から、私は姉が嫌いだった。それはなぜなのか、深く考えたことはなかった。いまになって考えずともはっきりわかった。私が姉を嫌うのは、彼女が私にはない心の美しさを持っているからなのだ。怒り、恨み、憎しみに流されず、誰に対しても優しさを見せられるその心。これまでもこれからも、私では手に入れることが叶わないものだ。小さなころから、私は姉のような心の美しさがないと感覚的にわかっていたから、私は姉に嫉妬し、苛立ち、嫌ったのだ。
私にはどうやっても、憎しみや恨みの対象に優しさを覗かせることはできない。私が姉と逆の立場なら、姉を冷たく突き放しただろう。その違いなのだ。その違いが、姉を勝者にし、私を敗者にした。
今日の先輩を思い出す。顔も、仕草も、言葉もすべて。姉の名を口にし、姉のことを語る先輩の声音、表情。腹が立つほど冷静で澱みなく、そして生き生きとしていた。男がそういう顔をするとき、思いはすべて女に向いている。彼は姉のものになる。そう確信した。
息を吸った。自然と、洟を啜った。気がつけば、目に涙が浮かんでいた。悲しいとか悔しいとか、そう簡単には分類のできない感情に捉われている。誤魔化そうとしたが、すでに顔はぐしゃぐしゃになっている。涙を手の甲で拭い、もう一度洟を啜った。
姉は空を仰いでいる。私を見ないのは気遣いなのか。二人して立つと、姉の背が高いこと、意外と姉妹で身長差があったことにいまさら気づく。昼間の柔らかい光が、姉のそばかすが散る肌に降りていく。風はこの瞬間、止んでいる。
姉と一瞬視線があった。姉の目に、涙の跡はない。そういえば、この人は泣かない人だった。
姉妹だから、私たちは同じだとどこかで思っていた。しかし、同じなわけがないのだ。身体も心も違うのだ。姉は、私とは違う考え方で、違う道を歩き始めたのだ。
これだけ近くにいるのに、姉が遠くなってしまった。そんな思いがして、妙な悲しさを覚えた。
風がまた吹き始めた。二人の髪を乱していく。
姉から手を離した。
姉がまた遠くなった気がした。




