47 恋愛スピリッツ (4)
冒頭二文が当初掲載漏れしていたため、追加しました。
「あのころの私の気持ち、先輩は知ってたんですか?」
思い切って、私はきいてみた。
先輩は少し困ったような顔をした。笑みが混じっているようにも見えた。
「それはどういうことなんかな?」
「それを私にいわせるのは、野暮ですよ」
私は笑みを浮かべ、彼を見つめた。眼差しは、真剣そのものだった。二人の視線が交錯する。二人の顔から、笑みが消えた。
先輩はいう。
「知ってたさ。けど、俺は、気づかないふりをするか、適当な理由を考えては、寺田から逃げていた」
「それは、なぜ?」
「過去のことで、気まずさを感じてた。過去が明らかになったときを考えると、前に踏み出そうという気持ちが、あとずさったんや」
「それは…」
疑問が、急激な勢いで浮かんだ。だとすると、なぜ姉とは付きあおうとするのか。なぜ姉には過去のことを隠さず伝えたのか。なぜ私ではそれができなかったのか。
それらの疑問を口に出すのは、勇気が必要だった。言葉は喉元まできている。だが、そこから先へは押し出せない。
「それは、どうしたんや?」
先輩がきいてきた。その一言で、自分の中の堰を切ることができた。
「だとすると、なんで姉なんです?」
私はいった。
「なんで私ではだめだったのに、姉には過去のことを明かして、それで…」
そこまでいって、言葉に詰まった。だが、ここまでいえば、彼にもわかるだろう。
「そうやな。矛盾してると寺田が思っても仕方ないよな。なんで寺田はだめで、彩香さんだったらよかったのかって」
「ええ、そのとおりです」
「それはたぶん、時間のおかげや。時間が、俺の考えを変えさせた」
「なにがどう変わったっていうんです?」
「高校のころ、俺は過去のことに対して、逃げを決め込んでいた。不名誉な過去は意識的に記憶から消し去ろうとして、なにも知らない、なにも憶えていない風を装っていた。その根底には、過去への怯えと罪悪感があった。だから、過去のことに対して、なにか前向きな考えになることはできなかった。ただ、時間がたって振り返ると、新たに気づくものがあった」
「それは、なんだったんですか?」
「どんな類の過去だろうと、それは消せない。なかったことにできるはずもない。だが、そこからなにかが生まれはしないのか? どんな過去があっても、そこからなにかを始めることはできる。それがあって、始められることがある」
「それはまたずいぶんと抽象的な話ですね」
私がいうと、先輩は苦笑する。
「そういうと思った。具体的な話が好きやからな、寺田は」
「つまり、いまなら、過去に対する考えが変わり、姉に向きあえるようになったと?」
「結論だけいえば、そういうことや」
先輩の言葉には、結論がすべてではない、という思いが滲む。
「だとすると、私は順番がよくなかったと捉えればいいんでしょうか?」
冗談ではなく、切実な思いで、私はきいた。
「もしも、先輩の考えが変わったとき、姉より先に私が先輩の前にいてたら、先輩は、私と向きあっていたんですか?」
私は先輩の目を強く見据えた。胸が緊張で焼ける。ここまできけば、もはや逃げることはできず、どんな答えであっても、耳にしなければならない。
先輩は、私を見つめ返そうとはしなかった。
「ごめん。寺田が先だったとして、いや、仮に高校のころ、俺が過去への気まずさを感じてなかったとしても、いまの彩香さんのように向きあいはせんかったやろう」
ばっさりと、なにかが切り捨てられた。譬えるなら、そんな感覚だ。
「なんでなんです?」
思わずそう口にする。
先輩は、私から目を逸らしたままだ。
「言葉にするのは難しいよ。ただ、彩香さんにやったら、ちゃんと真正面から打ち明けられる気がした。あの人やったらええと、そう思えたんや」
「それは、姉がお人よしだから? 姉なら、なんでもかんでも許してくれそうと思ったから?」
私は妬みと憎しみに顔を歪めた。
「違う。そんな風には思ってない。俺は、あの人が葛藤してるのを知ってる。俺自身、許されるとは思ってない。けど、あの人は、辛い過去に苦しんでなお、新しい一歩を踏み出そうとしてる。俺はあの人のそういうとこに、惹かれたんや」
「…曖昧過ぎて、話にならん。そんなん、話になりませんよ。なによ、新しい一歩なんて、辛い過去がある人は例外なくみんな踏み出してるやない。私だってそうですよ。なにも姉が特別とちゃいますやん」
「俺には、特別だったんや。彼女の人となりに、気づかされることが多かった」
なんの躊躇いも淀みもない先輩の声が、冷酷なほどに突き刺さる。心が凍っていくのを、私は感じた。
「なんで、私やないんよ」
掠れ、震えた声だった。激しい怒りが、静かに私を衝き動かす。
先輩はすぐに言葉をいわなかった。テーブルに肘をつき、手を組んで、考え込んでいるのか、しばし黙っていた。組んだ手をテーブルの面に落としたとき、彼はいう。
「ごめんな」
泣きたいのはこっちなのに、先輩が泣きそうな顔をする。
なんでこうも男は狡いんや。




