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姉の旅立ち  作者: ENO
第1部 京都の大学生
5/57

5  チワワ (1)

 人を好きになるのに理由はいらないときく。では、人を嫌いになるのにも理由はいらないのだろうか。

 私が姉を嫌いなのも、理由はなくてもいいのだろうか。そもそも、なぜ姉が嫌いなのだろうか。価値観が異なるからか、自堕落な姿が不快だからか。答えは出てこない。

 私は考え込んでいる。私の目線の先には、教壇に立つ教授がいて、民法の詐欺錯誤について熱く語っている。だが、私の脳みそに彼の言葉は入ってこない。むしろ、私が彼の言葉を遮断している。

 不意に、なにかが私の肩に触れた。人影を背後に感じるが、私はそれすら遮断する。

私は、考え事に夢中なんや。邪魔せんといて。

 頭の中に浮かぶイメージ。黒く長い髪をして、けだるそうな顔。私と似ているような、似てないような、そんな顔した女。私の姉。嫌な女。でも、なぜ嫌なのだろう。

 髪をくしゃくしゃにしたい気分になる。所詮は姉のこと、しかも授業の退屈さを紛らわすための考え事で、大したことではないが、明確な答えが出ないと、そんな気分になる。

 また、なにかが肩に触れた。

 ヒューズが飛ぶような感覚で、苛立ちが一気に爆ぜた。

 しつこいねん。なんやねん。

 私はばっと振り返る。男が一人、立っていた。私と同じように髪をちょっとばかし茶色に染めている。青いドットが散りばめられた白のお洒落なシャツを着ていて、痩せ型だが、シャツを捲り上げたおかげで見える腕の感じからすると、筋肉質なのだろうと推察できる。肝心の顔は、なんというか、典型的な犬顔だ。目は一重だが大きめで、くりくりっとしている。まずこれが、男になんとなく可愛らしい印象を与えている。ちらりと見えた歯は白く、歯並びもよかった。笑った時の顔は、さぞかし可愛いのだろうな、と私は思った。だが、いま男の顔は少し強張っている。私がきつく彼を睨んでいるからだろう。

「…えっと、あの…、ここ、座ってもええですか?」

 狼狽しながら、男はきいてきた。いま私が座っている席に座ってもよいか、と男はきいているらしい。つまりそれは、私に横の空いている席に移れといっているようなものだ。

 なんでここの席なん。他のとこ座ればええやん。

 口からそんな言葉が出かけた。寸でのところで思いとどまる。周囲を見渡した。講義室の席は、どの列も満席だった。唯一私の列だけが、私が横にずれれば、人が一人座れるスペースがあったのだ。

 こんなことなるんやったら、始めから授業に出ればよかってん。

 私は、目の前の男に対してそう思った。男は、どう考えても途中入室の学生だった。遅刻やサボりを許せない私は、男に対して必要以上に苛立ち、敵意を抱く。

 無愛想な表情で、というより憮然としながら、私は席を譲った。

「すいません」

 男は申し訳なさそうに頭を下げ、譲った席に座った。そのおどおどした態度も、なんとなく嫌だった。

 思索を断念した私は、授業に専念することにした。要素の錯誤と動機の錯誤について唾を飛ばしながら講義する教授。よほど錯誤のことが好きらしい。機関銃から撃ち出された弾丸のように乱れ飛ぶ言葉。だが、私のノートには、無慈悲にも数行の文章でしか残らない。あの教授の言葉は、たった数行の文章にしか値しないのだ。

 私はじっと教授と黒板を見つめていた。他人から見れば、食い入るように見つめていた、とでもいわれるのだろうか。実際は、他に見るものがないから、ただ教授と黒板を見ている。時折ノートに視線を向け、かりかりと書き込む。文章や単語の羅列。それらがノートの一ページをようやく埋め尽くすころに、授業が終わった。大仕事を達成したかのように、壇上の教授が手の甲で額の汗を拭く。そんな大した仕事だったろうかと私は訝しむ。

 隣で、がさごそ動く音がする。

 ちらりと見れば、私が席を譲ったあの男が、机の下を覗き込むような仕草をしている。なにかものでも落としたのだろう。

 私の視線に気づいたのか、男は顔を上げた。

「…あの、すいませんけど、えっと…、そっちに落ちてる消しゴム取ってもらえませんか?」

 男はいった。相変わらずの狼狽口調だった。

 男が指差すところ、ちょうど私の足元あたりに、消しゴムが落ちていた。男からは手が届かない位置だ。

「はい、どうぞ」

 私は消しゴムを拾い、男に手渡した。

 男は微笑み、ありがとうございます、といって受け取る。

 やはり笑顔が可愛い、と私は思った。まるで犬っころのように、瞳を輝かせ、白い歯を覗かせる。

 私は努めて冷静に会釈をして、自分の荷物を片付け始めた。

 男は先に荷物を片付け終え、席を立つ。去り際に男は一瞬だけ私を見た。私はその視線に気づき、ちらりと振り返った。

 男はすでに背中を向け、講義室の出口に向かって歩き始めていた。

 私はノートや筆記用具をバッグに詰め、別の出口に向かって歩き始めた。

 講義室の高窓から、夏の陽が差し込んでいた。高窓から覗き見える木々は、爽やかな緑色をした葉を風に揺らす。木々の葉が太陽の直射を遮り、講義室の机には、複雑な模様をした影が落ちている。

人が少なくなった講義室は、熱気が薄れて肌寒い。

 教室の出口周辺は、入退室する学生が行きかい、混雑していた。あちこちで会話がなされており、がやがやと騒がしい。

 私はあの男の笑顔を反芻しながら、のろのろと講義室を出た。


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