48 恋愛スピリッツ (5)
私は結局泣くことができず、唇を噛んで、先輩の言葉を受け止めるしかなかった。先輩の顔を見ていられず、私は顔を横に向けて窓の外を見た。外は曇り空が広がっている。どんよりとしたくすんだ色の雲だが、雨を降らせるような不穏さはない。しばらくは京都の空に居座るつもりらしい。
私は視線を先輩に戻さず、空を見続けた。それは軽い現実逃避だった。先輩の表情を直視することが、怖かったのだ。ただそれでも、視界の端に彼の姿は映り込む。彼も私と同じように、顔を横に向け、まるで別のところに視線を向けていた。彼の表情は硬く、そして辛そうだった。
私はため息を一つ零した。ひどく淀んだため息だった。疲れとともに、自分の中のどす黒い感情がため息に混じって空気に流れていく。ため息を耳にする先輩は、いい気分ではないだろう。だが、私はそれで気分がいくらか落ち着いた。
「もう、いきます」
それだけいって、私は席を立った。
先輩の表情ですべてを悟った。敗北は明らかだった。もはや抵抗も、執着も、なんの意味をなさない。
「ちょっと待って、送ってく」
先輩も席から立ち上がった。
なぜこんなときさえ、男は女についてこようとするのだ。送ってなにになるというのだ。こめかみが脈動し、軽く苛立つ。
「いいですよ、そんな」
「ええから、送ってく」
断り文句をねじ伏せられ、先輩は私についてくる。店の勘定を済ませ、エレベーターに乗り込み、一階へ降りる。狭く息苦しいエレベーターの中で、無言の時間を過ごす。どうしようもない気まずさのせいで、私は窒息死しそうだった。エレベーターから降りて、ビルから道路に出たときでさえ、その状態は続いた。どんよりとした天気、涼しくも湿り気のある空気、二人に漂う気まずさ、すべてが私の首を絞めつける。
「駅までいくん?」
先輩が尋ねたので、私は頷いた。どの電車の駅なのか尋ねる必要もなかった。私も彼も同じ電車を使っているからだ。
四条通を東へ向かう。昔からある煙草屋と交番を通り過ぎれば、もう四条大橋だ。さっき橋を渡ったときは風があったが、いまはない。穏やかな鴨川の流れと河川敷に座る人たちが橋の上から見える。天気の悪さにもかかわらず、楽しげになにかを語りあう恋人たちが憎らしい。
涙は出なかった。ただ、もう彼は手に入らないのだ、という思いがあるだけ。唇を噛み締める。やはり、涙は出なかった。
四条通のざわめきも、耳に入らない。互いに無言で橋を渡る。秋の空気の冷たさが、やけに沁みる。
「それじゃ、ここで」
祇園四条駅に降りる階段の前で、私はいった。
「ああ、それじゃ」
彼は頷きながら、そういった。
「先輩は、これからどちらへ?」
何気なくきいてみた。
少し間を置いてから、先輩は口を開いた。
「…八坂にいこうとしてた。まあ、それももうええけど」
「姉といくつもりでしたか?」
私がそうきくと、先輩は逡巡する顔をした。わずかな沈黙を挟んでから、こういう。
「ああ。そのつもりやった」
「お時間取らせて、申し訳ないです」
「いいさ。気にしなくていい」
先輩にそういわれて、私は頷いた。
「じゃあ、今度こそ、それじゃあ」
「ああ。それじゃあな」
二人はそれぞれ歩き出した。私は地下へ、彼は東へ。あまりにもあっけなく、淡々と二人は別れた。
私も彼も振り返ることはなかった。自分の道を進んだ。地下のホームに降りて、通過する電車が生む風に当たった。それからぽつりと一人ホームに立ち、帰りの電車を待った。駅は不気味なほど静まり返っていた。
静寂の中、先輩とのやり取りを振り返った。自分や彼がなにをどういったか、振る舞ったかよりも、振り返りの過程で一つの皮肉な事実に気づき、私は顔を歪めた。
いつのまにか電車は到着し、私は乗り込んだ。辛うじて残っていた空席に座り、窓の外の闇を見た。七条を過ぎて、電車が地上に出た。東福寺周辺の住宅街や京都駅が見えた。四条大橋はもうここからは見えない。
心に浮かんだのは、四条大橋だった。あの橋を、私は本当に好きな人と渡りたい、いつかそう思っていた。
今日、私は本当に好きな人とあの橋を渡った。そして、その人は永遠に私から離れていった。願いは、歪んだ形で叶えられたというわけだ。皮肉がきき過ぎていて、自分はなんと惨めだろうと思う。電車の窓に、薄ら笑いを浮かべる不気味な自分が映った。窓を叩き割って、大声で誰かをなにかを呪いたくなった。だが、私を不審そうに見る他の乗客を目にして、我に返った。
地元の駅に着くまで、私はずっと下を向くことになった。情けなさと惨めさが私を小さく縮こまらせ、顔を上げる気力は残っていなかった。操り糸が切れた人形のようだ。
電車が駅に着いて、私は電車から降りた。改札を抜けて、駅前の広場に立ったとき、これ以上ないというほど青く晴れ渡った空が私を出迎えた。京都の空は曇りだったが、大阪では晴れらしい。
空は無邪気で、綺麗で、それだから残酷だった。
空を見上げたまま、深く息を吸う。胸に冷たい空気が流れ込んだ。雲と風の流れの穏やかさを感じ、真昼の月を探した。そうすることで、すべてのことを一瞬忘れた。
その場から歩き出そうとしたとき、携帯が鳴って、現実に引き戻された。
電話は、姉からだった。




