49 橙 (1)
その場所からは、街が見渡せた。家の近くにある崖の上に市が設けた緑地だった。眼下に国道や工場、田んぼやマンションが入り混じる景色を眺めることができた。
強い風が吹き抜けている。私は髪を手で押さえた。
姉から電話があって、ここに呼び出された。原付は家に戻って停めた。なぜ姉がこの場所を指定したのか、それはわからない。家だと私と会話がしづらいからだろうか。
澄み切った空と強く冷たく吹く風に、私は目を細めた。深秋の匂いが足元の土草や葉を散らす樹木から放たれて、空気に漂う。それはとても切ない匂いだ。
「紗香」
後ろから、声をかけられた。振り返ると、姉が立っていた。片手に黒い袋を持っていて、よく見るとレンタルビデオ屋の袋だった。
それを見て私は呆れた。姉がこの場所を指定した理由がわかったからだ。姉はただ単にこの場所がビデオ屋からの帰り道の途中にあったから、この場所を選んだだけだったのだ。
姉は私が呆れているのを察しもしないで、歩み寄ってくる。天然というべきか、それとも頭が足りていないというべきか、なんにせよ、姉が、私がどういう思いでここにいるかを深く考えていないことはわかった。姉妹の間柄はそんなものだろうといわれれば、それまでの話だが。
びゅうという音が鳴り、風がまた吹き抜けていく。私は髪を押さえていたからなんてことはなかったが、姉の長い髪は風に乱され、姉は小さな悲鳴を零した。私は姉の様子を横目で見ていた。姉は髪を直しながら、唇をやや尖らせ、恨めしそうな顔をしていた。
風を睨んだところで、なんの意味もないやん。
私は姉を見ながらそう思った。
「ねえ、なに借りてきたん?」
私が姉にきくと、姉は髪を直すのを止めて、袋からわざわざディスク入りのケースを取り出し、私に見せた。
「これ、『エターナル・サンシャイン』。」
「えっと、これなんの映画やったっけ?」
「ほら、この前梅田まで観にいった映画」
「ああ、あれか。なんなん、またこれを観るん?」
そうきくと、姉は頷いた。
「気に入ったんや、この映画?」
「うん。…あっ、いや、そうでもないかも」
「なによ、どっちなんよ?」
「気に入ったから借りたっていうよりは、違う理由のために借りたのかもしれへん」
「理由? 映画を観るのに、特別な理由なんているん?」
私は左右に首を振った。楽しむために映画を観る。それ以外に映画を観る理由が存在するのだろうか。私には疑問だ。
「理解するために観るんよ。比喩、暗喩、隠された意図、込められた思い。それをもっとよくわかりたいんよ、あの子のために」
「村岡さんのこと?」
「うん」
「その映画に、なにがあるっていうん? それを観て、彼のなにがわかるの?」
「それは、紗香も観たらわかると思う」
姉はいった。遠い目で、遠いどこかを見ている。私の問いに正面から答える気はないらしい。
なによ、彼を深く知ってるのは私やと、自慢したいんやろか。
どす黒い考えがすっと頭の中を過った。
「ねえ」
私は姉に呼びかける。姉が横目で私を見る。
「さっき、村岡さんに会ってきた」
「うん」
「彼から連絡はあった?」
「…うん」
姉が私を呼び出した理由が、なんとなくわかった。
「彼はなんて?」
「紗香と会って話をしたとだけ」
「…そう」
私は呟く。先輩はそれだけしか伝えなかったのだ、と心の中で思った。しかし、それで十分だったのだろう。現に姉は彼の連絡を受け、私の状況を察し、いまこうして私を呼び出している。
姉の心にあるのは、優しさか、憐憫か、同情なのか。




